2、その恋を見つけたのは
明るいと思っていた陽射しの色が、そっとその色を変える。夕暮れの始まり時。
いつもは大勢の人が忙しそうに行き交う王城には今、珍しく人気もなく不思議な静謐に包まれていた。
その廊下の先で、綺麗な立ち姿をした少年がひとり視線を窓の外へと一点に向けていた。
精緻な刺繍の施されたベスト。光沢のある、たっぷりとしたリボンタイ。高位貴族の子弟といったところだろうか。まるで少女のように整った貌を縁どる陽に透ける様な金の髪を首の後ろで腰に結んだサッシュと同じ色のリボンでひとつに結んでいる。
見下ろす視点を辿れば、騎士見習い達が汗を流していた。
木剣を使った勝ち抜きの模擬戦。本日の優勝者となったのは、周囲より頭ひとつ分身体の小さい少年のようだ。
はしゃぐ少年とそれを祝う仲間たちの姿に、それまで固唾を呑んで見守っていたらしい少年が、ほうっと長い息を吐いた。
そうして。精巧な人形の様に見えるほど美しい、けれどどこか冷たく感じるその顔が、柔らかく解けた。
大輪の薔薇が一気に花開くようなその表情の変化。
「あの方の笑顔の為なら……どんなことでも、できる」
呟かれた言葉は、ただ想いが溢れてしまっただけなのか。
年少の少年が抱く強い者への憧れというものは、ありがちではあるのかもしれない。
ただ、どちらも遠目でよく判らないだけかもしれないが、呟いた少年の方はすらりとして背が高く、喜ぶ少年は周囲に居並ぶ少年たちより頭一つ分低い為、どちらかというと呟いた少年の方が年上に見える。よくて同い年といったところだろうか。
少年の傍には他に誰もいない。だから、その少し恥ずかしい告白は、誰の耳にも届かなかっただろう。
隠れていた、僕以外には。
そうして。いろいろあって年の割に捻ねた考えしかできなくなっていた僕が、その言葉を聞いた感想といえば。
『嘘くさい』もしくは『青臭っ』といったところだったと思う。
芝居めいた台詞に酔っているだけだろうとか、お子様だな、とか。
とにかく冷めた言葉ばかりが頭の中に浮かんでいたのを覚えている。
その割に、なぜかその姿勢よく立つ彼の姿が、いつもいつまでも頭の中にずっと残っていて、ふと思い出すたび勝手に眉間へ皺が寄る。
ついには同じ季節を迎えても胸に付き纏うもやもやしたものが消えずにいた丁度その頃、「未来の側近となるべき存在を見つけなさい」と言われて頭に浮かんだのも、あの夕暮れ時に見かけただけの少年だった。
『未来の、側近候補を探しているんだ』そんな言葉を口にすればその程度の情報は簡単に手に入ると思ったのに。
しかし、曖昧過ぎるその存在に、どこの誰なのか中々判らない。
当たり前だ。だって名前も知らなければ、遠目だったから顔だってよく判らない。
判っている事と言えば、着ていたのはベストとトラウザーズ。特に特徴がある訳でもない貴族子息が良く身に着けているような服装だ。それから陽に透ける様な明るい金髪を首元で結んでいた事。それと少し浅黒い肌。なにより綺麗な立ち姿。
それだけだ。
窓枠のサイズからあの時の身長はなんとなく推測できても、すでに一年という時間が経過していた。成長期の少年にとって一年あればそんな推測は役に立つはずがなかった。
とりあえず、その日に対抗戦に優勝していた少年については判明した。
バーカトン侯爵家の三男ケイン。騎士団見習いには貴族の子弟なら簡単になれるが、体格的に優る存在の中で模擬戦で一番になれる者はそれほど多くない。だから遠目で見ただけ得られる情報、髪の色や背丈などを伝えればすぐに目星がついたようだった。
でも、廊下から彼を見下ろしていた少年が誰だったのかについては僕の伝手を使ってもなかなか判らなかった。
ずっと追い求めていた彼の、その正体を知ったのはまったくの偶然だった。
僕の講師役として最近やってくるようになったへリントン辺境伯嫡男ネリウス。
ずっと身体が弱く床についたままだった彼は、数年前に異国より呼び寄せた医師が調合した薬により劇的に快復して、ようやく登城することができるまでになったのだそうだ。
そして寝たきりになりながらも、本だけでなくエリントン辺境伯家のお抱え軍師や他国より訪れた知識人たちからもその知恵を求め吸収していった彼の頭脳は、この国で一番といわれる特別な存在と認められるまでになっていたという。
