第三十一話 サンサーラ
「スーリヤ」
暗闇の向こうから、呼びかける声が聞こえた。
その声は痺れるほど甘い響きを伴って、闇の底、重く沈んだわたしの意識を震わせる。
「スーリヤ」
――目覚めなくちゃ。
自分にそう言い聞かせ、ぎゅっと眉に力を込めて目を開けた。
わずかに持ち上がった瞼の向こうから、刺すように強い光が飛び込んでくる。わたしはその光に一瞬怯み、何度か瞬きを繰り返してから、ようやくまともに視界を得ることができた。
「起きたかい、スーリヤ」
そんなわたしを頭上から覗き込んできた影がある。
仰向けに寝転んだわたしへ向けてまっすぐに降ってくる銀色の髪。優しく細められた空色の瞳。起き抜けのわたしの髪をそっと撫でてくれる、細いながらも骨張った手。
「……チャイディ」
「うん」
未だぼんやりとした意識のまま、掠れた声で名を呼ぶと、チャイディは微笑みながら頷いた。
そんな彼の頭の後ろを、数羽の小鳥が囀りながら飛んでいく。空はよく晴れていた。日の光が暖かい。微かに動かした掌に、下草のやわらかな感触が伝わってくる。
「……ここは、どこ?」
「どこって、王宮の中庭だよ。ずいぶんよく眠ってたみたいだね?」
「チャイディ……なの?」
「え?」
「本当に、チャイディなの?」
体が鉛になったように重くて気怠く、ろくに手足も動かない。けれどわたしは声を振り絞って、目の前にいる彼にそう尋ねた。
するとチャイディは束の間目を丸くして、それからぶっと噴出する。けたけたと愉快そうに笑う声は、まぎれもなくわたしの愛した人のものだ。
「どうしたんだよ、スーリヤ。今の君には、僕が月の悪魔にでも見えるのかい?」
「……夢を、見てたの」
「夢?」
「そう……長い……長い夢。魔女に呪われたわたしを助けるために、あなたが命を投げ出す夢……わたしは記憶を失って、この手であなたを……何もかも思い出したときには、もう手遅れだった――」
「スーリヤ」
先程まで笑っていたはずのチャイディが、急に硬い声を上げた。
途端に彼は思い詰めたような顔をして、わたしの頬に手を添えてくる。その手がそっと零れた涙を拭ってくれた。けれどたった今語った悪夢の内容を思い出す度、わたしの瞳からはとめどなく涙が溢れ出す。
「スーリヤ、泣かないでくれ。大丈夫。僕ならここにいるよ。悪い夢はもう終わったんだ」
「チャイディ……」
「何も心配しなくていい。僕はずっとここにいる。これからもこうして君の傍に……だからもう泣かなくていいんだ。――愛してるよ、スーリヤ」
何度も、何度も頭を撫でながらそう囁くチャイディに、わたしは泣きながら微笑み返した。
髪を梳くように撫でてくれる彼の手の感触が心地良い。今はその温もりにすべてを委ねてまどろんでしまいたい。
けれどわたしは知っている。
チャイディは嘘つきだ。
まったく、本当にひどい人。
夢の中でまで、そんな嘘をつくなんて。
*
何か温かいものが、しきりに頬を撫でていた。
どこか遠いところで感じていたその感触が、次第にはっきりとわたしの意識に触れてくる。闇の中でぼんやりと自我が覚醒し、生きている、と呟いた。
それはほとんど落胆のような呟き。
けれどわたしは何度も頬に触れるその感触を無視できなくなって、目覚めを拒絶する瞼を何とかこじ開ける。
「ノーン……」
繰り返し繰り返し、飽きずにわたしの頬を舐めていたのはノーンだった。彼はわたしが掠れた声で名を呼ぶと、途端にぴんと耳を立て、「キュオン!」といつもより高い声で鳴く。
体が死んだように重かった。けれど一度覚醒してしまうと、五感は常の働きを取り戻す。
何だか頬が冷たかった。どうやらわたしは眠りながら泣いていたみたいだ。ノーンはそんなわたしの涙を必死に拭ってくれていたのだろう。……優しい子。そう思いながら手を伸ばし、わたしはすぐ傍に腰を下ろしたノーンの首もとを撫でてやる。
「あらあら、ようやくお目覚めね」
と、ときに聞き覚えのない声がふと耳に滑り込んできた。驚いてわずかに目を見張った先に、こちらを向いて微笑んだ一人の老婆がいる。
髪も肌も白い、わずかに腰の曲がった小柄な老婆だった。一瞬、西の国の人だろうか?と思ったけれど、それにしては訛りもなくはっきりと王国の言葉を喋った気がする。
その老婆の姿を目に留めて初めて、わたしは自分が見知らぬ小屋の寝台に寝かされていることを知った。
慌ててあたりに走らせた視線が捉えたのは、たくさんの瓶が並んだ木製の棚と数脚の椅子、それから石積みの小さな暖炉。
室内にいるのはわたしとノーン、それに謎のお婆さんだけでナットの姿は見当たらない。ここは一体どこだろう?
