事故物件のつくりかた
『事故物件をつくる方法は三つある』
机の上に置かれた黒いバインダーの1枚目には、そう書かれていた。
§ § §
杉並区の築四十年、木造アパート。二階の角部屋。
僕はフローリングにしゃがみ込み、カッターナイフの背で床板を三本、浅く引っ掻いた。
木屑を指で払い、ポケットから赤黒い靴墨を取り出す。ウエスに少しだけ馴染ませ、削った溝へ乱暴に擦り込んだ。乾いた布で周囲の汚れをぼかすと、木目は沈み、誰かが血を流しながら這いずった爪痕の形になった。
立ち上がり、スマホのカメラを起動する。露出を極限まで下げ、部屋の隅に落ちた影が真っ黒に潰れるようにピントをずらし、シャッターを切った。
これでいい。家賃を相場の三割下げ、備考欄に「心理的瑕疵あり(詳細はお問い合わせください)」と一文を添えるだけだ。
長く空室だったこの部屋には、家賃の安さに飛びつく学生か、訳ありの人間がすぐに食いつく。物理的な細工と、意味深な余白。それが僕ら不動産業者の裏側で時折行われる、実務的な「事故物件のつくりかた」だ。
だから、前任者の置き土産を見つけたときも、僕は鼻で笑って済ませていた。
くたびれた黒いバインダーの一枚目。定規を当てたように整った筆跡で、黒ペンでこう書かれている。
『事故物件をつくる方法は三つある』
僕はその上に自分の社員証を放り投げ、パソコンの電源を入れた。
三つも四つも、現場にはもっと泥臭い方法が転がっている。
今日だって一つ、この手で作ってきたばかりだ。
だが、その日の担当である「梅ヶ丘ハイム四〇三号室」は違った。
社内システムの画面の隅にだけ、赤字で「告知事項あり(要確認)」と点滅している。過去の死亡記録はない。管理会社の担当も「何もないですよ」と電話口で繰り返した。
なのに地図上のピンは、冬の傾いた日差しの中で、そこだけインクを零したようにどす黒く沈み込んでいる。
四階でエレベーターを降りると、冷たい風が首筋を撫でた。
廊下は乾ききり、床に残った古い工事のチョーク跡が白く折れ曲がっている。四〇三号室の前で足を止めた。
ドアスコープに透明のテープが斜めに貼られ、剥がれかけた端が呼吸をするように揺れている。中から覗いた跡なのか、外からの視線を塞いだのか。
鍵を回してドアを押し込むと、古い空気の層が顔に張り付き、ゆっくりと剥がれ落ちた。
部屋には生活の痕跡がない。ルームクリーニングのアルコールの匂いと、ワックスで拭き上げられた床の艶だけがある。
流しの蛇口は固く締まっているのに、ステンレスの底に五百円玉ほどの水輪が薄く残っている。風もないのに、背後の玄関で郵便受けが一度、コト、と鳴った。
ここで僕は、自分が何の細工も持ち込んでいないことに気づいた。靴墨も、カッターも、ポケットにはない。
バインダーを開く。最初の見開き。「方法は三つある」の下に、薄い鉛筆で三行の走り書きがあった。
ひとつ目は、覚えていること。
ふたつ目は、語られていること。
みっつ目は、まだ起きていないこと。
意味のないポエムだ、と笑い飛ばしたかったが、口の端が引き攣って動かない。
覚えていること。誰が? 誰に?
語られていること。どこで? まだ起きていないこと。何が?
会社のカメラを取り出し、広角でシャッターを切る。レンズの端に、ピントの合わない影がまとわりつく。
逆光で窓を撮ったとき、ガラスに僕の肩より高い位置から、手の跡が浮き出た。
外側か、内側か。息を吹きかけて袖で擦る。消えない。焦点をずらしてもう一度シャッターを切ると、手の跡はファインダーから消え、窓際に薄く濡れたような帯だけが横たわっていた。
僕が細工をしたわけじゃない。部屋が、自ら形を変えている。
リビングの隅に、小さな段ボール箱がひとつ残されている。空き箱のようだが、テープの剥がし口にはひとの爪が三日月のように食い込み、すぐそこで動きを止めていた。
「捨て忘れました」と書かれたメモ用紙が貼られているが、筆跡は前任者のものではない。彼、とは誰だ?
