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差し入れのマフィンを三つも食べた白銀の騎士が、舞踏会で妖精姫の幼馴染に殴りかかった理由(※全部勘違い)

作者: こより
掲載日:2026/01/13

 俺の人生は、たった一枚の紙切れで終わった。


 戦場で数多の魔物と刃を交えた時も、国王陛下の御前で叙勲を受けた時でさえ、こんなことはなかったというのに。


 うまく息が吸えない。

 胸の奥で、心臓だけが無様に暴れている。


 原因は、はっきりしていた。

 執務机の上に置かれた――たった一枚の書類。


「……婚約申請書」


 重々しく、そしてひどく忌々しい文字。

 そこに記された申請者の名は、ノア・ブラント伯爵令息。


 俺の有能な部下であり、次期副隊長の座を約束された将来有望な騎士。

 そして何より――俺の“女神”と、最も親しい男。


 婚約相手の欄は、まだ空白だった。

 だが、貴族社会の慣習を思えば、何ら不自然ではない。正式な発表までは伏せておく――それが、あいつなりの配慮なのだろう。


 ……わかっている。

 いずれ、そこに記される名が誰のものかなど。


(ついに、この時が来たというのか。

 ノアと、俺の女神――ルイーゼ嬢が、永遠の誓いを交わす日が……)


 俺の人生は、詰んだも同然だった。


***


 王都の街並みは、今日も呪わしいほどに平和だった。


「見て! “白銀の双星”よ!」

「リヒト様……! あの氷みたいに冷たい視線、射抜かれたいわぁ」

「私はノア様派! あのキラキラした笑顔、守ってあげたくなっちゃう!」


(……本人たちの目の前でよく言えるな。心臓が魔物並みに強靭なのだろうか)


 思わず声のした方へ視線を向けると、色めき立つ令嬢たちの群れと目が合った。

 公爵家の看板を背負う身として、露骨に無視するわけにもいかない。


 俺は内側の動揺を鉄面皮で塗り潰し、口角をほんのわずか持ち上げる。

 ついでに、指先で銀髪を払った。


――この程度の仕草を、“微笑み”と受け取るのだから。

 人間という生き物は、実に単純だ。


 案の定、背後で黄色い悲鳴が弾けた。

 隣では、“双星”のもう片方であるノアが、眩しいほどの笑顔で手を振り返している。


「おい。やりすぎだぞ」


 口元だけをわずかに動かし、小声で釘を刺す。


「いいじゃないですか、ファンサービスですよ。

 むしろ白銀隊のイメージアップになりますって」


 白銀隊。

 王国騎士団の中でも、精鋭のみが集められた部隊だ。


 俺、リヒト・ローゼンベルグはその隊長を務めており、

 隣で金髪を揺らすノア・ブラントは、まもなく副隊長に昇格する予定の男だ。


(ふたり合わせて“白銀の双星”だなんて……

 いったい誰が言い出したんだ? 恥ずかしすぎて暗黒の彼方へ消し去りたい)


「お前、もうすぐ副隊長だろ。少しは自覚を持て」


「隊長、相変わらず真面目だな〜」


「……お前が軽すぎるんだ」


 ノアは人懐っこい。

 仕事も丁寧で、部下からの信頼も厚い。

 いわゆる“陽”の人間だ。


 ……だからこそ、俺には勝ち目がない。


 俺は公爵家の次男として、常に完璧を求められて育った。

 その結果、身についたのは鉄面皮の裏に本心を隠す術だけ。


 世間は俺を“冷徹な騎士”と呼ぶ。

 だが、その実態は――


 愛する女性の幼馴染に嫉妬し、

 一人で勝手にのたうち回っているだけの、

 救いようのない男だ。


(……このまま、何も言わずに身を引くのが、騎士としての正解なのか?)


