皇帝崩御
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──皇帝崩御
ニーベルング帝国皇帝マクシミリアンが病のため崩御した。
既に立太子を済ませていたヴィルヘルムが皇帝に即位し、帝国は新しい時代を迎えた。それが明るいものかどうかは別として。
「ふわあ。再三たる契約不履行。流石のベルちゃんもちょっとおこですよ?」
ヴィルヘルム即位後も彼の相談役としての地位を得ており、正式に枢密院議長にまで昇格したフリードリヒの執務室で、ベルフェゴールが大きな欠伸をして、不満そうにフリードリヒを眺めていた。
「か、必ずや! 必ずや生贄を捧げさせていただきます! 今は猶予を!」
だが、その男はひとりの少女を前に頭を床にこすりつけている始末だった。
「前にもそう言ってましたよね? 今度こそはって。ベルちゃんは失望しました。せっかく皇帝まで“殺して”あげたのに、いつまでも対価が支払われないのは、ベルちゃんとっても悲しいです」
そう皇帝の死もベルフェゴールの仕業だった。
彼女は皇帝を病に倒れさせ、徐々に弱らせていき、そしてトドメを刺した。
「感謝しております! 真に感謝しております! それで、生贄の件なのですが……アーデルハイドが見つかりました」
「ほうほう?」
ベルフェゴールが興味を示す。
「何しろ、ヴァルトラウトを拉致したのがアーデルハイドなのです。あの小娘が生き残り、帝国親衛騎士団の騎士たちを殺し、ヴァルトラウトを拉致し、手に掛けたのです。あの忌まわしい娘の仕業だったのです」
「ほうほう。それで?」
ベルフェゴールがただそう尋ねる。
「アーデルハイドの魂を捧げます。今は憎み合っている関係なれど、幼少期には私はあの娘に愛情を注いでおります。きっと生贄として気に入っていただけるかと……」
「うーん。どうしましょうか」
ベルフェゴールが枕を抱きしめて考え込む。
「まあ、いいですよ。それで決まりです。必ず、必ずですよ。必ず、あなたがあなたの手で生贄を捧げてください。それ以外のやり方は認めません。ただ死んだのでは、またぞろどこぞの悪魔にかっさらわれるのか分かりませんからね」
ベルフェゴールはそう言ってクスクスと小さく笑った。
「ヴァルトラウトの魂は……? 娘の魂は……?」
「取られました。他の悪魔に。あーあ。あなたが自分の手で殺さなかったせいです。簡単なことではないですか。ナイフを心臓に突き立て、腹を裂き、中の赤子を殺す。ただそれだけのこと。どうしてできなかったんです?」
「それは……」
「罪を恐れたから。自分の手を汚すことが怖いから。あなたはいつも他人に殺させる。息子や娘たちを利用する。帝国親衛騎士団を利用する。決して自分の手を血で染めようとはしない。臆病者ですよ、あなたは」
ベルフェゴールは淡々とそう言ってにやりと笑った。
「ですが、そういう人間だからこそ、意を決して捧げた生贄というのは美味しいものです。殺しに慣れている人間の捧げる人間は雑味が強い。あなたのように自分の手は全く汚さず、これまで清いままでいた人間の捧げる生贄こそ美味」
まあ、悪魔ごとの趣味によりますが、とベルフェゴールは言う。
「さあ、イメージして。あなたが自分の手であなたの娘を殺す瞬間を。心臓にナイフを突き立て、心臓の鼓動を感じながら、温かな血を浴びるのを。想像して、想像して、思い描いて。そうすれば、きっとあなたは殺せるようになる」
「アーデルハイドを殺す……」
幼いアーデルハイドの姿が思い浮かぶ。妻エレオノーラが腹を痛めて産んだ娘だ。かけがえのない宝石のような笑みを浮かべるいい子だった。
それを殺す。
ナイフを心臓に突き立て、『何故?』という表情を浮かべるアーデルハイドの心臓を抉り、そして殺す。温かな血が溢れ続け、洪水を起こす。フリードリヒの手は真っ赤に染まり、目の前には事切れたアーデルハイドの死体が。
「ああ……」
