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第三十三話 約束の果て

「どうして……」


 と、最初に聞こえた言葉には、驚きとも怒りともつかない感情が滲んでいた。

 カーラの赤い瞳が、まっすぐにわたしを見つめてくる。その視線を追うように、日除け傘の下のチャイディがゆっくりとこちらを振り向いてくる。


 チャイディ。やはり彼で間違いなかった。ひとりでに動いたところを見ると、どうやら精巧な人形というわけでもないらしい。生きている。

 けれどこちらを向いたチャイディの瞳はどこか虚ろで、本当にわたしを映しているのか、それさえも怪しい感じがした。

 彼の方はわたしやナットの姿を見たところで顔色一つ変えない。それどころか自我や感情がまったく窺えない面持ちで、あたかもチャイディの顔をした他人のようにそこにいる。


「どうしてお前がここにいるの。まさか私の結界を破ったとでも?」

「結界?」

「ここには私とコンラック以外立ち入れないはずなのに……一体どうやって入ってきた!?」


 声を荒らげたカーラの形相からは、もはや先程までの穏やかさなど消し飛んでいた。

 わたしの心臓を貫くように向けられた眼差しには、怒り、憎しみ、敵意――そんな恐ろしげなものしかない。

 けれどそれはわたしだって同じだ。あの魔女はわたしたちに数多あまたの恐怖と絶望を植えつけ、チャイディを奪った。

 それを許すわけにはいかない。あの魔女はまぎれもなく、わたしたちの〝敵〟だ。


「なるほど。この山中に魔術で練った結界を巡らせ、その中に自分の都合のいい世界を創り上げていたというわけか。その結界を、あのご老女の魔力が砕いたと……」


 と、ときに独白のように言ったのは、すらりと剣を構えたナットだった。

 隣ではノーンもカーラを見据え、白い毛をハリネズミのように逆立たせている。あの魔女は父さんと母さんの仇だ。ノーンもそれを分かっているらしい。


「スーリヤ様。ここはあの魔女が創り上げた異空間です。ここから抜け出すには創造主カーラを倒すしかなさそうですね」

「ええ、そのようね。だけどあの女の使う術は厄介よ。戦うにしても気をつけないと……」

「承知しております。スーリヤ様、ここは私があの魔女の気を引きましょう。あなたはその間に王子を」

「あなた一人で大丈夫?」

「一人ではありません。今は頼もしい相棒がおります」


 そう言ってナットがちらりと目を向けた先には、カーラへの敵意を剥き出しにしたノーンがいた。が、ノーンはわたしたちの視線に気がつくとこちらを振り向き、「任せろ」とでも言うように力強くひと吠えする。

 それを見たナットは口元にうっすらと笑みを浮かべた。彼がそんな冗談めいたことを言うのは珍しい。きっと少しでもわたしの緊張がほぐれるようにと気を遣ってくれているのだろう。

 けれどわたしがそんなナットに頷きを返した刹那、あたりには壊れたようなカーラの高笑が響き渡った。


「なるほど。お前たちの狙いはコンラックか。よく彼が生きていると分かったね。まったく懲りない連中だよ」

「コンラック? いいえ、違うわ。そこにいるのはコンマニー王国の王子チャイディよ」

「おやおや。忘却の呪いは解けたのに、まさかもう忘れたとでも? チャイディはお前が殺したんだろう、スーリヤ。婚約者より自分の命を優先させた冷血女。そんな女が、よくもおめおめと顔を出せたね」

「スーリヤ様に呪いをかけ、王子を殺すよう仕向けたのはお前だろう、カーラ。お前のように人の運命をもてあそび、いたずらに苦しめるような輩はこの地上にいるべきではない」

「フフ……大昔、他ならぬこの私に救われた者どもの子孫が偉そうに。あれだけ世話になっておきながら、用が済んだ途端掌を返して私の人生を踏み躙ったのはお前たちの方だろう。真に死に絶えるべきはお前たちのような利己的で恩知らずの愚か者どもだ。そうすれば私たちも、もう一度あの穏やかだった時を取り戻せる。ねえ、コンラック?」


