きみはだあれ、よんだのはだあれ
きみはだあれ よんだのはだあれ
類
友人が布団を引きずり出して押入れに籠るようになっていた。
夏の蒸し暑い日に障子も窓も締め切り、電気もつけず、押入れに篭り、膝を抱えて小さくなっているのだ。それを見つけた時、俺は少し怖かった。少し怖くて、驚いて、最初の一度は見て見ぬふりをしてしまった。
*
「由貴、おはよ」
「おはよー!」
「うー……はやいなあ、晴、天」
寝癖が同じところにぴょこぴょこつけた、同じ顔がふたつ。夏休みだというのに起きる時間があまりに早い。時計を見ればまだ六時だ。健康的にもほどがある。
まだ眠い俺はどうにか布団に潜り込もうとするのだが、晴――双子の兄のほうがそれを阻む。勢いよく布団をひっぺがされて、一気に視界が明るくなる。目が眩んだ。
「だめだよ、早起きは三文の得、でしょ?」
「晴のいう通りだよ。今日すごいいい天気だもん、起きないともったいないよ」
いい天気、だなんて。昨日もそんなふうに言って起こしに来ただろう。
この双子の祖母の家に泊まりに来ている手前あまり偉そうなことは言えないけれど、さすがに早い。普段一限なんて取らない大学生に六時は早い。
そううだうだしているうちに掛け布団を天によって片付けられてしまい、仕方がないので泣く泣く起きることにする。敷き布団は自分で片し、さっさと着替えを済ませた。
「もう朝ごはんできてるからはやく飯いこ!」
「どーせふだん朝ごはんなんてたべてないでしょ? うちにいる間はちゃんと食べないとだからね」
「はいはい」
居間へ元気よく向かう双子の背を、あくびをしながら追う。後ろ姿はそっくりで、どうにも見分けがつきそうにない、と寝ぼけたまま思う。
というのも、俺が友人なのは兄の晴のほうだけだった。大学に入りたての頃に知り合い、三回生の今に至るまでだらだらと交友関係が続いた次第である。お互いなにか打ち込むこともなく、名ばかりの将棋部でゲームをしたり酒を飲んだり概ね腐れ大学生らしい生活を送ってきた。今回の旅の件を決めたのも、部室で唐突に誘われたのだ。
――「今年の夏、オレのばーちゃんちでしばらくすごさない?」
と。まあ、暇だったし実家に帰る予定もなかったから適当に了承を返事した。晴の家は晴を大事にしているような節がけっこう滲んでいたから、夏は実家に帰って過ごすのかと思っていたが、毎年その祖母の家にいっているらしかった。三年目にして知る事実ではあったけれど、さして興味もなかった。
彼の祖母の家、というのは電車で二時間揺られた先にあり、田んぼと山しかない田舎にある。話を聞けば祖母の家、というのは過去形らしく、祖母自体は一昨年に亡くなってしまっているらしい。
道中聞いた時はてっきり晴の墓参りに付き合う形になるんだろうと思っていたのだけれど、いざきてみれば驚きだ。
荷物を先に片付けに行った晴を待っていたら、おんなじ顔がふたつ。
見慣れた晴がふたりに別れて目の前に現れたのである。
当然驚いたし、びっくりして腰を抜かした。いたずらっぽい笑みを一緒に浮かべて「びっくりした?」と笑う顔までおんなじだった。
「天だよ、晴の双子の弟。よろしくね、由貴くん」
「あ、ああ、双子だったんだ。知らなかった」
「晴、言ってなかったんだ?」
驚かせて満足したのか部屋の支度をしてくる、と屋敷の奥に引っ込んだ晴を若干恨んだ。同じ顔とはいえ、初対面だ。微妙に距離感をつかめず、気まずかった。
縁側に腰をかけ、俺も隣に座らせた天は別段それ以上のことを喋るでもない。ちらりと視線を向ければ気づいてにこにこと笑みを返してくる。元気で騒がしい晴とは違う、おとなしい雰囲気だ。晴のつけていない眼鏡をかけているから、というのもあるのかもしれない。
「天……くん、は」
「天でいいよ」
「そうか、じゃあ、天。……毎年、ここで供養してるのか?」
お盆の時期だ。彼らの祖母ということは両親どちらかの親でもある。墓参りであれば家族でくるようなものだろうに、なぜ双子だけで来るのだろうか。
それもお盆の間中をこの片田舎で毎年過ごすのだという。毎年二人きりで。