 答えの出ない自問を繰り返しながら、

 俺たちは屯所へと戻った。


***


 白銀隊の屯所にある食堂は、訓練を終えた隊員たちの熱気で溢れていた。

 本来なら、俺は隊長専用の執務室で優雅に書類仕事をこなしている時間だ。しかし、今日に限っては一秒たりともそこへ戻るつもりはなかった。


 木曜日、午後二時。

 俺は食堂の隅にある指定席――「今日の隊長、なんか威圧感すごすぎて近づけねぇ」と隊員たちが自然と空けてくれた席に陣取っていた。


(……来る。今日もきっと、彼女は来る。)


 背筋を伸ばし、呼吸を整える。

 周囲の音が遠のいた、その瞬間。


 二時きっかりに扉は開いた。

 案内の隊員に連れられて、光の粒子を纏ったような影が現れる。。


(……っ、来たぁぁああああ!!)


 一瞬、理性が天高く吹き飛んだ。

 だが俺は、それをマッハの速さで胸の奥へ叩き落とす。


 無表情。

――無表情を貫け、俺。


「リゼ!」


 彼女に気づいたノアが、屈託なく声を上げる。


「ノア! お疲れ様。差し入れを持ってきたわ」


 その一言で、食堂に歓声が上がった。


 “リゼ”とは――ルイーゼ・クライン伯爵令嬢。

 俺の、たった一人の女神。

 ローズブロンドの髪と蜂蜜色の瞳は、王都の陽光さえも霞ませる美しさだ。


 数年前、孤児院の慈善バザーで懸命にマドレーヌを売る姿を見て以来、俺の世界の軸は彼女に固定された。


 社交の場には滅多に顔を出さない“幻の妖精姫”。

 そして俺が、この胸の奥に閉じ込めている……唯一の執着。


 最近の社交界では、クララ・バウアーという令嬢が“美の女神”と持て囃されているらしいが、笑わせるな。“女神”の名に相応しいのは、俺にとってはルイーゼ嬢ただ一人だ。


「リゼ、いつもありがとな!」


 ノアが親しげに駆け寄る。その距離、わずか数センチ。


 ルイーゼ嬢の幼馴染であるノアは、彼女を“リゼ”と愛称で呼び、気安く笑い合う。

 周囲の隊員たちは「またノアの彼女さんが来たぞ」と冷やかし半分の視線を送っているが、それを見ている俺の心中は穏やかではない。


(……彼女は、ノアの単なる幼馴染というだけでなく、おそらくは――恋人)


 俺は孤高の上官を演じ、コーヒーを啜りながら悠然と書類を眺める……フリを続けた。


「おい、食いすぎるな! 一人二個までだ!」


 差し入れに群がる隊員たちを、ノアが慌てて制している。


「たくさんあるから大丈夫よ、ノア」


 そんなノアを見て微笑むルイーゼ嬢。


(本当に仲の良いカップルだな……

 は? いや待て。今、俺、カップルって言ったか……? カップル……だと?)


 俺が、自分の思考に殴られた気分で落ち込んでいると――


「隊長! リゼから手作りマフィンの差し入れでーす!」


 ノアに促され、ルイーゼ嬢が小さなバスケットをおずおずと差し出してきた。


(天使。今日も今日とて全知全能の天使。……しかも“手作り”だと!?)


 “手作り”。

 その甘美な響きに、しばし酔いしれる。


 俺はそっとマフィンをひとつ手に取った。

 表情筋を律し、完璧な上官の仮面を貼りつけてから、口を開く。


「……いつも気を遣わせてしまって申し訳ない。ルイーゼ嬢」


 これだ。これがいけない。

 なぜ俺は、彼女の前でこうも教科書通りの“完璧な他人”を演じてしまうのか。

 本当は、その差し入れが自分宛ではないことに嫉妬し、

 今すぐ彼女の手を引いて連れ去りたいとさえ思っているというのに。


「今日は、ブルーベリーマフィンを作ったんです。お口に合えばいいんですけど……」


 恥ずかしそうに頬を染める彼女。


(ルイーゼ嬢の手作りが、俺の口に合わないはずがない。必要とあらば、口のほうを作り替えてみせる……!)


