生死の選択
男が目を醒ますと、仄暗く赤みがかった空間にいた。
空間は広くおよそ200m四方に広がり、前方には二つの大きな扉が用意されている。
不可思議な空間に男は戸惑いを見せたが、同じ状況に置かれた者が自分以外にも少なからずいた事に少しばかりの安心感があった。
「すいません、ここは一体どこなんでしょうか?」
男は近くの人に尋ねる。
「いやー、私もさっぱりです。気づいたらここにいたもんですから、こちらのほうこそお尋ねしたい位ですよ」
周囲の声から自分達が置かれてる状況に詳しい人間は誰一人としていない事が分かった。
遠くから誰かが叫ぶ。
「おい!早くここから出してくれ!」
周囲がざわつき口々に同じ様な叫び声が広がっていった。
それに呼応するかの様に前方二つの大きな扉が不気味な音を上げて開いた。
「おい!扉が開いたぞ!さっさと進んでくれ!俺はこんな気味の悪い所から早く出たいん」
叫ぶ声はまるで糸が切れたかのように言い切る事なく途端に消えた。
瞬間、周囲の声は怒号から恐怖に駆られた叫びに変わる。
「と、と、溶けてる!俺の隣の奴が溶けてる!」
余りの出来事に何が起きたか分からず周囲がパニックになるとそれは空間全体に広がっていった。
「後ろの方で人が溶けた?なにを言ってるんだ?」
人が溶けた出来事は男の遥か後ろでの出来事で事態が飲み込めずにいたが、逃げようとする人々の流れで大事が起きたという事だけは分かった。
「一体何が起きてるんだよ!」
男は事態を把握しようと周囲を見渡す。
男の目に映ったのは壁から得体の知れない突起物が現れた直後、その突起物から謎の液体を出しそれを浴びた人が文字通り溶けた姿だった。
男は恐怖に駆られとにかく走った。
あれを浴びたら最後、叫び声を上げる間もなく溶けてしまう。
とにかく今はこの空間から一刻も早く出なくてはならない。
逃げ道はきっとこの空間で唯一、二つの扉だろう。
しかしどちらの扉だ?二つとも出口なのか、どちらかだけが正解なのか。
自問自答をする間もなく液体は周囲の人間を次々に溶かしていく。
正解になるヒントすらなく群衆の波に揉まれて走る他に出来る事がなかった。
選択の余地なく右の扉に進まざるを得なかった男は扉の先が真っ暗だった事もあり自身の状況が分からずにいた。
一体どうなったんだ?
果たして俺は助かったのか?
真っ暗な中でも周囲に人の気配がある以上、死んでしまったわけではなさそうだ。
今自分はどういった状況なのだろうか。
徐々に周囲の明るさが先程と同じ位になると前にいた空間とほとんど変わらない場所である事が分かってきた。
違う点といえば明らかに人の数が減ってしまっている事で、ざっと見積もっても五分の一程度の人数だと思われる。
そしてもう一つ、明らかな違いがあった。
さっきは扉が二つだったのに対し今度は扉が四つあったのだ。
男は絶望した。
なぜ我々はこんな理不尽な事をしなければならないのか。
意味があるのかも分からず終わりがあるのかも分からないこの状況は一体誰が仕組んだ事なのだろうか。
恐らく左の扉に進んだ人は消滅してしまったのだろう。
こんな理不尽な世界で選択を迫られた以上、どちらも正解などという優しい答えがあるはずがないからだ。
そして先程と同じ空間である事と今しがた起きた凄惨な出来事から考えて、この空間でも必ず同じような事が起きるはずだ。
自身が取るべき道、生き延びるにはやはり扉を選択しなければならない。
男は瞬間的に扉に向かって走り始めた。
周りにいた人達も同じ結論に達した様子で我先にと走り始めた。
と同時にまたしても空間に変化が起きた。
それはこの空間に元からいたかの様に突然と現れた。
人の形にも見えるが明らかに人ではなく、赤みがかった空間で一際異形に見えるそれは全身が真白だった。
異形に感情なんてものはなく扉へ向かう人達に即座に立ち塞がり、ただただ空間から異物を排除しているだけといった動きでその真白な手を剣の如く逃げる人々に突き刺し、刺された者は言葉なく倒れていった。