 そう言って薄い笑みを浮かべたカーラは、その指をそっとチャイディの頬に這わせた。

 チャイディはそんなカーラを顧みただけで何も言わない。けれどあたかも彼の恋人のように振る舞うカーラの姿に、わたしはぞわりと肌が粟立つのを感じる。――汚らわしい。


「カーラ。あなたにどんな過去があろうと、あなたがチャイディに呪いをかけ、たくさんの人を苦しめたことは事実よ。そんな相手にチャイディは渡さない」

「ああ、いいね、その顔。少しは彼を奪われた私の気持ちが分かった? 私はずっとこの時を待ってたんだ。お前たちに殺されたコンラックが、生まれ変わってもう一度私を迎えに来てくれる日を。なのにお前はその邪魔をした。生まれ変わったらもう一度共に生きようと、コンラックはそう約束してくれていたのに!」

「何度も同じことを言わせないで。そこにいるのはこの国の王子チャイディよ。生まれ変わりだか何だか知らないけれど、彼はチャイディという一人の人間としてこの世に生を受けた。それをあなたの勝手な願望で捩曲げないで!」

「黙れ! この百年私が抱えてきた想いも絶望も、お前ごときに分かるものか! コンラックは誰にも渡さない――!」


 瞬間、すさまじい閃光と共に突風が吹き荒れた。花たちが吹き倒され、嵐の海のようなざわめきが広がり、わたしたちは自らを呑み込もうとする風に目を瞑る。

 次に瞼を開けたとき、そこには巨大な影が落ちていた。

 紫黒色の鱗に覆われた、禍々しき人面の竜。

 再び邪竜の姿を取ったカーラは、そのおぞましい姿とまるで裏腹な美しい世界で、聞く者の頭蓋を割るような咆吼を上げる。


「あ……っ」


 その瞬間、わたしの脳裏をよぎったもの。

 それはあの日、紫色の炎に包まれ、身悶えながら息絶えていった両親の姿。

 まるで矢のように甦ったその光景にわたしの体は激しく震え、全身から血の気が引いた。


 ――嫌だ。

 思い出したくない……!


「スーリヤ様!」


 直後、わたしは全身に激しい衝撃を感じた。たくさんの花を下敷きにしながら地面を転がり、目を白黒させたところでようやくナットに突き飛ばされたのだと気づく。

 見れば直前までわたしたちが立っていた場所に、紫色の炎が走っていた。その光景を目にしたわたしはぞっとして、思わず傍にいるナットの服を握り締める。


「スーリヤ様、お気を確かに。この状況で王子を救えるのはあなただけです。カーラのことは私にお任せを」

「だけど、ナット……!」

「皆で生きて帰るのでしょう?」


 怯えきったわたしをなだめるようにナットは言った。その黒い瞳にまっすぐに見つめられ、わたしは内心はっとする。

 そうだ。チャイディともナットとも、必ず生きて帰ると約束した。

 ならばこんなところで怖じ気づいてはいられない。

 わたしは未だ全身を支配する震えを何とか押さえつけ、ナットに頷きを返してみせる。


《ハハッ、面白い! お前たち、この期に及んでまだ生きて帰れると思ってるのか? それならせいぜい足掻くといい――立ちなさい、コンラック》


 そのとき、コウモリのような膜翼を羽ばたかせ滞空したカーラが、眼下のチャイディを見下ろして言った。するとチャイディは言われたとおり立ち上がり、無感情にカーラを仰ぎ見る。

 そのチャイディへ向けて、突然カーラが火を吹いた。それを見たわたしは「あっ」と声を飲んだものの、吐き出された炎は小さく、とてもチャイディを呑み込めるようなものではない。

