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三 花の名を



 * * * 



 さて、月草の姫が後宮に召し上げられてからというもの、宮中に蔓延る病が消え失せたとの噂が広まっていた。


 入内してすぐ月草の姫の元に帝のお渡りがあり、帝は大層姫を気に入ったそうで、今ではその寵愛を一身に授かっている。


 渡りの翌朝は、他の姫達と同じように白い肌をさらに青白くしていたものの、食事を摂ってよく眠ったあとはすぐに元気になり、月草の姫は健康そのものだったそうだ。

 ほどなくして後宮の女達も元気を取り戻し、帝が物の怪に取り憑かれているという噂も聞かなくなった。


 元気になれば活気が増し、帝が召し上げるのもお渡りになるのも月草の姫の元だけなので、女達の嫉妬すら姫は一身に受けていた。



「すべて私のおかげでしょうね。貴方の邪気が宮中に蔓延していたので祓って差し上げたら、皆元気になりました」


 季節が移り変わり、庭先で咲く花もムラサキから菊の花となった頃、モミジが紅く色付きはじめた。

 秋の匂いを運ぶ風が千草の頬を撫でると、手にしていたお茶を啜って一息つく。


「お前のせいで後宮の居心地が悪くなった」


 庭を眺めて座る千草の横へと、文句を言いながら帝が腰を下ろす。まだ明るい時間にも関わらず帝は月草の姫の元に渡り、人払いをしてゆったりとした時間を過ごしていた。


あかつき、貴方の邪気をあのまま放っておいたら、いずれ人が居なくなっていましたよ」


「それもいい。お前だけ残れば充分だ」


「帝の御座す御殿をなんだと思っているんですか」


「此処は欲に塗れた人間が多すぎる。喰って減らせばお前が怒るからと、我慢してやっているんだぞ」


 千草の肩に腕を回して胸元に引き寄せた鬼は、暁という名に相応しい赤い瞳を悪戯に細めた。


「毎夜私を食べているんですから、いいじゃないですか」


「血を啜っているだけだろう」


「だけ、ですか。こちらは貴方のおかげでいつも貧血気味ですよ」


「頭から足の先まで喰い尽くしてやろうか? お前がどんなふうに鳴くのか、そろそろ確かめてみたい」


 暁の言葉に千草は目を丸くすると、引き寄せられた腕の中で僅かに身体を仰け反らせた。


「……どういう意味で言ってます?」


「私の子を孕め、可愛い姫よ」


「ははは、私が男だということをお忘れですか? それとも男色の趣味がお有りでしたか」


「男も女も、美味ければそれでいい」


「……そうですか」


 呟きながら暁の腕を持ち上げて離れようとすれば、すかさず腰を掴まれ背後から腕の中に閉じ込められた。

 千草の長い黒髪を掻き分け、剥き出しになったうなじに暁の唇が触れる。


「ちょっ……まだ昼間ですよ……!」


「お前の肌の匂いは花のように私を誘う。真の名を明かすなら、やめてやってもいいぞ」


 思わぬ提案に口を噤むと、物言わぬ千草の首筋に暁は鋭い牙を突き立てた。痛みに小さく呻く千草を逃がさないように更に引き寄せ、じゅるじゅると血を啜りあげていく。


 初夜の日から、暁は名を求める。鬼が自らの名を明かした時も訊ねられたが、千草は決して己の名を口にしなかった。

 術師は真の名を明かさない。名は時に呪いの媒介となるからだ。


 生まれた時に与えられた名を、呼ぶ者はいない。大した名前ではないが、多少の寂しさを感じないわけでもなかった。


「っ……待てっ、脱がすな……!」


 慣れた様子で着物の上掛けを肩から下ろす暁の手を掴み、千草は慌てて身じろぎした。途端、千草の視界がぐるりと回る。

 昨夜も血を吸われ、今もまた吸われては血が足りなくなるのは当然だった。この鬼は加減を知らないのだ。


 ふと気が付いた時には、暁の膝に頭を乗せて仰向けに寝転んでいた。


「起きたか?」


「……なんですか、この状況は」


「お前が意地を張るから、血を吸いすぎたようだ」


 寝転んで見上げた暁の顔はいつも通り美しく、この世の者とは思えなかった。

 額に置かれた手は温かく、人のそれと変わらない。


 帝を喰い殺し、帝に成り代わる悪しき鬼。この鬼の手から逃れ、一族総出で鬼を殺すことならできるかもしれない。


 それをしないのは何故なのか。単純な答えしか見つからない。



「暁……白状します。私は美しいものが好きなのです」


 唐突に呟かれた千草の言葉に、暁は眉を寄せた。


「なんだそれは」


「好きなんですよ、美しいものが」


 怪訝な顔で首を捻る暁から顔を背けて、千草は寝転んだまま庭を見つめた。

 風に揺れるモミジが擦れ合う音を奏で、ひらりと葉が舞い落ちる。どこからともなく仄かに漂う香の匂いは、秋らしい菊花きっかだろうか。


 術師が祓うべき鬼とこれほど穏やかな時間を送っているなど、父に知れればどうなることか。それこそ鬼になってしまうかもしれない。

 父の鬼のような形相を思い浮かべて、千草は思わず身震いした。


「寒いか、千草」


 聞き馴染みのいい低く静かな声が降ってくると、同時に暁が肩に羽織っていた上掛けを腹の上に被せられた。

 微かにぬくもりを感じるそれは、暁の体温そのものだ。

 寒いのではなく怒り狂う父の顔を思い出して震えたのだとは、言えそうにない。


 ──千草。千草は私の名ではない。


 絆されているのだろうか。所詮は鬼の食い物であるはずの自分が。


 こちらを見下ろす赤い瞳から目を逸らせば、千草の唇はいつの間にか言葉を紡いでいた。



「──なつめ


「なに?」


「貴方の御殿の庭に、棗の木を植えてください。小さな花も咲きますし、実は薬にもなります」


 庭のモミジに視線を向けたまま淡々と話す千草の様子に、暁は考えるように顎を摩った。


「……なるほど、棗か」


 ──いい名だ、と暁が囁いたので、名前ではないと反論しようと思ったが、そうもいかなかった。


 目の前にある暁の顔を見て、一瞬頭が真っ白になる。微かに触れた柔らかな感触を確かめるように、()は指先で自身の唇をなぞった。


「棗、私はさぞお前の目に美しく映っているのだろうな?」


 蠱惑的な笑みに見下ろされ、棗の顔はみるみるうちに赤みを帯びていく。耳まで赤く染まったところで、再び顔を庭先の方へと向けた。


「……自惚れないでくださいよ」


 頭上で降り注ぐ心地よい笑い声が鬼のものだと、誰か想像できるだろうか。


「棗、私の庭にお前の木を植えてやる」


 数年かけて、木は大きく育っていく。花が咲き実を付ける頃までは、その木の成長を見守れたらいいと──密かに願うことにした。




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