第六話 夜空の下で
「二ホン?」
アリシアは聞いたことのない国の名前に首を傾げた。
二ホンなどという国はマルスティア大陸では聞いたことがない。
——もしかして、大陸の外から来た人?
マルスティア大陸外というなら、可能性として’’帝国’’が支配する大陸が思い当たる。しかし、それなら「’’帝国’’から来た」というはず。わざわざ二ホンという単語を使う意味はない。
では、知らない国から来た人なのか。
「ところで、あなたのお名前もお聞かせいただいてもよろしいでしょうか?」
考え込むアリシアに、黒木が声を掛けた。
「わ、私は……」
アリシアは一瞬言いよどんだ。素直に自分を明かしてもいいのかと。
「……アリシア……アリシアと申します」
怖かった。彼に本名を、素性を明かすことが。
故に『第二王女』としての自分を名乗らなかった。
「アリシアさん、ですか。素敵なお名前ですね」
そんなアリシアの心境とは裏腹に、黒木は屈託のない微笑みでいった。
その言葉と笑顔に再びアリシアの心はかき乱される。
今まで不要な第二王女の象徴として呼ばれ続けてきた名前を、彼は褒めてくれた。
——どうしてそこまで……私に優しくしてくれるの?
アリシアには、黒木の真意が分からずにいた。
「っへっくしゅ!!」
黒木が大きなくしゃみをし出した。
「だ、大丈夫ですか?」
「ええ、大したことな——っへっくしゅ!!」
アリシアの心配をよそに、黒木は再びくしゃみをした。
そういえば、彼の衣服がずぶ濡れであることをすっかり忘れていた。
「ご、ごめんなさい! 気づかなくて! は、早く温まらないと!! えーと、火は……火は……」
アリシアは辺りを見回す。しばらくして、申し訳なさそうに黒木の方を見た。
「……あの、火ってどこに行けば用意できますか?」
突拍子のないアリシアの問いに、黒木は開いた口が塞がらなかった。
「ふー、これでいいかしら」
空が暗くなり始めた頃、アリシアは川岸から少し離れた場所にいた。彼女は今、草木の生えていない地面にかがんで、手ごろな石を円状に並べてかまどを作っていた。
「とりあえず、アリシアさんは地面に石を並べてて下さい。あ、くれぐれも草が生えていない所でお願いします。火事になったら大変ですから」
黒木はアリシアにそう伝えると、薪を探しに森の中へ入っていった。残されたアリシアは、黒木の指示された通りの作業をしていた。
アリシアは立ち上がると、服に着いた土を払った。
ふと、空を見上げる。月明かりが周りの木々を照らし、夜風が吹く音だけが聞こえていた。
彼女だけが一人、森の中に取り残されていた。
——一人でいることは、慣れていたはずなのに……
王城で過ごしていた時は常に孤独だった。誰も自分のことを見てくれず、存在を否定されていた。
しかし、今いるのは王城ではなく、見知らぬ森の中。太陽が出ていた日中とは違い、夜は肌寒かった。
今までとは異なる状況で戸惑いはあるものの、アリシアは不安を感じてはいなかった。
「……クロキさん」
森の中で出会った青年の名を口にする。
奇妙な格好ながらも、初めて自分に優しくしてくれた人。これまで辛い日々を過ごしてきたアリシアにとって、黒木の存在は驚きの連続だった。
「クウゥー」
考え込むアリシアの足元から、フロルを心配そうにこちらを見ていた。
「大丈夫よ、フロル」
アリシアは、フロルに微笑みかけながら言った。
すると、突然目の前が眩しくなった。思わず顔を覆い隠した。
「あっ、すみません」
強い光がアリシアから逸れた方向へ向けられた。アリシアが目を向けると、茂みから光を放つ兜——鉄帽にヘッドライトを装着した黒木が現れた。背負っている背嚢の隙間から、木の枝が覗いていた。
「お待たせしました、遅くなり申し訳ございません」
「いえ、私こそごめんなさい。クロキさんに頼りきってしまって」
「構いませんよ。困った人を助けるのも、自衛官として当然ですから」
黒木は当然とばかりに答えた。
黒木は背嚢を地面に下ろすと、焚き火の準備に取り掛かった。
背嚢から大小様々な木の枝を取り出し、アリシアが作ったかまどに並べていく。そして、腰に刺した短剣(自衛隊の89式銃剣)と金属の棒で火花を発生させて、枯れ草に火をつける。やがて小さな火が大きな炎へと変わった。
「凄い……」
「大学時代にアウトドアサークルで何度もやりましたから。大したことないですよ」
「あうとどあ?」
「あー、こっちでいうところの野営ですかね」
黒木は大きな薪を焚き火にくべながら言った。
焚き火が安定してきた頃、アリシアは黒木が持ってきた丸太を焚き火の前に置いて座った。黒木はそのまま地面に座って、背嚢の中身を並べていた。
「くそっ、やっぱり無線機はいかれたか」
黒木は顔を険しくさせながら、黒い塊——無線機の破損状況を確認していた。
その姿にアリシアは不安を覚えた。もしかして、自分は彼に対して不機嫌にさせてしまったのではないかと。
何か声を掛けて良いか迷っていると——
ぐう~
森の中でお腹が鳴る音が響き渡る。
「ご、ごめんなさい!」
その発生源であるアリシアは、顔を赤らめて俯いた。
「いえ、自分こそ気づかなくてすみません。ご飯を食べましょうか」
黒木は地面に置いてある様々な深緑色の袋から一つを選び、日本語で『戦闘糧食Ⅱ型チキントマト煮、コーンスープ』と書かれた封を開けた。そこから更に大きな袋に中身を全て入れ、水筒の水を入れた。
すると、袋から湯気が立ち上がってきた。
しばらくしてから袋を開けて、持ってきていたカップに中身を移した。
「どうぞ、お口に合えばいいですけど」
黒木は出来上がった戦闘糧食をアリシアに差し出した。
アリシアはそれを受け取ると、添えられたスプーンを使って食べた。
「美味しい……」
目の前の食べ物は、アリシアが今まで食べてきた料理の中でとても美味しいものだった。
何より、温かい食事は久しぶりであった。一人で食事するようになってからは、いつも冷たくなった料理を食べて過ごしていた。それゆえ、アリシアにとって食事とは空腹さえしのげればいいものだった。
——温かい料理が、こんなに美味しいものだったなんて
長い間に忘れていたはずの記憶が、胸の奥で静かに蘇っていく。
アリシアは湯気が出ているチキントマト煮を、忘れたくない想いでかみ締めて味わった。
そんな姿を見ていた黒木は、笑みがこぼれていた。
「良かった。気に入っていただけたみたいですね」
一方、黒木は一緒に温めていたパックご飯を食べていた。
「クロキさん、それは?」
「これは日本の主食で米という食べ物でして」
「あ、いえ、その手に持っている物は一体?」
「これは箸といって、自分たち日本人が食事するときに使うフォークの代わりみたいな物です」
黒木は箸と呼んだ二本の棒をアリシアに見せた。
「クロキさんのお国って、変わった文化をお持ちなんですね」
「ははっ、まぁー他の国の人からすると、変わっているといえば変わってますかね」
アリシアの興味本位の問いに、黒木は苦笑交じりで答えた。




