第四話 王子様の噂
カーナックが案内してくれたのは、町の大通りに面した一軒の大衆食堂だった。
この町では珍しい木造平屋建てのお店で、表には通りへ向けて張り出した大きな露台がある。客席はその露台の上に設けられていて、すべての卓に備えつけられた色とりどりの日除け傘が目に眩しかった。
全体的に小洒落た感じのするお店だが、わたしの記憶の一部が融け落ちたわけでないのなら、去年まではここにこんな店はなかったように思う。
最近できた店なのか、と尋ねると、向かいの席に座ったカーナックは「さあ」と気のない返事をしただけだった。
わたしたちが通されたのは、露台の隅の方にある緑の日除け傘の下。
すぐそばには金色の葉を繁らせたラヤップの木が立っていて、鳥の羽根みたいに裂けた大きな葉が頭上でさわさわと鳴っていた。
このラヤップの木は町の至るところに生えているけれど、わたしはその金色の葉が象牙色の塔と織りなすこの町の景観が気に入っている。よく塔の壁面に描かれている茶色の渦巻きは、ラヤップの木の樹液に顔料を混ぜて描かれたものだ。
このラヤップの樹液は夜光虫の繭と同じく、昼間に日の光を蓄えて夜になるとほのかに光る。闇の中でぼんやりと輝くいくつもの渦巻き模様は、いつ見ても美しいと思えた。
けれどそんな感慨も、やがては融けて忘れてしまうのだろうか。注文した料理が届くまでの間、すぐそこの通りを眺めながら漠然とそんなことを考えていると、ときにふと人混みの向こうからやってくる奇妙な生き物が目に入る。
「何、あれ?」
思わずそう呟いたのが聞こえたのだろう。向かいで頬杖をついていたカーナックがわたしを見やり、次いですぐにその視線を追って振り向いた。
その先からひょこひょこと体を揺らしてやってくるのは――一言で言い表すなら、朽葉色の毛の塊。
まるで毛皮に包まれた卵みたいな形をしたその生き物は、関節が後ろに曲った二本の脚と、細長い嘴を持っていた。嘴がある、ということは鳥だろうか。
じっと目を凝らしてみると、なるほど、その生き物の体の両脇には羽……のようなものが生えていた。
が、それはあまりに小さくて、ほとんど長い体毛の中に埋もれてしまっている。形も何だか平べったいし、翼というより亀のヒレみたいだ。
そのくせ体はずんぐりと大きく、歩く姿は人の背丈ほどもあった。
何よりわたしが驚いたのは、その生き物の背に人が乗っていること。それもただの人ではなく、ラヤップの樹皮に油を塗って固めたあの鎧は、王宮を守る衛兵に国から支給されているものだ。
「ああ、あれはウィンノックだな」
「ウィンノック?」
「騎乗用の鳥だよ。ま、鳥と言っても飛べないんだけどさ。見たことないのか?」
「見たことは、ある……かもしれない。でも、覚えてないの」
「ああ……そうか、すまない」
わたしにかけられた呪いのことを忘れていたのだろうか。カーナックは短く謝ると、再びウィンノックが練り歩く通りの様子に目をやった。
人混みを左右に割るようにして現われたウィンノックは、一羽だけではない。更にその後ろから一羽、二羽……いずれも武装した衛兵を乗せている。
衛兵は見るからに乗り心地が悪そうなウィンノックの上で上手に手綱を操りながら、市街の様子に目を配っていた。けれどその眼差しはどこか剣呑で、目が合いそうになったわたしは慌てて顔を逸らしてしまう。
向かいではカーナックも被り布の端を摘まんで、すっと目深に下ろしていた。
その間にも衛兵たちはのしのしとウィンノックを歩ませて、通りの先へ去っていく。
「なあ、見ろよ、王宮の衛兵だぜ。やつらが鳥に乗ってこんなところをうろついてるなんて、珍しいな」
と、それを見送ったわたしがほっと息をついたのも束の間。不意に隣から聞こえた会話に、わたしは思わず目をやった。
話しているのは、黄色い日除け傘の下に座った二人組の男性だ。どちらも年配で、この昼間からお酒を飲んでいるらしい。卓の上には空になった皿がいくつも重ねられていて、もうずいぶん長い時間二人がこの店で暇を潰していることが窺える。
「まあ、王宮であんなことがあったばかりだからなぁ。衛兵どもがピリピリしてるのも無理ねえさ」
「何だよ、〝あんなこと〟って?」
「何って、お前さん知らねえのかい。王宮に魔女が出たって話だよ」
そのとき、聞き耳を立てていることを覚られないようにと飲み物を口にしていたわたしは、驚きのあまり口の中のものを噴き出しそうになった。
けれども向かいにはカーナックがいる。ここで飲み物を噴いたら大惨事になるのは必定だ。
そう思ったわたしはとっさの判断で、口の中のものを一気に飲み込んだ。おかげで飲み物が変なところに入り、ひとしきりゲホゲホと苦しむ羽目になったのは言うまでもない。
