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どこかの庭園で

作者: キミナミカイ

 カナはビジネス街のはずれの高いビルに挟まれた路地でひっそりと営業する、開店しておよそ三十年になる喫茶店で働いていた。店には昼間の一時間だけ太陽が射し込み、重い扉を開け閉めするとカウベルが鳴った。誰がその扉を開けても同じ笑顔で平等に迎えた。


 その喫茶店から五分ほど歩いたところにそろそろ建て替えた方がいいのでは、と誰もが思うくらいに古びた雑居ビルがあった。その三階にリイチの勤める機械部品製造会社の営業所があった。

 リイチは火曜日と水曜日と木曜日の朝、コーヒーと卵サンドウィッチか野菜サンドウィッチを食べ、時々お昼過ぎに見知らぬサラリーマンとやってきて書類を広げて話をし、最後に必ず握手をして笑顔で帰っていった。その後、一人残ってまたコーヒーを飲むその表情には慈悲心が満ちているのをカナは認める。

 カナはリイチを見送り、空になったコーヒーカップと一度も使ったことのないコーヒースプーンや添えられたパセリまで食べ尽くした皿を片づけてテーブルを拭いた。リイチが去った後のテーブルにパン屑やコーヒーの雫が落ちていたことは一度もなかった。


 ある昼過ぎ、リイチがやってきた。カナには疲れているように見えた。そのせいか珍しく注文を迷っていた。カナはピザトーストを勧めた。カナはリイチに食パンもチーズもベーコンもオーナーが作っていることを説明した。リイチはカナのすすめるままにピザトーストを注文した。リイチは熱々のそれにかぶりついた。香ばしいチーズとベーコンの脂とが口の中で混じりあった。

 リイチはカナを呼び止めて、「これは本物のピザトーストだよ」とまるで砂山から宝物を探し出した子供のような笑顔で言った。

 それをきっかけにして二人は挨拶をするだけの関係から一歩踏み出した。

 二人は短い会話を交わすようになり、やがて長い会話をするようになり、電話番号を教えあうようになった。映画にでもどうですか、とリイチはカナに電話をかけて慣れない様子で誘った。話しているうちにお互いに見たい映画はないことがわかった。映画よりもなにかおいしいものでも食べようということになり、リイチはあらためて食事に誘った。


 一度目のデートでカナはリイチから付き合ってほしいと言われ、カナは返事を留保し、二度目のデートでカナはまだ恋人がいることをリイチに話し、三度目のデートで恋人と別れたとリイチに告げた。

 二人は庶民的なイタリア料理店に入った。少し悩んで渡り蟹のパスタとピザとサラダと前菜のコースを注文し、カナはガス入りのミネラルウォーターを、リイチは赤ワインのハーフボトルを注文した。赤色の格子柄のテーブルクロスに前菜が置かれた。リイチは驚いた顔をしていた。リイチは落ちつかないといった様子で店内をぐるりと見回してから、「ごたごたしなかった?」と訊ねた。

「なにが?」とカナはミネラルウォーターを飲み、リイチの挙動を静かに見ていた。

「別れるにあたって」

「ああ、向こうも潮時だって思ってたみたい」とあっさりと答えた。「去年のクリスマスの日にプロポーズされたんだけど、断ったの。それから向こうもなんだかやる気なくなってたのはわかってたから」

「そうか」

「理由」とカナはリイチの顔を見て言った。「聞きたい?」

「話してもいいんだったら、聞きたい」

 カナはリイチの目に刻まれた秘密の文を読むかのようにしばらく眺めていた。リイチは表情を変えないようにしていた。しきりにワイングラスを口元にやった。けれどもその量は減ってはいなかった。

 カナは椅子の背にもたれてにこりと笑った。

「結婚するとなればね、結婚式やって、家とかマンション買ったり借りたり、子供作ったりね」

 リイチは頷いた。

「でも私、子供はほしいと思わないの。でもその彼はすごい子供が大好きな人で、いつも子供ができたらこんなの買ってあげたいとかこうやって遊びたいとか、教育はこうするとか躾は厳しくしたいとか、女の子だったら恋人つれてきたら俺絶対反対しちゃうなあとかね、そんなことばっかり言っては笑ってたの。私はそれを聞く度にどうすればいいのかわからなくって無口になったんだけど、彼はまったく気づかない様子だったの。彼が笑顔になればなるほどね、私は無口に無口になっていったの」

 カナはフォークでサラダの中の一枚のルッコラをゆっくりとすくった。それはフォークの先でバランスをとってしばらく揺れていた。今にも落ちそうなところをカナは口に送り込んだ。

「それに結婚式もどちらかといえばしたくないの。でも彼はそこそこ大きな会社に勤めてるから結婚式をしないなんて選択肢は存在しないの。だから私ね、その彼に結婚式しない友達がいるんだけどねって話したことがあるの、もちろん架空の女友達をでっち上げて。そうしたら彼、まるで穴から這い出てきた人間を見るような目で私を見てこう言ったの、そんな女と結婚するやつは不幸になるだろう、って。まるで予言みたいに。そんな考えがこの世の中にあるってことすら信じない、まるで異教徒を見るみたいな顔をしたの」

「なるほど」

「それに彼は家を買えば、当然のように友達を呼んだりするものだって考えてたの」

 リイチは相づちを打ち、ワインを飲んだ。

「そんなことも私は我慢できそうもなかった。毎週とか毎月とか定期的に新居に友達とか会社の同僚を呼んでパーティーをしたいんだって。私は料理を作って、まったく知らない人たちにワインを注いだりするんだって。とびきりの笑顔で。そういうことが結婚生活だって彼は考えていたの」

「その彼は君の考えを受け入れる余地はなかったんだね」

 カナは眉を上げ、ちょこんと頷いた。

「それだけで別れたわけじゃないけど、大部分を占めているわね。それで」とカナは言葉を区切り、言いにくそうに何度か口を開けて閉じ、笑って、「それでね、あなたはどうなんだろうなあって思ったの、でも、こんな話の後じゃ、私が事前に答えを教えてるみたいね」とカナは天井を見た。

「それじゃあ」とリイチは言った。「僕は事実だけを話そう」

 カナは天井からリイチに視線を戻し、膝に両手を置いて背筋を伸ばす。リイチはワイングラスとフォークを置いて、口に入れたばかりの生ハムを飲み込んた。

「僕は明日の朝にでも潰れそうなくらい小さな会社に勤めてる、給料もほとんど上がらないし、会社の業績を見ればこれから先上がる見込みもないし、溜息が出るばかりだ」と言ってリイチは冗談めかして大袈裟に溜息を吐いてみせた。「それに結婚式に呼びたいと思えるような同僚も上司もいない。みんな自分の生活で手一杯なんだ。友達もいない。携帯電話の住所録もほとんど空だ。家を買うためのローンの審査に通る自信はないし、何十年も支払えるとは思えないし、車だって高機能のオーブンレンジだって買えないと思う」

 リイチは今の自分自身のたな卸しをしながら呆れて笑った。

 リイチの笑顔に反比例してカナの顔からは季節が変わって山の雪が溶けていくように笑みが消えていった。

 こんなことを話すべきじゃなかったのかもしれないな、という後悔の色がリイチの顔に浮かんだのをカナは見た。それでもリイチはつづけることにした。カナは呆れたりしてはいなかった。グラスを手にしたままじっとしていた。

「子供だって、ほしいと思ったことはない。君の話に合わせてるわけじゃない。僕は子供を作りたいとは思わない。子供は好きだけど、自分の子供なんて考えられない。なぜだろう?

 でもこれが僕なんだ」

 カナはリイチの両方の目を交互にじっくりと精査していた。リイチは照れて顔を伏せようとした。

「まだ」とカナは言った。「こっち見て」

「そんなに時間のかかるものかな」

「そうねえ、嘘をつく人には思えないわね」

 まだそんなに話す間柄でなかった時に、カナはリイチを観察していくつかのことに気づいていた。スーツもシャツもそんなに多くはないこと。それは明日の朝にでも潰れてもおかしくはない小さな会社に勤めていることを証明していた。

「僕は結婚にはふさわしくはない男だろうなと思う」

「私だってそうよ」

「でも、君と一緒にいたいと思う」とリイチは照れながら、はっきりと宣言した。


 四度目のデートで二人はサラリーマンの集まる魚のおいしい居酒屋に入った。そこでカナは身の上を話すことに決めていた。

 私の両親はいないの、とカナは言った。リイチはなにか言おうとしていたみたいだったけれど口を急いで閉じた。

「八歳になってすぐにね交通事故で死んだの。私もその車に乗っていたんだけどちょっとのケガだけで助かったの」

 カナはリイチの顔を時々見た。リイチは無言だったけれど、カナの話を受け入れるにふさわしい柔和な顔をしていると感じた。店の中は騒がしかった。それでもリイチはカナの声に集中しようとしていた。

 雨の中、車は真っ暗な高速道路を走っていた。父の友達の新築祝いパーティーの帰りだった。前にも後ろにも車はいなかった。父は車に乗って帰るためにお酒は飲まなかったのをおぼろげながら記憶している。母は少し飲んでいた。飼っていた薄茶色のウサギとカナは後部座席で父と母の会話を聞いていた。車の中で父と母がなにを話していたのかは忘れた。ただ時々沸き上がる二人の笑い声が臆病なウサギを驚かしたことを覚えている。ウサギは車の中では音や振動に驚いてパニックになり運転の邪魔になるからとカゴの中にいた。カナは抱いていたかったけれどそれに従っていた。

 車はスリップしカナは体の側面に重力がかかるのを感じて体中を硬くした。車のフロントガラスから飛び出す母が見えた。カナも母につづいて外に投げ出された。カナは宙に浮いたのを覚えている。体と頭の周りをいろいろな音と光と匂いが駆け回りながら地面が近づいてきた。カナは高速道路の脇の芝生に右肩から落ちた。雨で軟らかくなった土と芝生と、母が頭でフロントガラスを割ってくれたおかげでカナは指と鎖骨にヒビが入っただけですんだ。

「その時の臭いをいつでも思い出せるわ」

 カナは何秒か瞼を閉じ、開けてリイチを見た。カナは深呼吸を二度した後につづけた。

「泥や湿気や焼け焦げたゴムや私の血の臭い。びしょぬれになって私は泣いていた。そこが車の中じゃないのはわかったけれど、そこがどこなのかわからなかった。さっきまで後部座席で座っていたのに、どうして泥と芝生の上に座っているのかまったくわからなかった」

 母と父の遺体は雨の高速道路に倒れていた。けれどカナは見ていない。飼ってたウサギとは二度と会うことはなかった。

「今までにこの話をしたのはあなたが初めて。誰かに同情されたくなかったから。でも初めて聞いてほしいと思ったの。あなたを試すためにこんな話をしたと思わないでほしい」

 リイチ深く頷く。両掌の指を組んだままカナの話に聞き入っていた。

 カナは遠い親戚の養女となった。カナと血が繋がっていて金銭に余裕がいくらかあり、カナの両親とは仲がよかった。積極的にカナを引き取ると申し出、反対する親族は一人もいなかった。

