バスと私と
「とある地方の とある会社の 恋話」短編 3
前から四番目の左の窓側。
それがあたしの定位置。
毎朝、あたしはこのバスに乗って会社に向かう。あたしが住むこの町はバスの車庫があり、始発となる為必ず座れるのだ。
毎日乗ると言う事は、毎日同じ様な乗客が顔をそろえる。そしてそれぞれお気に入りの場所があるように、整然といつもの定位置に腰掛けるのだ。
あたしも例に漏れずいつもの席に座り、程なくバスは発車した。
ここから三つ先の停留所が一番混み合う。そこは駅があり、それに伴い大型のスーパー、マンションなどが多くある。
通学のための学生やサラリーマンがドヤドヤとなだれ込む中、あたしは一人の姿を捉え、立ち上がる。
「おばあちゃん、どうぞ!」
「あらあら、いつも悪いわね。あなた折角座っていられるのに」
「いいんです。あたし、おばあちゃんにここへ座ってもらいたいんだもん」
おばあちゃんは、ゆっくりと杖を突きながら席にどっこらしょと座る。これも定番だ。おばあちゃんは火・金の週二回病院へ通院の為にこのバスに乗る。すぐに座席が埋まってしまうこの停留所で足が悪いおばあちゃんを立たせるには忍びない。
ちなみに二人掛けだから隣の席もあるけれど、ここはすでに二番目の停留所で埋まっている。中年のサラリーマンは、あたしが席を立てば奥に詰めてくれる。一言も交わしたことはないが、なんとなくおばあちゃんを介して通じ合ってる気がするんだ。
おばあちゃんの孫自慢をあたしは通路に立ちながら聞き、バスは目的地へと向かっていった。
「橋ヶ谷さん、この資料をコピーしてファイリングお願いできるかな?」
「は、はいっ!」
つい上擦った声を上げ、顔を上げるとそこにはあたしの憧れの人がいた。
清水博之、次期係長と名高い非常にデキる男。ルックスも抜群にいいため、社内外問わず非常に人気が高かった。
あたしの大学時代の友人から紹介しろと矢の様に催促されたけど、あたしは清水さんの部下であるだけで、プライベートに残念ながら関わっていない。飲み会に行った事はあるけれどそれは忘年会という名前の慰労会で、あたしが清水さんに踏み込むチャンスは未だ巡ってこなかった。
あたしは渡されたその資料を大事に抱え、コピー室に向かう。
社会人三年目の二十五歳。大抵の事はこなせる自信が出てきた。資料を見れば、これをどのファイルにどう添付すればいいのかとか、あのプロジェクトに使うからひょっとして別の冊子も必要になるかな、なんて気も回せる。
コピー室に入ると、先客がいた。
「あ、みどりちゃん。ごめんね、もう少しで終わるから待っててくれるかしら」
そう言いながら、百合先輩は真っ直ぐで綺麗な黒髪を耳にかける。百合先輩は清水さんと同期の二十七歳。
可愛いではなくて綺麗な、が当てはまる容姿で、名前通り本当に百合の様に美しい人だ。
「はーい。ねえ百合先輩? マメ先輩といつ付き合う事になったんですか?」
「えっ!?」
バサバサッと百合先輩は持っていたコピー用紙の束を派手に落とした。「や、やだぁ」と顔を真っ赤に染めながら拾うその姿は堪らなく可愛いな、とあたしは一人悦に入った。
マメ先輩こと高橋先輩は、こういう百合先輩の所に惚れたのかな。
「ふふーん、そりゃすぐに分かりますよ。だってマメ先輩ったら『合コンの神』って言われるほど幹事やってたのに、急に大人しくなったって専らの噂ですよ? その上……百合先輩ってば、最近やたら色気増してるから」
「ちょっと、色気って!」
「それ、おれのせいなら嬉しいけど?」
ひょこっと顔を出したのは、たった今話していたマメ先輩。
「きゃっ! さと……マメ橋っ!」
「あははっ、百合の声が聞こえたからつい」
上気する頬を押さえながらマメ先輩に抗議する百合先輩と、それをからかうマメ先輩。百合先輩が言いかけたのは『悟』というマメ先輩の名前に違いない。
二人の甘い雰囲気に、やっぱりそうなのかとあたしは確信を得た。
「そーだ百合、清水と今夜飲み行こうよ」
「清水君と?」
「うん、美穂ちゃんも連れてくるって言っ……」
「マメ橋、バカッ!」
慌ててマメ先輩を制止したけれど、あたしの耳にはとっくに届いていた。
「え……? 美穂って。そ、そっかあ、美穂と清水さん、ひょっとして付き合ってるん……だ?」
「あー……うん、そうなの実は。ね、内緒にしておいてもらえる?」
「……はい。あっ! すみません、取引先に電話しなきゃいけなかったんだ」
失礼しますっ! と、にっこり笑いながらコピー室を後にした。後から「バカマメ!!」と百合先輩の怒る声が聞こえたけど、あたしは心に刺さった棘が抜けない。
――あたし、笑えてた? ちゃんと、笑えてた?
