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第七話 泣かないで

 自分が今どこを走っているのか、それさえも分からなかった。

 ただ、カーナックに手を引かれるままに走る。ここはどこの裏路地だろう。

 ちょうど東から射す日の光が塔に遮られて、路地には暗い影が落ちていた。

 左足が痛い。治ったはずの傷が疼いている。

 おまけに肺が破けそうだ。これ以上は走れない。


「か……カーナック……わたし、もう……」


 一体どれくらいの間、町を逃げ回っていたのだろうか。わたしは全身汗だくで、頭に被っているパーが今も吹き飛ばされずに残っているのが奇跡に思えた。

 荒い息を吐く度に、喉には血の味が滲む。こんなに必死に走ったことが、これまでの人生であっただろうか?

 気を紛らわすためにそう自問してみたところで、ああそうだ、今のわたしは人生の記憶がところどころ欠けているのだった、と他人事のように思い出す。


「――こっちだ」

「……っ!?」


 そのとき突然前を走るカーナックが進路を変えたせいで、わたしはがくんと体を持っていかれた。

 カーナックは二つの塔の間にある、細い細い脇道へ無理矢理体を捩込もうとする。そこには木箱がいくつも積まれていて、ただでさえ道が狭いのに先へ抜けるなんて不可能に思えた。

 けれどわたしはもはや声を上げる気力もなくて、ただただ彼に手を引かれるがままついていく。

 ほどなく、わたしはカーナックがこんな狭い道に入った本当の理由を理解した。彼は途中で積まれた木箱の間に隙間を見つけると、そこにわたしの体を押し込み、外から見えないように隠したのだ。


「か、カーナック――わっ……!?」

「しっ。静かに。やつらが来る」


 短くそう告げたカーナックの声は、さっきまでわたしをからかっていた声と比べるとほとんど別人のようだった。

 だけどわたしがそれ以上に驚いたのは、カーナックが自身も木箱の間に身を隠すために体を密着させてきたことだ。彼はわたしを壁に押しつけるように覆い被さると、息を細くしてじっと耳を澄ましている。

 わたしはそんなカーナックと塔の間に挟まれて、まったく身動きが取れなかった。

 色々な意味で全身を強張らせたわたしの額に、カーナックの胸が当たっている。そこからドクドクと伝わってくるのは、わたしのそれと同じくらい激しく脈打っているカーナックの鼓動。

 その鼓動を聞いているうちに、わたしは何だか胸が苦しくなって、気づけばカーナックに縋りついていた。

 ――どうしよう。怖い。

 わたしのせいだ。

 こんなところで衛兵たちに見つかったら、今度こそ逃げ場はない。


 ドタドタと地を鳴らす、硬くて重い足音が聞こえた。

 間違いない。ウィンノックの足音だ。

 鋭い蹴爪けづめが土を抉る音がする。それがどんどんこちらへ近づいてくるのを感じて、わたしはぎゅっと目を閉じた。

 そのときカーナックの手が、わたしの背中に回される。

 彼はまるで怯えるわたしをなだめるように、その腕でしっかりとわたしを抱き締めてくれる。


「……」


 ほんの数瞬――あるいはもっと長い間。

 わたしたちはそうして、塔の陰で息を殺していた。

 けれど、走り疲れたわたしたちの呼吸が落ち着く頃には、ウィンノックの足音は遠く走り去っていて。

 それを確かめたカーナックがくしゃりとわたしの頭を撫でてから、やがてゆっくりと体を離す。


「……どうやら行ったみたいだな」


 カーナックがそう言ったのを聞いて、わたしはようやく緊張が解けた。と同時に全身から力が抜けて、くたくたとその場に座り込んでしまいそうになる。

 けれどそれを見たカーナックがとっさに支えてくれたおかげで、わたしは何とかくずおれずに済んだ。

 今ここで座り込んでしまったら、しばらく立ち上がれないような気がする。


「おい、大丈夫か?」

「へ、平気……ただちょっと、安心したら気が抜けちゃって……」

「安心するのはまだ早い。やつら、俺たちを追いながら花火を上げていた。あれは王宮にいる仲間に応援を乞う合図だ。今頃は町中をやつらの仲間が見張っているに違いない」

「う、嘘……」


 わたしが愕然としてカーナックを見上げると、彼はわずかに眉を曇らせた。

 その反応を見れば、今回ばかりはカーナックも嘘をついていないことくらいわたしにも分かる。けれど今は気休めでもいいから「嘘だ」と言って、この状況を笑い飛ばしてほしかった。


「このままじゃ、やつらに見つからずに宿へ戻るのは難しい。特に君はその足だ。これ以上は走れないだろう」


 そう言ったカーナックはいつになく厳しい表情で、すっとわたしの両足へ目をやった。

 わたしは未だに足に力が入らなくて、何とかカーナックにしがみつくような形で体勢を保っている。その足が先程からガクガクと震えていることに、彼も気がついていたみたいだ。

 それは恐怖とか安堵とか、そういう感情的なものではなくて。わたしがどんなに力を込めても、その震えが治まることはなかった。

 特に左足の震えがひどい。ちょっと気を抜くと膝から崩れてしまいそうだ。

 たぶん、傷が癒えたばかりの足に負担をかけすぎたのだろうと思う。少し休めば治まるかもしれないけれど、カーナックの言うとおり、この状態でまた町を走り回るというのはさすがに無理だ。


