本編 8 ~春の訪れはまだ遠く~
自分の膝の上で、諒子がすうすうと寝息を立てて眠っている。
疲れのせいか、顔色が悪い。
目つきが鋭いせいで怖がられる、と彼女はいつも気にしていた。しかし、それは単に目つきというよりも、その瞳の強さに、圧倒されてしまうからではないだろうか。
目を閉じていると、普段よりも数段幼い表情になり、かわいらしいと龍之助は思うのだ。
諒子はきっと龍之助のことを男としてみていない。それに、考えたくないが、弟分だと思っている可能性だってある。
昔からいつも、龍之助の幸せを願って、龍之助を助けてくれて、龍之助の邪魔になると思えばいなくなろうとして、龍之助のことを心配そうに見守っている。
これだけだと、対等ではなく、与えられる関係だ。
だから、自分が対人関係を広く持つことで、諒子を悪く言う者を監視して、いざとなれば対処して諒子の居心地の悪さを除こうとした。
諒子の苦手な勉強を、彼女にわかりやすく教えられるように、必死に覚えて考えて、テスト勉強会でいつだって解説できるようにした。
それから、これは龍之助のわがままだが、いなくならないでっていつも諒子の傍に居座り続けた。
そのうちに、頼ってくれることも増えて、対等になれたと思っていたけれど。
「俺のために、変な神様と、やばい契約を結ぶなんて、馬鹿だよ、りょーこ。
俺、勘違いするよ?俺が特別なんじゃないかって。
俺、りょーこに一生かかっても恩返し切れないよ。…だから、一生傍においてよ、りょーこ」
ぽたぽたと涙が落ちる。涙を止めないと、と思って龍之助は天井を見る。
ふと、龍之助の頬に柔らかい感触がする。
「…りょうちゃん…?泣いているの…?」
いつの間にか、諒子が龍之助を見上げていた。
「りょうちゃん…、痛みはない…?」
龍之助はぼたぼたとさっきよりも大粒の涙を流す。諒子がきょとんとしてから笑う。
「りょうちゃんは、泣き虫だな…」
よいしょ、と緩慢な動きで諒子が起き上がると、龍之助の顔をハンカチで拭ってやる。そして、昔と同じように、頭を抱きしめながら撫でてやる。
「すまなかった、心配をかけたな、りょうちゃん」
しばらく、龍之助は声も出せずに諒子の肩を濡らした。
龍之助は泣き止んだものの、気恥ずかしさと諒子に頭を撫でてもらえるという絶好のチャンスにじっとしていた。しかし、諒子も伊達に10年以上時を共にしていない。
「りょうちゃん、もう泣き止んだろ。
本当にりょうちゃんは小さいころから変わらない。」
くすくす、と笑いながら話す声が、彼女の肩から直接頭に響く。
生きてる、彼女なんだ、という気持ちがあふれてくる。
「うるせ、俺のために無茶したりょーこが、悪いんだもん…」
ごもごもといいながら、諒子の身体に腕をまわす。龍之助が想像していたよりもふんわりとした感触にドキドキしながらも大切に、大切に抱きしめた。
もう、いなくなったりしないように。
「ごめんな、りょうちゃん、本当に心配かけた」
でも、と続ける。
「次同じことがあっても、私はりょうちゃんを助けるよ。何をしてでも。
私は、りょうちゃんが大事だよ。私は、りょうちゃんがいないと寂しいよ。
だから、何度でもおんなじ選択をするよ」
龍之助は思わぬ彼女の感情の吐露に呆然とする。
「私、りょうちゃんがいないと生きていけないよ。
だって、いつだって、りょうちゃんは私を明るい方向に引っ張ってくれるの。
りょうちゃんはいつだって、私をりょうちゃんの一番にしてくれるの。
りょうちゃんがいないと、人が寄ってきてくれない私を見捨てずに、いつも。
だから、怖かった。怖かったの。
りょうちゃんが離れていったら、わたし、寂しい。
でも、いつもそばにいるのが当たり前になったりょうちゃんは、もしかしたら、あした、あさって、いつか、ある日離れていくかもしれない。
そうなる前に、しっかりしなきゃ、と思って離れようとするの。でもその度にいつもりょうちゃんが引き留めてくれて、嬉しいって思うの。
だけど。同時に、恐ろしかったの。ある日が、いつくるのかわからなくて…。」
諒子はぐすぐす、と鼻声になりながら、いつもよりも幼い口調で一生懸命に話す。
「恩があるのは、わたしの方なんだから…。でも、わたしを、置いていったら許さないんだから…。
…一生、離さないで、りょうちゃん…。」
諒子がそんなことを考えていたなんて、露程も知らなかった。
いつも隣にいて、無償の愛情を注がれているのだと勘違いしていた。庇護対象への愛情だと。
諒子が、龍之助を、こんなに必要としてくれていたなんて。
諒子のこれは、きっと男女の間の感情ではないのだろう。けれど、龍之助はこの上ない喜びを感じた。
「りょーこは、俺の気を引きたくて、いつも俺の傍から離れようとしてたの?
俺が引き留めることで、俺の愛情を確かめていたの?
りょーこは、俺の一番が誰だか知っていたのに?りょーこは、ほんとに悪い女だよ。
俺、いっつもりょーこが離れようとするたびに、怖かったんだよ?俺の事、いらなくなったんじゃないかって。
それに。りょーこは一つ間違ってる。俺にとって、りょーこは一番じゃなくて、特別なの。覚えといて。
…二度といなくならないって、約束して。
俺を、りょーこの特別にして。俺を傍において。」
龍之助は、一度腕を解いて、諒子の目を見る。
諒子は、目を真っ赤にしながら、うん、と頷いた。そして、ぽそりと『りょうちゃんは、昔からわたしの特別だよ』と言い、淡く微笑した。
龍之助は、もう一度黙って諒子に抱き着いた。非常に熱い顔を隠すために。
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抱き着いて10分も経ったころ。
「りょうちゃん、そろそろ離れて。剛志さんがそろそろ帰ってくる。
私たちが純粋な気持ちで行動していても、大人はいろいろ心配する。特に男女間のことは邪推を呼びやすい。」
鍋の準備もしないといけないしな、と諒子はいつものペースで話す。
俺の方は邪な心、たっぷりあるんだけどな、と思いつつも、わかった、と言って離れる。温もりと柔らかさがなくなって、少し寂しい。
「…りょーこ、これから一日一回ハグして。そうじゃないと、寂しくて、俺死んじゃいそうだ」
無論、一回で済ませる気は毛頭ないし、ずっとべたべたする気満々だが。諒子は、約束してくれないだろうな、とさっきの感触を反芻しながら、ダメもとで言ってみる。
「…いいぞ、わかった」
「そうか、だめ…え、いいの!」
「…でも、人がいないとこじゃないとだめだ」
くるっと身体を反転して、諒子は逃げるようにキッチンの方へ消えていった。
「今、りょーこ、顔赤かった…」
龍之助は、男女の間の感情だって育めるかもしれない、と期待を胸にして、俺も一緒に作る!と彼女の後を追いかけた。
~その日、世界は終末を迎える~ 本編完結