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第二十九話 放浪

 寝静まった夜の町に、硬い足音が響いていた。

 鱗状の皮膚に覆われた走鳥ウィンノックの蹴爪が土を抉る。そうして掘り起こされた土を蹴立て、ウィンノックが闇の中を疾駆する。

 頭上には満天の星空。こんな夜なのに、天はなんて無情なのだろうとわたしは内心怨嗟した。

 けれどそのまま空を見上げていると鞍から振り落とされそうで、前に乗るナットの腰にしっかりとしがみつく。


 王宮でチャイディとの別れを済ませたわたしたちは、現在衛兵に追われていた。どうも祈祷所でチャイディの遺体を見つけた神官たちが通報したらしく、今も町のあちこちで応援を呼ぶ花火の音が聞こえている。

 このままでは逃げきれないと判断したわたしたちは、王宮の鳥小屋からウィンノックを一羽拝借し、その背に乗って逃げていた。初めて乗る鳥の背はかなり揺れるので恐ろしかったけれど、手綱はナットが取ってくれているからわたしは彼にしがみついているだけでいい。


 ――本当にこのまま逃げてもいいのかどうか。

 その迷いが今も胸中にないわけではなかったものの、わたしはもう考えることをやめていた。

 こんなことを言ったらナットはまた怒るに違いない。だけどわたしはこのまま捕まろうと逃げのびようと、そんなことはどうでもよかった。

 これから先のことなんて何も考えられない。考えたくもない。わたしはチャイディを失った。父さんも母さんも、帰るべき場所も。

 その事実に対して嘆き悲しむ余裕も、世の不条理に怒る力も、今のわたしには残されていなかった。

 何もかもがどうでもいい。

 ただ頭も体も空っぽにして、成り行きに身を任せるだけだ。


「――いたぞ! こっちだ!」


 そのとき突然横道から声が聞こえて、併走する通りに複数の衛兵が現れたのをわたしは見た。

 彼らは隣の通りを走るわたしたちの姿を見つけると、すぐさまウィンノックを駆って横道からこちらへ向かってくる。それを見たナットが舌打ちし、更にウィンノックを急がせた。

 そんなわたしたちのすぐ後ろで、再び花火の音がする。ぱっと夜空に閃光が咲き、一瞬だけ町を照らした。

 夜の闇に塗り潰され、黒々と佇むいくつもの塔は、まるでわたしたちを見下ろす巨大な監視者のようだ。その塔の間を蛇行するように駆けながら、ナットは何とか衛兵の追跡を振り切ろうとしている。


「スーリヤ様、あぶみから決して足を離さないで下さい」

「ええ……」


 たった今わたしたちが乗っているのは一人乗り用の鞍だ。本当は騎乗人数に合わせて鞍の大きさも違うようなのだけど、急いでいたため二人乗り用の鞍を乗せてくることができなかった。

 だからナットは手綱だけを握って鞍の前に乗り、わたしのことはいくらか安定感のある鞍壺に預けている。これだけ揺れる鳥の上で、よく鐙も使わずに体勢を保っていられるものだ。

 ともすれば揺れで均衡を崩し、いつ振り落とされてもおかしくないほどの速度で走っているにもかかわらず、手綱を取るナットは冷静だった。

 そんな彼だからこそ、チャイディはすべてを打ち明け託したのだろう。まるで他人事のように頭の片隅でそんなことを思った、そのときだ。


「――見つけたぞ!」

「!」


 今度は前方から声。どうやら先程の花火の音を聞きつけて、追っ手の増援が行く手から回り込んできたようだった。

 その増援と正面からぶつかりそうになり、ナットは慌てて進路を右に取る。ところが手近な塔を迂回したところで、その先にも増援がいた。まずい。囲まれている。


「ナット、観念しろ! お前たちが王子に一体何をしたのか、真実を知りたいと陛下がお待ちだ!」


 鋭い怒声が飛んできた。しかしナットは迷う素振りも見せず、新たな逃げ道を求めて鳥のくちばしを左へ向ける。

 けれどそこにも退路はなかった。奥の道から更に増援が合流してきたのだ。引き返そうにも背後は既に塞がれているし、他の道は夜光祭で使われた屋台や荷車が塞いでいてとても乗り越えられそうにない。


