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一般向けのエッセイ

感動の「質」

  

 人間とは人間が思っているよりも遥かに複雑な生き物である。それは人間だけではなく、動物も植物も岩石も、全てがそうだろう。

 

 ネットを覗けば表皮的な意見が上滑りしている。ああだこうだ言われている。正しいの間違っているの、色々争っている。そうだと思ったり、違うと感じたりする。しかし、心に届くような文章はそれほどない。

 

 現代人は概念という便利な道具をあらゆる所に配置しているので、例えば、今言っているような事柄も「無意識」という一語で一括できるように考えたりする。人間の心について知りたければ心理学を学べばいいと思っている。天才はIQで計れると信じている。色々な事柄を表面的に定義して安堵しようとしている。しかし、彼らも内心では不安だろう。彼らの奥底にある心理にどんな定義も届かないからだ。

 

 芸術家というのは長い修練の果てに急に化けたりする生き物だが、どうしてそんな事になるのかと言えば、彼らの抱いている様々な技術があるきっかけで、自分の深い部分に触れられる日が急にやってくるからだ。そう考えても良いだろう。例えばある詩とか、旋律とか、絵が、自分の深い部分に触れる。そうすると、その深い部分はただ彼一人の抱いた感情ではなく、人々の奥底に眠る感情でもある為に、そこに客観性が生まれる。芸術家は深所に潜る事によって客体的な存在になる。世界から疎外された自己を終生テーマにしたカフカも、作品の奥底では他者に面会していたのだ。

 

 例えば、最近、自分が尊敬している作家の本が何十年ぶりに翻訳されるというニュースを見た。同じように、作者の死後何十年と経って発掘されたり、名が知れるタイプの芸術家というものがいる。こういう人物は意外に多いが、何故、彼らは時間の地層の中で眠り続けたのだろうか。

 

 感動にも「質」というものがあると自分は思っている。「君の名は。」や「シン・ゴジラ」に感動したと言う人は、時間が経ってその作品を見返すだろうか。その時、周囲の人に「あの作品は絶対見た方がいいよ!」と胸を張って言えるだろうか。その頃には、別の「君の名は。」「シン・ゴジラ」が出ているのではないか。その時には同じような人達が、表面だけ入れ替わった作品に同じように感動して、そうやって感動は「上書き」されていくのではないだろうか。

 

 しかし、そうはならないタイプの芸術家というのは、何十年と覚えられたりしている。フェルナンド・ペソアのような詩人は、発見された後、感銘を受けた人が熱心に活動したのだろうと思う。思えば、磔になったキリストも弟子が十二人いただけである。お前は何が言いたいのかと言えばと問われれば、極めて単純な話ーー次のような事だ。

 

 少数の「深く」感動した、その心的印象(行為と言っても良いが)は、浅く感動した多数派に対して、時間の中で少しずつ勝利していく。そうして残るべき作品が残っていき、消えるべき作品は消えていく。歴史の偶然を加味しても、全体的な傾向としてはそうなるだろう。

 

 この「意見」が現在の傾向とは真逆なのは誰もが気づくところだろう。現在は「みんな違ってみんないい」の時代であり、「民主主義」の時代だ。「多くの人が一致した意見が正しいのであり、少数派は黙れ」という意見を自分はよく見る。

 

 しかし、この意見の問題は「多くの人の意見」が果たして、彼らの思っている事、感じている事を全て表しているかどうかわからない、という点にある。「汝自身を知れ」という言葉は、どこまでもその定義を真っ直ぐに伸ばしていく。どこが「汝自身を知った」と言い切れるポイントなのか、それがわからない。だから、道を歩む者は終わりを知る事なく、どこまでも歩み続けていく。

 

 仮に全ての人間の意見が一致したとしても、それが「正しい」という確証はない。そんな気がするだけだ。我々は十年前に流行っていた意見を覚えているだろうか。百年前の流行を奇異な目で眺めたりはしていないだろうか。現在が同じでないと誰が言い切れるだろうか。

 

 表皮的な意見とか、表面的な感情を満足させる作品は、時と共に消えていく運命にあるが、それは我々が我々が思っているより遥かに複雑な物だという事実に由来している。単純に、人体には宇宙発生以来のあらゆる歴史が詰まっていると見てもいいだろう。植物学者が「植物はつまらないからもう飽きた」と言うだろうか。そんな人間は植物学者だろうか。

 

 感動にも「質」があると言ったが、頭の上っ面で感動を得た人と、存在そのものが揺さぶられるような感動を受けた人は、違う。しかしここに問題がある。他人の心は見えないのである。

 

 表面的には多数決で決めるのが一番正しい気がする。感動の「質」を計ろうにも、内面は計測できない。計測できるのは数に限られている。数えられるのは売上であり、支持者の頭数だ。それには客観性がある気がする。他人の内面は見えないから、それらを数という単位で一括して計測しようとする。そこに絶対があると信じようとする。

 

 そういう意味ではエンタメで満足している人が、小難しく見える作品を軽蔑するのも当然なのだろう。彼らは自分達を正しいと信じているので、その反対の「芸術的な」作品にすがっている人間を非難する。彼らの内面も大したものではないと思おうとする。ところが不安は取り除けない。結局、数で集約できないのが感動の質であるからで、彼らも無意識的にはそれを感じている。

 

 しかし、そうは言っても、こうした人達が急に自分の中の奥深くに気づく事はあるだろう。宗教的啓示に打たれる人間もいる。自分が世界を浅くしか見ていなかったと知る日も、来ないとも限らない。というのは、最初に言ったように人間は人間が思っているよりも複雑だからで、そこに一条の光が差し込み、目が開ける時が来ないとも限らない。実際、そうした体験をした人はいる。だが、その体験を目に見える形で表現できるかどうかはまた別の話だ。

 

 最初に言ったように人間というのは、人間が思っているよりも遥かに複雑だ。最初、人は真似事から始まる。いきなり天才に達した芸術家はいない。手が、形式が心に届くまでは長い時間がかかる。届いたと思ってもまだ先がある。芸術家が倦まず弛まず、絵の具をいじくり回しているのは、美という形式を求めているというより、自分の中に消化しきれないものがあってそれを表現する為に、遂に終わらない道を歩く事になってしまったというだけではないだろうか。

 

 天才と呼ばれる人ほど自分の無知を知るとは、ごく当たり前の話ではないだろうか。彼らは知ろうとしたから、自分が知らない事を知ったのだ。最初から知っている人間になんと声をかければいいだろう。正論で武装した人間とは対話はできない。服従するか否かを選択するだけだ。

 

 人間というものは複雑なものであり、そこに光を当てていくのは生易しい事ではない。しかし、人にはそれに反したいという気持ちもあって、それは単純化へと収斂されていく。現代は数で固まった人間が世界を定義しようとしているが、世界はその定義に収まらないので時間は続いていく。現代においては、つまらない人間の意見に賛同しているより、一本の草木をじっと見つめた方が得る所があるだろう。ところが、本来的にはどんなつまらない人間にもその人間が考えているよりも遥かに多量のものが眠っているはずなのだ。芸術家はそれを表現として定着させようとするし、鑑賞者はそこに世界の深い部分を見出す。そこに精神の世界が広がるが、これは表皮的な世界とは違う場所で人々の奥底で静かに蠢いている。現在でも尚、そうだ。

 

 

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