「あ、あの……」
「ああ、無理に喋らなくていいわ。ここは森の中にある私の小屋よ。あなた、六日前の雨の日に高熱を出して倒れたの。覚えているかしら?」
「六日前……そんなに、長く……」
「ええ。今日までずっと昏睡状態だったのよ。だけど、まずは無事に目を覚まして良かった。まだ微熱があるようだけど、どこか苦しいところはない?」
「いえ……あの、それよりも、あなたは……?」
「そうね。昔から色々な名前で呼ばれているけれど、今はサンサーラとでも名乗っておこうかしら」
老婆は物腰も穏やかにそう言って、にっこりと微笑んだ。まるで凪の海みたいな笑い方をする人だ。サンサーラというのが本名かどうかは分からないけれど、悪い人ではないらしい。
サンサーラは涙とノーンの唾液にまみれたわたしの頬を丁寧に拭うと、まず冷たい飲み水を用意してくれた。
それから解熱作用のある薬草を煎じたという薬湯を出してくれる。器から立ち上る湯気はつんときつい奇臭を孕んでいたけれど、飲んでみると意外と癖がなく飲みやすかった。
聞けばサンサーラはこの小屋で、いくつもの薬を作りながら生計を立てているらしい。肌の色が西方諸国のそれなので西の出身なのかと尋ねたら、いいえ、生まれはもっと遠くて近いところよ、と、微笑と共に意味深な答えが返ってきた。
「あの、ところでナット……わたしの連れがどこにいるかご存知ですか? ウィンノックを連れた黒髪の青年がいたと思うんですが……」
「ああ、彼なら今はお使いに行ってもらってるわ。心配しなくても、そろそろ戻る頃じゃないかしら」
「お使い?」
「ええ。ちょっと最寄りの村まで、情報収集も兼ねてね」
答えながら、サンサーラはやはり笑みを絶やさない。ずっと見つめていると吸いこまれそうな笑顔だと思った。
特にその薄紫色の瞳が印象的で、わたしを見つめる眼差しはどこまでも澄み切っている。その目が心の裏側まで覗き込んでくるようで、わたしは彼女と視線を合わせることをためらった。
「あなた、名前は確かスーリヤと言ったかしら」
「は、はい……」
「素敵な名前ね。その名に恥じぬ娘に育ったこと、ご両親もきっとお喜びでしょう」
「いえ……わたしは……そんなに大した者では……むしろ、せっかくスーリヤさまからいただいた名前を汚してしまった……わたしにはもう、この名前を名乗る資格なんて、ないんです」
太陽神スーリヤのような、慈悲深く暖かな娘に。両親がそう願ってつけてくれた名は、今のわたしにとって生きていることへの罰のように思えた。
何しろわたしはそのスーリヤの目の前で、わたしに永遠の愛を誓ってくれた人を刺したのだ。その人の命と引き換えに今もおめおめと息を吸い、彼を殺した罪から逃げている。
すべてを知ったら、この名をくれた両親は喜ぶどころか絶望に打ちひしがれるだろう。
もっともその両親さえ、今はもうこの世の人ではないのだけれど。
「恥じているのね。王子の命を犠牲にして自分だけ生き延びてしまったことを」
「……え?」
「話はあの坊やから聞いたわ。大変な宿命を負ってしまったのね」
瞬間、わたしは自分の呼吸が止まるのを感じた。椅子に座ってこちらを見つめたサンサーラの目はどこまでも穏やかだったけれど、わたしの全身からはたちどころに汗が噴き出してくる。
彼女が言う〝坊や〟というのは、十中八九ナットのことだろう。だけどいくらこの人が王国の人ではないからって、チャイディ暗殺の件を打ち明けてしまうなんて。
あのナットが、そんなあからさまな失態を犯したというのだろうか? 彼はあれほどわたしを無事に逃がすことに執着していたのに。
いや、それともやっぱり、チャイディを殺したわたしを匿うことに嫌気が差して――
「心配しないで。あの坊やはあなたを救いたい一心で私にすべてを打ち明けたの。彼は自分の主が愛したあなたを守るためなら、命を投げ出したって構わないと思っているわ」
「……! ど、どうして……」
「ふふ、あなたはとても素直な子なのね。考えていることがすぐに顔に出る。そのせいで自分も他人も騙せない、そんな風に見えるわ」
