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一 香る月草


「私はあのお方が恐ろしいのです」


 高灯台で燃える小さな火がぼんやりと照らす室内で、長い黒髪を櫛で梳く侍女の囁きが微かに震えた。


 帝の御座おわす御所に入内したばかりである月草の姫こと千草ちぐさは、侍女の言葉が示す人物を思い浮かべて、紅で色付いた唇を薄く持ち上げた。


「そのようなこと、口にしてはなりません。誰が聞いているかも分かりませんよ」


 人払いをしたとはいえ、夜も深まれば辺りは闇に包まれ、二人の囁き声だけが静寂のなかで音を成す。

 月のないこの夜は不気味なほどに静かで、風の音もしなければ虫の鳴く声すら聴こえてこず、帝の渡りを待つ女達の息遣いまでも耳に届きそうだった。


 絹のように滑らかな千草の髪を梳き終えた侍女は、震える手で主人の手を優しく包んだ。


「帝がお渡りになります。姫さま、御心の準備はよろしいですか」


「準備など、最初からできています。帝がお越しになられたら、そなたは他の者達とこの殿舎を離れなさい。夜が明けるまで、戻ってはいけませんよ」


 肩に羽織っている上掛けの柄を覆い隠す黒々とした長い髪を揺らして、千草は柔らかく微笑んだ。まだあどけなさの残る少女の顔には好奇心が見え隠れし、無垢な瞳はなんの恐れも宿していなかった。



 帝のご様子が変わられたのは、三年程前からだと伝え聞いていた。

 最初の異変は、正妃が身籠っていた二人目の子を死産したことから始まったそうだ。予後が悪く寝たきりとなった正妃は今もなお床に臥しており、穢れが付くという理由から帝が見舞うこともなく、一時実家へと戻り静養することとなった。

 それからというもの、後宮に召し上げられ、帝と閨を共にした女達は皆一様に身体を壊すか心を病み、命を落とす者すらあったという。帝の子を孕むどころか命が危ういとなれば、権力欲しさに娘を入内させることを躊躇う者も出てきていた。


 そして更に周囲の者にとって不可思議だったのは、女達の誰一人として、帝との閨房けいぼうでの睦言を覚えているものがいなかったことだ。



(さて、どうなりましょう)


 御簾みすの向こうで足音が止まると、千草は長い睫毛を伏せた。

 帝の渡りを報せる声が届き、御帳台みちょうだいの帳がゆっくりと捲れる。音もなく帝が足を踏み入れると、帳の外の明かりがふっと消え失せ、人の気配もなくなった。しとね近くで灯る小さな明かりを頼りに、千草は帝を見上げた。


 初めて対面する帝は、思っていたよりも背が高く、真っ黒な長い髪を片側に寄せて編み込んでいた。その場に居るだけで感じる威圧感は、貴族のそれともまた違う。しかし入内する前に噂で聞いていた通り、良くも悪くも帝の顔立ちは平凡だった。特徴がない分、不快感を抱くこともなく、夜が明ければ早々に忘れてしまいそうなほど、輪郭が薄ぼんやりとして見えた。


 こんなことを考えるのは不敬だろうかと、頭に浮かんだ考えを振り払う。


「どこの娘だったか」


 落ち着きのある静かな低い声が降ってくると、千草は床に手を突き頭を下げた。


有明ありあけの月、夜一よるいちの娘の千草にございます」


「……月の者か」


 呟きのあと、衣擦れの音とともに帝が腰を下ろした。


「顔を上げよ。よく見せてくれ」


 言われるがままに千草が顔を上げると、仄暗い帝の瞳と目が合った。腹の底まで見透かすような視線が顔から全身へと注がれ、背筋が寒くなる。


「月の者は美しいと聞くが、お前もそのうちの一人のようだな」


 帝は唇の端を僅かにあげると、千草の艶めく黒髪を一房掬いとった。


「悪い噂が宮中に広まっているらしい。私が恐ろしいか、姫よ」


 帝からの思わぬ言葉に、千草は息を呑む。帝が物の怪に憑かれているのではないかという噂は、本人の耳にも届いていたようだ。

 例え顔立ちが平凡であっても、帝は帝。上に立つ者の威厳と気品が、千草を無意識に緊張させる。

 果たして帝の不興を買うことなく、この話題を切り抜けられるだろうか。


「いえ……そのようなことは決して……」


 控えめに囁き、袖で口元をそっと隠す。千草の心配など露知らず、帝は気にする様子もなく口を開いた。


「どちらでも構わん。次から次へと女達が倒れているとあれば、私を物の怪と疑う者が現れても無理はない。有明の夜一は、よく娘を入内させる気になったものだ」


 薄い唇が吊り上がるのを見れば、平凡だと思っていた帝の顔が突然妖しい美しさを纏ったような気がして、千草は目を瞬いた。

 闇を灯すささやかな明かりのせいだろうか。先程よりも帝の輪郭がはっきりと見えるようだった。


 帝は掬いあげた千草の髪に鼻先を寄せると、形のいい眉を動かした。帝の体温を感じるほどの距離に、千草は身じろぎひとつできなくなる。


荷葉かようか……私と居るときは、余計な香りは必要ない」


 焚き付けておいた香の匂いは帝の好むものではなかったかと、一瞬ひやりとした。


「……主上はどのような香りがお好きでしょうか。貴方様のお好きな香りを身に纏いたく思います」


「なんともいじらしいが、その必要はない。私はお前の肌の匂いを確かめたいのだ」


 帝は息を漏らして笑うと、千草に覆い被さるようにして絹の褥に組み敷いた。垂れ落ちる帝の編み込まれた髪が耳を擽り、いよいよ始まるのだと唇を引き結ぶ。


 帝の手が夜着の衿元を掴んで左右に開くと、千草の白く滑らかな両肩が露わになった。恥じらう仕草で胸元を腕で隠した千草は、灯りを遮って自分を見下ろす帝から顔を背ける。


「案ずるな……痛みを感じるのは最初だけ。後に待つのは得難い恍惚だけだ」


 柔らかい声音で帝は囁くと、千草の顎を掴み、逸らした顔を正面に向けた。


「……しかしそれすらも、夜が明けてしまえば覚えてはいないだろう」


 はっとして、千草は目を見開いた。帝の瞳が暗がりの中で光を放つように真っ赤に染まり、その妖しい輝きを目にした途端、身体の自由が効かなくなっていた。


 硬直して動けずにいる千草の顎を掴んだまま帝は首筋に顔を埋めると、滑らかな肌に唇を寄せる。ぬるりと濡れた舌が肌を這い、香りを確かめるように息を吸い込んでは、帝の吐息が荒々しくなっていく。


「さて、姫よ……お前はどこまで耐えられる?」



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