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第九話 暴かれた素性2

「ハァハァハァハァ……!!」


 アリシアは息を切らしながら、森の中を駆け抜ける。

 今まで、これほど走ったことはなかった。心臓の鼓動が早くなり、胸が痛いほど苦しい。足がもつれそうなほど重くなっていくのが自分でも分かった。

 それでも、彼女は一心不乱に走り続けた。彼から少しでも遠ざかるために。


——……なんで……⁉


 信じたくなかった。嘘であって欲しかった。

 しかし、知ってしまった。黒木の正体を。


——……嘘! どうして⁉


 誰よりも優しくしてくれた。美味しい食べ物を分けて、元気づけてくれた。親身になって寄り添ってくれた。

 フロルを見ても、家族や侍女たちのように嫌悪感を示すことはなかった。最初はその姿に驚いていたが、自分と同じようにフロルにも接してくれた。

 嬉しかった。これまで王城で酷い扱いを受けて過ごしたアリシアにとって、黒木の存在は唯一の希望だった。


——あの人が……クロキさんが……血堕人だったなんて!


 彼が。そして、彼が来たとされる『二ホン』という国が。ファルシオン王国や同盟国軍の兵士たちを壊滅させた者たちとされる血堕人。その事実に、アリシアは信じられなかった。

 黒木がこれまで接してくれた印象から、そんな邪悪な人間だと思えなかった。

 だが、瞬く間に魔物を屠った黒い杖。何より彼の左腕についていた赤い丸の印が、非情な現実をアリシアに見せつけた。


——……いや……もう、いや!


 家族や王国民からは酷い扱いを受け、無理難題な王命を告げられ、『未開拓地』の森に一人置き去りにされた。ようやく自分に優しくしてくれる人が現れたと思えば、相手は敵国の人間。

 これまで抑圧されていた負の感情が、彼女の中で一気に決壊した。

 もう辛い思いをするのはいや。その感情だけが、今の彼女を突き動かしていた。


「あっ!」


 不意に地面から剥き出しになった木の根に足をとられて、俯せに転倒した。


「う……痛……」


 アリシアは痛む手足を抑えながら立ち上がった時、直ぐ横で「ガサッ」という音がした。


「……えっ?」


 振り向いてみた先にいたのは、あの黒い狼であった。


「……あ、ああ……」


 突然現れた狼に、アリシアは本能的に逃げようとした。

 しかし、先程まで全力疾走のせいか、または恐怖に煽られたためか、足がすくんで地面に座り込んでしまった。


「グルルゥ……」


 狼は涎を垂らしながら、アリシアに近づいていく。


——……どうして、私が……


 何故、自分だけがこんな苦しい思いをしなければいけないのか。

 何故、誰も自分のことを助けてくれないのか。

 過去に受けてきた苦痛と今から訪れるであろう恐怖に、アリシアの心は絶望に染まっていく。


「ガアァッ!」


 狼が大きく顎を開き、アリシアに迫る。

 アリシアは両手を身構え、瞼を閉じる。


——……誰か、助けて……!


 暗くなった視界の中で、アリシアは心の中で叫んだ。

 だが、いつまでたっても自分の身には何も起こらなかった。

 不審に思って、ゆっくりと瞼を開いていく。


「⁉」


 飛び込んできた光景に、アリシアは思わず息を呑んだ。

 直ぐ目の前に、狼の鋭い牙が何かに突き立てられていた。狼の唾液と混じってポタポタと地面に落ちていく赤い液体。それが血だということがようやく理解できた。

 しかし、狼が噛んでいるのは自分のではない。緑と茶色のまだら模様をしたものであった。


「……クロキ……さん?」


 そこには、アリシアを庇うように正面から、左腕を狼に深く噛みつかれている黒木の姿があった。


「うおおお——!!」


 黒木は雄叫びを上げると、左腕を噛みつく狼ごと地面に叩きつけた。腰に提げた銃剣を右手に構えると、地面に突っ伏した狼目掛けて、力の限り振り下ろす。

 銃剣が狼に突き刺さる瞬間、アリシアは再び目を閉じて顔を背けた。

 鈍く不気味な連続音と狼の苦悶の鳴き声が耳元に響き渡る。

 やがて何も聞こえなくなると、アリシアは恐る恐る顔を向けた。


「ひっ……!」


 目の前の光景に、アリシアは悲鳴を上げた。

 地面に横たわる狼を見下ろし、身体を赤く染めた黒木の姿を。

 すると、黒木の視線がアリシアを捉えた。今まで見たことがない、冷たい目をしていた。

 アリシアの顔に恐怖が滲む。


「アリシアさん!」


 黒木は左腕を右手で抑えながらアリシアに駆け寄ると、彼女の前にかがみ込んだ。


「大丈夫ですか! お怪我はありませんか⁉」


 アリシアは咄嗟に声を出せなかった。黒木から出てきた言葉は、自分を心配するものだったから。


「どこか痛むところは⁉」

「……い、いえ、私は……大丈夫……です」

「……良かった」


 アリシアの言葉に黒木はそう呟くと、安堵した様子で下を向いた。


「あ、あの——」


 声を掛けようとした瞬間、黒木が顔を上げた。安堵した顔がふっと強張る。


「一体何を考えているんだ!」


 これまで聞いたことがない黒木の怒号に、アリシアは身体をすくめた。


「こんな危険な場所を一人で行動するなんて! 俺が間に合ったから良かったものの、一歩間違えれば死んでいたかもしれないんだぞ!!」


 黒木から放たれる怒りの形相と言葉は、かつて王城で浴びせられた罵声と重なり出した。


——い、いや……


 アリシアの心の奥底に刻まれた、過去のトラウマを呼び覚ましていく。


「だいたい、なんでこんな勝手な行動を——」


 黒木は言いかけて、言葉を止めた。


「……ごめんなさい……ごめんなさい……」


 アリシアが顔を青くして身体を震わせていた。両手で頭を抱えながら謝罪の言葉を口にする。


「……ごめんなさい……ごめんなさい……私……私……」


 そんなアリシアの姿を見て、黒木は冷静さを取り戻した。


「……すみません、言い過ぎました」


 黒木はアリシアに謝った。彼自身、アリシアのことを心配する気持ちが先走ってしまい、つい熱く叱責してしまった。


「この森は本当に危険です。これからは単独行動は控えてください」


 黒木は態度を改めて穏やかな口調にしたが、アリシアは謝罪を口走る。


「ごめんなさい……許してください……私……私は……」

「もう怒っていませんし、あなたを許します。だから、もう謝る必要はありません」


 しかし、アリシアは黒木の言葉を聞き入れず、淡々と話し出す。


「……嘘をついて、ごめんなさい……騙していて、ごめんなさい……私……知らなかったんです……クロキさんが……血堕人だったなんて……」

「えっ?」

「助けてほしいとはもう言いません……だから、許してください……全部正直に話しますから……もう辛いことは……怒鳴られるのも……いや……」


 アリシアから語られる支離滅裂な言動に、黒木は困惑した。


「アリシアさん、一体何を言っているんですか?」


 情緒不安定になっていたアリシアは、意図せずその言葉を口にする。


「私は……私の本当の名は……アリシア・エル・ファルシオン……ファルシオン王国の第二王女……です」

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