外国で暮らした経験。パナマと香港、
親が三菱信託と言う会社で働いていて、仕事の関係上、家族で、パナマと言う国、外国に行く事になって、僕は、幼稚園だったし、5つ位の時だった、出発の日、マンションの敷地に、兄や僕の友達が、朝、集まっていた、お別れをして、タクシーだったと思う、
成田空港に向かった、
パナマで、生活を始めるんだけど、僕は、パナマの地元の幼稚園に入るんだけど、
もちろん日本人なんていなくて、皆、外国の子供達。その外国の幼稚園生、お昼ご飯は、チョコレートだ、そこから、ちょっとだけ面食らったよ、一種のカルチャーショックだった、スーパーマーケットみたいな店に、子供のお昼ご飯、だから銀のカンカンの把手のついた箱があって、チョコレートの塊が入っていて、昼には、口の周りを茶色だらけにして、チョコレートを食べる訳サ、、、、、、
僕達は、高級だったと思う、マンションで暮らしていて、
パナマは、当時、貧しい国だったからね。500万位で、日本製の車を買って、走っていて、止まると、地元の小さな子供が、水やら得体の知れない食料なんかを売ってくる訳よ、父さん、それを買った事もあるって言ってた、
基本、赤道を通っていて、暑くて、だからプールとかが沢山あって、兄や弟とかとプールで遊ぶ、パナマだけあって、喧嘩なんかしないんだ、それは親もそうだったと思う、パナマは、外国は、何か、気持ちいいんだ、
幼稚園も終わって、卒園式は、外国の凄い立派なおばさんだった、校長先生だったと思う、卒業証書みたいの貰っていた、
ハロウィンみたいなのも、そう言えば、やってたな、外人の子供達は、仮装して、スーパーマンの仮装して、嬉しそーだ。
日本人学校みたいなのに入って、
サッカーも兄と始めるようになって、パナマのサッカーが、どれ程のレベルか知らないけど、父さんに車で、送迎してくれて、カーステからは、ロッキーのサントラが流れている、、、、、、
何か、家では、地元の家政婦さん雇っていたなぁ、黒人の女性だった、ルシーラさんと言った、牛乳を僕にあてがってくれた、笑っていた、黒人の女性が笑う、、、、、、父さん、ルシーラさんと、連絡、取りたいんだけど取れないって言ってた。
夕食は、クシャトリヤ階級みたいなインド人が経営しているレストランで、上品な味のカレーを食べる、
パナマで、父さん、ゴルフとかやってた、コースを回る車を、僕も運転した時もある、ゴーカートみたいなノリで、
海とか行くんだけど、奇麗な海だったなぁ、鮮やかなブルーだった、魚さえブルーで、、、、、、そんな海を見ていると、本当に、宗教で、ココロの改良なんて、しないといけないの!?
大型船とかも家族で乗ったなぁ。(きっと)パナマ運河って言うんだろうな。
パナマ運河は、立派だった。世界の中継地点だからね、貿易の要所。基本的に、最下等クラスの国だから、ボクシングが盛んで、
公園も大きかったなぁ、ヨーロッパ系の子供が、一人、サッカーをしていて、僕とボールを蹴り合う、写真を父さんが撮る、
パナマの遊園地も独特だったなぁ、日本の遊園地を、そのまま小さくしたような感じだった、コストがかからないような小さな遊園地、(小さな遊園地ってのも、おかしいよね)日本では考えられないけど、パナマでは、それが当たり前なんだ、
ジェットコースターがミニチュアで、やはり小さい、僕は、逆に、怖かった、兄は、大好きで、何度も、乗っていた。
動物園も行ったっけ、象、インド象だと思う、背中に乗る、写真を撮る、
パナマで、小学校で、友達が出来て、ハーフの子で、空手をやっていた、型とか見せてもらった、人って人生で作る友達って限られているかのように、パナマでもさ、、、、、、関君って子供と遊んでいたなぁ、お兄さんが関君庇って電車に跳ねられた、可哀想過ぎる、死んじゃうんだ、家族が死んだ、僕は、まだ小さかったから、兄弟が死ぬって意味が理解、出来なかった、、、、、、パナマだからハロウィンとかもやった、お菓子をマンションの知らない人の家に行って貰ったりしてた、
外国で暮らしても、まだ子供だったから、理解、出来ない部分も沢山あった、こーやって書いてても覚えていない、忘れている事ばかりだ、
弟が結婚して、嫁さんに、父さんが、パナマの思い出話をしている、飛行機、プロペラ機乗らなくちゃいけないのに、墜ちるのが怖くて、実際、墜ちたりしているらしい、車で行ったとか、ガソリンスタンドなんて無くて、大変なのに、道中、車が止まったら、山賊が待ち構えているとか、当時、僕の知らない事ばかりだ、
パナマの空気感も何となく覚えている、暑い国でさ、そんな事位かなぁ、パナマにいたのは、1年間だったからね!日本に帰ってきて、
で僕が、高校生の時に、父さんが会社から帰ってくると、いつもと様子が違う感じで、「香港に行く事になった」って言ってた、、、、、、
単身赴任、それも外国だ、やはり僕は、理解出来なかった、
てゆーか僕は、家での家族しか知らないんだ、例えば、弟が、中学の時、弱い人のハナシを聞いてあげてた、なんて、知らなかった、