 カナの養父は若い頃に中堅のコンサルティング会社を辞めて実家の学習塾を継いだ。コンピュータシステムとアメリカの経営理論を取り入れて二つだけだった教室を百二十にまで増やした。絶版にはなってるけれど二冊の教育関係の本を出版したこともある。養母は二つだけだった頃の学習塾で英語を教えていた。けれどもカナは彼女が英語を話しているのを見たことは一度もなかった。

 カナを引き取った養父と養母にも子供はいた。カナの二つ上に男の子、二つ下に女の子。カナも同じように育てられた。漫画や映画にあるようなイジメはなかったし、分け隔ても感じなかった。みんなと同じように叱られもしたし厳しく躾けられもした。とてもよくしてもらえた、とカナは言う。

 カナはそこで言葉を切った。リイチはつづきを待った。カナは呼吸を止めたように静かだった。カナの方がリイチの言葉や態度の表明を待っているようだった。カナは口を開いた。

 義兄は一日目からカナを妹と認め、近所や学校でも守ってくれた。義妹はなんの予告もなく姉ができたことを義兄以上に喜び、カナを友達に話してまわった。義妹は飽きてしまうまでカナに抱きついて一緒に眠った。

「彼女は小さくてすごく柔らかかった。二人とも自分自身が嫌になるほどいい人だった。主観的にも客観的にもそう思うわ」

 カナは二人に挟まれて食事したり勉強したり出かけたりすると自分の心の中に醜いものが際立つ気がした。仲はよかったけれど、カナはどう接していいか時々わからなくなった。生まれた時から兄弟姉妹だったわけじゃないからだとカナは言う。それに急に妹と姉になれるものじゃないでしょ、二人はどう思ってたのかは聞いたことはないからわからないけれど、と。

「私はいつも私の立ち位置と役割が正しいか間違っているかを確かめながら生活してた。感謝はしてるわ。衝突も確執もなかったのは彼らのおかげだと思う。誰にでもできることじゃないでしょ。一人の人間に過不足ない環境や日常を与えて当り前みたいに育て上げることって」

「確かに金銭にいくらか余裕があるからってできることじゃない」とリイチは同意した。

 カナは中学生になって自分の部屋を与えられた。それでもやはり自分の居場所はないとわかった。部屋があることでカナはそういうことをよけいに感じた。不満はまったくなかった。うれしかった。恵まれていると思った。けれどもカナは空間を独占できたからといってそこが自分の居場所にはならないことがわかった。なにかが欠けているってことは漠然と感じていた。けれどもそれがなんなのかはわからなかった。

「おじさんもおばさんもとてもよくしてくれたし、今でも感謝してる。みんな私のことを心配してくれてる。当たり前よね。結婚したことは知らせるつもり。たぶんあなたを連れて来いっていうでしょうね」

「僕はどこにでも顔は出すよ」

「ありがとう。あなたの実家には?」

「行かなくてもいいよ」とリイチは鯛の刺身に醤油を少しだけつけて口に入れた。

「どうして?」

「僕が誰と結婚するとか、彼らはまったく関心ないからね、嫌な気分になるだけだよ、それに」とリイチはつづきの言葉を探して、見つけられなかったのか、笑って頭を振った。

「あなたが嫌だったらそれでいいの。ただ両親や育った家や近所や遊び場や小学校を見てみたかっただけなの」

 リイチはガラスの猪口に口につけてカナの目をじっと見た。時間をつぶすようにゆっくりと猪口をおいた。

「実家は近くまで、その他の場所は僕が案内する。それでどうだろう?」

 カナは、それでもいい、と答えた。

「君は僕にいろいろと話してくれたのにね」

「あなたが話してもよくなったらでいい」とカナはリイチに言った。「その時が来たらでいいのよ」

 リイチは笑顔で頷いた。少し戸惑っているようにも見えた。

 そんなことは永遠に来ないよ、とリイチは言いたげだ、とカナは思った。


 それから一ヶ月後にカナはアパートを引き払い、リイチのマンションに越してきた。二月の中頃だった。窮屈な台所と居間と和室の二部屋だけだった。きれいに掃除してあった。カナの荷物は多くはなかったけれど、さすがに手狭だった。

 二人は貯金通帳を開いて、自分たちがすっぽりと収まる部屋について語り合った。余分な空間はいらない、と二人の意見は一致した。

 それから三ヶ月後に少し広いマンションを借りて引っ越した。地下鉄の駅までは遠かったけれど公園があり商店街があり、家賃は飛び上がりたくなるくらいに安かった。建物は新しくはなかったけれど、二人はずいぶんと前から住んでいたような気分になれた。

 ほとんどの荷物を所定の位置に並べると、リイチは「さて結婚しようか」と言い、カナは頷いた。

 真夜中、十二時数分前、二人は手を繋いで役所にいき、婚姻届を提出した。

「おめでとうございます」と初老の役人が言った。三人以外誰もいない薄暗い役所に声が響いた。

「ありがとうございます」とカナは言った。リイチも頭を下げ、「ありがとう」と言った。「ごくろうさま」


 役所からの帰り道、道路の向い側にファミリーレストランを見つけた。横断歩道を渡ると、二人の前を一人の男性がさっと横切った。緑色のスパッツを履き真っ赤な艶のあるシャツを着ていた。かなりの速さに二人は驚いて顔を見合わせて笑った。カナは「口と鼻から吐き出す白い息がしゅっしゅっと音をさせているような気がする」と言った。

 二人はランナーを目で追った。しかしもう暗闇に紛れて見えなくなっていた。その軽い足音だけが聞こえてそれもすぐに消えた。

 ファミリーレストランの扉を開けると暖房の熱気が二人に倒れこんできた。客はまばらだった。高校生くらいに見える店員に窓際のテーブルに案内され、カナとリイチはコートを脱ぎ手袋をはずした。

 リイチはグラスワインとツナを詰めたオリーブを、カナはコーヒーとモンブランを注文した。

「よろしく」とリイチはグラスを掲げ、カナは「こちらこそ」とカップをリイチのグラスに静かに当てた。

 二人の後ろや隣で食事をしている人たちや店員たちの誰一人としてすぐさっき自分たちが夫婦になったことを知らないのだと思うとカナは小さい秘密を抱えることの嬉しさを初めて知った。

 カナもリイチも二人にふさわしい結婚だと思った。二人以外の祝福なんていらなかった。二人で一歩一歩を踏みしめていくことだけに集中しようと誓った。朝にすべきことをし、夜にすべきことをしよう。


「ただいま」とカナは言った。リイチは緊張していた。けれども家に近づくにつれて緊張は薄れてきたよ、とカナに言った。

 カナの養父の家は庭つきの一戸建てだった。築二十数年だったけれども家族は丁寧に住み、手入れをして大切にしているのが感じられた。

 リイチはどれだけ働けばこんな家を持てるのだろうかと考えた。細かい計算をしなくとも無理なことはわかり、頭を振った。

「僕には無理だね、こんな家を持つのは」

「持てたとしても私たちにはいらないわ」とリイチに耳打ちした。

 カナはリイチの前では「おじさん、おばさん」と呼称した。みんながいる前では、

「おとうさん、おかあさん」

 と呼んだ。

「おにいさん、いもうと」も玄関で申し分のない笑顔でリイチとカナを出迎えた。

 カナの義兄は日焼けしていてテニス選手みたいだなとリイチは思う。カナの義妹は当り前だけどカナとは似ていなかった。リイチはフィギュアスケートの選手みたいだなと思った。全員笑顔で彼をあつくもてなした。居間のテーブルにはパーティーのように料理が並んでいた。肉汁がじわりと滲んだローストビーフ、パセリを混ぜこんだマッシュポテト、コロッケのトマトソースがけ、人参やブロッコリーやアスパラガスの温野菜、短く切ったフランスパン、刺身の盛り合せと握り寿司。ビールや赤ワインが近未来の高層ビルのミニチュアに見えた。リイチはクリスマスみたいだとカナに言う。それとも誰かの誕生日みたいだ、と付け加えた。

 カナがリイチを家族に紹介した。次にカナは家族たちを一人ずつ紹介した。みんなは挨拶をし、カナを幸せにしてやってね、と最後に必ず添えた。自分たちではそうはできなかったから、と言いたげだなとリイチは思った。

 三時間をすごした。カナの小さな頃の話をいくつか聞いた。よく風邪をひいたこと、運動が苦手で義兄が逆上がりとバスケットボールのドリブルを教えたこと。義妹はカナを連れて公園や商店街をまわって見つけた同級生に新しい姉を自慢したこと。家族で出かけたピクニックや一泊二日の旅行。養母はカナ一人を連れて買物にいった時に果物屋の店主から可愛い娘さんですねそっくりだと言われて嬉しかったことをリイチに話した。

 リイチは聞き役だった。グラスのビールを飲み干すといつの間にかなみなみと注がれていた。ビールグラスの隣にはワイングラスがあり、リイチは交互に飲んでいた。

 カナは愛されて育ったことがさまざまなエピソードで理解できた。結婚式をしないことを咎められるのではないかとリイチは考えていた、と後でカナに言った。けれどもその話はまったく出なかった。全員がカナとリイチの結婚を了承していた。なに一つリイチに条件も出さず、またリイチに対して試練も宣言の要求もなかった。リイチは少し肩すかしを食った感じだったと言った。全員がこの日だけを待っていたようだった。

 玄関で見送られる時、再び、「幸せにしてあげてね」とそれぞれが順番にリイチに言った。予行練習をしていたようだった。それは心が込められていた。だからリイチには滋養のある本当の言葉だとわかった。

 リイチはただ頭を下げて微笑んだ。

 門の外に出ると、

「本当にあたたかい人たちだね」とリイチは言った。「ホッとしたよ」

 カナは彼の手を握り、頷いた。

「みんなに言われるまでもなく」とリイチはカナにだけ届くように小さな声で、「僕らは幸せになるよ」と笑顔で言った。

 駅までゆっくりと歩く間、二人はそれぞれに幸せを噛みしめていた。ひっそりとした住宅街を抜け、明るい商店街を通った。二人は人波を逆らって歩いた。

 電車に乗り、カナはリイチに話した。

「あの家を実家と呼ぶのはどうしても抵抗があるの。自分が育った家だけど。避けてるわけじゃないし、みんなを疎ましく思っているわけじゃない」

「わかってるよ」

「歳を重ねるたびにね、自分には関係のない場所だという思いが強くなってきたの。そのことを彼らに話しても伝わらないだろうし、話すこともないだろうと思う、話しちゃいけないことだと思う、不義理なことはすべきじゃないもの」


 リイチとカナの結婚生活は無人のボートが人気のない湖の水面を滑り出すように始まった。

 カナはオーナーに惜しまれつつ喫茶店を辞め、デパートの地下に出店している惣菜店に職を得た。給料は少し上がった。店長からはがんばりようによっては昇給もあると言われた。仕事は難しくはなかった。カナは喫茶店よりも機械的だなと思った。

