02 被害状況ペディキュア
冷えてきた朝に、秋の真ん中を確信した。
先に目覚めた意識が、なかなか動かない身体を待つ間、けだるく朝を憎む。
ああ、もう少し寝ていたいなあ。むしろ永遠に寝ていたいなあ。日生は毎朝そう考えながら、たいてい十五分くらいを費やす。
テレビの音が聞こえる。
耳をすませてもいないのに、無遠慮に流れ込む芸能ニュース。……またこの話題か。一昨日から世間を騒がせている、人気俳優の結婚報道に日生は辟易する。
はいはいご立派なものですね。
お相手は四十路を迎えた年上女優、しかも子連れとの授かり婚。で、結婚発表の場で「連れ子も、産まれてくる子も、同じ子供です。私の子供達です。」ですと?
はいはいご立派ご立派。反吐が出る。それを美談認定する世間も薄ら寒いよバーーーカ。
けだるい頭でいつも以上に朝を憎みながら、ついでに、結局死ねず陰湿なままの自分も恨んだ。
…………ん?
『結局死ねず』……?
日生は思い出す。
そうだ。昨夜は自殺を試みたのだ。そして図らずも妨害を受け阻止されたのだ。
記憶の復元に伴い、事態の異常さにも気づく。
まてまてまて。何故起床前なのにテレビが点いているんだ。今この時この一瞬は、いつもの朝じゃない。
普段なら何度も擦ってようやく開く瞼が、音をたてる勢いでぱちりと開眼した。
「あはー。おはよ。」
同じベッド上、同じ毛布の中、同じ姿勢で、同じ位置からの視線を送る、本来居るはずのない存在。こんな演出ホラー映画でしか見たことない。
昨夜の自殺妨害犯、少女アメリが同衾している。
しかしなぜだろう。最早日生に驚愕の叫びをあげる気力は残っていなかった。
それは、かねてから彼女が低血圧であるゆえ、朝はエネルギー不足のせいか。記憶が正しければ、この未知なる生物は想像以上に厄介な相手であると思い出したせいか。それらを理解した上で、無駄な体力を消費したくないと、瞬間的に結論付けたのか。
要は、今さらこのアメリという女に驚愕したくなかったのだ。
「寝顔もカーワーイーイー。イーケーメーンー。」
アメリは起床したての日生の頬を、語調に合わせつんつん突いた。この鬱陶しさ、面倒くささ、馴れ馴れしさ……忘れもしない。そして夢でもない。
「もったいないなー、この前髪。なんで伸ばしっぱなの? 顔隠れちゃうじゃん。」
昨夜の手荒な出会いも、愛の告白も、どうやら現実で間違いないようだ。
とにもかくにも毛布を剥がす。身体を起こして胡坐をかく。うな垂れ、膝に手を置き、「はー」と肩で呼吸する。
次に視線を上げると、いつの間にやらアメリも身体を起こしていた。向かい合ってぺたりと女の子座りをし、見えない尻尾を子犬のように振っている。
「おはようのちゅーは?」
「なんでいんの?」
現状把握のためにも、面倒回避のためにも、百点満点の返事を日生は選ぶ。
もちろん本音を言うのであれば、アメリがノーブラ+Tシャツ+下半身はショーツのみという、あられもない姿をしていることとか、しかも彼女の着ているシャツが明らかに自分の私物であることとか、シャツから透ける無防備な胸が、華奢な体つきには不釣合いなほど豊満であることとか、目に余る部分は多々あったわけなのだが、今は瞑ることにした。
「えー。もお、日生ちゃんが招んでくれたんじゃーん。」
呼称が「日生ちゃん」に変わっている。この女、正気か。日生はまた昨夜の悪夢が現実だと思い知る。やはり少女アメリは、互いが同性だと判明してからも、求愛を覆す気が無いらしい。
眉間を押さえ、再度記憶を辿る。
……言われてみれば、自宅に連れて来たのは自分かもしれない。
たしか、あの、強烈で強引で強硬な求愛を断った、後…………────
『やだやだやだやだーっ! つきあってよー! ひどいーっ!』