 それどころか炎はチャイディの眼前で止まり、みるみるその色合いを変えた。

 紫から氷を思わせる青へ。そしてその青炎にチャイディが手を伸ばした刹那、炎は眩い光を放ち、やがて一本の短剣へと姿を変える。


《さあ、コンラック。その短剣であの女を刺し殺してやるんだよ。自分が殺した婚約者に殺されるんだ。あの女も罪を償えて本望だろうさ》

「カーラ、貴様……!」


 剣を握るナットの手が震えていた。かと思えば彼は弾かれたように立ち上がり、カーラへ向かって駆け出していく。

 そのあとを追うように、未だ下草を焼く炎の陰からノーンも飛び出していくのが見えた。


 本当はふたりを止めたい。

 けれど今は、それより先にやるべきことがある。

 わたしはきつく唇を噛み、未だ微かな震えを伴う両足を叱咤して立ち上がった。

 チャイディ。

 カーラが与えた青白い刃の短剣を手にした彼は、やはり自我の窺えない表情でゆっくりとこちらへ向かってくる。


 その彼をまっすぐに見据えながら、そのときわたしはふと何かが爪先に当たるのを感じた。

 見ればそこには、先程わたしが中身をぶちまけたあの小瓶が転がっている。栓は抜け、既に中身は空同然だったけれど、わたしは無意識にそれを拾い上げた。

 掲げた小瓶の中には虹色の液体がほんの数滴。それを確かめたわたしはとっさに物入れへ押し込んでいた栓を取り出し蓋をする。

 そうしてそれを再び物入れにしまってから、チャイディと向き合った。

 彼は既に踏み出せばほんの数歩で触れられる距離にいる。けれどわたしを見据える空色の瞳が、まるで別人のように冷たい。


「チャイディ……」


 何と言葉をかければいいのか、分からなかった。

 いや、あるいはどんな言葉をかけたところで、今のチャイディには届かないのかもしれない。


 それでも、わたしは。

 確かに彼と約束した。

 必ずみんなで生きて帰る――。

 こんな悲しいめぐり合わせは、もう終わりにするんだ。


「チャイディ、聞こえる? わたしよ、スーリヤよ」

「……」

「あなたを迎えに来たわ。一緒に塔の町へ帰りましょう」


 可能な限りやわらかい声を出し、笑顔を作ってわたしはチャイディに呼びかけた。

 けれど、その直後。

 突然ぐっとチャイディの姿勢が低くなり、その目の光が鋭さを帯びた。次の瞬間、右足を出して踏み込んだ彼が一瞬で間合いを詰めてくる。


 はっとしたときには、すぐ目の前に青い刃が迫っていた。

 わたしはすんでのところで身をよじり、突き出された刃をかわす。危なかった。大道芸の稽古で培った反射神経がなければ、わたしは今の一撃で呆気なく殺されていたかもしれない。


 慌ててチャイディから距離を取りつつ、わたしは背中に冷たいものを感じていた。

 どうしよう。やはり今のチャイディにわたしの声は届かない。


 一方のチャイディはまるで〝殺し屋〟という冗談が本物に化けたかのように、その動きは鋭く速く、さながら暗殺者のようだった。

 きっとその剣捌きは、彼がわたしを守るために血の滲むような努力をして身につけたもの――。

 その剣術によって殺されようとしている現状に淡く自嘲を浮かべながら、それでもわたしは腹を括る。

 サンサーラは、わたしにはチャイディを救える力があると言っていた。

 それなら今は、彼女がくれたその希望ことばを信じるだけだ。


「チャイディ、お願い。目を覚まして! あなたは何があっても呪いに負けなかった。それなら今のカーラの呪縛だって、きっと跳ね返せるはずよ! ナットやわたしがついてるから……あなたはもう一人じゃないわ!」


 声の限りにわたしは叫んだ。遠くではナットやノーンが決死でカーラと戦っているけれど、今はそちらを気にかけている余裕もない。

 再びチャイディの攻撃が来た。まるでカーラの咆吼に合わせるように、刃が素早く突き出される。

 耳をつんざくカーラの声に怯みかけていたわたしは、あわやというところでそれを躱した。そうしながらなおもチャイディに呼びかけたものの、返ってくるのは刃による答えばかりでわたしはひたすら逃げるしかない。