「……。よ、よく言われます……」
まさか初対面の人にまで見透かされてしまうなんて……。わたしは恥ずかしさと情けなさのあまり、思わず視線を泳がせた。
けれどサンサーラは、まるで眩しいものでも見るようにわたしを映した瞳を細めている。
そうして、言った。
「彼を助けたい?」
「……彼?」
「チャイディ王子よ」
「――!?」
その言葉の唐突さとは裏腹に、サンサーラの口調はどこまでも落ち着き払っていた。
けれどわたしはとても彼女のようには振る舞えなくて、がばりとその場に身を起こしてしまう。途端に鈍い痛みが背中を駆け巡ったけれど、そんなものは少しも気にならなかった。
だって、今の彼女の言い方はまるで、
「彼は……チャイディは生きているんですか!?」
「いいえ、彼は死んだわ。そして今はまったく別の人間として生かされている」
「まったく別の……? どういうことです?」
「あなた、王子が本当に亡くなったところを見た?」
「え?」
「いえ、もっと具体的に言えば――あなたが王子を刺した傷から、血は流れていた?」
まるで意味が分からなかった。だってチャイディは、あのとき確かにこの腕の中で息を引き取った。それはナットも確認していたし、だからこそ王宮の衛兵たちもわたしを追ってきたのだろう。
だけど――待って。
混乱する思考を遮って、努めて冷静に考えてみる。
わたしがチャイディを刺した傷から、血は流れていたか?
分からない。あのときはほとんど取り乱していたから、記憶が朧気で確証がない。
けれどそう言われてみれば、わたしはあれほど深くチャイディへ短剣を突き刺したのに、手も服もまるで血に汚れた形跡はなかった。
それに祈祷所から逃げるとき、最後に顧みたチャイディの亡骸――。
あのときわたしは穏やかな表情をしたチャイディを見て、まるで眠っているみたいだと思った。あのままあそこで待っていれば、そのうち彼は目を覚ますのではないかと。
それほどまでに彼の亡骸は綺麗だった。
つまり。
あのときチャイディの傷からは、一滴の血も流れてはいなかった――?
「あなたが魔女から渡されたという短剣には、水晶のような飾りがついていたのではなくて?」
「……! は、はい、そうです。金色の鍔に、透明な宝石が埋め込まれていました」
「その宝石は魂の檻よ。つまり短剣で刺した相手の魂を抜き取り、閉じ込めてしまうためのもの。そしてその宝石を魂亡き者の肉体に埋め込めば、相手を甦らせることができるわ。ただしそうして甦った者は、自らに魂を与えた者の言いなりとなり逆らえない。己の意思を持たず、ただ命じられるがままに生きる人形になる、ということね」
上品で滑らかで、どこか包み込むように響くサンサーラの声を聞いていると、わたしの頭は次第に冷静さを取り戻した。
彼女の告げた事実に驚きがなかったわけではない。けれどサンサーラの言うことは何故か一度も引っかかりを覚えることなく、すっと頭に入り込んできた。
まるで初めから、わたしはその事実を受け入れるために生まれてきたみたいに。
サンサーラの言葉はそんな不思議な説得力を帯びていて、きっと彼女は嘘をついていないと信じさせてくれる。
「つまりカーラは、初めからチャイディを自分の操り人形にするつもりで、わたしに彼を殺せと言ってきた……ということですか?」
「ええ、そうよ。それと同時に、自分から王子を奪ったあなたを絶望の底に叩き落としてやりたかったのでしょうね。まったく……愚かな子。初めに力を願ったときは、あの子もあなたのように純粋で穢れを知らぬ子だったのに」
半ば独白のように呟いたサンサーラは、悔むでもなく、嘆くでもなく、ただ静かに瞼を閉じた。
〝愚かな子〟。
それはまるで彼女もカーラのことをよく知っているかのような口振りだ。
おまけに今、〝初めに力を願ったときは〟って――。
「あの……サンサーラ、あなたは一体……」
わたしがそう尋ねると、サンサーラは閉じていた瞼をすっともたげた。
そうして眼差しをこちらへ向けて、ふわりと微笑してみせる。
――答えなら、あなたはもう知っているでしょう?
