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夜光蝶

作者: 斉藤メモリ

 私の実家はたいへんな田舎である。

 どこまでも続く山の中。わずかばかりの民家と田畑が、山の狭間にぎゅっと押し込まれているような農村だ。規模的にも村というよりは集落とでも呼んだ方が良いだろう。鉄道の駅なども近くにはなく、最寄りの市街地に出るためには車で一時間程度はかかる。都会で暮らしている今となっては、どうやってあんな不便なところで暮らしていたのだろうか、という気すらする。

 ただ自然だけが豊富だった。とはいえ、それを良いこととして意識することもない。

 私が育ったのは、そういう土地であった。


 田舎の家にはテレビゲームなどという気の利いたものはない。夏休みともなると、私は毎日三歳年長の兄とともに野山を歩き、真っ黒になって虫捕りや川釣りに励んでいた。他にやるような遊びは何も知らなかった。

 少年の夏の日は長い。兄と私は飽きもせずに日々同じことを繰り返していた。

 兄と私があの老人に出逢ったのも、そんないつもと同じ日の夕暮れのことだった。


 「兄ちゃんたち、虫を捕ってんのかい」


 虫取り網を肩に担ぎ、心地よく疲労した身体で帰宅する私達に、見知らぬ老人が声をかけてきた。

 この辺りでは、知らない大人などを見ることはまずない。観光客が訪れるような土地ではないのだ。

 老人はハイキングをするような服装で、小さな背中に大きなリュックサックを背負っている。メガネの奥から窪んだ眼が、私達をじっと見つめていた。

 

 「ん、そうだよ」

 

 得体の知れない老人を前に、兄は私をかばうようにして進み出た。

 私はひどく人見知りをする子供で、両親祖父母以外の大人のことをとても恐れていた。隣家の住人の前でも家族の背中に隠れてしまうのが常であり、兄はそんな私のことをいつも気にかけていたものだった。

 老人は私達の非礼ともとれる態度を意に介することなく、こんなことを聞いてきた。


 「兄ちゃんたち、ヤコウチョウって知ってるかい。夜の光の蝶って書くんだけどな。羽が綺麗な紫色をしていてな、夜になるとそれが蛍みてえに、きらきらと光るんだよ。清流の近くにしか住めないから、なかなかお目にかかれるもんじゃねえんだけどな。たくさんの夜光蝶(やこうちょう)が暗闇の中を舞う姿は、この世のものとも思えないほど綺麗なもんなんだとよ」

 

 老人は少年のように楽しげな口調で語った。彼の視線は何もない宙空に向けられている。自分が語る蝶の舞う光景を、夢の中に見ているかのようだった。悪い人ではないのだろう、子供心にもそう思った。

 しかしながら結局、異郷の者というのは田舎の子供にとっては恐怖と拒絶の対象である。

 

 「おら()らねよ、そんな蝶。聞いたこともね」 

 

 兄が硬い声音で答えると、老人はふっと溜息をついた。

 

 「そうか。実は俺もな、自分で見たことはねえんだ。ただ、この辺りに生息しているはずでね。それでやってきたんだが、どうしても見つからねぇ。地元の子らなら知ってるかと思ったんだけどもな。うん、ありがとよ、兄ちゃんたち」


 老人はひらひらと手を振って、去っていった。

 兄と私もそのまま家路についた。


 「変なおじさんやったね。大人なのに蝶を探してるなんて」

 「……」


 兄の様子が少しおかしかった。私が話しかけてもずっと黙ったきり、とぼとぼと足を動かしている。


 「おじさん、夜光蝶って言ってたな。そんなの見たことねな。聞いたこともねな。おら、蛍は見たことあっけど、そんなきらきら光る蝶は見たことねな。ちょっと見てみてぇな。ね、兄ちゃん」

 「……」

 「兄ちゃん、晩メシはなんやろね。おら、カレーがええなあ。昨日もカレーやったけど、カレーなら毎日でもええわ」

 「……」

 「兄ちゃん?」

 「……」


 兄は夕飯の最中もほとんど口を利かなかった。ゆっくりと食事を口に運びながら、難しい顔で何かを考えていた。

 兄が話し相手になってくれないので、私は先ほどの老人のことを思い出していた。極めて狭いコミュニティの中で生活していた私にとって、知らない大人に出逢ったのは、三ヶ月前に父に街へ連れて行ってもらって以来のことであり、かなり珍しい出来事だった。人見知りの私はなるべく老人の顔を直視しないようにしていたので、既に彼の顔をはっきりと思い出すことはできなかったが、夜光蝶のことを語る優しい声音は、私の心の中に染み込んでいた。

 私の周りの大人に、虫捕りなどをする者は誰ひとりいなかった。大人というものは、そのような非実用的なことはせず、日々の生活に関係あることしかしないものなのだと思っていた。父も母も、近所の大人たちもみんなそうだったのだ。