「ナット……」


 これ以上は彼の立場を悪くするだけだ。そう思い、もう諦めようという意味を込めてわたしはナットの服を引いた。

 けれどナットは、やはり顔色一つ変えない。それどころかじりじりと包囲を狭めてくるかつての同僚たちを、射抜くような視線で見据えている。


「ナット、お前には失望したぞ。一体王子との間に何があった?」

「あれほど王子に対して忠烈だったお前が……何かの間違いじゃないのか? 今ならまだ間に合う。抵抗をやめて、速やかに王宮へ戻るんだ」


 たぶん、これまで長くナットと共に働いてきた同僚たちだろう。彼らは戸惑いを拭えない様子でそう言うと、ナットに出頭を勧めてきた。

 しかしナットは答えない。如才なくあたりに目を配って、どの衛兵にも間合いを詰められないよう上手く鳥を操っている。


「それとも、後ろに乗せているその女。確か、王子がご贔屓にされていた旅芸人の娘だろう。まさかとは思うが――王子とその女を取り合ったのか?」

「なっ……だ、だとしたら何て女だ! あれだけ王子に目をかけていただいておきながら――だっ!?」


 と、そのとき忌々しげに吐き捨てた衛兵が弾かれたように仰け反って、そのまま鞍を転がり落ちた。

 何が起こったのか分からない衛兵たちはそれを見てどよめいている。けれどわたしは確かに見た。暗くてはっきりとは見えなかったものの、ナットが鞍上から投擲とうてきした何かが衛兵の額に直撃したのだ。

 一体何を投げたのかと思えば、いつの間にかナットの手には鉄製のつぶてが握られていた。

 そんなものをいつどこで用意してきたのか、わたしにはさっぱり分からないけれど、礫はどれも小振りな宝菓と同じくらいの大きさをしている。


「私は今も昔も王子の命に従って動いているだけだ。その王子とこの方を、それ以上侮辱するな!」

「このっ……こっちが下手に出れば!」


 あくまで反抗的なナットに業を煮やしたのか、衛兵の一人が剣を抜いた。鞘口と刃が擦れる音がして、二、三度空足を踏んだウィンノックがこちらへ向けて突っ込んでくる。

 けれどもナットはやはり冷静に、向かってきた衛兵の眉間を礫で打った。礫の直撃を受けた衛兵は最初の一人同様仰け反って、ウィンノックの背中から振り落とされる。


「ナット、よせ! これ以上はいくらお前でも許されないぞ!」

「元より許されようなどとは思っていない。憐れと思うなら道を開けてくれ。私は何と引き替えにしても、王子の命に背くわけにはいかない」

「ちっ……! わけのわかんねえこと言ってんじゃねーよ!」


 ナットの言葉は、それ以上衛兵たちに届かなかった。それは恐らく、わたしたちを追ってきた衛兵の大半が最近入ってきたばかりの新兵だったからに違いない。

 最初の一人を打ち倒されたことに激昂した新兵たちは、次々に剣を抜いて襲いかかってきた。中にはそれを止めようとする兵もいたけれど――彼らは古くからナットを知る者たちだろう――、もはや周りの勢いに呑まれた新兵たちは止まらない。


 ナットは手にした礫をすべて使ってそれらの兵を打ち払い、更に礫が切れると向かってきた相手の腕を擦れ違いざまに拈り上げ、鞍から投げ落としつつ剣を奪うという奇跡のような芸当をやってのけた。

 さすがにそれを見ても怯まず向かってくるほど新兵たちも馬鹿じゃない。礫の投擲さえ百発百中という精度を見せたナットが、抜き身の剣を手にした。それがどれほどの脅威かは、彼らにも十分伝わったようだ。