「何でもその魔女ってのがよ、真夜中に忽然と現れて、王宮に呪いをかけていったんだと。そのせいで王宮は今えらいことになってるらしい」
「えらいことってのは、具体的にどういう?」
「おれが聞いた噂じゃ、王宮に仕える女官や衛兵が、次々と原因不明の病に倒れてるって話だ。それに――これはここだけの話なんだがよ。元々病がちだったチャイディ王子が、魔女に恐ろしい幻覚を見せられて、ついにご狂乱あそばしたって噂もある」
「ご、ご狂乱あそばしたって、つまり――」
「――気が狂れたってことさ」
なおもゲホゴホと苦しむわたしの隣。
そこで二人組の片割れが声を低めて告げた言葉は、わたしの耳にもはっきりと届いた。
チャイディ王子は魔女に魔術をかけられ、ご狂乱あそばした。
その話は本当なのだろうか。わたしはようやく咳の治まった胸に手を当てて、しかし直前までのそれとは別の息苦しさに身を固くする。
「おい、お前。滅多なことを言うんじゃない。そんな噂、一体どこで仕入れてきたのか知らないが、王の唯一の跡取りが正気じゃなくなったなんて――」
「だが今じゃ、町中の人間が噂してる。王子は乱心して後宮に引き籠もり、今は誰とも会おうとしないとな。それどころか王や妃のお言葉にも耳を傾けず、完全な疑心暗鬼に陥っているらしい」
「そんな馬鹿な……仮にその話が本当だとしても、恐怖が過ぎ去るまでの一時的なものだ。チャイディ王子には次期国王として、もっとしっかりしてもらわなきゃならん」
「だがよ、王子が生まれてからこの方、この国じゃ妙なことばかり起こるじゃないか。魔女が突然王宮に乗り込んでくるなんてのもそうだし、ついこないだだって、邪竜がいきなり町を襲ってきた。他にも地震、森枯れ、飢饉に疫病……この二十年、王国はまったくいいことなしだ」
「だからって、それが王子のせいという確証はないだろう。王子がお生まれになってから、たまたまそういうことが続いてるというだけかもしれない」
「〝たまたま〟ねえ……それにしては王も妃も王子をあまり公の場に出したがらないし、やっぱり何か裏があるんじゃねえのかな。それを探ろうとして王宮に潜り込んだ人間も、今じゃ行方不明だって言うぜ」
「馬鹿馬鹿しい。オレはそういう何の論拠もない話が嫌いなんだよ。店員さん、お勘定!」
相方の話によほど機嫌を損ねたのだろう。男のうちの一人は大声で店員を呼びつけると、飲食代を払ってさっさといなくなってしまった。
それを見たもう片方の男も、慌てて相方のあとを追っていく。
二人がいなくなったあとの席はすぐに片づけられ、無人になった。今のところ、他の客が案内されてくる気配はない。
「――な? だから言っただろ」
と、ときにカーナックが、退屈そうな顔で自分の飲み物を掻き混ぜながら言った。
たった今あの人たちが話していた内容は、わたしが先日カーナックから聞かされた王子にまつわる噂とほとんど一緒だ。
だけど唯一違うのは、王宮に魔女が現れたという噂。そんな噂はカーナックからも聞いていない。
「あれ、本当なの?」
「何がだ?」
「王宮に魔女が現れて、王子がおかしくなったって話」
「さあ、それは俺も今聞いた。これでも結構驚いてる」
「とてもそうは見えないけど?」
「殺し屋っていうのは、感情を表に出さない生き物なんだよ」
「さっきまで裏路地で大笑いしてたくせに……」
「だけど信憑性は高いんじゃないか?」
「何が?」
「さっきの男の話だよ。現にああして衛兵が町中を厳しく警戒してる。見回りの者たちがわざわざ鳥に乗って町へ出てくるなんて、今まで滅多になかったことだ。まあ、その〝魔女〟っていうのが君に呪いをかけたやつかどうかは分からないが」
言いながら、カーナックは散々意味もなく掻き混ぜた飲み物を悠然と口に運んだ。
その所作があまりに洗練されているものだから、わたしはつい彼の手を目で追ってしまう。彼が手にした木製の容器に入っているのはわたしと同じ、ラヤップの実の搾り汁だ。
けれどもカーナックは、それを一口飲んだところで不意に眉を曇らせ、
「厄災もここまで重なると、今度はいよいよ大魔女でも現れそうだな」
と、そんなことを呟いた。
「大魔女って?」
「聞いたことないか? この世に存在するすべての魔女は、ある一人の魔女から魔力を分け与えられて生まれたって。その最初の一人が〝大魔女〟と呼ばれる者だ。大魔女は魔女たちが世に振り撒いた恐怖や絶望が大きく育つと、やがてそれを喰らいに現れるとか」
そう話すカーナックの声色は淡々としていたけれど、わたしは思わずぞっとして小さく肩を震わせた。
幾人もの魔女を生み出し、彼女たちが振り撒く絶望を喰らう大魔女。その話のなんとおぞましいことだろう。
そんな魔女が、本当にこの世に存在しているのだろうか?