 冷蔵庫になっているショーケースに三方を囲まれた中からお客の注文を訊ね、あらかじめ百グラムや二百グラムを量ってプラスティック容器に入れた商品を包装紙で包みビニール袋に入れる。もっと多ければ空の容器を取り出し、レジの機械と連動している電子秤を使ってお客の希望の量を盛る。お金をやり取りする。ありがとうございました、と頭を下げる。笑顔。他にはショーケースに惣菜を並べたり、ショーケース内をきれいにしたり、消毒したりする。時々、併設されたガラス張りの狭い調理場で色とりどりの野菜や海藻や豚肉にドレッシングやソースを和える手伝いもした。カナよりも十も二十も年上の古参のパートたちはあからさまに嫌な顔をして、バイト料はずんでもらわないとね、と自分の子供くらいの社員を困らせるために言った。

 リイチは帰宅してすぐに食事ができることがうれしいと言った。カナは目のひくような料理は作らなかった。どちらかといえば目立たないけれどしっかりとした飽きない料理ばかりだった。半分は和食で、半分は洋食だった。料理の本を見なくてもカナは何種類もの料理を作った。リイチはいくつかの味の好みを告げるだけでよかった。オーダーメイドの食事だと彼は言った。

 養母は物静かな女性だとカナは言った。苛々したり気分で怒ったり機嫌が悪かったことは一度もなかった。家事、特に料理に関しては「まるでレストランのコック修行みたいに叩き込まれた」とカナは言った。

「台所から出ると養母はとたんに優しくなったの」

「すごい料理だったものな、あれは見事だったよ」

 リイチは食べきれないくらいの料理を思い出して言った。

「うん、食べきれなかったね」

 リイチは台所に置いた日曜日の午后に拾った青い折り畳み式のパイプ椅子に座ってカナが料理を仕上げていくさまを眺めるのが好きだった。

「売れ残った惣菜をすごく安くで買えるんだけど、ああいうのって味を濃くしているの。商品説明のために私も試食するんだけどしばらく口の中がひりひりするわ。砂糖とか塩とか油とかをたっぷり使ってるからね」

 カナはホウレン草の根元を切りながら話をつづける。手は休めないようにしていた。

「でもね、他の人たちはみんな不思議がるの。ほとんどが私よりも年上の主婦なの。え? あなた買わないのって言うの。お得なのに買わないのって。結婚したばかりでしょって。節約になるじゃないのって、それが主婦なのよって、私にレクチャーしてくれるの。あなたはああいうの食べたいと思う?」

「今までさんざん外食とコンビニの弁当を食べてきたからもうあまり食べたくはないな、君の言うように濃い味つけはいずれ体を壊しちゃうだろうしね。君の料理を一食でも多く食べたいな。それにできれば君と一緒に長生きしたいからね」

 カナは嬉しい顔を隠すようにして頷き、お湯の沸いた鍋にホウレン草を押し込んだ。リイチも自分の口からそんな言葉が自然と出たことに驚いていた。そして少し照れた顔を振り返ったカナに見られて、二人で笑いあった。

 リイチは、たぶんビールを飲んでいるからこういうこと言えるんだけれど、と前置きし、「今まで、長生きしたいだなんて思ったこともなかったし考えたこともなかった、もちろん誰かに話したこともなかった。自分でも驚いてるし少し恥ずかしい。でも本当に、切実にそう感じるんだ。今は」

 そして今でも、リイチがそう言ったことを思い出すことができる。五年の蓄積があった。それが多いのか少ないのかカナには計ることができない。

 真夜中や早朝、カナはリイチの言葉をいくつも思い出し、一日を終えたり、一日を始めたりする。リイチはベランダの隅に一摘みの米粒を置いて毎朝雀がやってくるのを楽しみにしたり、季節の雲を眺めて天気を読もうとしたり、本を読みながら眠りこんだり、冬のはじまりには風邪をひいたりした。

 カナはいつも近くでリイチを見ていた。青い折り畳み式のパイプ椅子はそのままにしてある。


 小さな葬式が終わり、翌日からカナは休まずに働いた。休みたい人とは率先して交代し、みんなの嫌がる混雑して忙しい週末や昼時や早朝は必ず出勤した。周囲の人たちはカナにどう声をかければいいのかわからずにいた。カナはどう声をかけられても作り笑顔をする他なかった。だから遠巻きにしていてほしかった。捨てられて雨曝しになった自転車みたいに放っておいてほしかった。

 今までとまったく同じ笑顔でカナはお客に接した。食卓に並べるさまざまな惣菜を注文通りに量り、おつりを手渡し、ありがとうございました、と背を向けたお客に言った。カナは常に体を動かすため、次にすべきことを考え自分に命令した。その命令で頭の中をいっぱいにした。

 ショーケースに陳列された色とりどりの惣菜はカナに食欲を喚起しなかった。以前は買わなかったけれどおいしそうだと感じたし、新商品が入荷した時に試食すればおいしいとは思った。だから本当の言葉でお客に勧めることができた。皮付牛蒡の黒胡麻マヨネーズ和え、煮込みハンバーグ、ゆで卵とジャガイモのグラタン、タケノコと海老のシュウマイ、緑黄色野菜と海藻のサラダ、根野菜のシチュー……それらすべてがカナには滑稽でわざとらしく映った。じっと見ていると口の中に何時間も木を噛みしめているような味がして吐気がする。

 カナは朝、水を飲み、昼に卵のサンドウィッチを半分、夜にその半分とインスタントのスープをすすり、赤ワインを一口だけ飲んだ。おいしいかどうかまったくわからなかった。それらを台所で済ませることもあった。なんのために食事をしなければならないのかを静かな部屋で考えた。寝る前にはお腹が鳴った。カナには空腹の知らせではなく、隣の部屋から聞こえる見ず知らずの人々の会話のように感じられた。


 幸い、夜は毎日深く眠ることができた。

 寝ている間、カナはあらゆる事柄から解放される気がした。朝、布団で目覚め、寝ている間どこかに散らばっていたすべての記憶がカナに戻った。カナは生きている実感と、リイチが本当にいなくなった現実が整然と並べられた中で耐えるため、しばらく瞼を強く閉じ、自分が夏の公園の地面に落ちている蝉の抜け殻になった様子を想像した。誰かが乾いた音を立てて自分を踏みつけてくれるのを望んだ。パリッという音を聞きたいだけの理由で私を見つけてほしいとカナは思った。


 葬式を思い出すこともあった。記憶は完成したパズルを床に落としてさっと集めたように非連続的で、いくつかは失われていた。カナ自身、それらを修復するつもりはなかった。

 彼は両親や家族の話はほとんどしなかった。お通夜、葬式にも彼の家族は顔を見せず、速達で短い手紙が届けられた。悲しい、という意味のことが長々と、他人事のように書かれていたのを覚えている。カナはそれを一度だけ読み、ゴミ箱に落とした。ダイレクトメールを捨てる時と同じ気分だった。

 リイチの会社の人はたった一人だけがやってきて、どこかに座ることもなく何度か頭を下げて香典を置いて帰っていった。義兄と義妹がほとんどを取り仕切ってくれた。カナの働く惣菜店の人たちがやってこなければ、葬式場の椅子は埋まらなかったし、用意したビールや寿司も大量に残ってしまっただろう。

 義兄は、こんなさみしい葬式は初めてだ、と掌で顔を覆って泣いた。

 いくつもの慰めの言葉がカナの体を素通りしていった。別の人はリイチの魂の居場所をカナに教えてくれた。カナは瞼を閉じてリイチがおいしいといってくれた甘味を抑えたチョコレートスコーンを思い出した。


 リイチが死んだ時、自分も命を絶とうと何度も考えた。死を選択肢に紛れ込ませることはカナが思う以上に簡単だった。けれど死を実行することは考えていたよりも難しいことだった。両親の死を乗り越えてきたせいだと思った。死を迂遠するための筋力のようなものが自分には備わっているのかもしれないとカナは考えた。生に執着しているとは思えなかった。暗闇からそっと冷たい手が伸びて自分をたった一歩踏み出すだけですべてを終えることのできる死の縁に連れていくことを願った。

 せめて、とカナは思った、何時間も泣き伏せられたらいいのに、頭の中がおかしくなってしまうくらいに。泣く自分を彼が抱きしめてくれたことを思い出す。時々、得体のしれない感情の恐慌がカナに訪れた。彼は時間を無視してなにも言わずにカナを抱きしめてくれた。彼女はそれが中から生まれたものなのか、外から訪れたものなのかわからなかった。それは電車が長いトンネルを通過しているようなものだった。真っ暗やみから突然、景色の開けた明るい場所に現れるまで、二人は部屋のどこかでじっとしていた。

 何年か経つとそういったことは少しずつ減っていった。

 リイチは恥ずかしそうに、けれども真剣にカナにこう言って強く抱きしめた。

「カナは今でもあの高速道路の脇の芝生の上で泣きつづけている、真っ暗な雨の中、びしょ濡れで君はなにもかも失ったと思って泣き叫んでいる……でももう大丈夫だ、なんとか僕が君を探して助けにいくから」


 生命保険金が振り込まれてすぐにカナの頭に浮かんだのはリイチが欲しがっていた八万円するワークブーツだった。夫が履くはずだったワークブーツを誰かが履いているのかもしれない、と思った。生きている時には到底買えなかったのに、死んだら買えるようになっただなんて。使えないお金をどうすればいいのだろう。ほしいものなんてなにもなかった。


 三日に一度は養母か義妹から電話がかかってきた。いつもは声を聞かせるだけだったけれどその夜は、「カナちゃん、家に戻ってこない?」と養母はさも今思いついたかのようにゆっくりとした口調で言った。

 カナは夫と一緒に借りたマンションを引き払うつもりはないの、と答えると養母は「そう」と消えそうな相づちを打って沈黙し、静かに嗚咽をもらしはじめた。

「おかあさん」とカナは慌ててなだめるように言った。

「ここはね家賃も高くないから私一人で十分暮らしていけるし、公園にも近いし、商店街だって近いしね。やっていけるから大丈夫よ」

 電話は後ろで気配を消して待機していた養父に替わった。カナは、「心配しなくてもいいわよ、おとうさん、ありがとう」と言った。

 養父はすっと大きく息を吸うと、カナのことをどれだけ大切に思っているか、義兄や義妹も心を痛めているか、そして今なにをしてあげたらいいのかわからないし、ずっとわからなかった、とカナに話した。いつの間にか鼻をすすりはじめた。

「私は」と養父が言った。「ずっと心に引っかかっていることがあるんだよ、カナがうちにやってきた頃、まだまだ小さかったカナは毎晩泣いてた。慰めようとすると事故現場でウサギを捜してほしいと私とかあさんに懇願するんだ。私たちは取り合わなかった。理由は現実的なもので理に適っていると当時は思った。仕事も忙しかったし、一匹の逃げたウサギを高速道路で見つけるのは困難だと思った。しかしね、今にして思えば、それは正しくなかった。そのうち忘れるだろうと私は考えていた。だからその場しのぎでカナを欺くような対応をした。ウサギは野原で元気にしているだの、そのうち帰ってくるだの、そういうことを言ったと記憶している。それは間違っていたんだ。見つからないとしても一緒にウサギを捜してやるべきだったんだ、大した労力じゃなかった、今でも申し訳ないと思ってる、私はカナにおとうさんなんて呼ばれる資格はない」