「くそっ……何だあいつ、化け物かよ!?」

「もう一度だけ言う。道を開けてくれ。でないと次は怪我人を出さなければならなくなる」

「っざけんな!」


 どうやら新兵は、ナットの忠告を挑発と受け取ったようだった。彼らはますます険しい顔をして、再びこちらへ向かってこようとする。

 けれどそれを見たナットが腹を決めたように剣を構えた、そのときだった。

 先頭のウィンノックが鞭を受けて駆け出そうとした刹那、突然その眼前に物陰から白い塊が躍り出る。


「なっ――!?」


 ゴウ、と、その白い塊は吼えた。

 その咆吼が鳥の群を怯ませ、天敵の襲来に驚いたウィンノックたちが甲高い悲鳴を上げ始める。


「あれは……!」


 見間違えるはずもない。

 ノーンだった。

 どうしてあの子がここに――。

 そう思ってから、今朝王宮に乗り込む直前、カーナック――いや、チャイディが、〝万一のときのために〟と言ってノーンを外に放していたことを思い出す。


「ノーン!」


 ようやく意識が覚醒したわたしが呼べば、ノーンは赤い尾をぴんと立ててこちらを振り向いた。

 それから「キュオン!」と一声吠えると、まるでついてこいとでも言うように先陣を切って鳥の群へと突っ込んでいく。

 それだけでウィンノックたちは算を乱した。当然だ。彼らにとってガットは捕食者であり、地を走るばかりで飛べない彼らはいつも食糧として標的にされる。ウィンノックにしてみたら、自分たちへ向かってまっすぐ突撃してくるノーンの姿は、これからその羽を毟り肉を喰らおうとしている死神にしか見えなかったはずだ。


「スーリヤ様、お掴まり下さい!」


 ナットの声に弾かれ、わたしは反射的に彼の腰へ腕を回した。その瞬間ナットは自らの鳥に鞭をくれ、混乱する衛兵たちの間をノーンに続いて駆け抜ける。

 恐れていたような抵抗はなかった。わたしたちは驚くほどすんなりと、逃げ惑う鳥たちの中を擦り抜けることができた。

 追い縋ってくる影はない。

 それからわたしたちはノーンを先頭に、遮る者のない道をまっすぐに走り続けた。



          *



 目の前で焚き火が燃えていた。

 夜の闇を赤く照らし出す小さな炎は、まるでわたしの心を映したようにちらちらと不安定に揺らめいている。

 塔の町を離れてから数日が過ぎていた。あれから正確に何日が過ぎたのか、わたしは知らない。数えようとも思わなかったし、そんなことはもうどうでも良かった。


 最後にチャイディと過ごしたあの町から、どれくらい離れたのだろう。わたしたちは現在とある森の中にいる。

 塔の町の南に広がっていたような、宝菓樹の森ではなかった。あれよりももっと低くて多種多様な樹木が混ざり合った、深くて緑の濃い森だ。


「お食べにならないのですか?」


 地べたに腰を下ろしたまま炎を見つめてぼんやりしていると、不意に声をかけられた。

 そこでようやくわたしの意識はこの地上へと帰ってくる。気づくと目の前には串刺しにして焼かれた魚と食べられる木の実が大きな葉の上に置かれていて、そう言えば自分は食事中だったのだと今更のように思い出した。

 魚は森の中を流れる沢でナットが獲ってきたものだ。内臓も骨もきれいに抜いて塩焼きにされているから、食べられないということはない。

 けれどわたしはどうしても食指が動かず、抜け殻のように沈黙を返しただけだった。

 暗い森にナットのため息が漏れる。それに反応したノーンが〝伏せ〟の体勢をしたままぴくりと赤い耳だけ動かしたのを、わたしは視界の端に捉えた。


「スーリヤ様。ご気分が優れないのは分かりますが、そろそろ何か食べていただかないと、お体が持ちません」

「……食事ならしているわ」

「気まぐれに木の実をいくつかお口に入れておられるだけでしょう。今はもっと精のつくものを食べていただかなければ――」

「そんなことより、わたしたちはこれからどこへ向かうの?」


 ここまでにも既に何度か聞かされたナットの小言に付き合うのが煩わしく、わたしは投げやりに話題を変えた。

 もちろんわたしだって、彼がわたしの身を案じてくれているのだということは分かっている。だけど今はそれに応える気力も、感謝する気力も湧かなかった。

 我ながら薄情な女だと思う。チャイディはこんな女の一体どこを愛してくれていたというのだろう?