「ごめんなさい。わたしのせいで……」

「そういう意味で言ったんじゃない。あれは、からかいすぎた俺も悪かったし……とにかく今はこの状況を何とかしないと。ときにスーリヤ、宿の場所は覚えてるよな?」

「え? ええ、それは……ここがどこなのかいまいちよく分かってないけど、大通りに出れば方角は分かるわ。そうすれば、宿までの道もすぐに思い出せると思う」

「よし。なら、君はここで少し休んでから宿を目指せ。その間に俺が何とかやつらの目を引きつける」

「ひ、引きつけるって、どうするつもり?」

「陽動だよ、陽動。俺が囮になってやつらの気を引いてるうちに、君は宿に戻るんだ。俺も日暮れまでにはやつらを撒いて合流する」

「だ、だけど囮って、そんなの危険だわ。相手は鳥に乗ってるし、武器だって持ってるのよ?」

「そんなのは分かってる。だがこうでもしなきゃ、この状況はどうにもならないだろ」

「でも――」

「そんなに俺が心配かい?」


 なおも言い募ろうとしたわたしを遮って、カーナックが言った。

 その口元にはからかうような笑みがある。こんな状況だと言うのに、ずいぶんと余裕があるものだ。

 けれどわたしはそれが単なる揶揄やゆではないことをすぐに察して、思わず彼から身を引いた。


 ――そうだ。彼は殺し屋。

 今まで何人もの人間を殺めてきたひと

 そんな相手に心を許してはならないと、わたしはわたしを戒めた。信用すれば裏切られるかもしれないからと、彼から距離を置くことを選んだ。

 なのにどうして、こんなに彼の身を案じているのだろう?

 その問いかけはカーナックからわたしへ向けられた、皮肉だ。

 それに気づいたわたしは何も答えることができなくて、力なくその場にうなだれる。


「スーリヤ。もしも俺が戻らなかったら、そのときは君一人で王子を狙え。逃げても捕まっても君に未来さきはない。なら、意地でも王子を殺す覚悟を決めろ。そうすれば俺の依頼人の望みも叶うし、王国にも平和が戻ってくるしで万々歳だ」

「そ、そんな……でも、わたしは……」

「生きて約束を果たすんだろ?」


 わたしの迷いに釘を刺すように、カーナックは言った。それはたとえ自分の身に何かあっても、王子暗殺だけは成し遂げようという彼の作戦だったのかもしれない。

 けれどもわたしは、そのとき。

 カーナックが浮かべた笑みを見て、息が詰まった。

 それはまるで、何もかも諦めてしまったような――この世に遺していく未練ものなんて何もないと言いたげな。

 そんな、寂しく満たされた笑みだったから。


「カーナック」


 そう言って、立ち去ろうとする彼の腕を掴んだとき。

 わたしは何故だか泣きそうになっていた。

 けれどそれを覚られまいと下を向いて。

 一度きゅっと唇を引き結んでから、微かに震える声で言う。


「ねえ、あなた、嘘つきだけど約束は守るんでしょ? だったら約束して。生きて必ず戻ってくるって」

「スーリヤ?」

「わたし、待ってるから。あなたが戻ってくるまで、ずっと待ってる……」


 どうしてそんなことを口走ったのか、自分でもよく分からなかった。

 けれど、伝えなければならないような気がしたのだ。あなたを必要としている人間がここにいる、と。

 そのとき、カーナックが何か答えようと口を開く気配があったけれど、結局言葉は降ってこなかった。

 代わりに彼はもう一度、腕の中にわたしを抱き寄せる。


「……ごめん。少しだけ、このままで」


 わたしを抱くカーナックの手つきは、まるで壊れ物を扱うみたいに優しかった。

 同じ手で、彼は今まで何人の人間を殺めてきたのだろうか。何が彼にそんな道を選ばせたのだろうか。

 そう思いながらわたしが静かに抱き返すと、彼は小さく体を震わせた。

 カーナック。

 もしかして、泣いてる?

 確証はなかったけれど、そのときわたしは、彼が昨日かけてくれた言葉をそのまま返したくなる。


 ごめんなさい。

 泣かないで、と。


「……それじゃ」


 やがて彼はわたしからそっと手を放すと、すぐに踵を返して歩き出した。

 表情を垣間見る暇もない。しかもカーナックは、歩きながら被り布を更に深くまで引き下ろした。

 彼はこれから衛兵の前に出ていくのだ。それなら念入りに顔を隠すのは当然と言えば当然だけど、わたしにはそれが〝見るな〟と言われたように思えて、何となく距離を感じてしまう。


「ねえ、待って。約束は?」


 けれど最後に、わたしはなけなしの勇気を振り絞ってそう声をかけた。

 するとカーナックはわずかの間足を止め、顔がはっきりとは見えない程度にこちらを向いて、言う。


「夕飯までには帰るよ」


 そう返してきた声は、いつもの彼のそれだった。

 わたしはその声を耳にして、ほっと胸を撫で下ろす。……だけど〝夕飯までには〟、なんて。

 そんな言い方、まるで――


「何だか新婚みたいだろ?」


 と、そのときわたしの思考を見透かしたように彼が言うので、わたしは跳び上がると同時に顔を赤くした。

 それを見たカーナックはお約束のように吹き出すと、あとは笑いをこらえながら手を振って塔の陰へと消えていく。


「……あとで文句を言ってやらなきゃ」


 残されたわたしは、頬が熱いままそう決意した。

 だけどその前に一つ問題がある。

 果たしてわたしはこのまま無事にあの宿まで帰れるのだろうか?


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