「どうですか? 隊長」


 マフィンを一口齧った俺に、ノアが能天気に聞いてくる。

 そんな難問を投げかけられても、この俺に最適解など出せるはずもない。


「……悪くない。感謝する」


 絞り出したのは、この乾いた一言だけ。

 ルイーゼ嬢は一瞬、戸惑ったような表情を見せた……ような気がした。

 ああ、俺はまた、回答を間違えてしまったのか……?


「リゼの手作りお菓子は絶品ですよね!」


 突如、ノアが追い打ちをかけるように惚気始める。


「しかも、リゼはお菓子作りだけじゃなくて、刺繍もダンスも得意なんですよ!

 あのダンス、空気が一瞬で変わるくらい綺麗で――」


「ちょ、ちょっとノア! 恥ずかしいからやめてよ!」


 照れるルイーゼ嬢は、春先の子ウサギのように愛らしい。

 だが、俺は何を見せられている? これは拷問か?


(いや、ちょっと待て。……これはもう、どう考えても、幼馴染の範疇を超えているだろう)


 目の前に暗黒界が広がるように、微かな希望さえも打ち消されていった。


***


 食堂の喧騒も引いていき、ノアがルイーゼ嬢を送りに出た後、俺は隊長特権で確保した“三つ目”のマフィンを口に運んだ。

 昔は甘いものが苦手だったが、ルイーゼ嬢の手作りとなれば話は別だ。


 周囲の隊員たちの噂話が耳に届く。


「ルイーゼ嬢って、本当かわいいよな」


「噂のクララ嬢も美人だけど、ルイーゼ嬢は柔らかい雰囲気がいいんだよ」


(……全面解釈一致。魂レベルで肯定する。)


 聞こえてくる声に、内心で激しく頷きながらマフィンを食べていると、会話は急に核心へと踏みこんだ。


「やっぱ、あの二人って付き合ってるのかな?」


「毎週差し入れ持ってくるしなー。幼馴染でも、普通そこまでするか?」


「そういえば、アントンがしつこく言い寄った話、聞いたか?」


「あいつが?」


 アントン――白銀隊きっての軽薄男だ。


「ルイーゼ嬢を強引に誘おうとしてさ。そしたらノアが血相変えて飛んできて、すぐ追い払ったってよ」


「あー、それ絶対付き合ってるわ」


 付き合ってるかどうかなんて、ノアに確認すればいいだけの話――なのだが。


(このご時世、部下に対して“恋人はいるのか?”など、完全にセクハラ案件……

 俺は上官として、模範でいたい……!)


 脳内でコンプラ遵守と恋煩いが殴り合っていると、別の席から声が上がった。


「ノアが婚約するって噂、聞いたぜ。副隊長に昇格したら正式発表するらしい」


「あー、一定の地位を得てから婚約ってやつだろ。順当だな」


(…………なるほど。すべて、繋がった)


 あの未記入の婚約申請書。副隊長の座。

 すべては、彼女を幸せにするための段取りだったわけだ。


 我が公爵家の権力を使えば、彼女を奪うことも、不可能ではない。

 だが、愛し合う二人を引き裂くなど、騎士道にも、俺のプライドにも反する。


(ルイーゼ嬢が笑っていてくれるなら、隣にいる男が俺でなくてもいいんだ。……彼女が幸せでなければ、なんの意味もないのだから……)