もう一度、バインダーをめくる。前任者の字で、別のページにこうある。
「語ると部屋は腫れる。腫れているものは触れなくなる。触れないものは、あると信じるしかなくなる」
僕のポケットでスマホが震え、太ももを叩いた。会社のチャットだ。
「梅ヶ丘の件、SNSに出ています。『四〇三ってどうなの?』って。行ってますよね?」
ドアポストがまた小さく、コト、と鳴った。
覗きたくなかった。テープは揺れている。揺れているということは、ドアの向こう側の空気が動いている。つまり廊下に、誰かがいる。
僕は視線を床に落としたまま玄関へ歩み寄り、下駄箱の上の置き時計を見た。秒針が、僕の腕時計よりも進んでいる。腕時計も、スマホも、すべて一分前の別人が置いていったようにずっしりと重い。
「――」
インターホンが鳴ったのだと、残響が消えてから気づいた。
録画ボタンを押す。液晶には何も映らない。再生を押しても、やはり何も映らない。
けれど、再生中の小さな青いランプだけが、規則正しく点滅している。その明滅のリズムが、玄関から吹き込む隙間風とぴたりと重なり、胃の腑がせり上がるような錯覚を覚えた。
ふと視線を向けると、シンクの底の輪っかが増えていた。五百円玉の輪が二重になり、重なった部分が羊の目のようにこちらを見返している。
僕はカメラをしまい、バインダーを抱えて靴を履いた。出る。これ以上ここにいる理由はない。
エレベーターの前で、見知らぬ少女とすれ違った。
四階のいちばん奥の角から、ゆっくりと歩いてくる。手にした買い物袋には何も入っていない。
目が合った。少女は僕の首元の社員証に視線を落とし、微かに唇を曲げた。
「また、つくりに来たの」
何を、と聞き返そうとしたが、喉の奥が張り付いて声が出ない。
「……ねぇ」
数歩進んだところで声がした。
振り返ると、さっきの場所に《《老女》》が立っていた。
《《老女》》は通り過ぎざま、地を這うような声で囁いた。
「ここは、もう覚えてるよ」
走り出す。
脇目も振らずに。
エレベーターに逃げ込み、扉が閉まる最後の隙間、鏡に自分の後ろ姿が映った。背後に伸びる影は、僕の頭一つ分、背が高かった。地上に下りるまでの十五秒間、息継ぎの仕方を忘れていた。
会社に戻ると、システムの画面に、見慣れないタグが張り付いていた。
「自動判定:告知事項あり(認知拡散)」
物件ページを仮公開にした途端、通知が雪崩のように表示され始めた。
「現地行ってみた」「噂、知ってる?」「四〇三の窓、夜中に明るい」
語られている。語るだけで、部屋は腫れる。契約はキャンセル、内見はゼロ。管理会社の怒鳴り声が受話器から漏れる。僕は電話口で何度も頭を下げた。僕が噂を流したわけではないのに。
夜、ひとり残ったフロアでバインダーを開く。
最後のページの裏側に、紙を引っ掻いたような薄い筋があった。鉛筆の腹で擦って浮かび上がらせる。出てきたのは、三つ目の行の続きだった。
「まだ起きていないこと――それは、期日が書かれていない契約。印鑑を押す指が誰のものでもないうちに、部屋は借り手を決める」
机の上の固定電話が鳴った。番号表示はない。
受話器を取ると、ざらついた空気の摩擦音だけが耳をこする。しばらくして、管理会社を名乗る男の、よく通る声が響いた。
「担当の方、きのう鍵を返していないようでして。四〇三の前に靴が片方、置いてありますし」
自分の足元を見る。右足の裏が冷たい。
いつからだろう。机の下、椅子の足に絡まっているはずの自分の靴は、片方しか見当たらなかった。