まるでそう告げるみたいに。
「――ワフッ!」
けれどそのとき、わたしたちの間に流れつつあった静寂をノーンの一声が遮った。
彼は急に耳をぴんと立てるや否や、何かに気がついたように腰を上げる。
その目が小屋の扉を向いていることに気づいて、わたしもそちらを振り向いた。
するとほどなく扉が開き、見慣れた黒服の青年――ナットが小さな荷を抱えて入ってくる。
「ナット!」
「……! スーリヤ様、お目覚めになったのですか」
わたしが思わず身を乗り出して呼びかければ、ナットはぱっと顔を上げて目を見張った。
次いで彼はその視線をすかさずサンサーラへと走らせる。目の合ったサンサーラは、やはり穏やかな微笑を浮かべたままゆっくりと頷いた。
そこで初めてナットの表情にも安堵が浮かぶ。彼はその場で脱力したように息をつくと、すぐに寝台へと歩み寄ってきた。
「ご無事で何よりです。一時はどうなることかと思いましたが……」
「心配させてごめんなさい。あなたには迷惑ばかりかけたわ」
「いいえ。むしろ私の配慮が行き届かず、申し訳ありませんでした。これでは王子に会わせる顔がありませんね」
恥じ入るようにそう言って、ナットは微かな自嘲を滲ませた。
彼がそんな顔をする必要はないのに。わたしがそう言っても、ナットは決して首を縦には振らない。
きっと彼はそれほどまでにわたしの身を案じてくれていたのだろう。
そんなナットを一瞬でも疑った自分を、わたしは恥じた。ましてや自分を見捨ててくれた方が気が楽だ、なんて。
そんなこと、たとえ冗談でも言わなくて良かった。わたしは自分の苦しみを嚥下することに必死で、彼の気持ちや立場なんてこれっぽっちも考えていなかった。
何もかも、己のすべてを擲ってチャイディに仕えていたナットにとって、わたしを守ることはチャイディの遺志を守ること――つまり唯一の心の支えだったはずだ。その彼に死なせてくれと言うことは、すなわち彼に死んでくれと言うことと同義だった。
「それで、坊や。村では何か有力な情報は聞けた?」
「はい。ご老女、すべてあなたの仰るとおりでした。たった今王宮では、葬儀前の王子の亡骸が忽然と消えて大騒ぎになっているそうです。村人たちは終始その話題で持ちきりでした」
「待って。それ、どういうこと?」
「つまりカーラが、例の短剣と一緒に王子の亡骸を奪っていったということよ。やっぱり思ったとおりね。――チャイディ王子は今、カーラと共にいる」
そう告げたサンサーラの言葉の静けさとは裏腹に。
わたしはドクンと、自分の心臓が一際大きく脈打つのを感じた。
ああ、そうか。
サンサーラはそれを確かめるためにナットを使いに出したのだ。
つまり、チャイディは生きている。
生きている――。
「スーリヤ様」
途端に瞳から溢れ出た涙を、わたしは押し留めることができなかった。
それに気づいたナットとノーンが、案じたようにわたしへと目を向けてくる。けれどわたしはすぐに涙を拭い、「大丈夫」と声に力を込めた。
そうだ。今は泣いている場合じゃない。
わたしにはやるべきことがある。
チャイディが本当に生きていて、今はカーラの傀儡になっていると言うのなら――。
「行くのね。彼を助けに」
「はい。今度はわたしが、命に代えても彼を助ける番です」
「そう。あなたがそう決めたのなら、私は止めないわ」
淀みもなくそう言って、サンサーラは笑った。まるでわたしのすべてを許し、包み込んでくれるような笑顔だった。
その瞬間、わたしはふと不思議な感覚に捉われる。
――懐かしい。
この老婆と出会ったのは今日が初めてのはずなのに、何故か無性に。ともすれば泣きたくなるくらいに。
わたしはきっとこの世に生まれる前から、この老婆を知っていた。
そんな気がしてならなかった。
彼女は本当に何者なのだろう?