しかし、いきなり王宮でその知識を披露するにはまだ体力面も人脈面でも心許ないと、幼くともその利発さ(もしくは生意気すぎて講師役がいつかない)で知られていたゼフィールの講師として採用されたのだった。
『殿下、王家の一員として自らが治める国の果てを一度ご覧になるべきです』
自身は王太子である長兄の、スペアのスペアでしかない。
どう考えても王位など継ぐことになるとは思えない低い王位継承権しか持たない弟王子によくありそうな悩みから勉学に対してどこか熱意を持てない様子だったゼフィールに、新しく配属された講師がそんな提案をしたのは顔合わせの翌日のことだった。
初日は、これまで教えを受けてきたことをどれだけゼフィールが理解できているかという問答で終わった。その会話で、ネリウスはゼフィールの中に鬱屈する悩みを見つけ出していたし、ゼフィールも今度のどんなことでも答えてくれるこの講師はこれまでの老害講師共とはちょっと違うかもしれないと思い始めたところだった。
そんな彼に誘われるまま訪れたエリントン辺境伯家の領地。
人種の坩堝と化した不思議な市場の立つ街並みも、砦を守る勇猛な戦士たちも、そこに辿り着くまで続く荒野も。
初めて王都から遠く離れたゼフィールには何もかもが目新しくて、ビックリの連続だった。
しかし。
「自慢の妹です。美しい上に、賢く、しかも強いんです」
なによりそう紹介されたネリウスの妹に、ゼフィールは息が止まるほど驚いたのだった。
赤味を帯びた髪はまっすぐ伸び、きりりとした瞳は令嬢らしからぬ強さを思わせた。
これまでゼフィールが会ったことのある令嬢とはどこか違う不思議な強さを感じさせる。けれど、でもとても綺麗な人だった。
でも、初めて会ったのになんで知っている気がするんだろう?
すらりと立つ。その姿勢の良さに誰かが重なる。
「初めまして。ただいま紹介にあがりましたイリスと申します。いつも兄がお世話になっております」
さっと腰を下ろして深く腰を下ろした。その所作にブレは一切なく美しかったけれど、どこか直線的な動きは硬く見えた。
これでも一応王子だしね。緊張してるのかなと思ったけれど、どうやら違った。
「あぁ、ごめんね。妹は三年前まで床についたままの不甲斐ない兄に代わって騎士になると志していてね。令嬢教育より騎士見習いとして過ごした時間の方が長いせいかまだ動きがぎこちないんだ」
その言葉に、誰の姿が重なるのか、判った。
「…綺麗な、赤だね」
記憶にある彼との大きな相違。それは日に焼けた肌の色と陽に透けるような金色の髪、その違い。親戚か誰かなのだろうか。
「? …あぁ、イリスの髪のことだね。綺麗だろう? 私達家族にはまだ見慣れてないんだけど。最近すっかり色が戻ってきたんだよ」
一体何を言っているのか判らなくて、首を傾げる。
その様子に、イリスが自分の髪を一束摘まみ上げながら教えてくれた。
「元々の髪色はこの金属めいた赤っぽい銅色なんです。けれど、騎士見習いの訓練を続けた7年の間に陽射しに負けてしまって色が抜けてしまって。ずっと薄い金色に見えていたようです。今は侍女たちの尽力によりだいぶ元の色艶が戻ってきたところなのです」
その説明が頭の中で意味を成した時、僕は誰にも気づかれないまま声のない悲鳴を上げた。
「この、報告書の内容だが……本当に間違いないのか?」
エリントン侯爵家から戻ってすぐ、知り得た情報を基にもう一度指示を出し直した。
その報告書が、ついに届いたのだ。
「間違いありません。少年をお探しとのこともありましたので、可能性について思い至らず調査に時間が掛かりましたことをお詫びいたします」
「いい。僕が挙げた特徴だ。報告ありがとう」
報告書から目を離せずにいる僕に、ランドは黙って頭を下げた。
彼がそのまま部屋から下がっていっても、僕は報告書から目を離せなかった。
「まさかと思ったけど。本当に、イリス嬢だったんだ」
一番気になった場所ではない項目を口に出して、僕は報告書を手放して椅子から立ち上がった。
あの時と同じ時間帯だけれど、今はまだ陽が差しており窓の外は明るい。
『エリントン辺境伯一女、イリス・エリントン。三年前まで、身体の弱い兄の代わりに騎士団見習いとして所属。現在は兄の体調が復調したこともあり退団。それとともに王都から領地へと戻る。バーカントン侯爵家三男ケインと婚約中』