「どうしました? 殺せる気分になってきたでしょう? 殺したくなってきたでしょう? 残忍に、冷酷に、無慈悲に殺せるようになってきたでしょう。あなたが何人もの政敵を罠に嵌めて殺してきたように、彼女も殺せるようになってきたでしょう? その生まれ持って手に入れたふたつの手という権力によって殺せるようになってきたでしょう」
「私は、私は……」
フリードリヒが狼狽えながら、慈悲を乞う目でベルフェゴールを見る。
「無駄ですよ。ベルちゃんは慈悲など持ち合わせていません。ベルちゃんは冷酷無慈悲にあなたが生贄を捧げるのを待っています。そうでなければ、あなたに生贄になってもらいます。地獄で一生奴隷の身分のまま働いてもらいます」
「わ、分かっております! 必ずや、必ずや、アーデルハイドを生贄に!」
「それで結構。期待していますよ。楽しみにしていますよ。わくわくしていますよ」
ベルフェゴールはそう言ってすうっと消えた。
「アーデルハイドを殺さなければ。アーデルハイドを殺さなければ。アーデルハイドを殺さなければ」
フリードリヒは何度も自分に言い聞かせる。
そして、フリードリヒは鐘を鳴らした。
「はっ。何の御用でしょうか、閣下」
「ゾフィーを呼べ。今すぐにだ」
「畏まりました」
使用人がそう言って出ていく。
「アーデルハイドを殺さなければならない。ますはアーデルハイドを取らなければならない。そのための帝国親衛騎士団だろう? 帝国親衛騎士団の騎士のようなチンピラが何人死のうが気にするものか。奴らにはアーデルハイドを連れてきてもらう」
フリードリヒはそう言葉を繰り返す、
「ゾフィーが参りました、閣下」
「来たか、ゾフィー。第3帝国親衛騎士団“ワルキューレ”を動かす。ゴッドフリートに準備させろ。奴のことは完全に握っているな?」
「もちろんです、閣下。彼は私の意のままに動きます。私の操り人形です。どんなことだろうとするでしょう。お任せください」
「成功すれば褒美に新しい領地をやろう。だから、必ずアーデルハイドを捕えろ」
「アーデが生きているのですか?」
「ああ。生きている。生きて、我々への復讐を目論んでいる」
フリードリヒが忌々し気に語る。
「奴は復讐するつもりだ。既にヴァルトラウトを奴は殺した。まだ生まれぬ赤子すらも殺したのだ。そのような相手に慈悲を期待するな。ゴッドフリートにはアーデルハイドは大罪人だと教え込み、アーデルハイドを必ず生かして私の下に連れてこい」
「は、はい、閣下。しかし、アーデが……」
今までどうやってとゾフィーは思う。
「いいか。実の妹だからと言って情けをかけるようなことはするな。お前も復讐の目標となっているのだ。今の豊かで輝かしい生活から引きずりおろされたくなければ、アーデルハイドを殺さなければならない。私が、この手で」
「も、もちろんですわ。実の妹と言っても所詮は呪い子。かける情けなどありませんわ。ゴッドフリートにはよく言い聞かせておきます」
「うむ。抜からずやれ」
「はい。閣下」
ゾフィーは深々と頭を下げて、フリードリヒの執務室から出ていった。
「ゾフィーは賢い女だ。アマーリエがいなければあの子が皇太子妃に、皇后になるはずだった。だが、あれは次女だ。皇室に忠誠を示すには長女を捧げなければ。それでこそ、我らがバッセヴィッツ家は繁栄するのだ」
フリードリヒがひとり呟く。
「ゾフィーには欲しいものを与えてきた。飼いならしてきた。きっと今回は役に立つことだろう。これまでと同じように。ゴットフリートという犬を使って、獲物を仕留めてきてくれることだろう。いや、生きたまま私の下に連れてきてくれることだろう」
だが、無性に不安にかられていた。どういうわけがフリードリヒは不安だった。
「帝国親衛騎士団だぞ? 負けるはずがない。私は望むものを全て手に入れてきた。全て自分のものにしてきた。今度もそうする。今度も同じように手に入れる。絶対に私は欲しいものを手に入れる。必ずだ」
フリードリヒはそう言って戸棚から蒸留酒を出し、グラスに入れて呷った。
蒸留酒の味は吐き気がするような味だった。
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