「うん、それと、僕は今この家に住んでるからね」
「住んでる?」
「うん、大学の研究の一環で、山に入ること多いからさ」
ふうんと唸る。晴のほうは俺とほとんどぼんやりとした大学生活を送っているというのに、天のほうは随分優秀だ。一人称も違うし、おかしいことながら双子といって二人の違う人間なんだな、と実感する。
どうせきいても研究内容などは分からないので詳しくは聞いていない。天について知っているのは現在大学を休学して、この家の近くでフィールドワークをしているということだけだ。
朝食の席に着き、箸を取る。今朝のメニューはなめこの味噌汁に焼き鮭、小梅だった。米のおかわりは自由、好きなだけ食べて良いと天が言っていた。お言葉に甘えて、俺も二杯目まではおかわりしている。
「あれ、晴は?」
「なんか、用事だって」
「また?」
そう、また。ここへ来て三日ほどが経つけれど、なんでか晴と食事を共にしたことがなかった。三日間、三食、毎回。最初の一度や二度ならば、ふたりきりしかいない家だ。掃除やら風呂の準備やら生活する以上要ることもあるだろうと気に留めない。だが三日も続けばさすがにおかしいだろう。
天はもくもくと自分の分の魚を切り分け、食べている。三食揃ってやらなくはいけないことと言ったらなんの用事だろう。さっきは一緒になって起こしに来たというのに。起こすだけ起こして自分は一緒に食べないのはどういうわけか。
大学にいるときは時間が合えばだいたい一緒に食事をしていたが、一度決まったことをそうほっぽり出すようなやつでもなかった。まあ、大学と祖母の家とで違うといえばそれまでだが。
「なんか手伝うことがあれば俺も手伝うんだけど。一応泊めてもらってる身だし」
「ううん、いいよ。晴もあとでちゃんとたべるだろうし、晴が連れて来たお客さんなんだからなんにも考えなくていいよ」
この会話ももう四度目くらいになる。問いが同じなら答えも同じだ。
なんとなく、もやもやする気持ちはあるが家主に言われてしまえば黙るほかない。食卓にはきちんと三人分の食事が用意されているのだ。
結局昼も夜も一緒に食事をすることはなかった。食卓にはきっかり三人分あるし、用意ができたと呼びに来るのは二人揃っているのに俺が食卓へ行くともういない。尋ねても同じ答えが帰ってきておしまいだ。
晴に誘われてきたのに晴とふたりで会話をする機会がない。天とはふたりになるけれど、そのほかは三人で一緒でいるか一人でいるかだ。
晴がどうして俺を連れてきたのかもわからない。ひとりで風呂を済ませたらさっさとあてがわれた客間に戻る。わりと広い日本家屋なので、夜ひとりで徘徊するのは正直いささか怖い。
障子を閉め、明かりを落としても月明かりが入って明るい夜だった。布団に転がりSNSを流し見していたが、ふと、画面が暗くなった。充電がきれたらしい。十パーセントを切っても充電器を差し忘れるのは悪い癖だった。
仕方ない。少し遠いコンセントまで這い、充電器に繋いで放置することにした。夜も深まってしばらく経つ。眠るのがいいかもしれない。
いざ眠ろうと思うと、なんとなく尿意が這い寄ってきた。トイレへは少し遠いが、万が一があっても困るな、と自分を奮い立たせた。
障子をあけ、廊下に出る。田舎すぎて泥棒の心配などもないらしく、窓は開け放たれている。月明かりで庭の花が綺麗に見えた。その先の、森の方は影が濃くて風に揺られる木々の蠢きが怖くて目を逸らした。
廊下にも月明かりは落ちている。電気は不要だが、曲がり角の先は暗いだろうなと思い、近い方の角まで早足で行き、スイッチを入れる。パッと暖かいオレンジの光に満ちる。
そうして、なんとなく足音を立てないようにしてゆっくり廊下を進んだ。足音を立てないようにした理由はなんとなくだ。音を立てて、自分がここにいることを知られてはいけないような気がした。誰に知られてはいけないのかまでは知らない。ただ足音を控え、息を潜めた。
トイレへの道のりは長く感じたけれど、まあ、何に出会うこともなくなんなく目的は遂げられた。何に出会うも何もこの家には自分と双子しかいない。怖いものなんてないに決まっているのだ。あとは部屋に戻るだけとなって、少し気持ちが大きくなっていたのだと思う。
