第五話 地を駆けるもの(黒木視点)
未開拓地にある険しくそびえ立つ山に、轟音が響き渡る。その発生源である偵察用オートバイ二台が山道を走っていた。整備されていない道なき道を、卓越した運転技術で疾走していく。
その二台を追うように背後から迫るものがいた。額に一角を持つ全長二メートルほどの猪のような怪物が、荒い息を吐きながらオートバイを追走していた。
「隊長! まだ追って来てますよ!!」
「振り返るな、村井三曹! 逃げることに集中しろ!!」
先頭のオートバイに跨る黒木は、後続を走る部下の隊員を怒鳴りつける。アクセルを全開にして、少しでも迫ってくるものから距離を取ろうとした。
二か月前。
横浜港周辺に蜃気楼のような靄が突如として発生した。
次の瞬間、靄の中から無数の帆船やガレー船が出現して、湾内を覆いつくした。多数の船から放たれた砲弾は、近くを巡航していた観光船を沈め、沿岸部の建物を破壊していく。さらにヨーロッパ風の鎧を着た軍勢が小舟から横浜市に上陸すると、無差別に人や建物を攻撃していった。
警察や海上保安庁が対応に当たったが、彼らの武装では太刀打ちできなかった。
事態は急速に悪化し、ついに県知事の要請によって自衛隊が出動。制圧作戦が開始された。
後に『横浜事変』と呼ばれることになる、日本と異世界との最初の接触だった。
事態終息後、横浜港の海面上には異世界への『入り口』と思しき靄が残っていた。ドローンによる偵察を行った結果、向こう側の海を少し進んだ場所に陸地と思しきものが確認された。
この調査報告から日本政府は、『ポータル』の先にある世界へ、陸海空の自衛隊による統合任務部隊(JTF)を編成。空母運用能力を可能とした『いずも』型護衛艦を旗艦とした艦隊の派遣を下した。
一部野党からは『ポータル』を破壊する案も出たが、触れた物体が即座に向こう側へ転移する性質を持つ以上、破壊は極めて困難と判断され、この案は却下された。
黒木たち陸上自衛隊派遣部隊の任務は、上陸した陸地の拠点構築、周辺地域の偵察及び調査が割り当てられた。
上陸した陸地は海岸線こそ砂浜が続いていたものの、その奥は見渡す限りの密林で覆われていた。航空機やドローンによる上空からの偵察では、森の内部まで詳細に把握することはできない。
施設科(拠点や陣地を構築する部隊)による拠点陣地の構築が完了した後、黒木を小隊長とする普通科(歩兵部隊のこと)小隊の面々は、徒歩での偵察と調査を進めていた。
拠点周辺の調査をある程度終えた黒木に新たに命じられたのが、北側にそびえる山岳地帯の調査だった。
航空機などによる偵察の結果、その山を越え、森林地帯を抜けた先に集落らしき建造物が確認されていた。
ただ、そこへ行くにしても徒歩では限界がある。現地人をなるべく刺激しないため、爆音を響かせるヘリコプターの使用も極力避けたかった。
そこで黒木は、部下の村井三曹と二人で偵察用オートバイに跨り、山越えルートの探索に向かったのだ。
そして、現在。
山の中腹付近を走行していた最中、黒木たちはあの怪物と遭遇した。
持っていた20式小銃(自衛隊の制式アサルトライフル)で応戦するも、怪物の分厚い獣毛に阻まれて決定打を与えられない。その結果、今に至るまで怪物との逃走劇を繰り広げることになった。
「うわっ!!」
叫び声と同時に、村井三曹がオートバイごと転倒した。
「村井、大丈夫か!?」
黒木はオートバイを停止させて振り返る。横転した部下の背後には、すでに怪物が迫っていた。
(このままじゃ、やられる……!)
黒木は咄嗟にホルスターから9ミリ拳銃を取り出し、怪物の顔面を狙って三発撃ち込む。いくら獣毛に覆われているといえど、生物であれば目や鼻先を露出している部分があり、急所となりうる神経があると踏んだ。
「ガウゥ!!」
銃弾を受けた怪物は砂煙を上げて横転し、苦しげに地面を転げ回った。
「何をしている! 早く立て!!」
「りょ、了解!!」
村井三曹はオートバイを起こそうとするが、無線機などの装備を積んだ車体は重く、なかなか持ち上がらない。
黒木が駆け寄ろうとした、その時。怪物が再び立ち上がり、こちらを睨みつけていた。
(……こうなったら!)
黒木は拳銃を構えて、顔周辺を重点的に撃ち続ける。怪物は顔を背けながら、後退していった。
「村井三曹! 先に行け!! こいつは俺が足止めする!!」
「し、しかし隊長!」
「命令だ! 俺に構わずに行け!!」
黒木は銃撃を続けながら、部下に向かって叫ぶ。
村井三曹は歯を食いしばり、オートバイを起こして跨る。
「隊長! 必ず戻ってきてください!」
村井三曹はそう言い残し、下山する道を走っていった。
黒木は弾倉内の弾を全て撃ち尽くすと、怪物を牽制するようにエンジンを吹かし出した。
「こっちだ、化け物!」
黒木は部下が逃げた方向とは逆へ、少しでも部下から離すために山へ登る道を走り出した。
案の定、怪物は狙い通りに黒木の後を追ってくる。
やがて鬱蒼とした草木から抜け出して視界が開けると、目の前の地面が途切れていることに気づいた。
「——っ!」
黒木は慌てて急ブレーキをかけ、重心を傾けて何とか停止する。オートバイは崖の縁、ぎりぎりの位置で止まった。
眼下には岩肌の露出した斜面と、その下を流れる川が見えた。
危うく落ちるところだったと安堵していると、
「グオオオォ!!」
横から怪物がすぐそこまで迫ってきていた。
(しまっ——)
回避は間に合わなかった。
衝撃と共に黒木はオートバイから投げ出された。斜面を転がり落ち、そのまま川へと落下した。
「……うぅ……が……」
混濁する意識の中、黒木は状況を確認しようとした。
川に落ちた時に偶然流れていた倒木に掴まり、溺死は免れたらしい。
しかし、滑落時に骨折をしたためか、両足に力が入らなかった。岸らしきものを見つけると、両手で水をかいて何とか川から這い上がった。
そして、背嚢と装備品の重さ、身体中の痛みと疲労によってその場に力尽きてしまった。
「——」
かすかに、誰かの声が聞こえた。
「……があっ!」
不意に身体を触れられ、全身に激痛が走る。恐らくあばら骨を折っているのだろう。呼吸するのも苦しく、肺も損傷している可能性も高い。
(俺……死ぬのか……?)
自分の命の灯が尽きかけているのを、黒木は静かに悟っていた。ただ、不思議と死への恐怖はなかった。
(これで……いい……ようやく……あいつに……償える……)
黒木が自らの運命を受け入れかけた、その時。身体から、じんわりと温もりが広がっていくのを感じた。
身体中の激痛が、まるで何事もなかったかのように静まっていく。
(何が……起きて……)
そう思った瞬間、彼の意識は静かに途切れた。




