ふう ―本題―
「佐藤先輩、お疲れ様です」
オフィスビルの休憩所、一息入れていた佐藤に明るく声を掛けたのは、後輩の鈴木です。この、ややがさつな先輩とちょいと変わり者の後輩は、存外相性が良く、たまーに飲みに行ったりする仲です。
「ああ鈴木か、お疲れ……」
「どうしたんすか、先輩。随分疲れてないすか?」
よく見りゃ、佐藤の目の下にはくっきりと隈が浮いてる。手にした缶コーヒーに目を落とし、佐藤はあくびをかみ殺します。
「昨夜、あんま寝てないんだ。どうも最近、夢見が悪いっつーか……」
「夢ですか。例えばどんな?」
思いの外食いついてきた後輩を意外に思いつつ、昨夜の夢を思い出そうとする佐藤ですが、ぼんやりとも思い出せない。
「それが、起きたら忘れてんだよな。怖い、嫌な夢ってことは分かるんだけど。まあ、夢なんてそんなもんだろ」
投げやりな佐藤の言葉に、何やら考え込む鈴木。沈黙が続き、そろそろ席に戻ろうかと佐藤が缶コーヒーの残りを飲み干した時です。
「先輩の見る悪夢、僕に売ってくれませんか?」
「え?」
「一夢三百……いえ、五百円でどうですか?」
何言ってんだコイツ……と、佐藤が呆れ顔で後輩を見ると、鈴木の顔は真剣そのもの、大マジ、何なら、仕事中より真剣な位じゃあありませんか。これまでも、ちょいと変わったヤツだとは思ってましたが、ちょいとどころか本格的に変わり者だと佐藤は確信します。
会社の先輩として、そしていい歳の大人として、はっきりと鈴木に指摘してやることにしました。
「いいか、よく聞け。夢なんて、売り買い出来るもんじゃないだろ」
「え、そうっすか……?」
きょとんとする鈴木の言葉に、佐藤が困惑します。そりゃそうでしょう、何せこれまでの佐藤の人生で、夢の売り買いなんて話は聞いたことが無い。眉を顰める先輩に気付かず、鈴木はぐいぐいと話を進めます。
「実は僕、半年前からペットを飼い始めたんです」
「何だ、突然」
突然の話題の転換に佐藤はただただ困惑しますが、鈴木はお構いなしです。
「その子が超かわいくて賢いんすよ。僕にべったり懐いてて、寝る時になると僕の枕元にいそいそやって来るんですけど、その仕草が……」
眠気覚ましにちょっと一服、と思って離席しただけなのに、このままじゃあ、鈴木のペット自慢を延々と聞き続ける羽目になりそうだ……佐藤は慌てて口を挿みます。
「お前のペットが可愛いことはよーく分かった。で、それが、さっきの話と何の関係があんのよ」
スマートフォンにちらちら目を遣り時計を確認する佐藤……時間が無いというアピールですな。そんな先輩のアピールを鈴木は華麗にスルー。
鈴木は周囲をきょろきょろと見回し、佐藤にちょいと顔を寄せます。
「先輩、『獏』って知ってますか?」
「バク? あれだろ、マレーシアだか何だかに棲んでる奴だろ。何、まさかお前、あんなデカい動物飼ってんの? つか、バクって一般家庭で飼って良いの?」
つい声が大きくなった佐藤に、「しっ」と唇に指を立てる鈴木。佐藤も慌てて周囲を見回しますが、幸い近くにはだーれも居りません。
「何言ってんすか、良い訳無いでしょ。ワシントン条約に引っかかりますよ。違います、僕が言ってるのはtapirじゃなくて獏。夢を食べる獏ですよ」
「いや、お前こそ何言ってんだ」
佐藤がツッコミますが、またもや鈴木はスルー。スルースキル上級者は続けます。
「割と大変なんすよ、獏を手に入れるの。まあ僕は、運良く知り合いのブリーダーさんに譲って貰えたんすけど」
鈴木の話によると、獏ってのは隠れた人気のペットで、しかも日本に数人しかい居ないブリーダーから譲って貰うより無いもんだから、順番待ちが凄いんだとか。鈴木の場合は、偶々、時季外れに生まれた子獏を譲って貰うことが出来たんだってことでした。
話を聞きながら、佐藤は内心腹を立てていました。こんな与太話を聞かされるなんて、自分はこいつに馬鹿にされてるのかと、後輩を睨みます。が、鈴木はいたって真剣な面持ち。何だかちょいと気味悪くなってきました。
「ああそう、そりゃ良かったな」
あからさまに話を終わらせたい佐藤の意を酌むことなく、鈴木は大きく頷きます。本当にスルースキルが高い。
「そんな訳で、先輩の夢を売って欲しいんです」
「何が、『そんな訳』なんだよ」
「だから、リアちゃんに上質な悪夢を食べさせてあげたいんですよ。あ、『リアちゃん』って言うのはうちの獏の名前です。『リアル』のリアちゃん」
「何でまた、そんな名前を……」
鈴木のネーミングセンスはさて置き、どうやら、こういうことのようでした。
獏は雑食で、普段はドッグフードを与えている。だが本来は、夢、中でも悪夢を好んで食べる。悪夢を食べさせてやる程良く育ち、毛艶も良くなる。当然、悪夢の質が高い程獏の健康にも良い。
獏にとっちゃ、悪夢は良い事尽くしのサプリメントみたいなものなんでしょう。
「別に、夢を食べなくても生きていけんだろ。お前が悪夢を見るまで、ドッグフードでいいじゃねえか」
「そういうもんじゃないんすよ」
何やらロックの歌詞みたいな佐藤の科白に、鈴木がやれやれ……ってなポーズを取ります。イラッと来ましたが、佐藤は黙って後輩の話の続きを聞いてやります。