 養父は泣き声混じりで話した。カナはカゴの隅で丸まってじっとしているウサギを思い出した。一日中飽きもせず草を食んでいた。ウサギの丸い奥行きのない目を覗き込んでも、自分を見ていない気がいつもしていた。ウサギはどこにいるつもりなのだろうと思った。その当時の養父の対応は記憶になかった。カナは電話の向こうで養父に泣かれて困惑した。

 カナはリイチにまつわるあらゆる物をカナの目の届くところに置いていたかった。服や靴や本やボールペンや手帳やグラスや半分飲んだウィスキーやタオル。彼が歩いたり食事したりシャワーを浴びたり会話したり寝たりしていたこの空間にいたいと思った。二人で何軒もの不動産屋をめぐり、お互い気に入り納得して契約した部屋だった。そういうことは自分だけの問題で誰かに話して理解してもらおうとは思わなかった。私たちはここにいたい。

 カナは養父に、わがままかもしれないけど私のしたいようにさせてくださいと言うと、義妹の声が電話から聞こえて、

「姉さんはわがままじゃないよ、ねえ、いつでもさみしくなったり苦しくなったりしたら帰ってきてもいいんだからね」と養父と養母の代わりに言った。

 カナはどういえばいいのかわからなかった。みんなの気持ちはよくわかるし、とても嬉しい、すごくありがたいけれど、私はここにいたいし、いなければいけないの、そっちに帰りたくないとかじゃなく、私はここにいなくちゃいけないの、といった意味のことを義妹にとつとつと説明した。

 義妹がなにを言ったのか思い出せなかった。受話器を置くと、カナはしばらく電話器の傍で立ち尽くしていた。鬱蒼とした森林の中を一日中さまよって結局はまた同じ場所に帰ってきてしまったような疲れを感じた。そして、木々が遮らない空を見上げてカナは思うのだ。また自分だけが助かってしまったのだと。


 カナは仕事のない日には一人で散歩した。会社はカナの都合とは関係なく休みを与えた。朝からカナは掃除と洗濯をすませると窓から外をしばらく眺める。休みは平日が多かった。昼前には町には誰もいなくなった気がするくらいに静かだった。

 一人の時間は長かった。誰かが自分が見ていない間にどこかで掻き集めた他人の時間をひょいと自分の器に盛っているような気がした。

 マンションを出て、まず公園に向った。大きくはない公園だ。何度も塗り直された古いブランコと砂場と滑り台があり、木製のベンチが並び、水飲み場があり、桜と梅と銀杏の木が秩序などなさそうに気まぐれに植えられていて、子供が遊び、犬の散歩をする人たちが集い、雀と鳩がせわしなく地面を突いている。

 公園の中央に広い藤棚があった。その下のベンチが八脚ほど並んでいた。カナはそこに座り、背伸びする。短いあくび。すぐに雀か鳩が足元にやってくる。カナは小声で餌はないよと言う。それでも雀は首を傾げて待っている。けれども少しして飛び去る。散歩をしている茶色の小型犬と目が合い、飼主と笑顔を交わす。

 ベンチで一時間ほどすごす。文庫本を読み、時々、公園の木々や雀や鳩や走り回る子供たちを眺める。数歩離れた隣のベンチにはパンを食べる背広姿の人がいたり、赤ん坊を抱えた女性が座ったり、どこからかやってきたのか犬が濡れた黒い鼻で臭いを嗅いでから去ったりする。さまざまな種類の風が吹き、カナの髪や袖をなびかせる。公園の中でほとんど変化しないのは自分だけだという気がしてくる。数十分か一時間かそこらしかいないのに、何年もベンチにいる気がする。けれども長いという感じはなかった。カナの意識は公園の風景と同化していた。カナはなにも探してはいなかったし、誰もカナを探してはいない。自分の肩を両腕で抱きしめ、体を丸め瞼を閉じ、吹いていない風に吹き飛ばされないように、押し寄せていない波に打ち砕かれないように、カナは身を硬くした。


 カナはリイチと辿った道をなぞるように歩いた。引越してきて数週間はマンションを中心に半径数キロ圏内をくまなく散策した。

 スーパーマーケットを見つけ、喫茶店を見つけ、犬や猫を見つけ、まだ咲いていない金木犀を見つけ、公園やパン屋やコーヒー専門店や見晴しのいい高台や居酒屋を見つけ、歩いているだけで気分がよくなる古い民家の集まる道を見つけた。

 カナはそれらを一つ一つ塗りつぶすような気持ちで訪ね歩くことを思いついた。硬い道路を何時間も歩いて疲れて眠りたいと思った。たった一人で寡黙に、いかに自分はつまらない存在なのだということを証明できるのではないかと思った。体の奥からにじみ出る無力感がカナを制した。


 カナは夫の死と出会いと結婚生活はカナから大切なものを奪うための装置だったのではないだろうかと考えた。

 そして今でも音を立てないようになにかを慎重に削られそっと奪われつづけているのではないか、自分はそれにまったく気づいていないのではないかとカナは思う。

 もうこれ以上なにかを奪われるのは嫌だ、とカナは強く思う。阻止しなければならない、でもどうすればいいのだろう、とカナは思う。今さら遅いのかもしれないけれど。もっと早くにそう考えていたら、と考えてしまう。


 時々日曜日の午後には義兄と義妹がプリンかチーズケーキをさげて訪ねてきた。カナはコーヒーを作り、義妹はカップとお皿とフォークを用意した。

 親父も心配しているからたまには顔を見せてやってよ、と三十二になった義兄は部屋を見渡して言った。カナには義兄がなにを探しているのかわかった。

「位牌とか遺影とか置いてないのよ」

「そうなんだ」

「姉さんらしいね」と二十八の義妹が言う。

「お供えのために一つ多めに買ったんだけど」

「買って来てくれただけで嬉しいと思うよ、ありがとう」

 死んだ人間はなんにも食べないんだから、とカナは言ってしまいそうになって飲み込む。

 テーブルにコーヒーやケーキを盛った皿とフォークを並べると久しぶりに賑やかになった。

「食欲どう?」義妹が訊ねる。

「うん戻ってきた。このままいけば前よりも体重が増えるかもしれないわ」と笑う。「痩せたり太ったり、なんだか忙しいね」

 二時間ほど過ごし義妹が皿とコーヒーカップとフォークを洗い、二人は晴れやかな顔でそっと帰った。

 元気そうだからよかった、と二人は玄関で必ずカナに言った。


 カナは三十歳になった。誕生日も惣菜店で忙しく働いた。いつの間にかカナは主任になった。といっても仕事内容はほとんど変わらなかった。給料が少し上がり、惣菜の提案をすることもできた。

 リイチとの年齢差が縮まっていくことに気づいて、カナは怖いと思った。いずれ彼の年齢と並び、抜いてしまう。毎年、誰かが私のためにカウントしてくれているのかもしれないけれど、そんなことは迷惑だとカナは思う。


 洗面所の鏡で白髪を一本見つけて抜いた。

 リイチがいなくても外見は気にしなければいけないと思った。夫のせいであの女性は急に老け込んだと思われるのは嫌だった。カナは長い溜息をついた。

 自分は生きているのだ。

 仕事帰りにデパートの七階にある書店に寄った。見たかった健康関連のコーナーには生垣のように立ち読みの人たちがいて近づけなかった。すみません、と言って退いてもらうのもその日に限って億劫に感じた。カナは別の書棚をうろうろして時間をつぶそうと思った。リイチはよくそのやり方をしていた。

 腹を立てても仕方ないじゃないか、いずれどこかに去っていくから。

 料理のコーナーからペットの飼育やガーデニングのコーナーを流し、ベランダに小さな菜園でも作ってみようか、と思い、占いとエッセイのコーナーを見ながら歩き、書棚の裏にまわる、格闘技、空手、サッカー、野球の本が並ぶ、自分には関係ないな、カナの視線が平板な密集する本の背をバラバラと流していく。カナは足を止めた。書棚に向い、一冊の本を手に取った。その本の背だけがカナの方に浮かび出しているように見えた。自分の手ではない感覚がした。その本の表紙を見てカナはそんなはずはないきっと間違って抜いてしまっただけ、と思った。

 手にした本をパラパラとめくった。けれども書棚に戻した。女性モデルが体をいろんなふうに動かす写真や大きな文字や表がカナに残る。

 隣の自転車・オートバイのコーナーへと進もうとしてカナは心に引っ掛かるものを強烈に感じる、どうしてそんなことを思ったのだろう、カナはスポーツコーナーを去ろうとする、無理だよ私にはと頭を振り思う、無理だよね私にはと思う。さっき手に取った本がカナを呼び止めた気がした。まさかね疲れてるのかな、そんな感じはしないけれど。やってみればいいと思うよ。

 カナは戻ってさっきの本をまた書棚から抜くとそのままレジに向った。


 帰宅して書店の紙袋から本を取り出す。リイチが見たらどう言うだろう。カナは子供の頃から運動はあまり得意ではなかったとリイチに話したことがある。本をめくる。徒競走はいつも五着か六着。バレーボールやバスケットボールは試合中一度もボールを触らせてくれなかった。

 カナは、あせらずにまず三ヶ月は、と書かれているところを読む。三ヶ月か、以前は短いとすら思わなかった長さも、今はとても長いと感じてしまう。ああ短かった、と弱々しく呟く日はいつ頃くるのだろうか、と思った。


 リイチの一回忌が終わってしばらくした頃、女性が惣菜店に求人広告を見たと電話をかけてきた。面接をしたのはカナだった。五十代初めの店長は、「はつらつとしてて、ほがらかで、声が大きくて、明るい人で君がいいと思えばその場で合格にしてください」とカナに言付けて本社に出かけた。

 カナは二十代後半の石川静枝と数分話して気に入った。

「いつから働けますか?」とカナは訊ねると石川は、「今からでも」と嬉しさを隠さずに即答した。カナは一瞬呆気にとられて笑った。

 カナは石川の教育係になった。電子秤やレジや盛り付けの仕方などを教えた。石川は飲み込みが早く、初日から元気よくお客を呼び込んだ。長く働いている主婦のパートたちは怪訝な顔をした。主任のカナに聞こえるくらいの小声で石川に助言した。あまり力入れなくてていいからねどれだけ働いても時給なんてほとんど上がらないんだからあんたが損するだけよ。カナはそういう嫌味や皮肉には慣れていた。石川は陽気に返事をした。けれどもそんなことに振りまわされることなく石川は働くのを見てカナはほっとした。

 数日後、居酒屋で新人歓迎会が行われた。石川はカナに結婚しているんですかと訊ねて、場を凍りつかせた。他の仕事仲間は誰も石川にカナの夫が亡くなったことを話してなかった。カナと石川の他は焦った。カナは死んだのと事実だけを話した。新聞記事を読み上げるみたいに。石川は何度もごめんなさいごめんなさいと謝り、ひどいひどいと泣いて反対にカナに慰められて、「人生は不公平です」と酔って叫んだ。

