第三十二話 北へ
それからおよそ一ヶ月。
わたしたちは西の国境ではなく、ひたすら北へ向かって旅した。
サンサーラが最後にくれた虹色の小瓶。その中身を嗅がせるとノーンの鼻が北を示し、わたしたちを導いたからだ。
結局あの老婆が何者だったのか、答えは誰にも確かめようがない。けれどわたしとナットは彼女の残した言葉をただ信じることに決めた。
もし本当にチャイディが生きているのなら――そして望まずにカーラの傀儡となっているのなら。
わたしたちのやるべきことは、たった一つだ。
わたしにもナットにも迷いはなかった。わたしが行くと言うのなら、どこまでも供をするとナットはそう誓ってくれた。
その彼の気持ちに応えるためにも、わたしはもう諦めない。投げ出さない。
再びチャイディと会える日まで生きて、生き抜いて――必ず彼を救い出す。そう決めた。
決めたら、あとはやり遂げるだけだ。
「このまま行くと、北の白龍山脈にぶつかりますね……」
と、ナットがそう呟いたのは、わたしたちが塔の町を出てからちょうど一月が経とうという頃だった。
わたしたちは今も王子暗殺の容疑で追われているから、あまり町や村には立ち寄れない。そのためこの一月は夜になると野営を張ることが多く、今もナットが森の中で王国の地図を広げていた。
その地図を、すぐそばで燃える焚き火が明々と照らし出している。わたしはそこに記された山脈の名前に目を向けて、おもむろに頷いた。
白龍山脈。コンマニー王国の北に蓋をするように東西へ伸びるその山脈は、王国と北の大平原を隔てる境界だ。
わたしは過去に一度だけその山脈を渡ったことがあるけれど、あのときは自分の足で山を越えたのではなく首長馬がいた。わたしたちはそのプアンの背に揺られていれば良かったから難なく山を超えられたものの、あそこを人間が自力で越えようとすればかなりの苦労と危険を伴う。
白龍山脈に連なる山々はどれも険しく、人が通れる道を行こうと思ったら山脈のあちこちを蛇行することになるのは経験から分かっていた。
今回はプアンの代わりにウィンノックがいるものの、果たして鳥の脚であの山を越えられるだろうか。山にはウィンノックの天敵であるガットも出るし、あまりもたもたしていると冬が来る。
コンマニー王国は一年を通して温暖なことで知られているけれど、標高の高い山では冬になると雪が降るのだった。
そうして白く染まった山々の峰が連なると、まるで空を泳ぐ龍のように見えることから、あの山脈は〝白龍山脈〟と呼ばれている。
「カーラはあの山の向こうにいるのかしら……」
「分かりません。ですがもしそうだとすれば、王子のもとへ辿り着くにはまだまだかかりそうですね」
「ええ……だけどここまで来て引き返すわけにはいかないわ。たとえカーラが地の果てまでチャイディを連れ去ったのだとしても、必ず追いついて彼を救い出す」
地面に広げられた地図を見つめたまま、わたしは揺るぎない決意でそう言った。
するとナットが一瞬、何か言いたげな視線をこちらへ向けてくる。それに気づいたわたしが目を上げると、視線の搗ち合ったナットは微かに笑った。
「何?」
「いえ。少し驚きました。あなたが邪竜と化したカーラに攫われたとき、王子も今のあなたとまったく同じことを仰っていたので」
「え?」
「ほとんど王宮を出たこともないのに、それでも自分であなたを探しに行くとあの方が言い出したときは、さすがの私も頭を抱えました。それなら代わりに私が行きますと申し上げても、〝駄目だ、自分が行く〟の一点張りで……」
炎の中に当時の記憶を見ているのか、ナットは目の前の焚き火を見つめながら瞳を細めた。
けれどわたしはそんなナットの横顔に意識を吸い寄せられ、思わず言葉を詰まらせる。……チャイディが、そんなことを。だけどナットは以前事情を話してくれたとき、そんなことは一言も言っていなかった。