――ふと、衣摺れと悲鳴に似た音が鼓膜をささやかに叩いた。
悲鳴といっても抑えている。どちらかといえば息を吐くかんじだ。泥棒にでも入られたのだろうか。立地的にもいくらないと言っても一定数のバカはいるものだし、と先程までの恐怖とはまた別の恐怖に手足が冷えた。
ゆっくり。その音の出所へ近づく。足音にはさらに気を使い、そうっと、そうっと。しまった、武器はなにもない。相手が刃物でも持っていたらどうしよう。そう思って、やはり、刃物なんて持っている相手なら友人が危ない。戻る時間があるかもわからない。
「――っ、う」
またうめき声。晴の部屋だ。それと一緒にぴちゃぴちゃと水の音がする。
部屋の障子は少し開いている。月明かりも電灯も入らない位置だ。腹を括り、覗き見る。
……結論から言えば、ぞこに泥棒の姿はなく、晴と天がいただけだった。
おかしいのはその有様。布団をぜんぶ引きずり出して、それが入っていたであろう押入れに二人揃って入っていた。いくら小柄とは言え成人男性を二人も押し込めるにはいささか狭いだろうに。
さらにその中で、もぞもぞと動いている。やっとこ暗闇に慣れた目をどうにか凝らし、何をしているのか探って――数秒後に激しく後悔した。
見てはいけないものだ。どう考えてもおかしい。踏み入ってはいけない領域のことだった。
慌てて逃げ出した。気づかれないよう、悟られないよう、それでも最大限の速度で部屋に逃げ戻った。
障子をぴっしり閉め、布団をかぶって熱気の籠る中で息を殺した。
晴は、友人は、どうしてしまった。どうして俺をこの家に呼んだのか。
疑問が全身を駆け巡って、同じくらい恐怖が指先にまで行き渡ってしまった。がたがたと震える体をどうにか抑え、ぎゅうと目をつぶる。あ、いや、瞑ってはダメだ。瞑れば先の光景が浮かんでしまう。ただ目をかっぴらいた。
狭い押入れの奥で密着するふたり。天の首筋に顔を埋めていたのは晴だった。それで、その――天の病的に白い首筋から滴る血液を、晴は啜っていたのだ。
◇
翌日。
「やっほー、由貴!」
「おはよう、由貴くん。あさごはんだよ」
ほとんど一睡もできなかった俺の気など知らずに双子は変わりなく起こしにきた。布団に潜って顔どころか肌の一つも外気に晒さないでいる姿を不思議に思うこともなく、勢いよく引っぺがしてくる。
覗き込む二人の顔にかわりはなく。昨日の朝と同じくらい明るいもので、むしろ背筋が冷える。なんとか、平静を装って、「おはよう」とだけ返した。
朝ごはん、だなんて騒ぐ晴だけれど、どうせ今朝の食卓も気づけばいないのだろう。俺だって食事が喉を通る気なんてしなかった。
「由貴くん、顔色悪いよ? 朝ごはん食べられる?」
「あ……ああ、食べられる。大丈夫だ、ちょっと寝苦しかっただけ」
「そう?」
そんな不安も、天の方から見透かされてしまえば誤魔化さざるを得ない。昨晩の光景を覗き見たことが気づかれていて、それを確かめるための言葉であるかもしれないのだ。見ていたことが明らかになれば危ういのは我が身である。
晴と天は、揃ってパーカーを着ている。首元は隠されていて、傷があるかどうかも伺えない。二人の方が俺よりも一回り小柄だから、もう少し近づけば覗き見ることも可能だろうが、そこまでする勇気はなかった。怖い。
朝食は目玉焼きとワカメの味噌汁だった。やはり晴の姿はない。
もくもくと食事をする天と二人きりの食卓はいつにもまして息が詰まった。味なんてわかるはずもなく、無意識に醤油をかけすぎて天に止められた。
「由貴くん、どうしたの? 今日変だよ」
「あ、いや……寝不足だったから、その、まだ眠くて」
「ふうん……なんかへんな夢でも見たの」
じっとこちらを見て言う天。声音も心なしか、少し平坦で。
ぞわりと背筋が震えた。昨晩見てしまったそれのことを、もしかしたら気づかれているのかもしれない。