すでに本人にも確認していたことしか記載されていない報告書だ。
その内容のどこにこれほど自分がショックを受けているのか。幼いゼフィールには判らなかった。わかりたくなかっただけかもしれないが。
『婚約ですか? えぇ、しています。今の兄は健康といっても差し支えないほど快復しましたけど、それでも辺境で騎士団を率いるだけの物理的な力はありません。体力もです。ですから、それを代わりに引き受けて貰える方に私の婿となって戴いて、共に兄を支えて貰うことになっているんです』
イリスのはにかむ愛らしい顔に、それが単なる政略ではなく心から慕っている相手であるだということが伝わってきてゼフィールは精神的ショックで視界が暗くなっていくということを初めて体験した。
そうして、よせばいいのに決定的となるその一言を口にしてしまったのだ。
「そうなんだ。政略だけど、……すき、なんだね」
一番知りたくて知りたくないそこにいきなり切り込んでいった自分を殺したい。
果たして。突然の、よく知らない相手からの踏み込んだ問い掛けに、イリスはその顔を真っ赤に染め愛らしく頷いたのだった。
(知りたくなかった。いや、知りたかったから、聞いたんだけど)
思い出すだけで泣きそうになる。
記憶の中のイリスが可愛ければ可愛いと思う程。
ゼフィールの拳は、色を無くすほど強く握りしめられるのだった。
だから、ゼフィールはこの想いに蓋をすることにした。
あるとしても、年上の綺麗な女性への単なる憧れだ。一過性のものでしかないと。
そこにある想いの本質に気が付かなかったことにすれば、いつか忘れることが出来ると信じていた。
(全然、忘れられなかったけど)
イリスの兄でもあるネリウスを避けようとも思った。傍にいれば情報が入るのではないかと期待してしまうし、ふとした仕草や表情に彼女の面影を探してしまうからだ。
休日に領地に帰ったという話を聞けば、イリスの話がでないかと期待して心が弾んでしまう。そんな自分が、ゼフィールは嫌いだった。
だから、また違う講師を迎え入れることも考えたのだが。
これほど話が合う相手も他にはいなくて、切る事も出来ない。
同じレベルでウォーゲームを行うことが出来る相手もいなければ、ふとした疑問に答えてくれる者も、一緒に答えを考えて探してくれる者もいなかった。
そんな、なんでも知ってると尊敬していたネリウスだけれど、令嬢の気持ちについてまでは無理だった──。
なんであの時、女性陣の意見を取り入れようと思わなかったのか。誰か一人でも提案してくれたらと誰かに責任を転嫁したくなった自分をゼフィールは嫌いになりそうだった。
そんな風にぐるぐると一つ所を思考が廻る間に、僕は『学園に着きましたよ』とランドに馬車から追い出された。
「殿下。忘れものです」
さっと渡されたのは、青い花のちいさな花束。
「折角早起きして用意したんでしょう? ちゃんと渡すんですよー」というランドの声にゼフィールは返事をかえさなかった。
降り立ったばかりの馬車の降車場で、
「ゼフィール殿下、おはようございます」
淑女の礼をもって朝の挨拶をしてくれたのは、ずっとゼフィールの頭の中を独占していた憧れの女子生徒だからだ。
『ガンガン行くって宣言したんですよね?』
その声に押されるように足を進めたゼフィールが、まっすぐイリスに近付く。
そうして。
「おはよう、イリス嬢」
明るく、そう声に出して言うつもりだったゼフィールの口から実際に出ていったのは、
「好きです、イリス嬢」という告白だった。
その声は特別大きなものではなかったけれど、昨日何が起こったのか興味津々で見つめていた生徒達が、殊更聞き耳を立てていたこともあって、周囲にどよめきが起こる。
そうして、真っ赤になったイリスがなにかを答える前に、自分の口から出て行ったそのセリフに頭の中が沸騰したゼフィールは一刻も早くそこを立ち去ろうとして、ふとさきほどランドから出された指示を思い出した。
『ちゃんと渡すんですよー』
早起きして摘んだのはイリスに渡す為だったのだから。
そうだ。渡さなければ、摘まれた花も悲しむ。
手にしていた小さな青い花束をイリスの手に押し付けると、ゼフィールは今度こそ足早にそこから立ち去ったのだった。
きゃあきゃあと後ろで女子生徒たちの声が聞こえた気がしたけど、一度も振り向くことさえしなかった。
脳内ダダ洩れゼフィール