仮にもし存在しているとして、その大魔女が現れたらこの国はどうなってしまうのか……わたしはそんな未来を予想しようとして恐ろしくなり、すぐに思考を遮断する。
「お待たせしました」
そのとき、何となく会話が途切れたわたしたちを気遣うようなタイミングで、若い女性店員が料理を運んできてくれた。
わたしたちが注文したのは、この店で一番の人気料理だという鶏肉の香草煮込み。それに白米と野菜の盛り合わせが一緒についてきて、二人がけの小さな卓に並べられていく。
主菜のトムヤムガイは鶏の胸肉と香味野菜を一緒に煮込んだもので、真っ赤な汁は見るからに辛そうだった。
けれど器から立ち上る香辛料独特の香りが、空腹のわたしにはたまらない。たっぷりの野菜が盛られたソムタムも彩りが美しく、見ているだけでまたお腹が鳴りそうだ。
だけどカーナックに笑われるのは癪だからと、わたしはお腹に力を込めて、店員が立ち去るまで必死に耐えた。
が、その店員が、最後に卓の真ん中へ置いたものがある。
それは小さな硝子の器に盛られた、大小様々な木の実の盛り合わせだ。
「あ、あの、それ、頼んでないですけど……」
「いえ、こちらは恋人同士でご来店のお客様に無料でお出ししている心づけです」
「こっ」
と、ときに満面の笑みを湛えて店員が言うので、わたしは驚きのあまり上擦った声を上げた。
けれど、それ以上言葉が続かない。わたしとカーナックは恋人同士などではない、とすぐさま否定したかったのに、ぱくぱくと動かした口は虚しく空気を食むだけで、まったく声が出ないのだ。
「ああ、それは嬉しいな。ありがとう。そういうことなら遠慮なく頂戴しようじゃないか。なあ、スーリヤ?」
そのとき、向かいの席でニヤニヤとしながらそう言ったカーナックに、わたしはますます言葉を失った。
それどころか顔が熱い。たぶん今のわたしを鏡で見たら、耳まで真っ赤になっているに違いない。
店員もそんなわたしの様子を少しは不審に思えばいいのに、やはり満面の笑みを添えて「ごゆっくりどうぞ」と言い置くと、ようやく席を離れていった。
その背中を見送ったわたしは、即座にキッとカーナックを睨みつける。
「カーナック、どういうつもり? わたしは殺し屋なんかと恋人になった覚えはないわ」
「いいじゃないか、それで木の実一皿儲けたんだから。店側の勝手な勘違いなんだし、放っておけよ」
「だけど、何だかお店の人を騙すみたいで申し訳ないじゃない」
「そうかい? 俺は気分がいいけどな」
「それ、どういう意味?」
「お。そんなことよりスーリヤ、この青い実。これ、甘くてうまいぞ。何の実だろうな?」
とぼけたように言うカーナックを更にもうひと睨みして、わたしははあ、とため息をついた。
まったくこの殺し屋と一緒にいると調子が狂う。彼にとって都合の悪い話はすぐにはぐらかされてしまうし、何だか雲か煙を相手にしているような気分だ。
これは責めるだけ無駄か、と早々に見切りをつけたわたしは、呆れながらもカーナックの言う青い木の実へと手を伸ばした。
わたしの指先にも乗ってしまうほどの小さな実だ。青というよりは紫に近い薄皮は艶やかで、何かのかわいらしい飾りのようにも見える。
わたしはその実を一粒、ぱくりと口の中へ運んだ。
次の瞬間、ぴっと目を見開いて固まったわたしを見やり、向かいでカーナックが吹き出している。
「ごめん、嘘」
何が〝嘘〟なのかは、聞くまでもなかった。
青い実を噛み砕いた刹那、口の中いっぱいに広がったすっぱさに、わたしは涙目になって肩を震わせる。
そうしてすぐさまラヤップの実の搾り汁に手を伸ばしたわたしを見るや、カーナックはまたしても声を上げて放笑した。
この殺し屋、本当に意地が悪い。
しかも極度の嘘つきだ。