――失恋、しちゃった。
滲み出ようとする涙を堪え、あたしは大股で歩き出した。
*****
……そんな時に限って、残業なんだよな!
あたしは最後の数値を入力し終え、ガチガチになった肩を軽くまわした。テレビドラマなどの展開では、あの場面は何もかも投げ出して海に向かってバカヤローと叫ぶべきタイミングだ。しかし私はちゃんと現実に根付いたしがない会社員。仕事に対しての責任もあるのでそんな馬鹿な真似はしない。
何より、失恋したとは言え清水さんは大好きな人。彼に幻滅はされたくないから。
しかし――清水さんと美穂が付き合っている、と聞いてから二人の様子を見れば確かに「なるほどな」と納得せざるをえない。
普通に接する分には全く気付かなかったけれど、じっくり観察すれば二人は目線が合う度に甘く微笑み、どちらかが給湯室に行くと、たまたまを装いもう一方が合流する。
美穂は私と同期だ。短大卒の美穂と、大卒の私は年齢の違いはあれどランチに行ったり女子会に行ったりと割と仲良くしてきた。
彼女は私と違って「守ってあげたい」と庇護欲をそそるタイプだ。様々な男性にアプローチを受けていたけれど、片想いの相手がいると断り続けていた。相手が気になる私は事ある毎尋ねたけど「内緒」と逃げられていた。……つまり、相手は清水さんだった、ということか。
対して私は……何人か付き合っては来たけれど、どれも「お前は一人で生きていけるけれど、彼女は俺が傍にいないと駄目なんだ」と、良くて振られ、悪くて二股で振られるというお決まりのパターンになっていた。
もうそういうのも疲れて、ここ二年は誰とも付き合ってないけれど。
タイムカードを押し、腕時計を見ると最終バスの時間が差し迫っていた。
慌てて乗り場まで駆け出し、バス停に着けば今まさに出発する所だった。
――やばっ! これ逃すとタクシー確実っ!
電車で帰ると最寄り駅からあたしの家までは、暗い夜道の上徒歩二十分は確実だ。あああ、間に合わない! と思ったその時、バスは停車して後部ドアが開かれた。
「す、すみませんっ!」
息も絶え絶えになりながら、運転手さんとバスの座席半数ほどを占める乗客に、出発を遅らせてしまったお詫びをいれ、ペコリと頭を下げながらステップを上る。
最終バスなのにあたしのいつもの席が空いていたから、迷わずそこへ陣取った。
手に持ったバッグと書類を入れた紙袋を抱え、大きく深呼吸をする。
……今日はなんだか疲れた。百合先輩とマメ先輩が付き合っている事もそうだけど、清水さんと美穂が――――。
窓の外、店の明かりや街灯がバスの速度に合わせ流れていくのをボンヤリと見る。それを見ていたら、何故だか私が置いていかれた気分になって、ふいにこみ上げた涙が一滴ぽろりと零れた。
――このままあたしは一人で生きていくのかな。
「お前は強い」「俺なんかにはもったいない」「性格キツいから疲れる」「一人で大丈夫だろ」歴代の彼氏から、振られるときに言われたセリフが、わんわんと頭の中で反響する。
なによっ! 強いのって悪いの? もったいない? それ上手い事言ったつもり? 性格キツい? あたしはあんたのママじゃないのよ! 一人で大丈夫なワケないじゃない! 支えあいたいわっ!
涙をグイッと袖で拭き、流れる景色をギッと睨みつけた。ふざけんな、あたしだって「人」という字になりたいんだバカヤロー!
バスが、あたしの降りる一つ前で止まった。
あー、あと一つでやっと家に帰れる。
乗客は殆ど駅前で降りている為に、今ここで降りる客は一人だけだった。
「これ、使って」
窓の外を見ていた私の目の前に、一枚のハンカチが差し出された。無意識に受け取ると、すっとその男の人は昇降口から出て行ってしまった。
慌てて立ち上がりその人の姿を追ったけど、後姿しか見えず暗闇の為さっぱり誰かは分からなかった。
――ひょっとして、泣いたの見られた?