あれが夢であればよかったのに、あれは夢ではないという確信があった。暗い中でほんのり光っているようにさえ見える白い肌と、わずかに入る月の光を受けた赤いしずく。――それで、押し殺したような声が、耳の奥に残っている。
「由貴くん?」
天の顔が、見られなかった。視線は皿の上の目玉焼きに落とす。
平静を。平静を装わなくてはいけない。この家にいるのは晴と天、俺だけだ。
「……いや、なにも」
だからできるだけ穏やかに答えた。知らないふりをしてやり過ごすのだ。
天は、そう、とだけ返事をして、朝食は終えた。
昼間も晴と天の顔を見るのが嫌で、部屋にこもることにする。
昨夜差しておいた充電器を抜き、電源を入れる。電源ボタンを長押しすればつくのだが、――つかない。何度試してもつかず、どうも充電ができていなかったらしい。
コンセントが抜けていたか。手繰り寄せると、思ったよりも軽い。コードは切れていた。真ん中あたりで引きちぎられて、中の細い線がばらばらと飛び出している。
昨日の朝、使ったときにはなんにもなっていなかったのに。
「……っ!」
コードが焼ききれたとか、寿命だったとか、そんな様子はずっとなかった。勝手に切れたというよりは、誰かに引きちぎられた、というほうが正しい。それも鋏で切ったというにはあまりにも切り口が汚い。
だれが? この家には三人しかいない。俺と、晴と、天。
周囲にはなんにもない。泥棒がただこんなふうにコードを引きちぎっていくだろうか。この山の中まで、わざわざ来たのに?
自問自答を繰り返す。鼓動が早くなり、手足が冷えていく。浅い呼吸をなんとか落ち着かせようとするのに、とても言うことを聞かない。
とん、と軽い足音がした。障子を隔てた廊下。
ざあっと血の気が引き、息が詰まる。これは、どっちだ。
「……由貴?」
よく聞いた声。知っているはずだった声。
三年間もずっと一緒にいた友人の声のはずなのに、それはひどく恐ろしい。
返事はできず、そっと、後ろを向く。見てはいけないと思う。見てしまえばもう言い訳ができない。
「由貴、ごはん、食べなかったんだって? だめだよ、ちゃんと食べないと。朝ごはんは、一日の活力になるんだから」
ずずずと、軽いはずの障子が重たい音を立てた。ゆっくり、開かずの戸を開けるみたいな難易度を伴って開かれていく。
いつもの調子でしゃべる晴の声が、開かれるごとに鮮明になる。どうしたの、と心配している。でも、どうしようもなく汗が止まらない。はっはっ、と浅い呼吸のふちに晴の声が重なり――
「食べないんだったら、オレが食べてもいいよね?」
「あ、ぅ、はる……?」
水のにおいがする。ひやりとした空気が流れ込んできて、俺の体を包む。振り返りかけた首筋に冷たい手が触れて、そこから体温が吸い取られるように消える。
「ねえ――由貴」
振り返るそばに、晴の顔がある。舌なめずりをして、昨晩天の首を食んだように俺の首へ噛み付こうとしたそのとき。
「晴? 昼寝するんじゃなかったの?」
「……天」
晴にとってはあきらかに邪魔であろう弟が現れる。晴は弟の名前を呼ぶにはいくらか重すぎる音を吐き、俺から離れる際には「ざあんねん」と乾いた笑いを耳の中に落としていった。
それは不思議なくらいするりと体内に沈み込んでいく感覚があり、氷塊を入れられた感覚に陥る。耳鳴りと頭痛で、おかしくなりそうだ。
「そう、そうだったね。お昼寝するんだったよ! 昼間はだめだ」
「そうだよ、昼はだめでしょ。布団空だからおかしいって思って」
「布団かあ、布団。かけないと天は怒るからねえ」
「そうだよ、ちゃんと布団に入ってお昼寝してね」
「うん、天が言うなら気を付けるよ。ありがと、寝てくるね」
「そう、晴が風邪引くの嫌だからね。いいよ、気を付けてね」
鏡合わせみたいに会話を交わし、晴は軽くスキップなどしながら廊下を駆けていく。その楽しそうな雰囲気すら先の豹変から見れば違和感でしかない。
残された天は晴を見送っているのか、微動だにしない。背後に晴と血を分けた男が居ると思うと、身体は凍り付いたように動かない。浅い呼吸は行き過ぎてすでに呼吸の体を成していない。
ここは一体なんだろう。
二人の祖母の家だという。数年前に他界したものの、天がここで研究をするために住んでいる場所。
