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第三十話 暗雨

 びちゃり、と、何か重たいものが泥に沈むような音がして、背中が急に軽くなった。

 その音ではっと我に返り、振り向いた先にスーリヤがいない。

 ナットは慌てて手綱を引いた。朽葉色の羽毛を雨に濡らして歩いていたウィンノックが止まると同時に、身を翻したノーンが異様な吠え方をしている。


「スーリヤ様」


 まるでナットに異変を知らせるように、ノーンは跳ねるような仕草をしながら吠え続けた。

 ナットはそれを見てようやく鳥を下り、息を飲む。そこには意識を失ったスーリヤが倒れ、浅い泥に沈んでいた。


「スーリヤ様!」


 すぐさまスーリヤに駆け寄り、抱き起こす。しかし何度呼びかけても反応はなく、ナットに体を支えられてもぐったりとして、体中の筋肉が弛緩してしまったかのように力を失っていた。

 試しに口元へ耳を寄せてみるが、息はある。ただし呼吸は弱々しく、耳を澄まさないと雨音に掻き消されてしまうほどだ。

 おまけに支えた体が熱い。服の上に外套をまとっていてもはっきりと分かるほど、スーリヤの肌は異様な熱を帯びていた。これほどの高熱はナットも経験したことがない。


「くそっ、これは……」


 かなりまずい、と、ナットはますます焦燥を覚えた。ここから最寄りの村まではどんなに鳥を急がせても三日はかかる。それまでスーリヤの体力が持つかどうか。

 塔の町を出ると決めたときにできる限りの支度は整えてきたつもりだったが、生憎これほどの高熱に効きそうな薬は手持ちになかった。通常の解熱薬程度なら用意はあるものの、それも少量しか用意がない。


 ――何故気づかなかった。

 ナットはそう自責しながら、急ぎ自分の外套を脱いでスーリヤの体に被せた。

 自分がもう少し彼女の様子に気を配っていれば、こんな高熱を発する前に異変を察知できたはずだ。それでなくともスーリヤはチャイディの件があってから憔悴し、魂は地上にあらず、食事もほとんど取っていなかった。


 だがどうやら自分もまた思った以上にチャイディの死が応えていたらしい。少なくとも彼を失う前の自分なら絶対にこんな失態は起こさなかった。スーリヤにもしものことがあれば、命懸けで彼女を守った主に会わせる顔がない。

 とにかくこの状況を何とかしなければ。心はそうナットを急かすものの、想定外の事態に頭がついていかなかった。

 焦りと動揺と虚無とが衝突し、混ざり合い、ナットの脳裏でさながら泥仕合の様相を呈し始めている。


(とにかく、まずはこの雨を凌げる場所へスーリヤ様をお連れしなければ――)


 と、ナットがようやくそう思考することができた、そのときだった。

 ふっと、不意に雨が止む。

 否、正確には止んだわけではなかった。視界は今も水飛沫で煙っているし、雨音も絶えず聞こえている。

 けれどもそれまでナットの頭を叩きまくっていた雨は、急に鳴りを潜めてしまった。

 代わりに何か大きな影が足元に落ちている。

 見上げればそこでナットの頭上を覆っていたのは、大人の頭よりも二回りほど大きな緑の葉。


「お困りのようね」


 次いで背後から聞こえたのは、夜のように静かで穏やかな女の声だった。

 ナットが驚いて振り向いた先には、傘代わりの大きな葉を差しかけて微笑した一人の老婆が佇んでいる。



          *



 光繭の明かりの中で見るスーリヤの頬は、微かな赤みを帯びていた。

 その表情も呼吸も先程よりずっと苦しそうだ。老婆はそんなスーリヤの隣に腰かけて、じっと彼女の脈を測っている。


 ナットが老婆に案内されたのは、スーリヤが倒れた間道から少し森へ入ったところにある小さな木造の小屋だった。屋根も壁も薄い木の板を継ぎ合わせただけの粗末な小屋だが、中には灰色の石を積んで作られた小さな暖炉があって暖かい。