じわりと熱を帯びた胸に手を当てて、わたしは束の間そう尋ねるべきかどうか悩んだけれど、結局わたしが口を開くよりも早くナットが真剣な表情で言う。
「ですが相手は強大な魔力を有した魔女です。一口に王子をお助けすると言っても、とても一筋縄でいく相手では……」
「大丈夫。そう難しいことではないわ。王子を救いたければ、彼をカーラの呪いから解き放てばいい。彼女の呪縛さえ解けてしまえば、王子はきっと元の人格を取り戻すはずよ」
「しかし、呪いを解くと言ってもどうやって?」
「簡単なことよ。奇跡を起こせばいいの」
「奇跡?」
「そう。この世にはたった一つだけ、魔術なんて遥かに凌ぐほどの奇跡を起こせる力がある。そしてあなたはもうそれを持っているわ、スーリヤ」
「え……?」
魔術さえも遥かに凌ぐ、奇跡の力。
そんなものが自分に備わっていると言われても、わたしはただただ戸惑うばかりだった。
だってわたしは自分は何か特別な力を持っているなんて思ったことはないし、そんな力が発現したこともない。むしろそんなものが本当にあったなら、今頃わたしは魔女扱いだ。
けれどサンサーラはそれ以上のことは語らず、意味深な笑みを湛えただけだった。
つまり、答えは自分で見つけろ、ということだろうか。
それにしたって彼女の言葉には謎が多すぎる。本当にこの人は一体何者なのか――わたしが偉大な深淵を覗き込むような気持ちでそう思ったとき、サンサーラはふとその目を伏せながら言う。
「あの子も最初はそんな奇跡を起こす子だった。あの子の奇跡は多くの人々を救ったわ。けれどやがて人の愚かさがあの子を追い詰め、狂わせてしまった。だから今回のことも、すべては因果が巡った先の答えに過ぎない……人はその愚かさを罰せられ、あの子もまた報いを受けることでしょう」
「それは……カーラのことですか?」
思わずそう尋ねると、サンサーラは目を上げて微笑った。本当に優雅に笑う人だ。
その瞳にはいかなる悲しみも憂いもない。けれど同時にそれらすべてを瞳の奥に秘めている。そして彼女はそれさえもすべて善しとしている――そんな気がした。
そこまで思い至って、わたしにはようやく彼女の正体が分かった気がする。
もしかしたら、彼女は――
「スーリヤ。これをあなたに渡しておきましょう」
「これは……?」
「それは私の魔力を込めた小瓶よ。そこにいるワンちゃんはとてもお利口みたいだから、その魔力を嗅がせればあなたたちをカーラのもとへ導いてくれるでしょう。他に何か困ったときは、その瓶の中身を振り撒きなさい。そのとき世界はきっとあなたの味方をするわ」
「ご老女、あなたは……」
〝魔力〟という言葉を耳にして、ナットも驚きを禁じ得なかったのだろう。けれどそんな彼の動揺も意に介さず、サンサーラはなおも微笑を湛えたままだった。
そうして彼女は最後にわたしの目を見つめ、言う。
「スーリヤ、どうか覚えておいて。世界はあなたたちにたくさんのものを与え、同時に奪う。けれど受け取るのも手放すのも――すべてはあなたたち次第なのよ」
七色に輝く透明の液体が入った小瓶。それを手の中に握り締めて、わたしは彼女に頷いた。
するとサンサーラは満足そうに微笑んで、最後にわたしの手に触れる。
風が吹いた。
それはほんの一瞬の出来事だったけれど、あまりに唐突に吹き抜けた風に、わたしたちは思わず目を瞑る。
「――え……?」
次に目を開けたとき、そこにサンサーラの姿はなかった。
それどころかそれまで彼女が腰かけていた木の椅子も、わたしが寝かされていた寝台も、小さな石積みの暖炉も、たくさんの瓶が並んだ棚も、すべてが忽然と消えている。
気づけばわたしたちは何もない森の中にいて、すぐ傍でウィンノックが足元の土をつついていた。
見上げた空は晴れている。
そのときにはもう、あれほどわたしを支配していたはずの絶望は、食べられたように消え去っていた。