「僕、以前は毎晩悪夢にうなされてたんす。寝ても全然疲れが取れないし、起きてる間ずっと眠くて……でも、リアちゃんに悪夢を食べて貰うと、寝起きが最高に気持ち良いんすよ。凄く爽やかで、世界が輝いて見えるっつーか」
おまけに、毎日食べて貰ったお陰でネタが尽きたのか、あれだけ毎晩のように見ていた悪夢も最近じゃすっかり見なくなり、眠りの質が上がったせいか、今でも悪夢を食べられた後の気持ち良さがずっと続いてるんだとか。
確かに以前の鈴木は、昼行燈の方がまだ使えるって位にぼんやりとした男でしたが、ここ数か月程で別人の様に仕事が出来る様になった。心なしか顔も姿勢もすっきりとして、羨ましいことに女子社員からの評判も上々らしい。
そんな夢みたいな話があるか、とは思うものの、鈴木が突然「デキる男」になったのは事実なもんですから、佐藤にも段々と話が真実味を帯びて感じられてきました。
と、さっきまでの勢いはどこへか、鈴木の顔が曇ります。
「けど僕が悪夢を見なくなったせいか、リアちゃん、このところ元気が無くて……だから、先輩の悪夢を僕に売って下さい。食べさせてあげたいんす!」
鈴木が勢いよく頭を下げます。成程、元気のないペットの為にこんな奇天烈なことを言い出したのかと、漸く納得がいった佐藤。実家の犬を溺愛している身として、鈴木の気持ちはよーく分かる。
まあ、ほら話だったとしても、自分は悪夢を売る立場ですから、一夢五百円貰えるなら、その金で缶ビール一本とちょっとしたつまみでも買えばいい。飲んで寝ちまえば悪夢だって見ないかもしれない訳で、つまりは佐藤に損は一つもありません。
「分かった。売ってやる」
「マジっすか! あざーす!」
「けど、次にいつ悪夢を見るかなんて俺にも分からんぞ」
「あ、大丈夫っす、先輩ん家の住所さえ教えて貰えればOKなんで」
「は? まあいいや、○○町123‐4、安間荘5号室だよ」
「○○町123‐4、安間荘5号室……っと。了解です。一応、僕の住所も教えときますね……はい、どうぞ。そのメモ、落としたりしないで下さいよ」
「え、何、お前、泊りに来る心算? それとも、俺に泊まりに来いってか?」
「行きませんし、来ないで下さい。まあまあ、先輩はいつも通りにしててくれればいいんで。あ、代金は現金で良いですよね?」
何だかよく分かりませんが、自分は普段通りに寝起きすりゃいいだけらしい。佐藤が曖昧に頷くと、鈴木は五百円を差し出し、「じゃ、僕、資料作りに戻ります」と、とっとと行っちまいました。
鈴木の背をぽかんと見送っていた佐藤も、慌てて仕事に戻ります。そして、忙しさから、鈴木との会話なんてきれいさっぱり忘れちまいました。
さて、佐藤が昼の約束を思い出したのは、仕事帰りに、ポケットの小銭がやけに多いことに気付いた時のこと。
(そういや、鈴木と変な約束したっけ)
アパートに帰り、しっかり戸締りして、冷凍しておいた白米で卵かけご飯をかっこみ、ひとごこち。シャワーでさっぱりした後、途中のコンビニで買ったビールとミックスナッツで一杯やってると、あっという間に眠気に襲われます。ベッドで横になった途端、佐藤の意識は途絶えました。
丑三つ時をいくらか過ぎた頃、佐藤がうなされ始めました。悪夢を見始めたんでしょう。
夢の中の佐藤は、薄暗い密室で小指の先ほどの芋虫の大群に襲われておりました。振り払っても振り払っても、袖や裾、胸元から虫が侵入してきます。潰せば潰した分だけ増えるそいつ等に飲み込まれそうになった、その時。
すうっ
吐息の様な音と共に、芋虫は一匹残らず消えておりました。視界が明るくなり、いつの間にか、爽やかな風が吹き抜ける美しい草原で、大の字になってることに気付きます。
(なんて気持ちが良いんだ)
深呼吸し、目を閉じた佐藤。そのまま夢の中で眠りに落ち……
ピピピピピピ。
目覚ましのアラームで目覚めた佐藤は、今迄感じたことが無い晴れ晴れとした自分に驚きます。
まず、身体が軽い。前日の疲れなんてこれっぽっちも残ってない。視界も心なしかいつもよりも鮮やかだし、頭の中だって、脳みそを入れ替えたんじゃないかって位にクリアです。得も言われぬってのは、こういうことなんでしょう。
がばっと起き上がった枕元には、鈴木の住所が書かれたメモが一枚。よく見ると、『ごちそさま』と、ミミズののたくったような字が書き足されてる。戸締りは万全ですから、侵入者が居る筈が無い。とすれば、自分が寝ぼけて書いたのか、それとも……
(……本当に、獏が?)
どうやら鈴木はそらを言った訳じゃなかったらしい。メモに書かれた字は勿論のこと、目覚め心地の良さは聞いてた以上なもんですから、半信半疑は確信へと変わります。
(鈴木じゃないが、今ならなんだって出来そうだ)
一種の万能感とでも言やあいいんでしょうか、ありとあらゆるマイナス要素が身体から無くなって、本来以上のパフォーマンスを発揮出来るという確信。世界は自分の為にあるんじゃないかとすら感じられる。佐藤は珍しく朝食なんぞを拵えて、気分良く仕事に向かいました。