 そうこうしているうちに、わたしはカーラの小屋のそばに広がる森の入り口まで追い込まれていた。

 さすがにこの中へ逃げ込んだりしたら、ナットやノーンの状況が追えなくなる。それにここがカーラの創った世界だと言うのなら、森の中がどうなっているかも分からない。


 ――けれど、これは好機だ。

 それまで行く手を遮るものなど何もない花畑で逃げ回っていたわたしは、その森の存在に――更に言えばその入り口に佇む大樹に一筋の光明を見た。

 上手くいくかどうかは分からない。

 だけど、やってみる価値はある……!


「チャイディ、無駄よ。あなたにわたしは殺せない。だってあなたはそういう人だもの。あなたには殺し屋なんて、向いてない」


 既に逃げ疲れて息が上がっていたものの、わたしは敢えて強気な笑みを彼へと向けた。

 途端にぴくりとチャイディの蟀谷こめかみが動く。不愉快そうに据えられた瞳。もしかしたら今の彼の耳目や感情は、カーラのそれと同調しているのかもしれない。


「だから、こんなことはもうやめて。わたしの話を聞いてちょうだい。わたしたち、約束したはずよ。みんなできっと生きて帰るって――」


 その言葉を、チャイディはみなまで言わせなかった。

 じりじりと後ずさり、間合いを取ったわたしの背が一本の大樹と重なった瞬間。

 彼はまるでそのときを待っていたかのように、素早く地を蹴って迫ってきた。

 わたしの背後に逃げ場はない。

 けれど今はそれでいい。

 わたしは刃を振り上げて向かってくるチャイディをぎりぎりのところまで引きつけ――直後、さっと頭を抱えてしゃがみ込んだ。


 貫かれた風が悲鳴を上げる。けれど次いで聞こえたのは、ドッと刃が樹に刺さる鈍い刺突音だった。

 標的であるわたしに避けられた刃が、その勢いのままに背後の樹へ突き立ったのだ。

 ――かかった。

 好機はもう、この一瞬しかない。


「チャイディ!」


 樹の幹に深く刺さった短剣を抜こうと、舌打ちしたチャイディが動きを止めた刹那。

 わたしは迷わず立ち上がり、地を蹴った勢いを駆ってチャイディにぶつかった。

 そのままチャイディを押し倒し、二人で花畑の上を転げ回る。

 だけど不意を衝いた分、行動はわたしの方が早かった。

 わたしは倒れたチャイディをそのまま仰向けに押さえつけ、まっすぐに彼の目を見つめる。

 その瞳の奥に、狂気があった。

 けれどそれはチャイディのものじゃない。彼を支配しているカーラのものだ。


「チャイディ、よく見て! わたしよ、スーリヤよ……! ナットと二人で、あなたを助けにきたの。お願い、応えて……!」


 暴れようとするチャイディを何とか押さえ込み、わたしは必死で呼びかけ続けた。

 正直なところ、膂力りょりょくも体格も勝るチャイディに本気で抗われたら、わたしなんてひとたまりもない。彼を押さえていられるのはほんのわずかな間だけだ。


 だけど、わたしは。

 チャイディを信じる。

 信じてる。

 彼は必ず応えてくれる。

 絶対に――!