 俺は、マフィンの最後のひとかけらを、儀式のようにゆっくりと咀嚼した。

 甘い。

 優しく、そして慈悲深く甘い。

 だが、その甘さの向こう側で、ほんのりと涙の味がしたような気がした。


***


【side:ルイーゼ】


「ルイーゼお嬢様……またですか」


 厨房にこもる私を見つけて、侍女のマリーが心底呆れたように眉を寄せた。


「また、って何よ! 今日は本当に時間がないの。マリーも手伝って!」


 私はボウルを抱えたまま、半ば追い立てるように言った。

 木曜日の午後二時。この「約束の刻」に、完璧な状態で差し入れを届けなければならない。

 すべては、我が心の君――リヒト様のために。


「そもそも、伯爵令嬢が厨房で粉まみれになるなど……」


「お父様の許可はもらってるわ。はい、これ泡立てて!」


 にっこり微笑んで生クリームの入ったボウルを託すと、マリーは溜息をつきながらも完璧な手つきで作業を始めてくれた。さすが私の侍女、話がわかる。


「……で、今週の“献上品”は何なんです?」


「ブルーベリータルトよ」


 焼き上がったばかりのタルト生地を、壊れ物を扱うようにそっと持ち上げる。

 よし、完璧なキツネ色。


「リヒト様、先週のブルーベリーマフィンを三つも召し上がったんですって。ノアから聞いたわ」


 マリーが目をぱちぱちさせる。


「だから今週はタルトを?」


「ええ。きっとブルーベリーがお好きなのよ!」


 リヒト・ローゼンベルグ様。

 私の憧れであり、人生の光であり、尊すぎて直視できない“推し”そのもの。


 数年前のある日。

 孤児院のバザー会場に颯爽と現れて、売れ残っていた私の焦げたマドレーヌを買ってくださった方。


(あんな出来損ないのマドレーヌを……! なんてお優しい方なのかしら……!!)


 あの瞬間、私は恋に落ちた。

 沼。完全に沼。もう浮上の余地ゼロ。


 月光を編み込んだみたいな銀髪。

 光を閉じ込めたように煌めく深紅の瞳。

 ふとした瞬間にこぼれる大人の色気。

 視線ひとつで心臓が焼かれそうになる罪深さ。ずるい。反則すぎる。


 普段は“氷の騎士”なんて呼ばれているけれど、私だけは知っている。あの方は、焦げたマドレーヌさえ受け入れてくれる聖母のような慈愛と、甘いものに目がない可愛い一面を持っていることを!


(……はぁ、好き。今日も語彙力が溶ける……)


