二 血香る花
耳にかかる熱に千草がぴくりと肩を震わせると、冷たい何かが首筋にあてがわれた。その正体に思い至る前に、柔らかな皮膚を貫く痛みが千草を襲った。
「はっ……」
ずぶと肉に埋め込まれたものが帝の鋭い牙であると気付いた時には、不快な水音とともに帝の喉が鳴る。
(血……血を吸っているっ……!)
香に混じって立ち昇る血の匂いに眩暈を覚えた千草は、血が滲むほどに自らの唇を強く噛み締めた。痛みによって意識を保ちながら、震える両手を胸元で組んで素早く印を結ぶ。
印に合わせて頭の中で呪文を唱え終えた刹那、千草と帝の間に青白い稲妻のような光が駆け抜け、バチッと激しい音を鳴らして瞬いた。
「くっ……!」
稲光りの衝撃を受けた帝は大きく仰け反り、呻き声をあげて顔を両手で覆った。
帝の手から解放された千草はなんとか上体を起こし、御帳台の中で後退る。押さえた首筋からは血が流れ出ていた。
「主上っ……まさか血吸いの鬼だったとは……!」
息を荒げて目の前の帝を見据えると、千草は言葉を失った。帝の解けた長い髪が、みるみるうちに光沢のある白へと変わっていく。
「なんと……面妖な……」
掠れた声で呟く千草を他所に、顔を覆っていた帝が喉を鳴らして笑いはじめた。地を這うような笑い声はぞっとするほど不気味に響き渡り、人ならざる者の不穏さを滲ませる。
「有明の姫は術師か……いや、姫ですらないようだ」
顔を覆っていた帝の手が付着した唇の血を拭い、真っ赤な瞳が蠱惑的に細められた。
(帝の顔が……)
灯りに照らされた帝の顔は、先程までとはまったく違うものになっていた。この世のものとは思えない美麗な男が、漏れ出る色香を放ちながら笑みを湛えている。
(これが、鬼……)
千草は困惑した。この状況において、鬼に目を奪われてしまう自分自身に。
「困ったものだ……この私を謀る者が現れるとは……。荷葉の匂いで誤魔化していたのか? 血を飲むまでお前が男であることに気付かないとは、恥をかかせよって」
責めるような鬼の口調に千草は眉を寄せると、肌けた衿元を直して露わになっていた平らな胸を隠した。
「……鬼が化けていたのですから、お互い様でしょう。主上はどこに居られるのですか」
「此処にいるだろう。私が帝だ」
「鬼が帝? なにを言って……」
そこまで口にして、千草は美しい鬼の顔を凝視した。嫌な汗が背筋をつたい落ち、指先から体温が失われていく。
おぞましい想像が脳裏を掠めると、鬼が牙を見せてせせら笑った。
「お前の想像通り、帝などとうに喰ってしまった。最早骨すら残ってはいない。よって、私が帝だ」
さあっと血の気が引いていくのと同時に、千草は印を結ぼうと両手を合わせた。しかし術を唱える前に鬼は再び千草を組み敷き、その両手を頭上で掴み上げた。
「同じ手に掛かるものか。お前はどう見ても男のようだが、何者だ。有明の姫はどこにいる? 存在しない姫を私に寄越したのか?」
「……姫は私の可愛い妹でしてね。物の怪と噂の帝に差し出すことなど、できるはずもありません」
「命知らずな……帝が本物であったなら、お前の首は飛んでいただろう」
「その時は、睦み合う前に眠らせて差し上げようと思ったのですよ」
鬼に組み敷かれたまま淡々と答えた千草は、鬼の赤い瞳を見据えた。
「……このまま私を食べますか?」
くくっと、鬼の喉が鳴る。噛まれて穴の空いた首筋に指先を滑らせ、べったりと付いた血を広げるように千草の肌に塗り付ける。
「お前も知っているだろう? 私が血を吸い、種を注ぎ込んだ者は皆身体を壊す……つまらん者達だ。鬼の子を孕むこともできない者しか此処にはいない」
「後宮は鬼の子を孕ませる場ではありません」
「そう……お前だけだ。血を啜っても生意気な口をきけるのは」