「チャイディ――愛してるわ」


 両手を彼の頬に添えて。

 わたしは縋るような思いで言葉を紡ぎ、彼の胸に額を預けた。


 チャイディ。

 ごめんなさい。

 わたしのせいで、あなたをたくさん傷つけた。苦しめた。


 だけど、だからこそあなたを救いたい。今度こそ本当に。

 そうして二人、陽の当たる道を歩きながら、もう一度あなたに見せてあげたい。


 この果てしなく広大で、どこまでも美しい世界を。


「――ス……リヤ……?」


 そのとき不意に聞こえた呼び声に、わたしははっと顔を上げた。

 チャイディの。狂気の色が消えている。

 けれど眼差しはどこか茫洋として、何を見ているのかも判然としなかった。

 それでも今、確かに。

 チャイディはわたしの名前を呼んだ。

 聞き間違いなんかじゃない。

 もう少し。

 あと少しのところまで、チャイディの意識が戻ってきている。


「チャイディ! 思い出して……わたしよ、スーリヤよ!」


 言いながら、わたしはみるみる視界が輪郭を失っていくのを感じた。

 だって分かるのだ。チャイディは暗くて深い意識の檻から、今、必死で脱け出そうとしている。

 苦しくないはずがない。恐ろしくないはずがない。

 それでも、彼は――


《――滅びろ、人間ども!!》


 瞬間、まやかしの大地が揺れた。

 突風が吹き荒れ、花々が震撼し、鼓膜を引き裂くような邪竜の絶叫が轟き渡る。

 あまりにすさまじい咆吼に思わず耳を塞ぎながら、しかしそのとき、わたしは見た。

 ナット。

 邪竜の尾の一撃を受けた彼の体が、石塊いしくれのように吹き飛ばされて板噴きの小屋へと突っ込んでいく。


「ナット!!」


 小屋の壁が破られ、骨組みの崩れる音がした。けれどカーラの暴走はそれだけでは止まらない。

 天上から吹きつけられた紫の炎が、ノーンを呑み込もうとした。一瞬ナットへ駆け寄る素振りを見せたノーンはしかし、その炎に行く手を阻まれ逃げ惑う。


 あれではノーンがナットを助けにいけない。

 そう思ったわたしは一旦チャイディから意識を切り、ナットのもとへ急ごうとした。

 けれど、刹那。

 突然伸びてきた腕がわたしを掴み、そのまま地面へと引き倒す。


 悲鳴を上げる暇もなかった。

 次に気がついたとき、視界には天を背にしたチャイディがいて、その手がわたしの首にかけられている。

 空色の瞳は再びあの狂気に染まっていた。

 ――カーラ……!