 ずっと好きだった。

 だからノアに頼み込んで、毎週差し入れを届けさせてもらっているのだ。


「それにしても……公爵家のご令息が、そこまで庶民的なお菓子を好まれるなんて……」


 マリーが不思議そうにつぶやく。


――それは私も疑問だった。


 確かに、今まで私が差し入れたお菓子を褒めてくださったことは、一度もない。いつも「悪くない」としか仰らないのだ。


 けれど、あの日。

 リヒト様は、あのマドレーヌを五個も買ってくださったのだ。


「それがリヒト様の“ギャップ萌え”なのよ、マリー! マドレーヌ五個に、マフィン三個よ?……庶民派スイーツが大好きに違いないわ!」


 あの日以来、私は必死で特訓した。

 リヒト様の舌を喜ばせたい、その一心で。今や私の“お菓子作りスキル”はカンスト気味だ。まさに恋のバフ、恐るべし。


「ですがお嬢様。お菓子作りもいいですが、社交の場にも出ないと。旦那様が縁談の話をチラつかせ始めていますよ」


「……うっ」


 痛いところを突かれた。

 私は、“貴族令嬢マウント戦争”が渦巻く夜会が大の苦手だ。


 それに、十九歳になっても嫁ぎ先が決まっていないのは、貴族令嬢として正直、遅すぎるくらいだ。

 だけど――この恋だけは、どうしても手放せない。


 鏡に映る私は、ローズブロンドのふわふわした髪に、蜂蜜色の瞳。……周りのみんなは「妖精のよう」と褒めてくれるけど、ぶっちゃけ“色気”が絶望的に足りないのだ。


「リヒト様の隣に立つには、もっと華やかで大人の色香が必要かしら……。胸元とか、こう……」


 私は胸元を両手で“きゅっ”と寄せてみた――途端に、マリーの顔色が変わる。


「いけません! はしたない! お嬢様はその清純さがお美しいのです!!」


 マリーに必死で止められ、私は溜息をついた。

 わかっている。私に色気勝負は無理だ。だからこその“お菓子大作戦”なのだから。


 幼馴染のノアは、私の恋の最大の理解者だ。

 これはノアが考えてくれた、リヒト様の胃袋を掴むための国家規模(私調べ)のプロジェクトなのだから。


「お嬢様、ノア様がいらっしゃいましたよ」


 廊下が騒がしくなったと思うと、厨房の扉を勢いよく開けて金髪の騎士が飛び込んできた。


「リゼ! ここにいたのか!」


「ノア。どうしたの、そんなに急いで」


「最新情報だ。明日、王宮の舞踏会に隊長が出席するぞ!」


「えっ……!?」


 耳を疑った。リヒト様は、必要最低限の夜会にしか出席しないことで有名だ。


 ノアが声を潜めてニヤリと笑う。


「隊長の兄上――公爵閣下が怪我をされて、急遽代理で行くことになったんだってさ。しかもエスコートなしの単独参加。……これ、絶好のチャンスだと思わないか?」


(……単独参加。つまり、隣には誰もいない)


 リヒト様だって二十三歳になる。

 いつ婚約が決まってもおかしくないお年頃だ。

 なのに私は、まだ一歩も踏み出せていない。ただお菓子を焼いて、遠くから「今日も尊い」と拝んでいるだけ。


 でも――もし、明日、あの方に想いを伝えられたなら。


(……このまま、誰かにリヒト様を奪われるのを待つなんて、絶対に嫌!)


「……マリー! 準備して!」


「はい?」


「明日の舞踏会、私も出るわ。……一番華やぐドレスを出して!」


 待っていてください、リヒト様。

 明日こそ――私の想いを、ちゃんと伝えに参ります!


 いざ、決戦の舞踏会へ!!


***


 王宮の舞踏会は、星屑をそのまま閉じ込めたみたいだった。

 金糸のシャンデリアが幾千もの光を散らし、空気までもきらきらと輝いている気がする。


(……ま、まぶしすぎて目がチカチカするわ)


 来賓の待機サロンは、すでに人でごった返している。

 正装に身を包んだ紳士たちが談笑し、宝石のように着飾った令嬢たちがゆるやかに微笑む。

 人々の放つ熱気と濃厚な香水の香りに、くらくらと眩暈がしそうだ。

 正直、もう帰りたい。


(いえ、だめよルイーゼ!

 リヒト様にお会いするまでは絶対に引き返せない!)


 深呼吸しながら、なるべく人目につかない位置へ移動する。

 そっと壁際の装飾の陰に紛れ――私は完全に壁の花と化した……はずだった。


「おや、ご機嫌ようルイーゼ嬢。この光り輝く夜会においても、貴女の美しさは決して陰ることがありませんな」


 急に声をかけられて振り向くと、見覚えのある男性が、甘ったるい笑みを浮かべて立っていた。

 何度か挨拶したことのある貴族令息だ。


(名前はなんだったかしら……)


 必死に記憶の糸を手繰り寄せながら、完璧な淑女の微笑みを貼り付けようとした途端、横から別の男性が割り込んでくる。


「ルイーゼ嬢、今宵のファーストダンスを私に預けていただけませんか?」

「いいえ、私こそが貴女をエスコートする名誉を授かりたい」

「待て、先に声をかけたのは私だぞ!」

「ルイーゼ嬢、ぜひこちらへ!」


 次から次へと差し出される誘いの手。

 私はあっという間に、逃げ場を失うほど男性たちに囲まれていた。


(いえ、全員、断固としてお断りですわ!)


 “結構です”と叫びたい衝動を、エレガントな微笑みの下に覆い隠す。


「恐れ入ります。あいにく、先約がございますの」


 私は優雅にお辞儀をして、隙を突いて男性たちの輪から滑り出た。

 そのとき、会場の入口付近がざわりとどよめき、皆の視線が一斉に吸い寄せられる。


 そこに現れたのは、銀髪を月光に濡らしたような、峻厳たる美貌の騎士。


 リヒト様だ。


(……っ、美しすぎるわ!)