『いや、ひどいって……』
『ずるいー! 人の気持ちもてあそんで! 騙してー!』
『勝手に勘違いしたのはそっちでしょ。弄んでなんか……』
『男だと思うじゃん! そんな顔して!』
『だとしても初対面だし……』
『それでもアメリは問題ないって言ってあげてるじゃん!』
『どうして上から目線なんだよ。……ていうかほら、夜中だしそんな大声……人来るから……』
『ひどいよー! 騙された~キズモノにされた~!』
『あんたわざとやってるだろ!?』
明らかに故意的で噛み合わない言い争いの末、唯一アメリが小声で囁いた台詞がある。
『終電、無くなっちゃった……』
その言い草が、上目づかいが、取引という名の脅迫であると察するのは容易だった。
────……結局、経緯も強烈で強引で強硬だったのだ。
もしあの場で日生が、「あーそうですか」で終わらそうとしようものならば、きっとこの女は、「助けてー! 犯されるー!」くらい叫んでいたに違いない。
現状を煩いながらも、選択は正しかったのだと日生は自己暗示をかける。
本来なら二度と帰らないつもりだった室だ。
仮にアメリが強盗目的の犯罪者だったとしても盗まれる物など無いし、命を奪われたとしても、それはそれで色々と手間が省けるというもの。
別に、女一人連れ帰るくらい、大した問題ではなかった。
(…………あっ……貞操……)
とはいえこればかりは奪われてはならなかった。
日生は寝具周りと自分自身を色々と確認する。色々と。……よし、無事のようだ。充分確認した後で、今度は色々と安心する。それはもう、色々と。
「日生ちゃーん。アメリね、きのう日生ちゃんが寝てから色々買ってきたのー。もー日生ちゃんちってば、なんっにも無いんだもん。好きなの選んで選んで。」
今度はいつの間にかラグの上で、コンビニ袋をがさがささせている。見たところ、食料品やらが詰め込まれているようだ。メイクがしっかり落とされていたのは、クレンジングも買ってきたからか……。
素顔でも充分華のある顔立ちに注目したいところだったが、やはりどうしても、無防備でみだらな恰好に目が行く。
意識的に目を逸らしつつ、日生は部屋出入口まで移動した。
「クローゼットの中、好きに使っていいから、服着ておきなよ。」
背を向けたままアメリに言う。
「えっ? わーいありがと。……おやや? 日生ちゃんはどちらへ?」
「風呂。」
「一緒に入────」
「断る。」
言葉を被せる背後で、アメリがあざとく頬を膨らませているのがわかった。
本当にどういうつもりなんだ。何を考えているというのだ、あの女は。
脱衣所で服を脱ぎながら日生はあらためて考える。呆れと、単純な疑問。性格人格常識多々難があるとしても、アメリのような美少女が何故自分に対し熱をあげているのか、と。
あんたなど引く手数多だろうに。
やはり詐欺か宗教、なんらかの勧誘か? いっそそうであってくれたほうが潔い気もする。
「…………。」
鏡の中の、裸の自分と目が合う。
産まれたままの、正真正銘完全自然体の、日生果恋。
そしてまたひとつ、考える。
本当にどういうつもりなんだ
何を考えているというのだ
私は
生きる価値などとっくに失くしただろうに
“同じ子供です。私の子供達です。”
なんて耳障りで、曇りの無い、ことば。
一昨日から飽きることなく世間を騒がせるあの報道には、どうあがいても辟易しかできそうに、ない。
「……。」
考えるのはやめた。
風呂だ。まずは風呂だ。湯船は空だけどシャワーで身を清めよう。せっかく、しがみついてしまった生なのだから、堪能しなければ。隅々まで洗って、体が火照るまで熱い湯を浴びて、風呂上りには冷たい物を飲もう。きっと爽快に違いない。