 カナは帰宅してから思い出してくすくすと笑い、楽しくなりそう、と部屋で言った。彼に報告しているように。

 それからカナは時々仕事の後、石川とビールを一杯だけ飲みにデパートから程近いところにある居酒屋に寄るようになった。

 小さな木製のテーブルで卵サラダと焼き鳥や湯豆腐を食べた。カナはほとんど飲めなかったけれども、グラス一杯のビールはなんとなくおいしく感じた。

 石川はあと半年で二十九になるのを気にしていた。

「結婚相手も見つからないし、どうしよう」

 という石川の顔は笑っていた。

「女に磨きをかけて、なんてことしてこなかったからなぁ、今さら目の前にいい男なんて現れませんよね先輩」

「私にそんな相談したってためになることなんか一つも言えないわよ」

「そんなことないですよお」と石川はビールを飲み干した。

「石川ちゃん、やけ酒はダメよ」と言い、目の前にいる年下の女の子にいい人が現れたらいいのに、と願う。

「私、お酒には無駄に強いんですよ、母親に似て。そういうのもダメなのかなあ、先輩みたいに弱いくらいが可愛いのかな」

「私が可愛い? ちょっとそんなこと真面目に言わないでよ」とカナは笑う。


 二時間早く寝るためにゆっくりと風呂に浸かった。

 布団の中に潜り込むと「おやすみなさい」と言う間もなくカナは眠りに落ちる。突然の停電で家中が真っ暗になったように。

 夢は見なかった。灯りを消した部屋の中にカーテンの隙間からの微かな光がカナの目を覚まさせた。

 本格的に冬が来るまで二ヶ月、とカナは歯磨きをしながらカレンダーをにらんで思う。顔を洗って、メイクをするかどうか迷う。そんなことをしていたら時間がなくなってしまう、それに化粧をきっちりとしているランナーなんて変だよ、とカナは思い、そのままで行くことにした。朝だし、人はほとんどいない。白い長袖Tシャツと灰色のトレーニングウェアを着て、薄手のタオルを首にかける。どれも元々あったものだけど格好だけは一人前だな、とカナは思う。

 ウォーキングシューズを履くと気が引き締まる。まだ外はほの暗い。鍵をかけ、手袋をはめて一階に降りた。玄関ホールに落ちているチラシを拾ってゴミ箱に捨てた。シューズは重く、地面に吸い込まれるような感じがする。いつもの硬い地面がちょうどいい硬さになっている気がした。

「ビギナーは重めの方がいいんですよ」と店員はカナにアドバイスした。体のがっちりしたスポーツの好きそうな女の子だった。何足か試し履きし、白地に赤いラインの入ったシューズを買うことにした。帰り際にチラシを渡された。

 《ランニング講習会》とあった。

「参加費無料で毎月やってますのでよろしかったら参加してください」と店員は言った。

 マンションから離れたところまで歩き、周りに誰もいないのを確かめてストレッチをする。屈伸し、アキレス腱を伸ばし、手首や足首を回す。体が温まってきて、遠くから新聞配達の自転車がやってきて、カナの傍を通り過ぎる。少し照れる。

 よし、とカナは小さく言う。

 背筋を伸ばし、南に向って歩き始める。コースは決めてあった。地図を広げて何度も距離を計った。リイチが車に轢かれた交差点を迂回するコースをいくつも作り、覚えた。

 いつもの風景がいくらか鮮明に感じる。さすが専用のシューズだなとカナは思う。地面に接した時に衝撃がまったくなかった。膝に体重が集まってこないから体がいつもよりも軽く感じる。普段に履いているブーツだとこうは感じない。

 走りたいな、と思うけれど三ヶ月は歩こう、カナは両腕をリズミカルに振る、視界はまばたきのたびに明るくなっていく。空には破った和紙を貼付けたような雲と宇宙が見えた。まだ星が輝いていた。それもやがて空の明るさと同化して見えなくなるだろう。

 本格的に走っているランナーと何人もすれ違う。頭から足や手の先まで走るための姿をしている。カナはまだそんな気にはなれなかった。気のせいだろうけれどもすれ違った時、体の側面にランナーの熱をさっと感じる。すごいな、尊敬するなあ、とカナは思う。カナのように歩いている人もいた。みな黙々と走ったり歩いたりしてる、とカナは思ってから笑う、当たり前か。饒舌なランナーなんて滑稽だもの。

 私も走りたい、と思うけれどもカナは前を向き歩く。


 翌々日、右足が筋肉痛になり、その歩き方を見た石川がどうしたんですかと声をかけてきた。

「実はね、毎朝早起きして歩いてるの」と小声で言った。

 昼を過ぎて、お客はほとんどいなかった。

「ウォーキングですね?」と石川が言った。「すごいな、どうしてですか?」

 カナが毎朝していることを「ウォーキング」と呼ばれるとくすぐったく感じた。

「体のこと考えたのよ。一人だから鍛えないとなぁって思ったの。体が慣れてきたら次は走るつもりなの」

 石川はなにか言いたそうで言えないふうなのがカナにはわかる。また余計なことを言いそうになるのを堪えているのがわかった。

「私はね一人で生きていくのよ、颯爽とね」とカナは両腕を歩く時のように動かす。

「ありがとうございます」と石川はカナの手を取って言った。

「え? なになに?」

「先輩が辞退してくれたら先輩と運命的に出会うはずだったいい男が私にまわってくるじゃないですか!」

「そんなわけないじゃないの」

「やっぱりレースとかに出るんですか?」

「レースねえ、考えたことなかった。まだ始めたばかりだからね」

 カナは自分が何キロも走る絵が想像できなかった。太陽の下の汗が吹き出してまとわりつく筋肉質の腕と太腿は自分には無縁だと感じていた。今はただ毎朝、早く起きて住んでいる町を歩く、それだけだった。

「ホノルルマラソンとか、海外のレースに出てくださいよ、私、応援に行きますから」

「観光も兼ねるのね。いいわね」

「私、先輩ならやれると思う、四十二・一九五キロ!」

「そう?」まだはじめたばかりなのに、とカナは思う。

「だって私もハワイ行きたいんだもん、先輩に手を振ってがんばってがんばってって言いたいんだもん」

 カナが衝動買いしたジョギングの入門書にもフルマラソンに出場しようと書いてあった。正しくトレーニングすれば誰にだって走ることができる、と。カナはそれを読んだ時、自分には不可能だろうと思ったけれど、石川から言われると本当にできるような気がしてきた。


 午前五時、玄関でシューズの紐を結ぶ。マンションから一分ほど歩いたところの信用金庫の駐車場の前に行く。カラスが数羽、明けきらない空を旋回し、三度鳴くと、近くのビルの貯水タンクに止まった。こっちを見ているのかどうかわからなかったけれどカナは手を振ってみた。カラスはぷいと黒いくちばしを横に向けた。

 ストレッチのメニューを終えると体が温まり、空と建物との境目も鮮明になった。いつの間にかカラスはいなくなっていた。遠くから車の走行音が束になってカナに届く。それはしだいに大きくなってくる。さて、今日はどのコースを? と足踏みしながら自分に訊ね、東に、と思う。太陽に向って。

 たった一歩アスファルトを蹴るだけで、体は滑るように進む。カナは音もなくその場からすっといなくなる感じが好きだった。まだ走ってはいないけれども、自分が走る姿が思い描けるようになった。体の中心から、それとも体中の細胞からの走ってよという要請を感じる。まだまだ、とカナは歩く、五つも並んだ自動販売機の前を、いつも犬が体半分を外に出している家の前を、立体駐車場の前を、高層マンションの前を、コンビニエンスストアの前を、猫が集う雑草だらけの更地の前を、緩やかな坂を上り、車も人もいない小さな交差点を、カナは歩く、体に痛みはないか、異常はないか、リズムを意識し、周囲を注意し、カナは汗を薄らとかいてきた腕を振り、シューズの裏の路面を確かめ、カナは冷たい空気を吸い、熱い空気を吐き、カナは歩く。


 マンションのエレベーターが降りてくる間、軽くストレッチをする。自動ドアが開く瞬間、パッとストレッチをやめた。

 部屋に戻って水を飲み、タッパーウェアに作り置きしている茹で野菜をレンジで温める。

 装飾のないカレンダーにおよその距離と体調と短い感想を記入し、窓の外を見る。タオルで汗を拭いながら、太陽を浴び、リイチと徹夜でレンタルビデオを三本つづけて観た後、喫茶店でパンケーキとハムとトマトのサンドウィッチとハムサラダを食べたことを思い出す。今じゃあんなの無理だろうね、とカナは笑う、あの頃だって帰ってきて食べ過ぎたって後悔したんだから。昔か、とカナからふっと笑みがなくなる。リイチが買った観葉植物のパキラは毎日見る度に枝を伸ばし葉を大きくさせる。カナは何日も水やりを忘れていた。

 楽しい記憶も裏返してみればカナに悲しみをもたらす。たくさんのリイチの記憶とどう接していけばいいのかわからない。澱のように静謐の中に沈澱させればよいのか、夜の中に紛れさせればよいのか、破ればよいのか、燃して水道水に流せばよいのか。

 折り合いをつけるべきだとか、時間がどうにかしてくれると人が言うとカナは黙り込む。まるで自分の持っていない電気製品の説明書を読み聞かせられているような気分になった。

 眠りの最後、料理を作っている時、仕事からの帰り道、電車や近所のパン屋の店先でリイチを感じる時がある。すぐにそれは体に残っている記憶が作る紛い物の感覚なのだとカナは思う。頭が変になればどれだけ楽だろうかとシャワーを浴びている時によく思う。定期券を買うために列に並ぶ時、なぜかリイチの小さな文字を思い出す。床を掃除している時にはリイチが楽しそうに手を叩く絵が浮かび、洗濯物を取り入れている時にはウイスキーはそれくらいにしてとカナは言いそうになるのだ。

 茹で野菜を食べ、食器を洗い、カナはシャワーを浴び、ラジオをつけ、出かける支度をする。

 電車をホームで待つ。ホームにやってくる電車が起こす風圧がカナの体を揺すろうとする。カナは動かない。今日は忙しいだろうな、と思い、足に力を入れる。


「先輩」と夕方になり客足が引いて一段落した時、石川が微笑みながらカナに声をかけてきた。「今度、うちでお鍋でもしません?」

「お鍋?」

「ほらあそこ」と石川は右の通路の奥の鮮魚店を指さした。頭にバンダナをまいた若い男性店員が手を叩きながらが大声で呼び込みをしていた。

 《一人鍋》と書かれたポップが貼られていた。葱や白菜や春菊や魚の切身や鶏肉などの一人分の食材がアルミホイル製の鍋に盛られている。付属のスープを注いで温めれば簡単に一人でも鍋料理ができる。

「あれ見てああ鍋いいなぁって思ったんですけど」と石川は笑った。「一人で一人鍋ってさみしいですよ、でもお鍋やりたいし、でも一人じゃさみしすぎます、囲みたいですよ、一人鍋じゃあ体は暖まると思うけど心がどんどん寒くなっちゃうと思って」

「だから私を誘ったと」

「どうですか? 今日じゃなくてまた日を改めてでいいんです」

「そうね、急に寒くなってきたしね、いいわね」

「先輩はなに鍋が好きですか?」

「なんでも好きよ」

「あ、でも」と石川はなにかを思い出して言った。「うち、土鍋とかないです、それにテーブルに置けるガスコンロもないです、菜箸とかも」と声がだんだん小さくなっていった。