 あまりの神々しさに、思わず見惚れてしまう。

 今日こそ、ちゃんとお話ししたい!

 そう意気込んだ瞬間――


「リヒト様! 今宵ぜひ一曲!」

「わたくしとお話を!」

「リヒト様、こちらのお飲み物を!」


 色とりどりのドレスを翻し、令嬢たちが我先にとリヒト様へ殺到する。


(あぁぁぁぁ!! あの中に入っていくなんて無理だわ!!)


 荒波のような人だかりを前に、一歩たりとも近づける気がしない。

 そのうえ、視界の端には、先ほどの男性たちがこちらを窺っているのが映った。


(また声をかけられたら厄介だわ……少し時間をおいて、場が落ち着いてからリヒト様にご挨拶しよう)


 幸い、大広間の扉の脇には月光庭園へ続くテラスがある。


(庭園なら……誰もいないはず)


 私は小さく息を吸い、静かな夜風の待つ庭園へと歩み出た。


***


【side:リヒト】


 俺は、うんざりしていた。


 令嬢に囲まれるというのは――

 拷問の一種ではないだろうか。


「リヒト様、私とダンスを……!」

「ご挨拶だけでも……!」

「こちらにお飲み物を――!」


 兄上が階段で派手に転んで足を挫いたという報せを聞いた時、俺は天を仰いだ。

 代理出席。公爵家の義務。そして、白銀隊隊長としての顔出し。

 逃げ場はない。


(頼む……せめて三メートル以内は静寂であってくれ)


 ノアに、「今夜はリゼも参加するらしいですよ」と聞かされたのは、ほんの数時間前だった。


 その言葉が頭から離れない。


(本当に……来ているのか? 会えるだろうか)


 胸の内側が、勝手にざわつく。

 令嬢たちの声を聞き流しながら視線を巡らせた、その時。


 ……見えた。


 ローズブロンドの髪を複雑に編み上げ、光をひとしずく落としたような藤霞色のドレスを纏った、ルイーゼ・クライン嬢。


(……っ、あああああ!!! 女神!!! 降臨!!!)


 凛とした気品を漂わせる彼女は、まさに“幻の妖精姫”そのもので、あまりの神々しさに呼吸を忘れるほどだ。

 今すぐ彼女のもとへ駆け寄り、跪いてその手をとり、愛の詩を百篇ほど詠み上げたい。


 だが、現実は無情だ。

 令嬢たちは押し寄せる波のように俺の行く手を阻み、その喧騒に紛れて、愛しのルイーゼ嬢の姿は溶けるように消えてしまった。


(見間違いか? いや、俺がルイーゼ嬢を見間違えるはずがない)


 俺を取り囲んでいるのが魔物なら、迷わず一閃して切り開ける。

 だが、令嬢たちが相手ではそうもいかない。


「リヒト様、私とぜひ――」

「私よ、私が先だってば」


(だめだ、限界だ)


 上品かつ最速で、退避するしかない。

 俺は一歩下がり、丁寧に会釈した。


「失礼します。挨拶回りが残っていますので」


 小さくざわめきが起きたが、俺はそのまま踵を返し、大広間の脇を抜けて庭園へ向かった。


 月光庭園と呼ばれる王宮の庭園は、先ほどの喧騒が嘘のように人影がない。

 ランタンの灯が淡く揺れ、静寂に満ちている。


(……助かった)


 ようやく息ができた気がした。

 適当に見つけたベンチへ腰を下ろす。

 冷たい石造りの感触が、火照った思考を落ち着かせてくれた。


(確かにルイーゼ嬢だった。本当に来ているのなら、言葉を交わせるだろうか)


 期待とは裏腹に、ふいにノアから提出された婚約申請書のことが頭をよぎる。


(あんな綺麗に着飾って……。まさか今夜、ノアとの婚約を発表するつもりなのか?