鬼は愉快そうに言いながら、指先に付いた血を舐めた。
「はは、ではこのまま見逃していただけますか。それともまさか、私に寵愛を授けてくださるのですか」
戯れ言とばかりに乾いた笑いを漏らせば、鬼が目を細めた。
「それも悪くない。お前の血は花の蜜のようによく香る。私にその血を与え、鬼の子を孕むがよい」
「……なにを莫迦なことを。男は孕めません」
「女の胎とすげ替えればいい」
鬼の手が夜着の上から腹を撫でたので、千草はぞっとした。そんなことはできるはずがないと反論したくても、帝を喰ってしまった鬼ならば可能なのかもしれないと思うと肝が冷えた。
「一思いに食べてください。鬼の寵愛などいりません」
「ならば、お前の妹を寄越せ。元より帝のものだろう」
軽々しく放たれた鬼の言葉に、一瞬にして千草の頭には血が昇った。こめかみに青筋を立てて鬼を睨み付けるその表情には、愛らしい月草の姫の面影はどこにもない。
「妹に手を出せば、お前を呪詛で呪い殺す。妹に仕掛けてある呪詛は私が死んでも発動し、呪いは消えることなくお前を蝕むだろう」
「……鬼を呪い殺すか。ますますお前が欲しくなった」
脅しすら愉しそうに受け入れる鬼を見て、千草は眉間に皺を寄せて黙り込んだ。
両手を拘束されては為す術もない。鬼との力量の差は明らかであり、妹を護るために仕掛けておいた呪詛こそがもっとも強く、自分が死んでこそ恐ろしい呪いとなって発動する。捨て身でしか勝ち目のない相手だと悟ると、急にすべてに諦めがついた。
秘匿された術師である貴族の親の元に生まれ、二男として術を学びながら奔放に生きてきた。後宮における帝の不穏な噂は耳にせよ、自分には関係のないことだと高を括っていた。まさか妹の千草に後宮入りの話が出るなんて、まったく予想もしていないことだった。
後宮に召し上げられた女達は、帝と閨を共にしたあと屍のようになると聞く。そんなところに可愛い妹を送るなど、おぞましいことだった。
女は普段、他人に顔を見せない。帝に顔を知られていないのであれば、どうとでもなる。妹とは顔も似ていたことが、背中を押した。妹の身代わりとなって後宮に入り、帝が本当に物の怪に憑かれている場合は祓ってしまえばいい。
愚かだった。けれどその愚かさゆえに、妹を鬼の元に送らずに済んだ。
「……ではこうしましょう。帝には正妃との間に御子がお一人います。御子が新たな帝として即位できるお歳になるまで、私は貴方のものになりましょう。鬼がいつまでも帝を騙るなど、到底見過ごすことはできませんから」
「この私に図々しくも条件を付けるというのか」
「それが無理なら、私をこの場で殺してください。貴方が私を殺さずとも、私は己を殺す手段は持ち合わせています」
千草は澄んだ眼差しで鬼の赤い瞳をじっと見つめた。
戦っても勝ち目はない。逃げれば追われ、家族にも危害が及ぶだろう。この場で死ねば、もしも妹に手を出されても呪詛が発動する。どうせ惨めに生きるのなら、近くで鬼を見張るのが最善の選択だ。
すっかり死を受け入れてしまった千草を見下ろしていた鬼は、観念したように拘束していた千草の手を離した。
「まあ……いいだろう。帝というのは退屈でな。飽きれば皆食い殺してやろうと思っていたところだ」
「飽きても食い殺すのは私だけにしてください」
溜め息混じりに言いながら千草は身体を起こすと、掴まれて赤くなった手首を摩った。振り解けないほど強く掴まれていたので、明日には痣になっていそうだ。
「それで、お前は名をなんという」
「千草とお呼びください」
「それは妹のものだろう」
「術師というのは、真の名は明かさぬものですよ。それに……この後宮において、私は月草の姫、千草です。主上」
紅の引かれた女の顔で微笑む千草に、鬼は呆れたように眉をひそめたのだった。