 途端に込み上げてきた怒りに任せ、わたしは激しく暴れたけれど、チャイディが本気で締め上げてくる両の手をそう簡単に振り払えるはずがない。 


「う……くっ……チャイ……ディ……っ!」


 すさまじい力だった。まかり間違えばそのまま首の骨をへし折られてしまうのではないかと、そう思えるほどの力だ。

 わたしはそれに抗いながら、何とか息をしようと喘いだ。

 けれど当然、気道を圧迫された状態では息など吸えるはずがない。代わりに喉がカフッと不自然な音を立てて引きり、チャイディの腕を掴んだ両手から少しずつ力が抜けていく。

 苦しい。


「チャ……イ……ディ……」


 視界が霞み始めた。頭がぼーっとして、意識にまでもやがかかり始める。

 全身が痙攣し、自然と涙が溢れてきた。

 ――駄目だ。

 たぶん、わたしはここで死ぬ。


 とうとう指先に力が入らなくなった。限界まで喉を反らし、最後にできる精一杯の抵抗をしたけれどそれも虚しい。

 ナットはどうなったのだろう。ノーンは無事だろうか。

 視界が暗くなっていく。

 チャイディ。

 あなたが今、どんな顔をしているのかさえもう分からない。


 だけど


「チャイ……ディ……ごめ……な……さい……」


 薄れゆく意識の中で、最後の力を振り絞って。

 わたしは震える両手を持ち上げ、暗幕が下りつつある視界の向こうにチャイディの温もりを探した。

 その手がやがて彼の頬に触れる。

 そうしてそっと彼の両頬を包み込み、なおも喘ぎながら唇を震わせる。


「わた、し……あなた……を……んなに……愛し……た、のに……呪……に、負けて……あなたの、こ……忘れ……しま……た……本当に……ごめ……なさ……」


 喉が押し潰されて、ろくに言葉も紡げない。

 だけど、どうせここで死ぬのなら。

 あの日――チャイディを永遠に失った日、伝えられなかったことを、わたしは――


「チャ……ディ……わた……も……あな……を……愛、して……るわ……本当に……愛して……だか……ら……チャイ、ディ……」



「泣かない、で――」



 彼の頬を包み込んだ両の手に。

 冷たく滑り込んだその感触を、わたしははっきりと感じていた。

 チャイディ。

 泣いている。

 泣かないで。

 あなたは何も悪くない。

 わたしはあなたに会えて嬉しかった。

 あなたに愛されて幸せだった。

 わたしは――


「――やめろ……」


 視界から光が消える。

 そのまま意識が事切れるかに思えた、刹那。

 聞こえたのは、チャイディの声。

 次の瞬間、突然気道が解放されて、


「やめろ……やめろ!! スーリヤに手を出すな!! 僕の中から、出ていけ……!!」


 直後、わたしは雷に打たれたように仰け反り、肺が破けんばかりに息を吸い込んだ。

 するといきなり飛び込んできた空気に驚き、喉がびくりと飛び上がる。それはとても自分の意思で制御できるものではなく、わたしは体を横にしながら本能的に咳き込んだ。

 ヒューヒューと悲鳴を上げる喉に手を当て、夢中で空気を貪り食う。内側から頭蓋を叩かれているような頭痛を感じ、瞳からはぼろぼろと大粒の涙が零れた。


 けれど、生きている。息が吸える。

 間一髪だった。わたしは肩で大きく息をしながら、未だ涙の溢れる目で愛する人の姿を探す。


「チャイディ……!」


 地に額をつけ、草花をきつく握り込み、チャイディは手負った獣のような呻き声を上げていた。

 その体が、直前までのわたしと変わらぬほどに痙攣している。もう一方の手は彼の胸元の衣服を掴み、まるで自分の心臓を抉り出そうとしているかのようにそれを握り締めている。


「チャイディ!」

「く……そっ……違う……っ! 僕の、名前は……っ!」

「チャイディ、しっかりして! チャイディ!」

「そう、だ……僕は……っ!」


 苦しそうに喘ぎ、必死に何かと戦っているチャイディを、そのまま放っておくことなんてできなかった。

 わたしは未だくらくらとする頭を叱咤して大地を這い、チャイディの体を抱き寄せる。するとそれに応えるようにチャイディの手が動き、縋るようにわたしの腕を握り締めてくる。