 ……なら、俺は身を引くしかない。彼女がノアを選ぶのなら)


 月が静かに光っていた。

 俺はそっと目を閉じ、ただ呼吸を整える……と、どこからか女性の声が聞こえた。


「だめよ、こんなところで……誰かに見られたらどうするの」


 どうやら、垣根の裏側のベンチにカップルが座っているらしい。


(庭園で“秘密の逢引き”か……)


 俺はため息をついて、その場を離れようと立ち上がった、その時だ。


「ララ、俺もう我慢できないよ」


 聞き覚えのある声だった。

 いや、聞き覚え……どころではない。

 毎日のように聴いている声だ。


 心臓が、どきりと気味悪く音を立てる。

 そして、次の瞬間――疑いは確信に変わった。


 女性の笑い声、そして。

「ノアったら、仕方がない人。こんなところを誰かに見られたらどうするの?」


(ノア……やはりノアの声か……まさか……ノアが浮気……?)


 血が逆流するのを感じた。

 騎士として、魔物と対峙した時だって、こんな戦慄を覚えたことはない。


 考えるより早く、体が勝手に動いていた。


「ノア・ブラントォォォォオッ!!!」


 俺は、叫んだ勢いのまま薔薇の垣根を飛び越えた。


 垣根の裏のベンチには、手を握り合うカップル。

 女性は、クララ・バウアー嬢。今、話題の“美の女神”だ。

 そして、男は――やはりノアだった。


「あれ、隊長! こんなところで何してるんです!?」


 ノアが、呑気な声を上げる。

 俺は有無を言わさず、ノアの胸ぐらを掴み上げた。


「お前というやつは……ルイーゼ嬢という至宝を手にしながら――」


 自分でもどこから絞り出したのかわからないくらい、震えた声が漏れる。


「ま、待ってください! 隊長! なんか勘違――」


「問答無用だ!」


 俺が拳を振り上げた瞬間――


「あれ? ノア……?」


 背後で鈴を転がすような声がした。

 振り返らなくても、俺にはその声の主が誰だかわかる。


 俺の女神だ。


 ルイーゼ嬢が、俺たちの後ろに立っていた。


 大きく見開いた瞳。

 驚きの表情。


(ああ、不覚……!)


 彼女に、こんな形で恋人の裏切りを見せることになるとは……。

 この事実だけでも傷つくはずなのに、浮気相手と直接対峙するなど、彼女のショックは計り知れない。


「どうしてリヒト様まで……?」


 ルイーゼ嬢が俺を見る。


(ああ、どうか傷つかないでほしい。俺は……俺が……俺なら……)


 俺はノアを放り投げ、彼女の手を衝動的に掴んだ。


「ルイーゼ嬢! 見てはいけません。……こんな、不誠実な男のことは忘れなさい!」


「えっ、あの……?」


「私なら貴女を一生、暗黒の淵に落としはしない。

 ……必ず幸せにしてみせる。

 ノアではなく――俺を。俺を選んでほしい!」


 こんなに感情を爆発させたのは、生まれて初めてだった。


 静まり返った庭園に、俺の荒い呼吸だけが響く。

 周囲には、いつの間にか騒ぎを聞きつけた貴族たちが集まり、固唾を呑んでこちらを見ていた。


 ルイーゼ嬢は、潤んだ瞳で俺を見上げる。


(泣かせてしまった。やはり、俺ではだめなのか)