ぎゃー! 恥ずか死! あたしが泣いたのを見られてた!
彼氏と別れる際も泣いた事のないあたしが、見ず知らずの男性に気を使われるだなんて!
失恋の痛手よりも、見ず知らずの男性に泣いた姿を見られた羞恥が頭の中を占め、悶絶しながら一晩明かすはめになった。
*****
――さて。このハンカチ、どうしたものか。
事務机に座るあたしの目の前には、あの夜渡されたハンカチが一枚ある。
渡されたとはいえ、これは『貰ったもの』にするには尻込みする様な、有名ブランドのハンカチだった。夜のうちに洗濯をして、自分のハンカチにすらしないアイロンをかけて、いつでも返せるように翌日から毎日バッグに入れてある。
しかし……あの夜の男性の事をあたしは知らない。見た事がない。
「うーん、どうしよっかな」
「何を?」
「わっ! びっくりした!」
ハンカチをじっと見つめていた私に声を掛けてきたのは百合先輩だった。百合先輩は綺麗な所作であたしの机の上にあったメモ用紙にサラサラと何かを書き付けた。
「……百合先輩?」
「この間はごめんなさいね? あの後こってりマメ橋を締め上げたわ。みどりちゃんがどう思ってるかって私知ってて……。心配してたのよ」
「えっ」
やば、気付かれてた! っていうか、あたし今この瞬間まで忘れてたわ……。
その晩の衝撃ですっぽりと失恋の痛手が抜け落ちていたあたしは、逆に申し訳ない気分になってしまった。
「い、いやあ、別にそこまで想っていたわけじゃないですし、それに……美穂の方がお似合いっていうか」
――ほんとに、絵になる二人だと思う。
そう軽く笑うと、百合先輩はピリッとメモ用紙の一番上を破き、あたしの手にポンと乗せた。
「これ飲み会の日程。私とマメ橋で場を設けるわ。みどりちゃんの為に、選りすぐりの相手を連れてくるようマメ橋に言っておいたからね」
言っておいたって……。そ、そりゃマメ先輩のチョイスなら、間違いなく上玉だろうけどぉぉ……。
「あ、あたしの為、なんですか?」
「勿論よ。いい出会い期待しててね?」
そう言い残し、腕時計を見て「やだ、会議の時間だわ」と小走りに書類を抱えて出て行った。
あたしはそのメモと机の上のハンカチ二つを眺め、どうしたものかと一人唸った。
*****
――ここかな?
手元のメモを見る限り、間違いない。けれど妙に高級な雰囲気がその店構えから滲み出ている。うーん、あたしからすると、別世界だな……。
時刻は午後七時。指定時間も午後七時。
あたし一人で入るにはうんと勇気がいるけれど、百合先輩が先にいるのなら大丈夫かな。
マメ先輩は『最高物件だよ? とっておきの相手だからね。もう相手にも連絡済みだから、ヨロシク!』と、調子良く言った。連絡済みっていうことは……。あたしがすっぽかすとマメ先輩の顔に泥を塗る事になりかねない。
あたしがそうしない事を百合先輩は織り込み済みだろう。
『一杯食わされた』
そんな言葉が今の心境にピッタリだ。
意を決して「よし!」と左の拳をぎゅっと握り込み、お店の扉を開けた。
「いらっしゃいませ。ご予約の方ですか?」
高級なお店だけあり、予約ありきらしい。
「あ、はい! マメ……高橋の、」
「お連れ様ですね。どうぞこちらへ」
うはー、立ち振る舞いが洗練されてる。あたしには無理だな。
案内されて付いていくと、そこにはすでに百合先輩とマメ先輩、そして……なぜかビックリした顔であたしを見る男性がいた。
――ちょっと、めっちゃイケメンじゃない。マメ先輩、いい仕事しすぎ!