 夕飯が終わって風呂を浴び、歯を磨いて寝る時間になると、兄は私に昆虫図鑑を持ってくるよう命じた。

 私が本棚から昆虫図鑑を持ち出してくると、兄は布団の中に腹ばいになり、図鑑を枕の上に広げた。私も兄の隣にぴったりくっついて、頬を寄せて一緒に本を覗き込んだ。

 兄はまず、図鑑の『チョウ・ガ』という項目を開いた。一ページずつゆっくりと確認しながらめくっていく。その図鑑には、外国にしかいないカラフルで派手な蝶も、世界一大きな蝶も、ありとあらゆる蝶が載っていた。しかし、夜光蝶という名前の蝶や、暗闇で紫色に光るという特徴を持つ蝶のことは、どこにも書いていなかった。

 兄は無言で『チョウ・ガ』の項目を二周ずつ確認したあと、図鑑を最初のページからめくりはじめた。その頃には私は兄の横で眠りに落ちてしまっていた。


 翌日から、兄と私の夜光蝶探しが始まった。やることは今までの虫捕りと大きく変わらないが、出歩く範囲を川沿い中心に大きく広げた。私の方は普段と変わらずモンシロチョウなどを捕っていたが、兄はそういった虫には目もくれず、ただキョロキョロと辺りを見回して歩いていた。

 何日も探し続けたが、どうしても見つからない。あの老人も見つけることはできなかったようだし、希少な種なのだろうからすぐに発見できるものではないのだろう。図鑑にも載っていないような蝶を探す、というのはそれなりにわくわくする作業ではあった。

 

 夜光蝶は暗闇で発光するということから、夜中にも探索は行われた。両親の眼を盗んで寝床を抜け出し、懐中電灯片手に川沿いを歩くという冒険に、私は大興奮した。

 やがて、夜中に山道を出歩いている私達を見つけた近隣の住人が両親に連絡したため、二人の夜間探索は終わってしまった。父親から顔の形が変わるほど殴られ、私はすっかり懲りてしまったが、兄はその後も時折一人で抜け出していたようであった。

 

 夏休みが終わり小学校が始まると、兄は学校の図書室で一番分厚い昆虫図鑑を調べた。また、先生にも話を聞いた。いずれも何の成果もなかったが、兄はめげることはなかった。放課後になると玄関にランドセルを放り投げ、私を引き連れて夜光蝶探しを続けるのだった。


 兄には従順な私だったが、さすがに毎日毎日あてもなく蝶を探すような生活には飽きてしまう。涼しくなってきた頃には兄のお供をやめてしまったが、兄の方は毎日変わらず蝶探しを続けているようだった。虫のいない冬はさすがに中断していたが、雪解け水が渓流の水量を増す季節になると、すぐに家を飛び出していった。

 川はどこまでも続いてはいるが、小学生の行動範囲ではそう遠くに行けるわけではない。兄は同じところを何度も探しなおしているようだった。


 その頃になると、私も兄の行動に不安を覚えるようになっていた。

 そもそも夜光蝶などという蝶はいないのではないか。少なくともこの辺りでは見つけられないと考えるべきだ。そう考え、また兄にも主張したが、兄は聞く耳を持たなかった。

 すべてはあの日、あの老人の言葉から始まった。彼がまたやってきて、夜光蝶なんていなかったと兄に言ってくれないだろうか。そうも思ったが、あれ以来あの老人が現れることはなかった。もしかしたら、あの老人も夜光蝶の話も、私と兄がともに見た白昼夢のようなものだったのかもしれない。そう感じることすらあった。


 兄のその生活は、両親や私の心配をよそに何年も続いた。中学に上がっても、学校から帰ってくると夜遅くまで蝶を探す。勉強やスポーツをするでもなく、友人とも遊ばず、何時間も野山を歩いてただ蝶を探す。いるのかいないのかもわからない蝶を。

 高校生になってからは家の周りの川だけではなく、ずっと遠くの土地まで蝶を探しに行っていた。街の図書館で蝶に関する図鑑、文献などもいろいろと調べていたが、夜光蝶についての記載はどこにもなかったらしい。夜行列車で東京まで行って、昆虫学者や昆虫標本収集家に話を聞いたりもしたが、そんな蝶は知らないと言われたという。それでも夜光蝶の存在について、兄の確信は揺るぐことがなかった。


 集落に生まれた子供の多くは高校を卒業すると都会に出ていったが、兄はそうではなかった。両親とともに家の農作業に従事し、空いた時間はこれまで通り蝶探しをした。子供の頃とは違い、夜にもよく家を空けていた。

 

 私が最後に兄と蝶を探しに行ったのはいつのことだっただろうか。私が中学生か高校生の頃に、一度だけ興味本位で付き合った記憶がある。

 毎日山歩きをしている兄は素晴らしく健脚であり、山道を平地のように歩いていった。ペースの遅い私が置いていかれずに済んだのは、兄が時折立ち止まってメモを取っていたからだった。

 その場にいる昆虫や植生などを書き留めているのだという。夜光蝶探しにどう関係するのか、兄の説明を聞いても私にはよくわからなかった。幼少の頃にあれほど仲の良かった兄が、遠くに行ってしまったような気がした。