「そっか、じゃあうちでしようよ、土鍋も菜箸もあるし、うちに来てよ」

「いいんですかあ」

「ダメなわけないでしょ、うちでやろう」

「すみません、言い出しっぺがこんなんで」と石川が言って舌をぺろりと出した。

 いいのよ、とカナは笑う。

 五時上がりの日を照らし合わせ、日にちを決めた。今週の日曜日になった。食材はカナの近くのスーパーマーケットで買う方が安いから、地下食料品店ではシャンパンだけを買うことにした。

 楽しいことで人を呼ぶのはどれくらいぶりだろう、カナは嬉しくなった。

「石川ちゃん用のお箸買っておくわね、割り箸じゃあ味気ないじゃない」

「えええ、いいんですかあ、うれしいな」

「買っておくわよ」

 白髪の女性がショーケースの前に立ち、カナと石川は正面を向いて一緒に、「いらっしゃいませ」と声をかけた。六十くらいの女性はショーケース内を見て、顔を上げた。小さな真珠のネックレスが蛍光灯で光っていた。重たそうな紫色のジャケットを着て、黒いハンドバックを肩から下げていた。しばらく悩んだあと、煮込みハンバーグを一つと牛蒡の黒胡麻マヨネーズ和えを百グラム買っていった。


 毎朝歩いていると同じ顔ぶれがほとんど同じコースを走ったり歩いたりしていることに気づく。目が合い、お互い、あ、という表情になる。誰も挨拶はしない。全員、壁を作っている。カナもそうしていた。挨拶しないのが礼儀だなんて奇妙だなとカナは思ったけれど、自分から挨拶をする勇気もなかった。無視されでもしたら、とカナは思う、気まずいじゃないの。

 その朝もカナはその日の気分でコースを選んだ。坂の多い住宅街と商店街を抜けて、大通りにかかる歩道橋から朝日を見ようと思った。三匹の中型犬を連れた気難しそうな初老の男性とすれ違うはずだ。

 シューズを履き、一階まで降りる、マンションを出て、斜向かいの一方通行を歩きながら肩を回し、空気を吸う。足首を回し、筋を伸ばす。頭上を三羽の雀が絡まりながら飛んでいった。ストレッチをすませる。体に異常はないか確認する。OK歩こう、とカナは呟き、軽く拳を作り腕を曲げて地面をゆっくりと蹴り、体を進める。

 国道沿いを歩く、トラックが何台も走り去り、その度にカナは恐怖と衝突し、負けないように歩を進めた。前から四十半ばの男性が走ってくる。いつもサングラスをかけ、耳に小さなヘッドフォンをしてきれいなフォームで真直ぐ力強く走っている。カナの横を走り抜けた。リズミカルな息遣いと筋肉質の両足が地面を踏み付ける振動がカナを圧倒した。つづいて、女性がやってくる。髪をいつも頭の上で団子の形にして首に真っ赤なタオルを巻いている。まるで水面を飛ぶように走る。ないしょ話しをするような息遣いをしている。目が合い、間もなく走り抜けた。

 カナは前を見る。彼ら彼女らは昼間、どんな生活をしているのだろうか、と想像する。けれどもすぐに歩くことに気を向けた。カナは体中に意識をめぐらし、前方や左右や背後、自らをすっぽりと覆う空気の層に意識をめぐらせる。空気がカナの体で左右に割れて流れていくのが感じられた。走ればもっと強く感じるだろうと思った。

 狭い道を曲り、坂を上る。新築の住宅が並んでいる。道路もアスファルトのつぎはぎもなく新しく歩きやすい。子供の自転車も親の車も新しく光っている。明るさが増していく、急がないと、と思うけれどスピードは上げない。緩やかなS字道路を抜け、お世辞にも活気があるとは言えない商店街に入る、鮮魚店と寿司屋と豆腐屋は仕事を始めている。その前をカナは歩く。

 濡れた地面を踏むと微かに感触が変わり、やがていつもの踏み心地に戻っていく。商店街の途中、洋品店の角を曲る。灰色の猫を見つける。さっと逃げたけれどカナと目が合うと止まった。カナは相手してあげたいけど、と思いそのまま歩いていく。

 緩やかな短い坂を下ると、その道がそのまま歩道橋になっている場所がある。その歩道橋の下に三車線道路が東西に真直ぐ通っている。昔は河川だったと聞いたことがある。

 三匹の犬と今日もいつもの三割増で気難しそうな顔をした男性が向いからやってきた。犬ぞりみたいだ、とカナは笑いそうになる。もちろんそりに乗っているわけではなかったけれど、男性は勢いのある犬に引っ張られていた。真ん中の犬と目が合う。両側の犬は道路や空気の匂いを嗅ぐのに忙しい。カナは歩道橋にさしかかる。歩道橋の真ん中に陽が照っていた。犬と視線を交わすカナを認めた初老の男性が言った。

「いつもお早いね」

「ええ」とカナは返事した。「おはようございます」

「おはよう、いい天気になればいいねえ」

 男性は犬に引っ張られたまま、それじゃ、といった感じで空いている左手を挙げて去っていった。

 カナは歩道橋の真ん中に立ち息を整え、両手を挙げて伸びをした。眼下の道路にはさまざまな形の車が走っていた。ビルが重なりあってできた谷間に太陽が半分だけ覗いていた。カナは目を細める、眩しい、目が潤む、もう一度両手を空に向け挙げる。リイチが好きだった硬さの目玉焼きを思い出した。太陽がその硬さと似ているような気がして笑う。カナの後ろをランナーが走り去った。歩道橋が微動する。鼻が冷たい。今、ひどい顔してるだろうな、と思う。薄緑の欄干に肘をつく。冷たく湿っていた。カナは肘をついたままゆっくりと深く息をした。口から出る白い息が拡散する向こうにぷっくりとした太陽が持ち上がってきていた。少しずつ顔が暖かく感じる。カナはしばらく朝日を見ていた。

 リイチが息を引き取った病院から翌朝帰宅した時のことをカナは思い出す。ダイニングテーブルのマグカップの半分残ったコーヒーに気づき、カナはそれを飲んだことを思い出す。とても冷たくて濁って尖った酸味だけになり、香りも消え失せて、もはやそれはコーヒーではなかった。マグカップを置くと、カナは深呼吸しながら部屋の中を歩き回った。玄関にはリイチが置いたプラスティックの靴ベラがあった。洗面所にはリイチの歯ブラシがあり、風呂場にはリイチのシャンプーがあり、櫛があり、剃刀があり、石鹸があった。寝室にはリイチがめくった掛布団があり、頭の形にへこんだ枕があり、六時半にセットされた目覚まし時計があった。カナは部屋の中を歩き回った。どれくらいそうしただろう、カナは今、朝日から目を離さずに考えていた。

 一人の人間の痕跡だけが残されていて、しかしその当人はすでにそこにやってくることはない。

 いずれすべてが薄らいでいくだろうことがカナにも理解できた。それらを留めることは不可能だと。


 毎日たくさんの人がカナの手から惣菜を買う。カナは不思議に思う。お客に同じ人はいない。それは気のせいかもしれないだろう、とカナは考える。毎日何十人ものさまざまなタイプの人がやってくる。買う人もいればただショーケースを眺めるだけの人もいるし、にこやかな人もいれば、機嫌の悪そうな人もいる。急いでいる人もいれば時間がたっぷりありそうな人もいる。昼や夕方を過ぎると忙しくて客の顔をまじまじと見ていられない時がある。数秒くらいは見ているけれども、顔などすぐに忘れてしまう。この仕事の性質上個人を識別する必要はないから。接客して数分後には別の客の相手をする。前の客は覚えてはいない。どの商品を何グラムか、代金はいくらになるか、お金をもらい、品物とおつりを手渡し、ありがとうございました、と口から出るまで私は自動で行う、そうしなければ数を捌くことはできない、とカナは思う。

 その間、カナは自分の意識が体の奥できゅっと小さくしぼんでハンモックのようなものに寝転がって休んでいるような気がする。デパートの地下の惣菜店のショーケースに囲まれた狭い場所に自分はいるけれど、いつもの本当の自分はいない感じがするのだ。


 早朝リイチを轢いた軽トラックの若いドライバーも同じようなことを言っていたのに気づいて愕然とし、目の前の客の顔を、正確には客の顔を透過してカナ自身も知らない宙に焦点を合わせていた。

「ちょっとなにかしら?」とその女性客がカナに訊ね、カナは気がつき、

「いいえ失礼しました」と手にしていた豆腐サラダを渡した。その手は調理担当の鹿内が指摘するまで気づかなかった。

「どうかした?」

 手を洗って調理室から出てきてカナに声をかけた。

 カナは自分の両手が携帯電話のバイブレーターのように震えているのを見て驚いた。すぐに「大丈夫、大丈夫」と笑おうとしたけれど目が涙で覆われてすべてがぼやけ、たった一度のまばたきでこぼれてしまうと思った。その前にポケットからハンカチを出して拭おうとして体を動かしたらぼろぼろと何粒もこぼれてしまった。

 二十代前半の鹿内は驚きで声が出せなかった。どう言えばいいのか、おろおろしていた。

「大丈夫です、ちょっと」とカナは目にゴミが、と言いかけてそんな言い訳なんてドラマじゃないんだから、と思い、笑ってしまった。

「少し休んだら? 仕込み終わったから、俺ここに立てるし、あと二十分ほどで畑野さんも来るから」

 ありがとう、と言ってカナはトイレに行くと個室に入った。ハンカチを出しエプロンをはずして小さく折り畳んだ。便座カバーを下ろしてカナは座り、ハンカチとエプロンを重ねて顔を押しあてた。

 カナは行き場のない感情が膨張し口から逃げ出すように、泣いた。


 若いドライバーだった。

 前日から高速道路をほとんど休みもなく走り通していた。リイチが家を出た頃、その若いドライバーは配送先の倉庫が開くまで仮眠をとろうと考えた。軽トラックを停めてもいい場所を探すため周囲を見回しながら走っていた。この町は初めてだった。助手席に買ったばかり広域地図があった。空腹でもあったが眠気の方が勝っていた。

 リイチはマンション一階の玄関ホールを掃除している大家の女性と挨拶を交わした。

 寒さも落ちついてきたわね、とリイチに言う。そうですね今日は暖かくなりそうですね、とリイチは言葉を返した。

 リイチはいつものように交差点を横断したところにある地下鉄の昇降口に向う。雨の心配はなかった。空には子供がいたずらで描いたような雲が二つほどあるだけだった。陽光が射すところはまばゆく、建物や木々で影になったところは暗く寒々としていた。けれどもいずれすべてが暖かくなる。

 リイチの横を自転車が追い越す。食堂の前で水を撒く老人がいる。自動販売機で温かいコーヒーを買う人がいる。小学生が眠たそうに歩いている。猫の親子が車の後ろで背を丸めている。寝癖のついた髪を整える時間もなかった男の人が小走りでリイチを追い越す。

 リイチは交差点で信号を待った。右後ろに二十代の女性がいた。左後ろには幼稚園に通う子供と手を繋いだ若い母親がいた。二人の女性は影に立っていた。日向に立つリイチは腕時計を見た。後ろにいた二人の女性にはリイチはとても急いでいるように見えた。