「一月前のあなたなら、こんなことを言えば余計に悲しみに暮れてしまいそうで。だから黙っていようと思ったのですが……今なら言えます。今のスーリヤ様は、あのときの王子と同じ目をしていらっしゃる」
「ナット……」
「今ならあのご老女が言っていたことが分かるような気がします。スーリヤ様。あなたにはきっと王子を見つけ出し、救い出す力がある。そのあなたを守るということが、すなわち王子をお守りすることになるのなら、私はそのために命を差し出すことも厭いません。ですから、スーリヤ様――」
「――駄目よ」
「え?」
「そんな簡単に命を差し出すなんて言っては駄目。私はもう、自分のために誰かが死ぬところなんて見たくないわ。だから絶対に生きて帰るの。あなたもわたしもチャイディも、みんな一緒に――そう、約束したから」
言って、わたしはふと自分の右手に目を落とした。
そうして小指を見つめれば、今でもはっきりと思い出せる。チャイディやナットと共に王宮へ乗り込んだあの日――彼と交わした〝指切り〟の温もりを。
あのとき、わたしは彼と約束した。必ず生きてあの場所へ帰ろうと。
あの約束はまだ生きている。そしてチャイディは一年前に交わした約束を命懸けで果たしてくれた。
だから、今度は。
わたしが彼との約束を守る。
チャイディもナットもノーンも――みんな生きて帰るのだ。
わたしたちが再会の約束を交わした、あの町へ。
「……そうですね。皆で、生きて帰りましょう。そうすればきっと王子の面目も保たれるはずです」
「面目?」
「あのときあなたと交わした約束を守れないことを、あの方はだいぶ気に病んでおいででしたから。人生で一度も約束を破ったことがないのが唯一の自慢だったのに、と」
そう言ってナットが肩を竦めるので、わたしは思わず笑ってしまった。
まったくチャイディらしい言い分だ。だけどそういうことなら、わたしも胸を張って彼を迎えに行ける。
それから白龍山脈までは、七日ほどの旅だった。
王国のかなり北の方までやってきただけあって、山麓でもやはり肌寒い。
見上げた岩山の頂上は灰色の雲で覆われ、その下に薄く雪の積もった山肌が見えた。
やはりもう山頂では雪が降るような季節になっている。あの雪はこれからゆっくり時をかけて、斜面を白く染めながら山を下ってくるだろう。
吹き下ろしてくる冷たい風に震えながら、わたしたちはとうとう山を登り始めた。今はまだ傾斜が緩やかなこともあって、わたしたちを乗せたウィンノックはすいすいと斜面を登っていく。
けれどしばらく進んだとき、不意に遠くから獣の鳴き声が聞こえ、ウィンノックが立ち止まった。
間違いない。
あの遠吠えは、この山に棲む野生のガットのものだ。
「まずいですね。鳥が怯えて、これ以上先へ進みません」
ガットの遠吠えを聞いてからというもの、ウィンノックはそれ以上先へ進むことを嫌がった。ナットが鞍を下りて直接轡を引いても駄目で、無理に歩かせようとすると暴れながら甲高い悲鳴を上げる。
「ノーンには馴れてくれたみたいだから、もしかしたらと思ったんだけど……やっぱり群の気配を感じると駄目ね。かと言って、ここから自分の足で山を越えるとなると……」
わたしは気が遠くなるような思いで目の前に聳える岩山を見上げた。これから徐々に雪が下りてくるこの時期に山を越えようなんて、まったくの無謀だ。
けれどここまで来て引き返す気にはどうしてもなれず、わたしは立ち尽くしたまま途方に暮れた。
山の冬は長い。今から春になるのを待っていたら、きっと半年近く待ちぼうけを喰うことになるだろう。
そんなに長い時間を無為に過ごすわけにはいかなかった。そうしている間にも、カーラはチャイディを連れてもっと遠くへ行ってしまうかもしれない。
だけどわたしは一日も早く彼を助け出したいのだ――。
今にも暴れ出しそうになるその思いを抑えるため、わたしがぎゅっと自らの腕を掴んだ、そのときだ。
「グルルルル……!」