 私は高校を卒業すると都会へ行き、そこで仕事を見つけて生活を始めた。実家の田畑にそれほどの食い扶持はなかったし、正直なところ兄から離れたいという思いもあった。田舎で暮らしていた少年にとって、都会の生活は辛いこともあったが、馴染むのは早かった。

 

 何年もの月日が流れた。

 都会で結婚し子供も生まれ、いつしか故郷のことを思い出すことも少なくなった。兄は結婚もせず、昔と変わらず夜光蝶を探しているという。あの老人に出逢った日からもう二十年はたつ。兄の情熱は変わることがなかった。

 休日に子供の遊び相手などをしているときにふと思う。今この瞬間も兄は山の中を蝶を探して歩いているのだろうか、と。その姿を思い浮かべると、背筋が寒くなるものを感じるのだった。


 ある日、実家の母から連絡があった。

 兄が事故で亡くなったのだという。

 夜の蝶探しの最中に、自宅付近の崖から転落したのだ。


 私はすぐに実家に帰った。

 よく晴れた暑い夏の日だった。田舎の風景は二十年前と何ら変わりない。

 実家の一室で、布団の上に寝かされた兄の遺体と対面した。兄の死顔は安らかなものだった。


 「この子ぉがあんなところから落ちるなんてなあ。自分の家の庭より歩いた山やったのにねぇ」


 憔悴しきった表情の母が呟いた。


 「ほんに不憫な子ぉやったね。嫁ももらわんと、蝶々ばっかり探してなぁ」

 「……兄ちゃんは自分のやりたいことを沢山やったと思う。不憫なんち言うたら逆にかわいそうやろ。死ぬんは……早すぎたけど、でも普通の人より一生懸命生きとったよ」

 

 私がそう答えると、


 「これが不憫やのうて何が不憫かぁ。人間、嫁を(もろ)うて子供を作って、それが幸せ言うもんやろ。はぁ、こんなことになるなら、虫探しなんて無理にでもやめさせりゃ()かったなぁ。かわいそうなことをしてしもうたなぁ」


 母はそう嘆いて涙を流した。

 私には兄は不幸せそうには見えなかったが、母には兄の生き方はとうてい理解できなかったのだろう。もちろん私にも兄の考えがわかっていたとは言い難いが、それでも蝶探しに捧げ尽くした人生を頭から否定することはできなかった。


 家族と近所の人たちとで通夜を済ませ、私はもともと自分の部屋だった部屋で横になっていた。窓の外からは虫やカエルの鳴き声が大音量で聞こえてくる。夏の夜は、都会より田舎の方が騒がしいくらいかもしれない。

 頭が冴えてなかなか寝付くことができない。兄のことをいろいろと考えてしまう。


 母の言葉を思い出す。


 「この子ぉがあんなところから落ちるなんてなあ。自分の家の庭より歩いた山やったのにねぇ」


 兄が事故に遭ったという場所は、彼が今まで何千回となく歩いたはずの山道だった。夜光蝶探しのための夜中の外出だったとは言え、普段なら眼をつぶっていても歩ける道だ。そのはずなのに崖から足を踏み外して崖下を流れる川へと転落した。

 何かに気を取られて足を滑らせた――のだろうか。例えば、崖下の川にいた何かに。


 兄の死顔を思い出す。


 突然の事故だったのだから、もっと恐怖や驚愕が表情に表れていても良かっただろうに、とても安らかな顔だった。良い夢を見た時のような――あるいは、長い間探していたものをようやく見つけた時のような。


 私は起き上がった。

 玄関で靴をつっかけ、懐中電灯を握って、外へ飛び出した。

 

 ありえない。

 図鑑にも載っていなかった。

 二十年探しても見つからなかった。

 夜光蝶なんてものはいないんだ。

 今更こんな家の近くで、何千回も探してきた場所で発見するなんてありえない。

 理性では否定しながらも、足が勝手に動いた。兄が事故に遭った山道へ。

  

 兄が転落したという場所に到着する。足元を懐中電灯で照らしながら慎重に崖のふちへ移動する。両親に息子二人の葬式を連日出させるような真似は避けなければならない。

 手近な木の幹につかまって、崖の下をそっと覗く。

 

 子供の頃から何度も見ていた場所が、初めて見る光景に変わっていた。

 川の近くに何十、いや何百もの小さな光が見えた。紫色の光がきらきらと煌めいている。

 リンドウの花か何かが月光を反射して光っているのか。  

 いや違う。植物ではない。光は動いていた。

 数え切れないほどの紫色の光が、黒い川面の上を互いに交差したり離れたり回転したり、自由に飛び回っていた。


 夜光蝶。


 「見つけたんやね、兄ちゃん」


 いるはずのない蝶。夢かもしれない。幻かもしれない。

 夜光蝶の群れはずっと昔からそこにいたかのように、ひらひらと舞い続けていた。

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― 新着の感想 ―
[一言] とても面白かったです。 国語の教科書に載っていそうな雰囲気の作品だなと感じます。ただ、個人的な感想で最後に弟?が夜光蝶を見つけてしまったことが少し残酷なように思えました。
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