晴がここへ来ておかしくなってしまったのに理由があるとするなら、まっさきに疑うべきはどう考えても――天だろう。
だって、ここは彼の家だ。彼のしている研究が何かも聞いていない。今となっては聞いても分からないから、ではなくて何か聞いておくべきだった。普段なら思い至る事すらないだろうことだけれど、吸血する晴を見てからでは話が変わる。
「驚かせちゃった、かな。由貴くん」
困ったような、泣きそうな、そんな言葉が掛けられた。
先の晴に比べて言葉に温度が宿っているように感じて、ばっと振り返った。ずっと凍り付いていたからだとは思えない。
天はじっと晴が行ったであろう廊下の先を見ていた。そのまま、俺に話しかける。
「驚かせちゃったら、ごめんね。もっと早く、僕は君に言わないといけなかったのに」
「は……?」
何の話だ。驚くも何もない。大学生活の半分以上を過ごした友人の豹変を見て驚かないなんてあるものか。
俺の予想の通り、この弟がなにかを企み、この世のわざならぬ手段を用いて晴を変えてしまったのだろう、と追及をしようとして、――思い留まる。
――「昼寝するんじゃなかったの」
――「そうだったね! 昼間はだめだ」
昼寝、なんておかしい。さきほど朝食を済ませたばかりなのだ。昼どころか今はまだ午前だ。朝なのだ。
「……おまえは、だれだ? あの晴みたいなやつは、だれだ?」
俺は慎重に言葉を選び、相対する友人によく似た男に訊ねる。俺が知る晴は昼寝なんてしないのだ。どちらかといえば夜起きているほうが不得意で、部室での徹夜の時には真っ先に寝てしまうのが晴だ。
思えばここに来てからの晴はおかしいのだ。どこかで何かと入れ替わっている可能性だってゼロではないのではないか。
「……そう、由貴くんはきっと気付いてくれると思ったから。その上で、怖がらずに聞いてくれると思ったから、僕は君を呼んだんだ」
「……何の話だ。俺をここに連れて来たのは晴だ」
「そうだよ、晴のふりをした僕。君と二年半もの間友人だったのは僕だよ」
「…………は?」
突然のカミングアウトに、そんな素っ頓狂な言葉しか出ない。その、彼はぺたんと座り込み、笑ったまま涙をこぼす。
「ねえ、由貴くん。晴を、たすけて」
――天の双子の兄、晴は近年稀に見る天才というやつだった。
よく笑い、よく泣いて、よく人に好かれて、よく人を好いて。
だけど大学だけは平凡なところを選んでいて、それを両親と揉めた夏のことだった。
両親に頭を冷やせと言われ、祖母の家に下宿に来た。そこで、晴に比べると突出したところなんてひとつもない天に合わせて受験をするのだと明かされたことを今でも鮮明に覚えている。
――「だって、オレたちは双子だもん。一緒にいたいから、選ぶんだ」
なんて、重い言葉だろう。苦しくて、悔しくて、天がもっと出来る子ならば兄と両親がこんな喧嘩をすることもなかったのだ。
祖母が戯れにする怖い話にすら泣いてしまう天を庇うのはいつも晴だったし、天が間違えば一緒に怒られてくれるのも晴だった。いつだって合わせてくれるのは晴だ。その逆は、ただの一度もなかった。
……あの夜は、ひどい熱帯夜だった。晴がいなくなったあの夜。
祖母の家の周りには厄介な土着の神がいる。信仰する人を神が選び、選ばれた人の子は生涯その地から離れられない。ただしそれは一人でいいので、昔からここにはひとりきりを残して村はもっと下流に作っていたのだという。
とはいえそんな神など平成も終わるこの頃に強い力など持ちようもない。ふたりの祖母はおもしろおかしくこの話をふたりにし、怖がる天をからかっては遊んでいたのだ。確かに祖母の家のまわりに他者の家はないけれど、畑仕事などで来る人はふつうにいるのだから、取り残されているというわけでもない。
例によってそんな話を寝る前に祖母にされたのだ、あの夜も。
聞き慣れたからといって怖くない訳ではない。晴の腕を掴んで、寝室まで行く途中のことだった。天を励ましながら笑っていた晴が、廊下でふと立ち止まった。その視線を自然に追う。