蛇口をひねり、ふと視線を落としたそのときだった。
「……、
…………。」
足の指先に見える異常。
憶えの無いペディキュアが華やかに施されている。
ご丁寧に、足指十本すべて。
「…………────ッ……!」
この瞬間の日生の推理力は、某名探偵の孫も、某眼鏡と蝶ネクタイの少年も、某特命係をも凌駕していた。
犯人は一人しかいない。
「────ぁぁあアメリいぃいーーーッッッ!!!!」
けたたましく駆け戻ってくると、アメリは何食わぬ顔で寝そべりながらスナック菓子を摘んでいた。
「いやん、えっち!」
バスタオル一枚半裸で怒鳴り込んでくる日生に物怖じせず、相変わらずのリアクションをとる。
日生はわなわなと、水滴をしたたらせながら足指をさした。
「……足! 爪!! 色!!!」
「あはーやだー。言葉覚えたてのゴリラじゃん。ウホ~? ウホウホー。」
「ひとが寝てる隙に何してくれてんだ……!」
「日生ちゃん全然起きないんだもーん。超可愛いでしょ? それストーンもベースも100均ウホよ? すごくない? やばくない? ウホ。」
どっちがゴリラだ。こいつ会話できねえ。
日生がどんなに青筋を浮き立たせようと、アメリはペディキュアの出来を満足気に語らい、無邪気にはしゃぐ。
ただでさえ朝に弱い日生は、無駄な体力消費および睡眠不足、そして少女アメリへの疲労により眩暈でも起こすように、その場で座り込んで額を抱えた。
「いいじゃんネイルくらい。死ぬわけじゃないんだから。」
あっけらかんとアメリが言う。
正論でしかないと日生だって理解している。所詮は爪への落書きだ。落とせば消えるし、いつかは伸びるし、切ってお終い。刺青を入れられたわけでもない。
ただ、「寝ている隙に」という背景が癪で、「まったく気づかなかった」という油断が悔しかったのだ。施されたネイルがやたら少女趣味で乙女チックだったのも、怒りに拍車をかけている。
ピンクと白に、ハート、リボン、パールって、役満かよ。
似合わなさMAXだ。勘弁してくれ。
誰に見られるわけでもない、二人だけの空間でさえこそばゆい。あとは、単純に疲れた。
昨夜からノンストップの振り回されっぷりに、なかなか立ち直れそうにない日生の傍へ、アメリは猫のような足どりで歩み寄ってしゃがみ込む。
「でもでも、なまえ、呼んでくれて超うれしいな。」
起床時と同じく、指で頬をぷにっとさしてくる。
小首を傾げるしぐさがあどけなく、悔しいことに愛らしい。
呼ぶよ。呼びますよ、そりゃ。
昨夜から何度耳にしたと思ってんだ、その名前、「ア」「メ」「リ」の三文字。これだけ聞かされれば口にする抵抗すら無くなるわ。
他人との距離を縮めるのは得意じゃないけれど、そういう次元ですらないな、この女には。
日生は深いため息を吐く。
怒るのも疲れるのもばかばかしくなってきた。彼女には生死さえ振り回されているのだ。結果、今は生きている。
アメリのあどけない笑みと向き合いながら、日生は考える。
こんなふうに笑って生きられたらどんなに楽だろう。
強烈で強引で強硬で、恥ずかしげもなく正直に。
なまえを呼ばれた、
たったそれだけの出来事に喜び、こんなふうに笑う。
見習うべきだろうか、すこしは。
そうすれば、未遂とはいえ、死など選ばなかっただろうか。
今からでも見習って、楽になれるなら、その時は……感謝くらい、しないと、だろうか。
……と、日生は朝から顰めっぱなしだった表情を、僅かにゆるめた。
向かい合うアメリは両手でぐっと拳を作り、意気込みながら頷く。
「すごいっ。今の日生ちゃん、シャバーニよりずっとイケメンだよっ。」
「結局ゴリラじゃねえか!!!」
ご丁寧にスマホで検索してから、日生は盛大に声をあげた。