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第2話:人間嫌いの悪魔馬

(なんてことだ。つい、言葉を返してしまった……)


 人間の男――エルヴァンが差し出した木椀から立ち昇る、暴力的なまでに食欲をそそるスープの匂い。そして何より、この男から発せられる底抜けの優しさと温かさに当てられ、僕は思わず『念話』のスキルを使ってしまっていた。


 僕の正体は、ただの黒馬ではない。

 人々に恐ろしい悪夢を見せ、狂気に陥れ、時にはその命すらも奪い去る邪悪な魔物。伝承において『死を告げる使い』とも呼ばれる存在――ナイトメアだ。


 同族たちは皆、血のように赤い瞳を持ち、歩くたびに大地を焦がす赤蓮の炎を蹄とたてがみに纏っている。

 彼らは人間を忌み嫌い、「人間とは敵対する生き物だ。出会ったら殺せ」と教えられて育つ。それが、僕たちナイトメアの絶対的な常識だった。


 けれど、僕は群れの中でも少し変わっていた。

 赤い炎ではなく、なぜか生まれつき透き通るような青い瞳と、青い炎を持って生まれてきたのだ。そのせいか、僕は同族たちが好む『人間の恐怖や絶望』という感情に、まったく興味が持てなかった。


 むしろ、脆くて弱い人間たちが、群れて助け合い、街を作り上げていく姿に、どこか惹かれるものがあった。人間という生き物は、本当にただ恐れ、殺し合うだけの存在なのだろうか? もしかしたら、共生する道があるのではないか。


 そんな好奇心を抑えきれなくなった僕は、ある日、群れを離れることを決意した。単独行動を好む種族であるため、群れから抜け出すこと自体は造作もなかった。

 僕は持ち前の魔力で青い炎を隠し、瞳の色を誤魔化し、ごく普通の立派な黒馬へと擬態して、人間の生存圏へと足を踏み入れた。


 だが、そこで僕が見たものは、残酷な現実と深い絶望だった。

 人間の街は、僕が想像していたような温かい場所ではなかった。いや、正確に言えば『魔物にとって』温かい場所ではなかったのだ。


 街の入り口や裏路地で、僕は何度も地獄のような光景を目にした。

 テイマーと呼ばれる人間たちが、捕らえた魔物を力と痛みで支配し、ボロ雑巾のように扱っていたのだ。

 ある男は、傷ついた巨大な狼の魔物を太い鎖で縛り上げ、言うことを聞かないと見るや、魔導具の鞭で何度も何度も打ち据えていた。鞭がしなるたびに火花が散り、狼の悲鳴が石畳の路地に響き渡る。


 またある者は、魔物の首に奇妙な輪を嵌め、強烈な痛覚を与えて無理やり荷車を引かせていた。魔物の瞳に宿っているのは、絶対的な恐怖と、心をへし折られた虚無だけ。


(これが、人間の本性なのか……)


 鞭の音と魔物の悲痛な鳴き声を聞くたび、僕の胸の奥で、人間に対する激しい幻滅と怒りが膨れ上がっていった。

 彼らは魔物を、言葉の通じないただの『道具』としか見ていない。力でねじ伏せ、恐怖で縛り付けることが正義だと信じて疑わないのだ。


 人間と分かり合う。共生する。そんな僕のささやかな希望は、彼らの残虐な振る舞いを前に、無惨にも打ち砕かれた。

(人間と共生するなど、土台無理な話だったんだ。僕が愚かだった)


 すっかり心を閉ざし、人間に絶望した僕は、街を離れて群れに帰ることにした。

 夕暮れの街道を、重い足取りで歩く。もう二度と、人間の街になんて近づくものか。そう固く心に誓いながら、人気のない木立に身を潜めていた時のことだった。


「どうした? 群れとはぐれたのか?」

 ふいに、声がした。

 ビクッと体を震わせ、声のした方向を鋭く睨みつける。そこには、背中に大きなリュックを背負い、覇気のない足取りで歩いてきた人間の男――エルヴァンが立っていた。


 また人間か。テイマー特有の、魔物を物色するような嫌な視線を向けられるのだろうか。もし僕を捕らえようとするなら、擬態を解いて青い炎で焼き尽くしてやる。そう警戒心を限界まで引き上げた僕に対し、彼はゆっくりとその場に座り込み、両手を上げて敵意がないことを示した。


「ごめんごめん、何もしないよ。……実は俺も今日、ギルドをクビになってね。行き場がなくて、とりあえず故郷の田舎にでも帰ろうかってところなんだ」


 彼の言葉を聞いて、僕は拍子抜けしてしまった。

 なんだ、この人間は。魔物を前にして、なぜそんな無防備に身の上話を始めているんだ。


 しかし、言葉以上に僕を驚かせたのは、彼から発せられる『波長』だった。

 他の人間たちは、多かれ少なかれ欲望や支配欲、あるいは恐怖といった感情で、その波長が泥のように濁っている。だが、このエルヴァンという男からは、微塵の暴力性も、支配欲も感じられなかった。

 ただ純粋な「親愛」と、少しばかりの「寂しさ」。凪いだ湖面のように澄み切った穏やかな波長が、ぽかぽかと陽だまりのように僕の警戒心を溶かしていく。

(この人間は、他の奴らとは違う……?)


 気づけば、僕は逃げ出すことも忘れ、彼が準備する夜営の様子をじっと見つめていた。

 そして今。日が落ちて急激に冷え込んだ森の中で、パチパチと燃える焚き火の温かさと、彼が作ってくれたスープの匂いが僕を包み込んでいる。

 干し肉の旨味と野草の香りが入り混じった、素朴だけれどとびきり美味しそうな匂い。僕たちナイトメアは魔力さえあれば生きていけるが、この匂いには抗いがたい魅力があった。


「お前にはこっちの野菜をやるよ。ほら、食うか?」

 彼が差し出してきた生野菜に、僕は内心で首を振った。

 僕が欲しいのはそれじゃない。その鍋の中で煮えている、温かいスープの方だ。たまらず木椀に鼻先をすり寄せると、彼は困ったように笑った。


「こらこら、駄目だって。お前は馬なんだから、肉の入ったスープなんか食べられないだろ?」

 その言葉に含まれた響きは、魔物を厄介払いするものではなく、純粋に相手の体を気遣う、本物の『優しさ』だった。

 「はぐれ者同士」と笑って僕を対等に扱い、見返りも求めず、ただ隣にいることを許してくれた彼。

 その底抜けの善性に触れた瞬間、僕の心の中にあった「人間への失望」という分厚い氷が、音を立てて崩れ去っていくのを感じた。


 ああ、この人間になら。


 この優しい男になら、本当のことを話してもいいかもしれない。

 だから僕は、絶対に使ってはいけないと分かっていながら、彼に向かって念話を送ってしまったのだ。


『……僕は馬じゃないから、そのスープを食べさせてほしい』


 僕の言葉に弾かれたように顔を上げた彼の、驚きに満ちた丸い目。

 しまった、と思った時にはもう遅い。パチッ、と焚き火の爆ぜる音が、不自然なほど静まり返った夜の森に響いていた。

◆◆◆◇◇◇◆◆◆


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