山の方へ。祖母がひとり、とぼとぼと歩いて行くのだ。
電燈もない、月もない、そんな夜に。
不思議とカエルの鳴き声すらない。
最初は見間違えかと思ったけれど、何度目を擦ってみても見覚えのある寝間着だった。少し曲がった背、すっかり白髪になった髪。歩くと左側に傾く姿までおなじだった。
――「天はここにいて」
そう言って、晴が祖母を追いかけて走り出してしまったのだ。ぺたんと力が抜けた天はそれを呼び止めることも、追いかけることも出来なかった。
その後の事は、今も夢に見る。山に入っていった二人は翌日捜索隊が入ったが一ヵ月経っても見つけることは出来なかった。
また、だ。また、優秀な晴ではなくだめな天が残ってしまった。ほんとうなら残るべきは晴だ。何をやらせても劣る天は居残ってはいけなかった。母も父も、学校の先生も友人たちもみんながっかりする。ではどうするか。
――僕が晴になってしまえばいい。
いなくなったのは天で、生き残ったのは晴。そういうことにしてしまえばいいのだ。同じ顔をしているのだからわからない。実の親ですら顔の見分けなんてついていないのだから。
それから、晴になることを決めた天ははやかった。要領の悪さはどうにもならなかったから、睡眠時間を削って晴に近付く努力をした。
授業であてられそうなところはすべて予習しておき、テスト前の勉強は寝ずにやり、交友関係は記憶の中の晴を完璧にトレースした。
そうして晴になりきり、けれど晴が目指した大学だけはそのまま受験した。晴が天のために選んだ場所をひとつくらい自分の中に置いておきたかったのだ。これから先はずっと天などいなかったものとして扱われるのだから。
――それで、夏を迎える。
両親どころか親類の誰もが訪れたがらないので、天はひとりで祖母の家を訪れた。何を期待したわけでもないが、みつからなかった以上晴はその土地にいるのだ。ここに眠る晴を知るひとりが行かないのではよくない、と。
ところが。
――「天! やっと会えたね。何処に行ってたの?」
あろうことか、祖母の家には晴がいた。一年前、いなくなったままの姿で。
最初は喜んだ。見つからなかっただけで、晴は生きていたのだ! よかった、よかった、よかった――と。
けれど、その喜びも束の間。説明のつかない事態がだばだばと溢れかえって天を飲み込んだ。
ひとつ、祖母はいない。晴に訊いてもはぐらかされる。
ふたつ、晴が夏以外のことをおぼえていない。
みっつ……このみっつめが確信に至ることだった。
晴は昼間、日陰から出ない。それどころか昼を眠って過ごし、夜になると散歩と言って出かけてしまう。疑問に思い、夜出かけようとする晴を呼び止めた時のことだ。
――「そうだなあ、じゃあ、天の血をちょおだい?」
そう、晴は夜な夜な血を求めて彷徨う怪物になっていたのだ。人の行方不明の話は無かったから、おそらく山にいる獣の血を吞んでいたのだと思う。
「……待て待て、それでおまえ、血をあげたのか?」
「うん……だって、僕が晴を拒む方が有り得なかった、というか」
事のあらましを掻い摘んできいたが、そこは逃げる所だろう、と俺は思う。というか俺なら逃げるし、なんなら今すごく逃げたい。
だが話を聞いている限り、晴を助けたいという天の気持ちに嘘はなく、天が晴として紡いだ俺との関係にも嘘はなさそうなのだ。というか、天にとって俺と過ごしたあのぼろい部室での腐れ大学生生活は限りなく天自身に近い部分だったらしい。
そんなことを聞かされて逃げ出せるほど、俺は薄情では無かった。怖いけれども。両手両足は震えに震えているけれども。
「晴を助ける、たって……あてはあるのか?」
「あんまり……だけど、晴の身体に入ってるのはここらへんにいる厄介な土着の神ってやつだと思う。……それで、これ、大学でちょっと調べた奴なんだけど」
そう言って差し出されたのは、いくつかのファイルだ。中身は記事のコピーやらスクラップやらで、相当古いものも混ざっている。
その中から天がいくつかピックアップし、簡潔に内容を教えてくれる。
「土着の神様って、祓えないんだって。いや、神様自体がそうなんだけど。だから、祓うんじゃなくて帰ってもらうしかない」