 ナットは老婆の勧めでその暖炉の前に座り、濡れた体を乾かしながら、寝台に横にされたスーリヤの様子を窺っていた。

 老婆はこの小屋に一人で住んでいるようで、屋内にある寝台はたった今スーリヤが寝かされている質素なもの一つだけだ。他には瓶入りの野草や液体がびっしりと並んだ棚がいくつかあるだけで、窓はなく青臭い葉の匂いが満ちている。


 どうやらそれらの棚に収められた草花はすべて薬草らしく、老婆はこの森で多種多様な薬草を採取しながら暮らしているようだった。

 それにしても奇妙なのは、老婆がそのやわらかな癖のある頭髪だけでなく、肌まで陶器のように白いことだ。その肌の色は彼女がこの国の人間でないことを意味しているが、それにしてはあまりにも流暢に王国の言葉を喋る。


 加えてナットはこの老婆に、どこか油断ならないものを感じていた。

 何しろ武闘家として幼い頃から並々ならぬ修行を重ねてきた自分が、声をかけられるまで彼女の存在に気づかなかったのだ。それは雨が降っていたことや自分がスーリヤの異変に動揺していたことを差し引いても十分に異様だった。何しろ獣として鋭敏な嗅覚と聴覚を備えたノーンさえ、彼女の接近に気づいた様子はなかったのだから。


 そのノーンは現在ナットと同じく暖炉の火で毛を乾かし、老婆によるスーリヤの診察が終わるのをじっと待っている。しかしナットがちらりと視線をやれば、彼もそれに気づいたようにこちらを向いて鼻を鳴らした。

 赤い耳がやや伏せられているところを見ると、この状況にはノーンも一抹の不安を感じているようだ。それは主人であるスーリヤが倒れたせいもあるだろうが、ナットには彼もまたあの老婆をどこかで警戒しているように見える。


 が、ときにナットは、板壁に雨音が遮られた小屋の中、カタリと陶器が鳴る音を聞いた。

 見れば先程まで熱心にスーリヤの脈を取っていた老婆が、手元に寄せた焜炉へ土瓶を戻している。次いで脱がせたスーリヤの服と、泥まみれになってしまった彼女の体を拭いた布をまとめると、それを手近にあった籠の中へ静かに収めた。


「どうですか?」

「そうね。解熱作用の強い薬草を煎じて飲ませたから、数日もすれば熱は下がるでしょう。けれどこのままでは駄目ね」

「駄目、とは?」

「そこから先は私の薬ではどうにもならない。――彼女は死ぬわ」


 ヒュッと息が止まるのを、ナットは自分でも感じた。

 〝死〟という言葉に頭を殴られたようになり、一瞬思考が真っ白になる。けれど椅子の上からこちらを見つめた老婆の澄んだ眼差しで、ナットはすぐさま我に返った。


「そ、それは、何故……それほど重い病なのですか?」

「いいえ、病ではないわ。ただ彼女の魂が、生きることを強く拒んでいる。それがすべての原因よ」

「生きることを、拒んでいる……?」

「そう。もっと分かりやすく言えば、彼女の中で〝生きたい〟という想いが薄れているということね。それもひどく極端に」

「……」

「あなたたち、恋人同士というわけではなさそうだけど」


 そう話す老婆の声は、やはり無風の世界のように静かで落ち着き払っていた。

 その淡い紫色の瞳が、不思議な光を湛えてナットを見据えている。それはまるで人の形をした静寂に心を覗かれているような、そんな錯覚をナットへもたらしてくる。


「一体何があったのか、事情を聞いてもいいかしら?」


 そんなことはわざわざナットが話さなくとも、この老婆ならすべて知っているのではないか。そんな気がした。

 けれどもそのようなことが実際に有り得るわけがない。ナットは束の間逡巡した。まさか二人で王子を殺して逃げてきたなどと、馬鹿正直に話すわけにもいかない。


 しかしこの老婆なら、あるいはスーリヤを救う手立てを知っているのではないか。ナットはそんな思考に駆られた。彼女が本当にこの小屋で薬草を集め、そこから作った薬をひさいで暮らしているだけの老女だとは、ナットにはどうしても思えなかった。


 一度深く息を吸い、長く吐く。

 それからナットは意を決して、自分たちの身の上を老婆に語り始めた。

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