「あ、みどりちゃん。ここ座って? 池ヶ谷さん、『橋ヶ谷 みどり』さんです。みどりちゃん、こちら『池ヶ谷 俊雄』さんよ」
あたしが百合先輩の隣に座り、まずは紹介をされた。「初めまして」とペコリと頭を下げ、未だあたしをじっくりと見つめるその人の顔を不思議に思った。
「あの……あたしの顔に何か?」
すると池ヶ谷さんは、ハッと自分が凝視していた事に気付いたらしく慌てて相好を崩す。何その笑顔反則じゃないですか!? その笑顔が付加されたら、更に魅力三割増しだ。
「すみません、初対面なのに失礼しました。初めまして池ヶ谷と申します。橋ヶ谷さん……同じ様な苗字なのですね」
「あ、ほんとだ!」
「ふふっ、まずは乾杯しましょ? ほら、マメ橋注いで」
「はいはいっ。なんか百合って人使い荒くなったなー」
ブツブツ言いながらもマメ先輩は言われた通りに注ぎ、それでいてマメ先輩の分は百合先輩が注ぐので、二人が相当いい感じなのは空気だけで分かる。ああ、その幸せオーラに当てられちゃうわ。
チラッと正面に座る池ヶ谷さんを見ると、「全くですね」と同調するような視線を寄越した。
「乾杯」
軽くグラスを合わせ、運ばれる料理に舌鼓を打つ。あたしは雰囲気に飲まれてしまうから、こういった高級料理の店は敬遠しがちだったけど、こんなに美味しいのならばまた給料日かボーナス出たら来たいなと思った。
ホスト役の二人のおかげで、とても楽しく会話は進んだ。
橋ヶ谷と池ヶ谷、紛らわしいからとマメ先輩に言われ、初対面だけど「俊雄さん、みどりさん」と呼び合うことになったのはかなり恥ずかしい。
俊雄さんはマメ先輩の大学の友人で二十七歳。あたしたちの会社から程近い、ある有名大企業に勤めているようだ。仕事が忙しくて彼女が出来にくい上、出来たとしても会える時間が少ないから結局彼女にキレられて振られる、というのが今までフリーで残っていた理由らしい。
はー、こんな絶滅危惧種みたいないい男、よくぞ残ってましたよ。
紹介されたものの、高嶺の花過ぎる、手が届かない、身に余る。でも友人としてならいい関係が築けそうだな。
そんな風に思っていた。
「じゃ、俺たち電車だから」
またね、と百合先輩とマメ先輩は仲良く並んで改札へと消えた。あたしは、終バスには間に合うかな、と腕時計を見て時刻を確認する。今から歩けば丁度良さそうだ。
「俊雄さん、今日は有難うございました。とても楽しい時間を過ごせました」
――あたしなんかにつき合わせちゃってごめんなさい。
そんな謝罪も言葉の片隅に乗せ、ぺこりと頭を下げる。
「いや、僕も楽しかった。また是非食事に行きましょう。――じゃ、送るよ」
「えっ? いや、いいですよ。あたしすぐそこのバスに乗るだけですから」
「いいから」
「あ、ハイ」
何故か有無を言わせないような強引さで押し切られてしまった。
少しお酒の入った体は、足取りが軽く感じられる。ぽてぽてと歩くけれど、時折視線が降って来るのを感じていた。
どうしてあたしを見るかな? さっぱり理由がわからない。
停留所に着くと、丁度タイミングよく終バスが滑り込んできた。はー、やっと一人になれる。そう思って別れの挨拶をしようと思ったら。
「僕もこのバスなんだ」
「え、ええっ?!」
「ほら、早く乗って」
急かされて驚きの言葉を飲み込み、バスのステップを上る。
「前から四番目の窓側、だろ?」
どうしてそれを!
ビックリして立ち止まれば、「まだ乗る人がいるんだから」と背中を軽く押され、いつものあたしの定位置の椅子へと座る。そして、俊雄さんもあたしの隣へと腰掛けた。
バスの中は、馴染んだいつもの空間。乗客は終バスだからか十人にも満たず。いつものバス、いつもの定位置。
なのに今日は隣に俊雄さんが座っている。
「俊雄、さん?」
どうしてこのバスに、どうしてあたしの定位置を知っているのか。聞き出そうと発車したバスと同時に尋ねれば、俊雄さんは至極真面目な顔をして答えてくれた。
「僕はね、毎朝駅前の停留所から乗るんだ。君も知っているように、大体同じ様な面子が揃うから覚えている。僕はいつもこの席から二つ三つ後に立って乗るから、みどりちゃんが知らないのも当然だけどね」
まさか、同じ路線のバス通勤だったとは! そりゃ顔分かるかもね? でもあたしは後ろに居る乗客なんて見えないから分からず、そこは一つ頷いて先を促した。
「週に二回、おばあさんに席を譲ることも知っている。いい子だなって思ってたんだ。僕はおばあちゃん子だから、自分の祖母がこうされてたらいいなと想像してた。で、先日――終バスに乗っていたら、君はバスに向かって走ってきただろ? 僕はたまたま外を見ていたから気付いて、運転手さんに止めてもらったんだ」
「わわわ、恥ずかしい! でも有難うございます、あの時本当に助かりました」
ドアが閉まって発車したのに再び停車してくれたのは、俊雄さんのおかげだったとは!