偽物の事故物件をつくるのには、靴墨とカッターがあればよかった。だが、本物の事故物件は、人間の綻びを勝手に作り出す。
気がつけば、僕はまた四階の廊下に立っていた。夜は廊下を長く引き伸ばす。さっきより数歩ぶん、照明が遠くて薄暗い。
四〇三の前には、僕の靴が一足、ぺたりと置かれていた。濡れている。指先が触れると、氷のように冷たかった。ドアは閉まっている。鍵穴の周りの金具だけが、やけに新しい。
なぜかわかった。これは僕の靴じゃない。形も、傷も、どこかが決定的に違う。
――ドアが、音もなく、内側へ開いた。
部屋は綺麗だ。昼間と同じ。ただ、窓ガラスの手の跡は増えていない。しかしシンクの輪っかは三重に重なり、中央の楕円が、今は閉じた瞼の形になっていた。
テーブルの上に、契約書が置かれている。日付は空欄。借主欄も空欄。保証人欄にだけ、僕の名字が印刷されていた。傍らの印鑑の朱肉の蓋が、少しだけ開いている。
バインダーを開く。最初の一文の下、空白だった紙に黒いインクが滲み出し、ゆっくりと文字の形を成した。
「三つ目は、読むことだ」
読む? 何を。これを。
そうか、と気づいた瞬間、インターホンが鳴った。今度ははっきりと、何度も、何度も。
鳴り響く間、テーブルの上の印鑑が微かに揺れる。窓ガラスは冷たく、玄関の隙間風は規則正しく吹き込む。点滅のランプなどどこにもないのに、僕の肋骨の奥で、青い光が瞬いているようだった。
語られることで腫れ、覚えられることで残り、まだ起きていないことを、読むことで起こす。
僕は自分でつくる側だと思っていた。靴墨を塗りつけ、影を落とし、噂をでっち上げる側だと。けれど、目を使い、口を使い、指を使って、僕はずっと前からこの部屋に「つくられて」いたのだ。
契約書を裏返した。裏面は白い。白紙は怖い。
僕はペンを持ち上げかけて、やめた。やめられる、ということは、まだ起きていない。まだ間に合う。そう信じたい僕の浅はかさを、部屋はよく知っている。
何故って、契約書の氏名欄にはいつの間にか――
インターホンが止んだ。ドアポストが、コト、と鳴る。
僕は振り向かない。靴を掴み、ドアに手をかける。ドアは重くないのに、少しだけ、掌の真ん中で何かが棘のように引っかかる。
バインダーが、テーブルの上でパタンと頁を閉じた。紙の擦れる音は、冷たい獣が尾を振ったようだった。
廊下に出る。電灯はどれも同じ黄色で、遠くに老女の部屋のテレビの青い光が漏れている。
エレベーターの鏡に映る僕の影は、僕の肩より少しだけ高い。僕はそれを見ないふりをして、ボタンを押し込んだ。
翌朝、社内のチャットに新しいスレッドが立った。
「四〇三の件、バズってます。『読むだけで部屋が変になる話』」
リンクを開くと、昨夜の僕の写真が、誰かの文章に埋め込まれていた。窓の手の跡は、写っていない。シンクの輪っかは、三重。
語られている。どこでも、何度も。
デスクの下の靴は、朝には両方そろっていた。形も、傷も、僕のものだ。僕は紐を結び、出社印を押した。
バインダーは鍵のかかる引き出しの奥にしまう。しまえば、何も起きない。しまったものの蓋が、夜中にほんの少し持ち上がるまでは。
事故物件をつくる方法は三つある。
覚えること、語ること、読むこと。
だから、ここまで読んだなら、どうか、この話を机の引き出しの奥にしまってほしい。しまって、鍵をかけて、しばらく忘れてほしい。
四〇三の玄関には、靴が一足置かれている。
次の担当者のものだ。
もし今、あなたの靴が片方見当たらないなら――