男の目に飛び込んだその光景は次の瞬間には自身の前を走っていた人に降りかかった。
ほんの2mの差がその生死を分けた事は言葉は悪いが運がよかったとしか言い様がない。
驚きを体現する間と逃げるその間一髪、男は異形の手を交わしその場を走り抜けた。
扉まで後10m。
走った先には扉が四つ。
後ろに異形の気配を感じ立ち止まる余裕などはもちろん無い事も分かっている。
やはり選ぶためのヒントなどはなく運に身を任せる他はない。
目が醒めた時から死を近くに感じる瞬間はいくつもあった。
だがどんなに死が近くても運よく逃れる事が出来ている。
もしも死ぬ事が運命だとするならば生き残る事もまた運命だ。
そう考えれば選ぶ扉も運命によって決まるのではないか。
だとすれば考えるだけ無駄と言うものだ。
高速で動いていた男の思考は結論に達すると考える事をやめた。
男は左から2番目の扉に飛び込んだ。
飛び込んだ扉の先は非常に暗く、周囲の状況を確認する事が出来ないでいた。
しかし数は限りなく少ないが誰かの息遣いが聞こえる以上、どうやら男は正解を引いたらしい。
正解は引いたが、自身の今の心持ちが果たして生きた心地なのか死んだ心地なのかは正直分からない。
何故なら生きているという実感を感じた事がなければ死んだ経験すらもちろん無く、ただひたすら消滅する事から逃げているだけだからだ。
この自問自答に意味があるかは分からないが、それよりもまずは周囲の状況を確認しておかなければならない。
空間と状況の把握に努めようと思った次の瞬間、空間の天井辺りから謎の物体が眩いばかりの光を放ちその光は瞬く間に空間全体を覆っていった。
男は天井を見上げる。
ひどく眩しいがあれはなんだ?
楕円形にも見える物体が宙に浮いている。
あれは、、、卵?
そして男は電気が走ったように全てを理解した。
空間の全容が姿を現わす。
それは案の定というべきかまたしても扉があったのだ。
それも無数に。
数えるだけバカらしくなる程無数にだ。
今この空間にいる人数は両手で数えられる程度の人数となってしまったが、対して明らかに釣り合いが取れていない扉の数は残った者の動きと思考を止めるのに充分な光景であった。
しかし分かっているのだ。
きっとこれが最後の選択となるだろう事を。
あの卵の様な物体を見た時何かが合致したような、答えを得たような感覚があった。
扉を選ぶ事が目的であり、ゴールであり、そしてスタートなのだ。
そして選ばれるのが自身なのか他者なのか、それとも誰も選ばれないかは分からない。
分からないがこの先には求めていた答えがあるのだけは確かであり、そして自身以上に答えを求めている人がいる。
進もう。
スタートするために。
男は扉を開いた。
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「おめでとうございます。ご懐妊です。長い不妊治療、よく頑張りましたね」
夫婦を前にして医師が言う。
「ほ、本当ですか?ありがとうございます!ありがとうございます!」
今までの苦労を感じさせる心からの感謝の言葉を夫が口にし、これから母となる女性は言葉にならない涙を流していた。
医師が言う。
「女性の身体の中では精子は異物とみなされてしまうため、精子は受精するために様々な関門とも呼べるものをくぐり抜けなければなりません。
特に白血球による異物を除外しようとする力は非常に強いものがあります。
関門をくぐり抜け最後に卵子と受精を行うのですが、卵子そのものの入口がどこなのか精子は自ら選択を行いその入口を探す訳です」
「精子の選択、ですか」
「はい。まるで意思があるかの様に精子は自ら選択を行うのです。
とりわけ旦那さんの場合、通常の精子の数が一般的に比較すると少ない傾向にあったため受精に至る事が難しかったのですが今回のご懐妊は正に奇跡と呼べるのではないでしょうか。
奥様はこの奇跡を大事になさって、元気な赤ちゃんを生みましょうね」
「はい。本当に、本当にありがとうございます。」
こうして新たな生命が誕生した。