 若いドライバーは数十メートル先の交差点をすぎたところにコンビニエンスストアの小さな看板を見つけた。それは道路に張り出していた。駐車場があるかどうかを確認しようと身を乗り出しハンドルに体をあずけて足を踏ん張ってしまった。荷物を載せた軽トラックはスピードを上げた。

 信号が青に変わり、リイチは一歩を踏み出した。

 いつものように。


 義兄が裁判で聞いたことをカナに語った。若いドライバーは自己弁護に終始した。休みもほとんどなく運転しつづけて自分が自分でなく感じた、休みたくとももう休みたいと言えなかった、ただ自動的にハンドルを握り、朝に仮眠するところを探していた、朝日が目を眩ませた、睡魔が体を支配していた。弁護士は、会社の責任、と主張した。

 ひどすぎる、と義兄は憤怒に焼かれて顔を真っ赤にして泣いた。

 リイチを轢いた若いドライバーやその判決はカナにとってみれば慰めもしないし、また怒りや憎しみすらかきたてなかった。カナの中のどの感情も動かさなかった。カナ以外のほとんどの人々はカナの悲しみを代弁するかのように泣いた。

 リイチはいなくなった。

 カナが知ったことはそれだけだった。それだけがカナを占めていた。

 判決の長さはリイチのいなくなった何を換算して出されたのか理解できなかった。誰もリイチのことを知らないじゃない、私だってこれからもっともっと彼のことを知るはずだったのに。


 トイレで何分か泣くと、カナは洗面所で顔を洗った。瞼は腫れていたけれどまだ二時間働かなければならなかった。前髪を少しおろして隠そうと試みた。隠れないな、仕方ない、とカナは更衣室に戻って簡単に化粧を直す。そこに年配のパートの畑野がやってきてカナを見るなり、

「どうしたの?」と指で風船を擦ったような大仰な声を出す。「目が真っ赤になっちゃてまぁかわいそうに」

「畑野さん、おはようございます、ああ平気です」カナは笑う。

「あのね、あなたに話す機会がなかったから」畑野はカナの隣に腰かけた。「私は飲み会にはほとんど参加しないからそんな機会もなかったでしょ。それにあなたとは年齢が離れているから少し遠巻きにあなたを見てたの、あなたに不幸があってから」畑野は眩しそうな顔をしてつづけた。「あなたの年齢で伴侶が亡くなるのはとても気の毒だと思う。私はもう五十六だから。私も六年前に夫を亡くしたの、夫は病気でその夜がくるまで心の準備ができてたから大丈夫だと思っていたけど、そうじゃなかった、想像と現実とはまったく違ってた、それ以降すごく大変だった、ねぇいい?」とカナの二つの目を交互に見ながら畑野は言った。「一日でも早く忘れてしまいなさい、忘れて新しい人生を始めなさいよ、まだ若いんだから、ね」


 それから二時間、カナは働き、帰宅して夕食を作りながらレンジで温めた赤ワインをすすった。冷蔵庫に貼っているリイチの写真を見る。ここにはいないのに笑顔は薄い紙の中にあるなんて、とカナは思う。

 カナは今までリイチを轢いた若いドライバーのことを考える機会はなかった。

 若いドライバーや義兄が言うところの軽すぎる判決や一瞬の不注意と睡魔と陰険な弁護士とリイチが死んだことに関連性があるようには思えなかった。同じ箱に入れるのは無理があるような気がするのだ。

 一瞬、二人は目を合わせたかもしれない、数十センチの距離で。カナにはこう思える。リイチと若いドライバーは一番近くに存在しただけで、リイチは自分を轢いた若いドライバーのことはなにも知らないまま息を引き取った。それだけ。

 それがすべてだとカナは思う。

 いや、こんなことは誰に説明してもわかってはもらえないだろう、あなたが死んだこととあの事故とが私には別のものに思えることなんて誰にも理解できないだろう、とカナはリイチに向って言う。

「君は変じゃないよ僕だってそんな気がするんだから」とリイチが言った気がする。いや、カナの中でリイチの声は響いた。何年も生活を共にしたのだ。リイチの声はカナの中に溢れるほど詰め込まれている。リイチは会社の同僚と飲みにあまり行かずに早く帰ってきた。料理を作るカナの近くでビールを飲みながら通勤電車で見た不思議な光景や、営業先での楽しい人たちのことなどを話し、カナを笑わせたり、カナと笑い、またカナの話に耳を傾けた。リイチは短く相づちを打ちながらビールを一口ずつ飲んだ。

「私、あの若いドライバーのことをなんとも思わないのよ、名前も忘れたくらい」

 リイチは無言だった。冷蔵庫のモーター音がする。壁を伝って誰かのしゃべり声が微かに聞こえる。初夏、日曜日の公園で撮った写真。ころころと変わるリイチの表情。その一瞬を捕まえた写真。これ私が撮ったのよ、覚えてる?

 自分は決して人よりも雅量があるとは思わない。誰かがあの若いドライバーを憎みなさい怨みなさいと命令するのなら少しはそうするかもしれない。けれども自分の中にある寂寥感はそういった感情で埋め戻したりなどできない密度の濃い、たぶんいつまでもありつづける痕なのだ。その場にある手近なもので蓋をするわけにはいかない。

 裁判所でリイチとの生活を語ったことを思い出す。きっとそこにいるほとんどの人たちはカナが号泣するのを期待していたかもしれない。その準備を朝からしてきたのかもしれない。カナは違っていた。その間、カナは時に笑顔になり、恥ずかしいなと思い、リイチとの生活を控えめに語り、決して泣くことはなかった。

 その前にあなたの証言が判決を左右するんです、と担当の検事に言われたけれどカナはリイチとの生活と若いドライバーの判決にどう影響するのか本当にわからなかった。もちろん頭では理解できた。

 二人がどれだけ愛しあっていたのかをまるで知らない人たちに聞かせることはリイチを裏切るようにも思えて、一度は拒んだ。

 その時、担当の検事はカナを不思議な目で見た。結局は義兄に説得され証言台に立った。

 カナは一度だけ若いドライバーの顔を見た。まだ子供だと思った。その顔には幼さが残っていた。肌はほどよく陽に焼け、髪は短く刈っていた。野球少年みたいだった。彼は数メートル先の床を見ていた。その目は動かなかった。硬質な裁判所の空気の中で枯れ枝が自然に折れるようにカナの語りは終わった。

 カナは帰りたいと思った。帰ってリイチの布団で眠りたいと思った。

 誰もがまだ物語りはつづくものと思った。固唾を飲んでカナの口が開くのを待った。けれどもそれはあの朝、交差点ですでに終わっていたのだと全員が気づいた時、カナは裁判長に頭をゆっくりと下げた。


 カナと石川は午後五時に仕事を終えると着替えをすませて同じデパートの地下にある酒屋でシャンパンを買い、カナの住む町に向った。カナは電車の中で石川に申し訳なさそうに、最寄りの駅は使いたくないから一駅手前で降りたいの、と言った。石川は理由は訊ねずに、「いいですよ。私知らない町を歩くのって好きだから」と腕を振った。

 駅を出てから十五分ほど歩きスーパーマーケットに寄った。

「ここからうちまでは近いからね」

「私のところなんかもっと遠いからちょっとくらい平気ですよ」とさらりと言ってガッツポーズした。

「石川ちゃんのビールはもう買ってるから」

「本当ですか、うれしいなあ」

「鶏のつくねとお出汁も仕込んでるの」

「先輩すごい!」

「今日はいっぱい食べようね」

 二人とも両手にスーパーマーケットのビニール袋を二つずつ下げてカナの住むマンションに帰る。

 台所のテーブルに荷物を置き、「ああ重かったあ」と声を揃えて言った。

 石川は部屋をちらちらと見て、「いいところですね」と言った。冷たい空気が部屋の中を満たしていた。

「お世辞はいいわよ」とカナは笑い、石川のコートを受け取り、ハンガーに掛けた。「古い部屋でしょ。でも家賃安いし大家さんもいい人なのよ」

「なんだか落ちつくなあ、どうしてだろう」と言ってから石川は冷蔵庫に貼っているリイチの写真に気づく。「リイチさん、ですか」

「そう」とカナはテーブルに袋から白菜を出す。石川も袋を開けて椎茸と葱と生姜をテーブルに置き、鱈の切身とスモークサーモンを冷蔵庫に入れた。リイチの写真を外しておこうと思っていたけれど忘れていた。カナは少し恥ずかしくなった。話をそらせるため、

「石川ちゃん、飲みながら用意しようよ」とパンと手を叩いた。

 石川が慣れた手つきでシャンパンを開けた。

 プラスティックの栓がポンと弧を描いて飛んでいき、カーテンに音もなく当った。石川は一滴もこぼさなかった。カナは拍手した。

「私以前ねフランス料理のレストランで働いていたんです」と石川はグラスに注ぎながら言った。「一度お客さんの背広にシャンパンを浴びせたことがあったんですよ。でも常連のおじいさんで私を許してくれて、喜寿の時に飲むシャンパンはこぼさずに栓を抜いてくださいねって言われて、もう私、千円のシャンパン何本も買って練習したんですよお、味は二の次三の次、ここの口の部分と栓と炭酸があればよかったんです」

「それで喜寿の時には成功した?」

「うん大成功」

「すばらしい! 乾杯」

「でもそのお店つぶれちゃったんですよお」と石川は泣く真似をして、小さなフランス料理レストランが理由もわからないうちに客足が途絶え、順風満帆にやってきたオーナー夫婦の起死回生の策に打ったリニューアルが裏目に出て藁の家が一息で吹き飛ばされたみたいにつぶれた話をした。

「ほんのちょっと前までは評判がよかったのにバタバタと倒れちゃったんです。私、今でも不思議なんです。オーナー夫婦はとてもいい人たちだったし、手は抜かなかったのに。不条理だなあって」と石川は白菜をざっくざっく切りながら首を傾げた。カナはシャンパンを飲む。口の中をちりちりと泡が弾け、少し苦手なアルコールの匂いと桃に似た芳香が鼻から抜けた。

「喜寿の常連のおじいさんも驚いてるでしょうね」とカナはやさしく言った。

「だと思いますよ、すごく贔屓にしてくれていたんです。お肉はぺろりと平らげるんだけど、魚はダメでスープもパンもサラダもデザートも二口だけ食べてお連れの娘夫婦か友達にあげてましたね。ああ、元気だといいんですけど」

 石川はなにかを考えている様子だった。

「先輩は料理得意ですよね」

「どうして?」とカナは牛蒡を削ぎながら訊ねた。

「包丁すごくよく切れるんだもん」

「時々砥石で研ぐのよ。地味な作業が好きなのよ。石川ちゃんも料理好きなんだね、見てるとわかる。手際がいいし」

「ほんとはそのお店でサービスだけじゃなくって厨房にも入りたかったんです。でもただの料理好きじゃあ敷居は高くって。厨房の中はフランス語でやり取りしてたし。それに女だし」