「ス……リヤ……っ僕を……殺してくれ……!」

「チャイディ――」

「頼む……このままじゃ、僕は君を……っそうなる前に、早く……!」

「嫌よ! だってあなたと約束した! 必ず生きて帰るんだって――!」


 その瞬間、わたしの手の中で何かが弾けた。

 いや、正確にはチャイディの中で・・・・・・・・何かが弾けた。

 それは目も眩むほどの閃光となり、彼の胸から溢れ出す。

 地を抉るような絶叫。わたしはチャイディが上げる悲鳴とその光の中で、彼の体が砕けて消えてしまわぬよう、必死でそれを抱き締める。


「チャイディ――!」


 視界を塗り潰す光の中、わたしは彼の肩に顔を埋めた。

 そうして祈る。ひたすらに祈る。

 世界よ、女神よ、大魔女よ。

 どうか彼を奪わないで、と。


 一体どれほどの間、そうして祈り続けていたのかは分からない。

 あるいはその間、世界の時は止まっていたのかもしれない。

 しかしあるとき、腕の中にあるチャイディの体がふっと重くなり、わたしははっと我に返った。

 目を開けば色とりどりの世界が見える。あの光はいつの間にか消えていた。

 チャイディ。

 倒れている。意識はない。


「チャイディ……!」


 もしや死んでしまったのでは――。

 唐突に押し寄せたそんな不安に駆られ、わたしは急いで彼の口元へ耳を寄せた。

 すると草花のざわめきに混じって、微かな吐息の漏れる音がする。

 大丈夫だ。チャイディはまだ死んでいない。


《馬鹿な……この私の術が……!》


 そのとき、あの禍々しい声が聞こえた。

 カーラのものでありながら、地の底まで響くような邪竜の声。

 竜と人のそれが不均衡に混ざり合った顔を歪めながら、その竜は地上から立ち上る紫炎と煙の中にいた。


 わたしはチャイディの体を大地に預け、その竜を見据えたまま立ち上がる。

 ここまで来たのだ。

 今更、もう迷いはない。


「カーラ。決着をつけましょう」


 邪竜の顔が更に歪んだ。安い虚勢ならあっという間に吹き飛ぶほどの咆吼が正面からぶつかってくる。

 けれど生憎、今のわたしをよろうものは、そんなものでは揺るがなかった。

 自分でも驚くほど冷静な心を引き連れて、わたしは大樹へと歩み寄る。カーラの短剣が刺さった大樹はその刃に生命いのちを吸われ、あっという間に枯れ朽ちていた。


 わたしはその幹に刺さったままの短剣に、すっとあるものをかざしてみせる。

 それはサンサーラから受け取ったあの小瓶。

 その中に残ったわずか数滴の神の力を、まるで世界に導かれるように、わたしは短剣へと振りかける。


 再び世界に光が満ちた。

 その光が消えたとき、わたしの手には一条の槍が握られていた。

 鮮やかな朱色の柄に、金色の穂と房がついた槍。


 わたしはその槍を朽ちた大樹の幹から引き抜き、カーラへ向けてすっと構えた。

 おぞましき竜の唸りが響く。

 一瞬、あるいは数瞬ののち。

 わたしは風のように地を蹴って駆け出し、カーラは風を引き裂きながら滑空した。

 両者の体が交差する、瞬間。

 わたしは頭の中に響いた鈴の音に合わせて、舞う。

 槍を地に突き、その勢いを駆って宙を踊り。

 わたしの胴を食いちぎろうとした邪竜の牙を、すんでで躱した。

 そのときわたしの眼下には、紫の髪に覆われた邪竜の長い首がある。

 わたしはその首を目がけて。

 舞いながら槍を引き抜き。

 空中で身をよじりながら。

 その槍を、力の限り突き立てた。


カッ――!!》


 太陽の槍は、邪竜の首を貫いた。

 世界は四度目の白に染まり、爆ぜた光が暴風となってわたしの体を吹き飛ばす。

 短い悲鳴は轟音に呑まれ、わたしは大地に投げ出された。

 いくつもの花に受け止められて転がり、若干目を回しながらも何とか体をもたげた先。

 そこで身も凍るような悲鳴を上げた邪竜の体がまやかしの世界と共に砕け、消えゆこうとしている。


《馬鹿な――そんな――この私が――どうして――》


 一条の槍によって大地に縫いつけられた邪竜は、もう二度と飛び立つことはできないように見えた。

 その肉体はぼろぼろと崩れ、次第に原形を失っていく。

 ――否。

 ある一人の娘の姿へと、ゆっくりと還っていく。


「どうして……こんな……嫌だ……コンラック……」


 崩れゆく空の下、花畑に身を横たえたその娘は。

 まるで夕日に染められたような赤毛を大地に広げ、体を槍で貫かれていた。