突然低い唸りが聞こえ、わたしははっと我に返った。見ればわたしの傍らに立ったノーンが斜面を見上げ、白い毛を逆立てている。
ウィンノックの騒ぐ声がますます大きくなった。見上げた斜面の上、突き出した岩の上に、白く蠢く影が見える。
その頭には赤い耳――そして緩やかに湾曲しながら天へと伸びる二本の角。
ガットだった。
それもノーンより一回りほども大きい、野生のガットだ。
「まずい……!」
と、それを見たナットがウィンノックの鞍へ手を伸ばし、そこに括りつけていた一振りの剣を取った。
その剣はわたしたちが塔の町から逃げたとき、彼が追っ手から奪ったものだ。いざとなったら売ることも視野に入れて捨てずに持っていたけれど、いよいよそれを使うときが来てしまった。
恐らくウィンノックの鳴き声につられてきたのだろう。気づけば野生のガットは岩の上だけでなく、斜面のあちこちに姿を見せていた。
ガットは元々群で狩りをする生き物だ。人間に拾われたノーンが特別なだけで、彼らは決して人に懐かない。
それどころかときには人間さえも獲物として彼らの胃袋に収まる可能性があることはわたしも知っていた。集まったガットはざっと見ただけでも六、七匹はいるだろうか。
「スーリヤ様、お下がり下さい」
上方からこちらを見下ろし、じっと品定めをしているガットたちに、さすがのわたしも恐怖を覚えた。
あれはノーンと同じでありながらまったく別の生き物だ。現に群を前にしたノーンは彼らを〝仲間〟とは認識せず、唸り声を上げて威嚇している。
一方のガットたちも、ノーンに対して今にも牙を剥かんばかりの剣幕だった。恐らく彼らにとってノーンは自分たちの縄張りに侵入してきた余所者でしかないのだ。自然界では往々にして、そうした余所者は〝敵〟と認識される。
「な、ナット、ここは一度逃げた方が……」
「なりません。こうして見つかってしまった以上、こちらが逃げ出せばあれらは本能的に追ってきます。ここは私が」
と、ナットが言い終わるか否かの刹那。
一際高い岩の上にいた一頭が突然宙に躍り出し、とうとうこちらへ向かってきた。その一頭を皮切りに、すべてのガットが牙を剥いて斜面を駆け下りてくる。
「ナット!」
そのガットの前へ飛び出したナットに、先頭の一匹が飛びかかった。しかしナットはその腹を剣の一閃で鮮やかに切り裂き、更に横から来た一匹の突撃をひらりと躱す。
その隣ではノーンが、自分より体の大きな一頭と取っ組み合うようにして戦っていた。二頭は角を使って激しくぶつかり合い、威嚇の声を上げている。あんなに凶暴な顔をしたノーンは見たことがない。
けれど数の上ではやはりこちらが劣勢だった。さすがのナットも人間とはまるで違う動きをするガットに戸惑っているようで、あちこちから攻めかかってくるガットの牙を躱すので精一杯のように見える。
おまけにノーンも、角で突かれたり爪で掻かれたりしたのか、その白い毛皮はところどころ血で汚れ始めていた。
何とかしなければ。恐怖と焦燥に急かされながらそう思った――刹那。
わたしは不意に、真横から別の視線を感じた。それに気がついて恐る恐る首を回してみると、その先に金の眼が見える。
新手のガットだった。それも三、四頭はいる。
同じ群の仲間だろうか。まるで自分たちの出番を見計らっていたかのように現れた彼らの見つめる先には、丸々と太ったウィンノックが一羽と――非力な人間の牝が一人。
「スーリヤ様!」
襲い来るガットの猛攻を去なしながらナットが叫んだ。逃げろということだろうか? だけどあの獣は逃げたら追ってくると言ったのは他ならぬナットだ。
いや、それ以前の問題として、野生の肉食獣にじっと見つめられたわたしの足はがくがくと震え、逃げろと言われたところでとても役に立ちそうになかった。隣ではウィンノックも同じように縮み上がり、もはや悲鳴を上げることさえできずにいる。
じり、と先頭の一頭が頭を下げ、今にも飛び出そうとする姿勢を取った。
まずい。
まずい、まずい、まずい!