 失恋だ、と悟った。

 足元が崩れ落ちるような感覚の、その刹那――

 女神はひまわりみたいに笑った。


「……はい。喜んで! 私も、リヒト様が好きです……ずっと前から好きでした」


「……えっ。……お、俺!? ……俺、なのか?」


 あまりの衝撃に、素っ頓狂な声が出た。

 氷の仮面は粉々に砕け散り、俺はただの“恋が実った男”として、呆然と立ち尽くす。


 次の瞬間、貴族たちから割れんばかりの拍手と歓声が沸き起こった。


「おめでとう、白銀の隊長!」

「なんて情熱的なプロポーズかしら!」


 祝福の喧騒が遠く霞むほど、彼女しか見えなかった。

 俺はそっとルイーゼ嬢を抱き寄せ、慈しむように口づけた。

 それは、彼女が焼くマドレーヌよりも、ずっとずっと甘い味がした。


***


 数日後の執務室。


 机の上に放り出された貴族新聞には、これでもかというほど刺激的な見出しが躍っていた。


『“白銀の双星”ロス! 二人同時に婚約発表!』

『社交界の妖精と女神を同時に射止めたのは、あの騎士団最強コンビ!』

『全貴族令息が泣いた……“幻の妖精姫”がついに人妻へ』


 俺たちは、いまやすっかり社交界の話題の中心になっている。


「はぁ……。相変わらず騒がしいな」


 俺は深く、重いため息をついた。


 隣では、正式に俺の副官となったノアが、いつものゆるい笑みを浮かべている。


「いやー、あの時の隊長、マジで“魔王”みたいな顔してましたよ?」


「……お前が紛らわしい婚約申請書を出すからだ」


 結局、ノアの婚約相手は、最初から“美の女神”クララ・バウアー嬢だったのだ。


 ルイーゼ嬢の気持ちを知っていたノアは、最初から“敵”ではなかった。

 彼女に他の隊員を近づけなかったのも、俺が余計な誤解をしないように。

 褒め言葉を並べていたのも、俺に彼女を推すためだった。

 ――すべては、俺とルイーゼ嬢を結びつけるために。


「だって隊長、二人とも好き同士なのに、いつまで気づかないつもりだったんです?」


 ノアは笑って肩を竦める。


「隊長は、鉄面皮すぎて分かりづらいんですよね。……でも、リゼの前だと可愛いとこあるんで」


(……すべて、この男の掌の上だったというわけか)


 だが、結果として俺は女神を手に入れたのだ。


 ふんと鼻を鳴らし、机の上の時計に視線を移す。

 今日は木曜日、もうすぐ午後二時。

 俺にとって、世界で一番重要な時刻だ。


――トントン、と軽やかで控えめなノック。


「リヒト様、差し入れを持って参りました」


 扉から顔を出したのは、光を纏った俺の女神。

 いや、最愛の婚約者だ。


 俺は、部下には絶対に見せない、蕩けるほどに甘い微笑みを彼女だけに向けた。


「待ってたよ、リゼ」


 手を差し出すと、彼女は少し照れたように、けれど嬉しそうに駆け寄ってきて、その華奢な手を俺の掌に重ねた。


「今日は、リヒト様の大好きなマドレーヌを焼いてきました」


「……嬉しいな。リゼのマドレーヌは、俺の魂を救済する至高の逸品だからね」


 耳元で囁きながら、俺はルイーゼ嬢の耳にそっと唇を寄せる。


「も、もう! リヒト様ったら、ノアが見てますわ!」


 真っ赤になって頬をふくらませる彼女も、たまらなく愛おしい。

 俺の心臓は、今日も今日とて彼女の可愛さという暴力に屈している。


「はいはい、お邪魔ですよね。甘すぎて胃もたれしそうなんで、俺は訓練場にでも行ってきますよ」


 ノアが呆れたように、けれど祝福を込めて退室していく。


 二人きりになった室内。

 潤んだ瞳に映っているのは、俺一人。

 その事実が、何よりも誇らしく、狂おしいほどに幸せだ。


(……ああ。俺の女神、マジで大天使。生涯を捧げて崇め奉ることをここに誓おう)


 マドレーヌの甘い香りに包まれて、俺の拗らせ愛は今日も満たされていく……

お読みいただき、ありがとうございました。

拗らせ騎士と推し活令嬢の物語

これにて、おしまい。

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