「でね? 息切らせて飛び込んできたらバス中の人に『すみません』とお辞儀をして……この席に腰掛けたんだよね。ああ、やっぱりいい子だな、と思った。僕はその時、みどりちゃんのすぐ後ろの席だったんだけど」
――――っ!? ちょっとまって、ひょっとして……。
「暫くしたらね、その子、涙を一滴流したんだ。今日なにかあったのかな、どうしたんだろうと心配したら、今度は窓の外を睨みつけて」
そのときの様子が浮かんでいるのか、俊雄さんはクックックと肩を震わせて笑った。
ちょちょちょちょっと! 何ソレあたし全部見られてたの!? 俊雄さんに!?
「思わずいつもの停留所乗り過ごしちゃったよ、君が気になって」
「あ、ああ、あの……あのハンカチって、まさか」
「ん? ああ、そうだよ。僕だ」
もはや声にならない。『恥ずか死』の相手は俊雄さんだったんだ。かああっと顔に血が上るのを感じた。後姿しか見ていないあの男性。
「おっと、もう終点だ」
俊雄さんの声にはっと気付けば、そこはもうあたしの降りる最後の停留所。「ほら降りるよ」と腕を掴まれ、二人だけとなった車内を降りる。
この終点はバスの車庫があり、明日の稼動を待つバスが整然と並んでいる。大きなロータリーがあって、隣にはコンビニが煌々と明かりを店外へと洩らしていた。
春とはいえ、夜はまだ肌寒い。ぶるっと体を震わせたら、俊雄さんが掴んでたあたしの腕を一旦放し、今度は肩を抱き寄せた。
「ちょ……俊雄さんっ」
「肝心な事まだ言ってなかったなと思って。みどりちゃん、僕と付き合ってもらえないかな」
「お、お付き合いっ?」
「ああ、今日は高橋に感謝だな。みどりちゃんにこういった形とはいえ出会えたんだし」
「まって、待ってください。あたしまだ何もっ」
まさかあたしがこんな好条件の男性から……。いやいや、夢だろこれ。
とにかく、一旦、落ち着け。
「あたし、俊雄さんには物足りない女ですよ? 気は強いし、可愛げもありませんし。……あ、そうだ、これお返しします」
抱き締められたその間に腕を入れて体を離し、バッグからハンカチを取り出す。渡そうと差し出したその手ごと握られ、再びあたしは焦った。
ななななにこれっ。
「物足りないなんて自分で決めるな。僕はみどりが良いんだって僕が言うんだから間違いないだろ。それに、気が強い女は好きだ」
泣いたかと思ったら睨み付ける、その眼差しに俺は一瞬で落とされたんだから。
握られた手を引かれ、体ごと俊雄さんにぶつかりながら耳元で囁かれたその言葉に、あたしは信じられないような気持ちでいっぱいだ。
「あたし、本当に気が強いですよ?」
「僕は好きだから問題ない」
「性格キツいから疲れるって、何度か振られた事ありますよ?」
「なんだ、根性ないんだな。しかし振ってくれた事に感謝だな。僕が堂々と申し込める」
「……一人で大丈夫だろって言われるわ」
「駄目だ。僕はみどりを支えたいし、みどりに支えられたい」
――『人』という字……!
先日あたしが望んだその漢字一文字が唐突に浮かんだ。
あたしの夢、それは『人』の字と同じ様に、支え合いたいとの思い。
「それに、みどりが僕の事なんとも思ってないだろうけど、好きになってもらう努力は惜しまないつもりだ。覚悟しろよ?」
あの、最初に見惚れた笑顔で、あたしを見下ろす。
――――なんともだなんて、いま、思うわけないじゃない。
とっくに恋心は始まっている事にあたしは気付いていた。
どこからだろう、いつからだろう?
グルグル思案するあたしを他所に、俊雄さんは「ああそうだ」と思い出したように声をあげた。
「もうバスはないし、ここら辺はタクシー捕まらないんだよな。ね? みどり」
「ね……って!」
緩やかに目を細める俊雄さんに、あたしは『捕獲』された。