「帰る? こっくりさんみたいだな」
「そう、そんなかんじ。それには真名で呼ぶ必要があるんだけど……この一週間で晴が眠っている間にお屋敷内の資料をひっくり返してね、それっぽいのを見つけたんだ」
ファイルの一番下から出てきたのはこれまた年季の入ったと思しき半紙だ。それが三枚ほど綴られている。
「この辺で信仰する人がひとりでいいなら、代々この家に住んでたんじゃないかなって思って……あ、ここ。この名前だと思う」
「なに……? シノワラワさま……?」
声に出してはいけなかった、とその瞬間に気付いた。名前はよぶものだ。
呼んではいけない。喚んではいけない。よべば、きてしまうから。
温度が下がったのがわかった。夏の温度ではない。半袖で露わになった肌に鳥肌が立つ。それなのに背筋には汗が伝う。
「よんだ、よんだ、よんだ、よんだのはだあれ?」
それは、まるでこどものように。
晴の身体だが、とても晴には見えない仕草と表情をもってそれは現れた。いつの間にか日が陰り、家の中は不自然なほどに暗い。障子に体を隠したまま顔だけをのぞかせ、それはうれしそうに言う。
声が凍り、身体が固まる。けれど、視線をそれから離せない。
おかえりください、と言わなければ。言わなければ。こっくりさんみたいに。そう、こっくりさんみたいなものだ。言って、手順を踏んで、帰ってもらえば大丈夫。大丈夫だから――大丈夫だっけ? こっくりさんってたしか。
「おかえりください、シノワラワさま。ここにあなたの居場所はありません、我が半身をおいて、どうぞ、どうぞおかえりください」
「……そ、ら」
天のほうが、いくらか緊張を解くのが早かった。天は震える声ではあるけれど、きちんと座り直し、頭を垂れて帰りの呪文を唱える。
「おかえりください、どうか晴を、我が半身をおかえしください」
それに倣い、俺も頭を下げる。なんとか絞り出した声しか出ないが、同じように帰りの呪文を口にする。
頭上に晴が動く気配はない。と思えば、甲高い笑い声が響き渡った。
「かえらないよお。あはは、えへへ。はるのからだはもう、ごちそうさま。よんでくれたから、かえらないの」
「……ッおかえりください!」
「かえらないの」
かえらないと笑いながら繰り返すシノワラワさまはひどく恐ろしい。かえらない、かえらないと笑う晴の姿をしたそれはだんっと廊下を蹴り跳ねたと思うと、天に襲い掛かった。
さすがの俺も今度は足が動いた。天に乗っかり、首筋を噛むそれを引きはがし、天をうしろに庇う。晴はごちそうさま、というのなら、きっと今度は天を食べるのだろう。その行動だ。
「えへへ、ゆきた、かぁ? はるはごちそうさまなの。こんどはそら、そらをたべてるあいだ、きみがしんこう、してくれるんでしょお?」
「な、にいって――」
言うが早いか、晴の身体は目の前で溶け去る。どろりと。腐った肉のようなにおいを発して畳に沁み込み、十秒と経たないうちに黒いしみを残して消えてしまった。突然の出来事に呆然と立ち尽くしていると、後ろから、噛みつかれた。――天だ。
「ああああああああああああああああああああああああああああッ!」
「えへへ、へへ、えへへへへへ!」
――そうだ、こっくりさん。
こっくりさんは、呼ぶのは簡単だけれど、一度来たら二度と帰ってくれない。かみさまなんてのはそういうもので、こいつもきっとそういうやつだったんだ。
◇◇ ◇
「――だから、結局それは今食べてる肉体と、それの世話をしてくれる信者がいるってこと。怖いだろ?」
「ええ、怖いっすね。先輩怖いのだめそうなのになんでそんな怖い話知ってるんすか! 映画とかじゃないっすよね?」
「さて、どうだったかな。大学生んときに訊いた話だからさ」
「はー、しかし最近暑いからちょうどいいっすね! あ、そういや先輩また今年も夏にお休みとるんですか?」
「ああ、そうだなあ。八月の半ばくらいは取るつもりでいるよ」
「へー、田舎で避暑でしょ? いいなあ」
「……そんなに言うなら、おまえも行くか?」
「えっ、いいんですか? やったー!」