「ずっと……ずっと、待ってた……百年も……待ったのに……」


 けれど世界は静かに、残酷に、その体をも砕いて吸い込んでいく。

 娘は力なく大地に横たわったまま、ぽろぽろと涙を零している。


「ねえ……会いたいよ……コンラック――」


 そうしてついに、その肉体が完全に消え去るかに見えた、刹那。

 ふっと伸びた二本の腕が彼女をすくい上げ、しっかりと抱き留めた。

 その腕の中で、娘は信じられないものを見たように目を見開いている。

 彼はそんな彼女の、半分砕けてしまった頭を愛おしそうに撫でながら、最後に優しく微笑んだ。


「        」


 そのとき彼が、彼女の耳元で何を囁いたのかは分からない。

 娘はひどく驚いたような顔をして――けれど最期の瞬間は、泣きながら微笑んでいた。

 娘の唇も何かを紡ぐ。

 けれどそれはわたしの耳に届く前に、砕け散って空へと消えた。

 世界の崩壊が加速する。

 遥か彼方から迫ってきた崩壊の足音は、やがて洪水のようにわたしたちを呑み込んで、










「――スーリヤ様」


 硬い岩の感触が、わたしの頬に当たっていた。

 ……すごく痛い。その痛みと頭上から降ってくる声が、わたしの意識を現実へと呼び戻す。


「スーリヤ様、しっかりして下さい。スーリヤ様」

「んっ……」


 次いで軽く肩を揺すられ、わたしはようやく覚醒した。

 一度全身に力を込めて、何とか重い瞼を開ける。するとまず灰色の岩が見えた。それから黒い靴。こちらへ伸ばされた腕。――ナットの顔。


「ナット……?」

「スーリヤ様、ご無事で」

「あなたこそ、怪我は?」

「幸い子供の頃から父に投げ飛ばされて育ちましたので、大した怪我はありません。それよりも、王子は」


 大した怪我はない、なんて言いながら、見上げたナットの体はぼろぼろだった。黒い衣服はあちこち破れて血が滲み、頬は煤けて、満身創痍とはまさにこのことを言うのだろうとわたしの胸を締めつける。

 けれど、それでも。

 わたしたちは生きていた。

 体を起こして見渡せば、そこは初めにわたしたちがいたあの岩山だ。目の前には白い山頂へ続く斜面があり、意識を失う直前まであれほど世界を彩っていた草花は影も形もなく、今は足元で一羽のウィンノックが手持ち無沙汰に立っているだけ。


 わたしは軋みを上げる体を持ち上げ、それをナットに支えられながら立ち上がった。

 するとふと目をやった先に、行儀良く前脚を揃えて座ったノーンの姿が見える。

 彼もまた体中に傷を負っていた。白い毛皮は血と煤で汚れ、あんなに立派だった角は片方が折れてしまっている。

 それでもノーンは獣の気高さを失わず、彼を守るようにそこにいた。

 灰色の地面に倒れているチャイディを。


「チャイディ……!」


 わたしは全身の痛みも忘れて彼に駆け寄った。ナットもあとを追ってくる。

 倒れていたチャイディを抱き上げ、縋るようにその体温を確かめた。

 冷たくはない。

 微かだが、まだ息はある。


「チャイディ! ねえ、目を開けて、チャイディ……!」


 その頬を撫で、手を握り、わたしは再び世界に祈った。

 けれどいくら呼びかけてもチャイディが目を開く気配はない。

 何か冷たくて不吉なものが、瞬く間にわたしを支配した。

 駄目だ。

 約束、したのに。

 やっぱり、奇跡なんて起きなかったのか――


「ねえ、お願いよ……答えて、チャイディ……」

「――……胸が痛い」

「……え?」

「色んな傷が疼いて死にそうだ。だけど、スーリヤ……君が傍にいてくれたら、この痛みも――」


 滲みかけていた視界が、急に輪郭を取り戻した。

 うなだれていたわたしは弾かれたように顔を上げ、その声の主を凝視する。

 隣でノーンが何度も吠えた。それにつられてわたしも涙がぶり返してくる。

 けれど今度の涙は、ここまで幾度となく流した諦めや悲しみの涙とは違う。


「……お妃さまに言いつけるわよ、チャイディ」

「いや、待ってくれ。今のは本当に本当なんだ。ええと、とりあえず――ただいま、スーリヤ」


 そう言って笑った彼に、わたしもようやく笑顔を返した。

 ノーンの歌はなおも続く。それを傍らで聞きながら、ナットも安堵の笑みを零している。

 それにつられて、何故だかウィンノックまで歌い始めた。

 世界がわたしたちを祝福している。



「おかえりなさい、チャイディ」

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