「今からでも遅くはないんじゃないの?」

 石川は手を止めて天井を仰いで顔をしかめて、「そうなんですよね、でもね」とゆっくりと手を動かしはじめた。

「どうしたの?」

「かなり精神的に参ったんです。一つの繁昌していたレストランが正体のわからないなにかに飲み込まれてさらわれて跡形もなく失われちゃったのをその場で体験して、私自分でも嘘みたいって思うんですけどトラウマになっちゃたんです。でもこういうのって誰も信じてくれなくって、でも本当に参ったんですよ、だから別のレストランを探せなかったんです。それでちょっと業種の違う今の惣菜店を見つけたわけです」

「今も辛かったりするの?」

「今はリハビリ中かな。少しずつだけどよくなってる気がするんです。惣菜店ってはじめは忙しいばかりでつまんないだろうなあって思ったんです。でもショーケースにざざっと並んだのを眺めているとちょっと楽しくなってくるんです」

「ああ、なんかわかるなぁ」

「なんだかカラフルな森林みたいでしょ」

「カラフルな森林? ブロッコリーとかポテトとかニンジンが? ほんと面白いこと言うなあ石川ちゃんは」

「先輩といるとすごく落ちつくなあ」

「社交辞令じゃなくって時々来てよ」

「そんなこと言ったら私入り浸っちゃいますよ、パジャマ持ってきますよ」

「入り浸ってよ」

 よろしくおねがいします、と石川は頭を下げて笑い、「先輩に乾杯!」と言った。

「かわいい後輩に乾杯!」

 石川はシャンパンを飲み干して、ぐぷぁと息を吐いた。

「そうそう土鍋ね、土鍋出さなくちゃ」とカナは食器棚の扉を開けて新聞紙に包んでいる土鍋を出して台所のテーブルに置き、新聞紙を剥いた。

 がさりとした黒い土鍋が現れた。黒いつや消しの胴体にさらに黒い蓋が乗っていた。その全てに無秩序に細かいエメラルドグリーンのガラス状の飛沫が散らしてある。指で触るとそれらは硬くて冷たく、ぷくりと浮き出てつるりとしている。見る角度が変わるたびにちらちらと反射して光った。ずっしりと重い土鍋だった。

「わあ、いい土鍋ですね、なんだか高そう」

「これね、どこ焼きかは忘れたけど、値は張ったのよ」

 そう、リイチと買物に出かけた時に陶器屋で衝動買いしたものだった。リイチはその無骨で素っ気無く、芸術とは無関係だと言わんばかりの造作を気に入った。リイチがなにかをその場の思いつきで買ったことはほとんどなかった。冬になると二人を体の中から温めてくれた。

「ねえ先輩先輩なんだかこの土鍋って」と石川は土鍋を触りながら言った。「夜景みたいに見えませんか?」

「夜景に?」

「そう、しかもね先輩ここじゃないどこかの国の」

「どこかの国?」

「そう。どこかの国、ここじゃない場所、ここじゃない国、ここじゃない世界です。その国ではこういう緑色の明かりを使っているんですよ。この一つ一つが家々の灯りなんです。その別の国にいる私はどこかのフレンチレストランの厨房で修行していて、あのおじいさんも遠路はるばる食べにきてくれてるんです。元気に私の作った鶏のブレゼなんかをおいしそうに食べてくれるんです」と石川は笑った。「ああ恥ずかしい、先輩私ね、時々こんな空想したりするんですよ、お風呂だとか寝る前だとかに。空想だけど、ちょっとだけ心が軽くなるから、でも変でしょ? おかしいでしょ?」

 石川が土鍋からカナに視線を移すとカナの笑みは消えていた。

「ねえ、石川ちゃん、それつづけて」カナは石川に言った。「お願い」

「いいですよ」

「でね、その世界は夜だけじゃなく、お昼も朝もあります。風も吹くし雨も降ります。先輩もいます」

 二人は目を合わせて微笑みあった。

「もちろんリイチさんも」

 カナは黙って頷き、土鍋のざらざらとした表面を撫でた。カナは体が浮いたような気がした。ここではない別の国、別の世界を感じようとした。どうすればいいのかわからなかった。カナにできることは今ここにある静謐を守ることだった。

 石川は集中していた。やがてなにかを掴んだような顔になり口を開いた。

「先輩とリイチさんは楽しそうにお茶を飲んでいます、うぅん、どこだろう?」と石川は首を傾げた。

「庭園」と石川は言った。「どこかの庭園」

 カナは目を細めた。体から必要のない力が抜けていくのを感じた。声は出なかった。石川を見つめてただ頷いた。石川は瞼を閉じ、つづけた。

「あたたかい陽射しが二人を照らしていて、なにかしゃべってます。すごく気持ちのいい午後。二人の会話は聞こえてこないけれどとても楽しそうなんです、青々として手入のゆきとどいた植木やどこも枯れたり萎びたりしていない花が植えられていて、白い鳥がさえずりながら飛んでいて、すごく柔らかい風が吹いてます」

 カナも瞼を閉じていた。深い暗闇はなかった。眼前には光輝の帳があり、濃淡が鮮やかで清澄とした意識をもって動いているようにカナには思えた。

「石川ちゃん、そこに」とカナは訊ねる。「ウサギはいるかな?」

「ウサギ、ちゃんといますよ」

「石川ちゃん、ありがとう」

「先輩」と石川は言った。「私、リイチさんに会いたかった」

「私も石川ちゃんに会わせたかった」


 夜と朝のちょうど境目、カナはいつものようにシューズの紐を結び、手袋に手を通し、ストレッチをし、北に向って歩き始めた。

 十二月になったばかりの濡れた路面と靴底のゴムが離れる時、音を立てた。カラスも雀もいなかった。南の空を見るとコウモリが予測不可能な軌跡を描いて飛んでいた。頬がきりりと冷たい空気で引き締まり、紅潮していくのがわかった。ニットキャップを引っ張り耳を覆う。通りの向こうから自転車を漕ぐ音がした。風はなかった。カナの両足に現れた筋肉がカナを運んでくれていた。リズムよく呼吸する。白い息がカナの両の頬を撫でて消えていく。

 リイチが轢かれた交差点にいってみようかと脳裏によぎる。カナは返事を保留し、歩きつづける。

 リイチが轢かれた交差点には一度もいってなかった。養父と義兄やリイチの会社の人たちは花を手向けてきたとカナに伝えた。

 カナはそんな気になれなかった。そこになにがあるのだろう、リイチが毎日横断していた交差点、特に記すべきこともない、どこにでもあるような交差点。そこに花を置いたり、手を合わせたりする行為とリイチの消失とが繋がらなかった。そこにリイチがいるのならば、とカナは毎日思った、どんなことをしてでも私は行くだろう。

 それでも、歩いていった先にあの交差点があると考えただけでカナの歩く速度は落ち、息苦しくなり、手が震え、咳が出た。カナは向い風を進むようにゆっくりと歩き、近づいた。体が拒否している、カナに無言の圧力を加える。カナは鎮めるために無を心に描き、調子を崩さないように全身を稼動させ、頭に現れる無駄な言葉を雑草を摘み取るように排除する。

 合鍵屋があり、看板の曲った小さな食堂があり、ゴルフショップがあり、古い焼き鳥屋がある。信号機が黄色で点滅し、視界はしだいに明るくなってきていた。カナは一歩一歩を意識して歩く、リイチはその朝、とても急いでいた、朝一番に取引先に向ってクレームを処理しなくてはならなかった。

「そういうのって」とカナは訊ねた。「苦にならない?」

「僕はクレーム処理って好きなんだよ」とリイチは笑う。「会社の人間からは変人扱いされてる。クレームの中にはいろんな人たちの声が詰まってる気がするんだ、相手は怒っているけれど、僕にはそれが人間の奥から聞こえてくる共通の声が聞こえる気がするんだ。僕はクレームを聞きながら、その声に耳を澄ませる。普段なにをしているのかもまったく知らない人たちの本当の声のような気がするんだよ。おかしい?」とリイチは目を細めて笑う。

 カナは頭を振り、もっと聴きたいと思った。リイチは急いでいた、帰ってからその話のつづきを聴きたいと思った。私が聴きたいのはリイチの声だったんだ、とカナは気づく。リイチの声を聴いていると彼の体と心との調和から生まれたその空気の震えがカナの心と体を柔らかく包み込んだ。

 マンションに挟まれた細い道路を抜け、角を曲ると交差点だった。カナは泥濘を進んでいるかのように速度をさらに緩める。そして立ち止まった。息を整える。深呼吸をしても鼓動はカナの中で騒がしく叩くように鳴っている。

 そこにリイチはいない、とカナは呟く。

 一歩踏み出せば交差点が視界に入るところに立っていた。カナは口を尖らせて細い息をすっと吐き出して進む。いろいろな大きさや色の車が通り過ぎている。男性ランナーが信号を渡っていた。鋭角に射し込みはじめた朝日が路面を輝かせていた。朝靄がゆらめいている。コンビニエンスストアが見えた。風はなかった。カナはニットキャップを脱いだ。頭にこもっていた熱が逃げる。髪の毛はひどいことになっているだろう思った。

 青信号だった。正確にはどの辺りでリイチと若いドライバーが衝突したのかは知らなかった。聞いた覚えはあった。でも思い出せない。

 カナは信号機の傍の鉄柵に牛乳瓶が針金でくくりつけてあるのを見つけた。赤と白の花が挿していた。敷石には封の切られていないキャラメルが一箱おかれていた。まだ新しかった。花も萎れていなかった。今朝か昨夜に誰かが手向けたのかもしれない。リイチのためのものかどうかはわからない。リイチとキャラメルとが繋がらなかった。彼はあまり甘いものを好まなかった。この交差点で命を落としたのはリイチだけとは限らない。

 カナは立ったままそれらを見下ろしていた。そこにしゃがみ、手を合わせる気にはなれなかった。リイチが息を引き取ったのはここではなく病院だったし、手を合わせることにどんな意味があるのかと思った。手を合わせてなにを呟けばいいのだろう。リイチはここにはいない、彼はただ会社に行くためにここを渡ろうとしただけだ。カナの体が大きく震えていた。じっと立っていたせいで冷たい空気に熱を奪われてしまったからか、それとも別の原因なのかどうかもわからなかった。

 カナはニットキャップをかぶり、ぐいと引き下げて耳を覆った。音がくぐもる。それは地表に浮かぶすべての塵芥が擦れあった音だとカナは想像した。

 じっとその場に立っていても凍えてしまうだけだ。もう一度、カナはストレッチをする。手首と足首をまわし、肘や膝を動かす、筋肉が再び熱を作る、空気に奪われた熱を取り戻さなければ、とカナは思いながら体を動かす。うっすらと汗をかく、寒くはなかった。軽く足踏みする。

 信号が青になり、カナは歩き出す。交差点を半分渡ったところでカナは右足でアスファルトを蹴った、体が浮かんだように感じる、両腕を上げ、左の腿を腹筋に引きつける、着地し、また地面を蹴り、体を朝の空気にめり込ませるように走る。背筋を伸ばし、顎を引き、カナは次々と足を繰り出す、ニットキャップからはみだした髪の毛がなびく。乾きつつある黒い地面がカナの下を勢いよく流れていく。

 苦しい顔をしてはいけないよ、

 とカナは自分に言う。


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