このままではチャイディを見つけ出す前に、わたしも哀れな獲物のうちのひとりとして狩られてしまう。
そんなのは絶対にごめんだ。
そう思った瞬間、わたしはとっさに腰の物入れへ手を伸ばし、そこからあるものを――
「ガァッ!!」
ガットがついに地を蹴った。どうやら反射的にそれを掴んだわたしの動きが、彼らを刺激してしまったらしい。
けれど今のわたしには、こうする以外の方法が思いつかなかった。
焦燥のあまり真っ白になった頭で栓を抜く。
そのまま手にした小瓶の中身を――あの日サンサーラからもらった不思議な虹色の液体を、迷わずその場にぶちまけた。
困ったときにはこの瓶の中身を振り撒けば、きっと世界が味方をしてくれる――。
あの小屋ごと忽然と姿を消す直前、サンサーラがそう言っていたことを思い出したのだ。
果たして小瓶から勢いよく飛び出した虹色の液体は、そのとき空中で光を放った。
それは日の光を反射したというようなものではなく、飛び散った一つ一つの水滴が光の塊となり、瞬間、目も眩むほどに炸裂する。
「きゃあっ!?」
予想だにしていなかった事態に悲鳴を上げて、わたしは閃光からとっさに顔を背けた。
次の瞬間耳に飛び込んできたのは、ビキビキと何かに亀裂が入るような音。
どこか卵の殻を潰す音にも似たそれを聞きながら、わたしは光の中で辛うじて目を開けた。
けれどそこに見えたのは――花。
ここまで草木などほとんど見当たらなかった地面を覆うように咲き乱れた、花、花、花。
「え……!?」
何かが砕ける音がした。
途端に頭上からぱらぱらと、雪のような光のかけらが降ってくる。
次に気がついたとき、わたしは見とれるほど美しい花畑の真ん中に佇んでいた。
ガットの姿は既にない。見渡した先に見えたのは、ナットとノーンとウィンノック、そしてどこまでも続く色彩豊かな花の絨毯だけだ。
「な……これは……!?」
風がそよいでいた。まるで直前までの血生臭い景色が嘘だったかのように、その風はそっとわたしたちの肌を撫でていく。
暖かな春の匂いがした。すぐ近くには森も見える。自らの存在を主張するかのように、緑の葉をいっぱいに繁らせた森だ。
これは一体……?
まったく想像もできなかった事態に戸惑いながら、わたしはまず足元の草花に触れてみた。
あるいはただの幻かと思ったものの、花にはちゃんと実体がある。手折って鼻に近づけてみると、確かに甘い香りもする。〝ただの幻〟で片づけるにはあまりにもできすぎた幻だ。
しかし、ということは、わたしたちはいきなり別の場所へ飛ばされてしまったということ――?
未だ混乱覚めやらず、わたしはなおもきょろきょろとあたりを見渡した。
けれどその先に見つけたものがある。
「あれは……?」
それはちょうど、先程までわたしが見上げていた斜面の方角。
そこはいつの間にか傾斜など見当たらない平地になっていて、遠くには地平線が見えた。
けれどわたしたちと地平線を結ぶ直線の間に、一軒の小屋が建っている。
ちょうどわたしたちがサンサーラと出逢い、そして別れたあの小屋のような板葺きの小屋だ。
そしてわたしは、やや遠いその小屋を見据えて目を凝らしたところで息を飲んだ。
小屋の前、そこにも例外なく咲き乱れた花の中に青い日除け傘が立っている。
その日除け傘の下には、いつかわたしとチャイディが食事をしたあの食堂のように卓があって――
その卓に備えられた椅子の上に、誰かいる。
浅黒い肌に、王国独特の民族衣装。
見惚れるほどよく整った横顔。
風にそよぐ、褪せたような色の銀髪――。
「――チャイディ……!」
やっと見つけた。
この幻か現かも分からない世界で。
あるいはこれは本当に夢かもしれない。
そう思いながらも、わたしは体の奥底から湧き出してくる震えを止めることができなかった。
チャイディ。
会いたかった。
本当に生きていてくれた――。
「チャイディ!」
愛しい人の名前を呼び、わたしはすぐさま地を蹴った。
もはや今の自分を取り巻く不可思議な現象のことなど頭になく、色とりどりの花を掻き分けるようにして馳せる。
けれどあと少しで声が届くという距離まで迫ったとき。
突然微かな音を立て、小屋の扉が開かれた。
そこから一人、女が出てくるのが見える。片腕に山盛りの宝菓が入った籠を抱え、やや露出の多い民族衣装に身を包み、チャイディを見て微笑んだその女の髪は見間違えるはずもない――魔力を湛えた、紫色。
「お待たせ、コンラック。食事の時間だよ」
カーラ。
チャイディを呪い、わたしを呪い、すべての元凶となった悪しき魔女。
その魔女が、以前の彼女からは想像もできないような穏やかな笑みを浮かべてチャイディの前に籠を置く。
けれど、直後。
カーラの赤い瞳が、ついにわたしの姿を捉えた。