それで、まぁ、父さんが香港に行って、母さんと兄と弟と残された感じで日本で暮らしていたんだけど、母さんは、淋しそうだし、兄も、弟も、自分の事しかしないし、誰も、父さんが、外国に行って、仕事してるんだから、今は、家族で助け合って頑張ろうってなれば言ってくれれば、いいんだけど、現実は違った、あまりにも、バラバラな家族がいるだけだった、、、、、、
高校2年の夏休み、僕、父さんのいる香港に行った。成田空港から、3時間位のフライトだったと思う、九龍空港だったけな?ついて、父さんが迎えに来てた、笑っている、、、、、、
父さんと空港を歩く、
香港の街に立つと、電灯、イルミネーションがキラキラしていて、綺麗過ぎる、
バスに乗り、(また日本のバスとは違うんだ、これが)窓から、香港のキラキラした夜景が流れ去って行く、
香港の交通機関も歩道も優れていた、人も、、、、、、
マンションに着いた、でかいマンションだった、何か、帰りに、食堂、店で、ご飯、確か、中華料理だったと思う、食べて、それも感じの、いい店でさぁ、ショーロンポーとか美味しかった。
外国にいると、父さんの欠点と言うのが無くなっている、
香港も、僕、3回位、通った、計1年位いたと思う、
どっか出かける時は、マンションを巡回してるタクシーに乗れば、良かった。的士って車に書いてあった、
1回、兄と弟が、香港に来た、家族全員5人、香港で揃った、朝、イギリス調のホテルで、朝食を食べる、兄と僕は、コミュニケーションをとる、珍しく兄が喋ってくれた、、、、、、(日本では、ありえねー)ベーコンとか、スクランブルエッグだ、
マンションでは、兄が、テレビを見ている、MTVの、オアシスのPVだ、
兄と弟は、日本に帰っても、僕は、香港に残った、、、、、、 日本の友達と電話する。
「俺、今、香港にいるんだよ」
「そうなんだ、ずっと香港で暮らすのかよ?」
「しばらく居ると思う」
朝、父さんが仕事に行くと、僕は、マンションで、昼まで眠って、テレビとか見てた、ハッキシ言って、遊んでいる、、、、、、夕食は、父さんと待ち合わせて、中華料理、鍋とかに、ヌードル入れて、食べた、
香港の街は、優しいし、父さんは、いい人に、変わるし、マンションのエントランスの女性スタッフが、僕の事を、
「仕事しないの?」って父さんと話す、
「この子は、毎日、休みだ」って父さん言ってた、
母さんも、よく香港に来てたなぁ、三人で香港で暮らしていた、凄ェ、仲良くてさ、香港が、そうさしてやがるんだ!日本では喧嘩ばかりだったのに、、、、、、
日曜日になると、シークレットガーデンと言う名前の店で、(焼肉屋)で、夕食を両親と僕でとる事にしてた、
父さんは、いつも、ビールを飲み、僕は、セブンアップを飲む、
香港の山に、両親と、登る、山さえ優しかった、登りやすかった。頂上に辿り着いて、綺麗な風景だったよ。
父さんの仕事が夜まで、かかると、出前をとる、パスタ屋だ、スパゲッティをマンションまで、アラブ人が配達してくれる、
香港の日本書店トマトブックって店があって、行ったりしてた、地下鉄とかも乗ったなぁ、香港の地下鉄。
スーパーマーケットとかで、お菓子を買う、家で、僕は、香港のお菓子を食べてると、父さんが、「少し、ちょうだい」って言う、香港だからあり得るハナシだ、、、、、、
それで、父さんと黒澤明の用心棒をテレビで観たのは、温かい思い出だ、繰り返すけど、そんな事なんて、日本じゃ、絶対、あり得ないハナシなんだよ!
僕は、アトピーだったから、整体師足裏マッサージに行くんだけど、林先生って言うんだけど、悟っていたなぁ、
こんな事言ってた、
「クヨクヨしない方が、人に好かれるよ」
また、
「こうゆう子が、絵を描いたら、凄い絵を描く」そんな事、不思議な事を言うんだ。
医者さえ、日本より優れていて、床屋も行ったけど、技術も、優れていたな
母さんと、ブラッと入った料理屋の、魚料理が、滅茶苦茶、美味しかった。
焼き鳥屋、香港の焼き鳥屋も素敵だったなぁ、父さんが、うざくない、、、、、、いつか料理屋の若い女の子の従業員が、父さんに好意を見せるとか、香港では、何から何まで、上手く行くんだ。
街角では、香港のういろう、みたいのが売られていて、母さんに買って貰う、母さんが、焼き鳥さんのお兄さんがいるよって僕に言う、ういろう食べてた、何で、今、香港は変わってしまったのか?
ういろう香港では、メジャーなお菓子なのか?
ずっと香港で、暮らすのかよ?あぁ、そうなればなぁ。
香港の朝食は、鶏ガラのラーメンだ、そうゆう店に入って、父さんと、香港のうどんとか食べた事もある。
バーとかに入って、ハンバーガー僕、食べて、父さんは、瓶ビールを、ラッパ飲みしてた、結構、カッコ良かった、父さんが気にならない、父さんが気にならない。
もーそろそろ、この文章も、終わりそうだ。
そこまで、長くいた訳じゃないし、1年しかいなかったし、
父さん、残して、母さんと僕は、日本に帰国する事になった。空港で母さんが手紙を父さんに渡す、父さんが受け取る、母さん泣いてた、ク、、、僕も泣いてた、だけど父さん泣いたりしない、だけど、表情は、淋しそうに、笑っていた、、、、、、