「……我々は現在、西へ向かってほぼ直進しています。そのまま国境を越え、西の連邦諸国へ入る予定です。王子暗殺の嫌疑がかかっている以上、この国に留まることはできませんから」

「嫌疑も何も、事実だわ」

「スーリヤ様は望んでそうされたわけではありません。すべては魔女が仕組んだことです。ならば責められるべきはあなたではなく、魔女カーラであるはず。あなたの幸福を願われていた王子のためにも、お気を強く持って下さい」

「……それで、連邦諸国へ行ってどうするの?」

「我々には〝宝珠の道〟に関する知識と土地勘があります。連邦諸国の商人の中には、少なからずそれを必要としている者たちがいるはずです。当面はそうした商人たちの下で働けば、暮らしに困ることはないでしょう」

「それもチャイディが考えたの?」

「そうです。めぼしい商人の名も、王子より事前に伺っております。……王子は自分亡きあとのことまで、綿密に手を打っておられましたから」


 それきりわたしたちの会話は途絶えた。

 少し離れたところで鞍を外されたウィンノックが、長い嘴を使い、地面を掘り返している音が聞こえる。


 塔の町を離れてからここまでの記憶は定かでないけれど、わたしが王宮で邪竜カーラに攫われたあとの話は、道すがらナットから聞いた。

 どうして王子であるチャイディが王宮を抜け出し、〝殺し屋〟などと称して町に留まることができていたのか――それにはだいぶ複雑な経緯がある。


 目の前でわたしがカーラに攫われた当日。チャイディは、わたしたちトラグーン一座がカーラに襲われた原因は自分にあると言って、その責任を取るために王宮を出る決意をした。自らの力でわたしを探し出し、救出するために、すべてをなげうつ覚悟を決めたのだ。

 そのためにまず影武者を用意した。ナットを始め、宮中でも彼が特に信頼していた臣下だけを集め、すべての事情を打ち明けて協力を求めた。

 その中から自分とそこそこ声の似ている人物を影武者として抜擢し、一晩中部屋の中で叫ばせたのだ。魔女の呪いに怯え、ついに気がれてしまったと周囲に思い込ませるために。


 その計画を立てた張本人であるチャイディでさえ、そんな子供騙しが果たして通用するのかと半信半疑だったみたいだけれど。

 結果として王宮の人々は――チャイディの両親である両陛下さえ――部屋の中で叫び倒し、暴れているのはチャイディだと信じた。それはひとえにナットが部屋の入り口を固く守り、〝王子の命令〟という名目で何人なんぴとたりとも中に入れなかったことが大きかったと言っていい。


 そんなナットの振る舞いと、絶叫のしすぎで嗄れた声が影武者の正体を隠してくれたことから、計画は順調に進んだ。

 チャイディはあの事件で唯一無事だったノーンを連れて王宮を離れた。人間の何倍も鋭い嗅覚を持つノーンなら、飼い主であるわたしの匂いを辿って追跡できると踏んだからだ。

 果たしてノーンはわたしを見つけた。チャイディは宝菓樹の森で倒れていたわたしを町へ運び、そこで懸命に介抱してくれた。

 けれど目を覚ましたわたしは、チャイディのことをまるで覚えていなかった。

 それどころかカーラに呪いをかけられ、その呪いを解くために彼を殺そうとしていると言う。


 その事実を知ったチャイディは、わたしと話を合わせるためにとっさに殺し屋だと名乗った。そして必要とあらば王子を――つまり自分を殺す手伝いをすると持ちかけた。

 その一方でチャイディはナットと連絡を取り合い、いざというときに備えて王宮で工作をした――すなわち、衛兵や女中に振る舞われるまかないに毒を混ぜたのだ。


 もちろん致死性の毒ではない。ナット曰くしばらく腹痛で苦しむ程度の、下剤のようなものを混ぜたとのことだった。

 それを数日前に現れたカーラの呪いだと喧伝することで、わたしの顔を知る衛兵や女中を宮中から追い出したのだ。だからわたしが女中として宮中へ潜入したとき、関係者の中にわたしを知る人はほとんどいなかった。わたしが気づかなかっただけで、そうした人々と接触しそうになったときには、ナットがさりげなく遠ざけてくれたりもしていたのだろう。


「ですが王子は、本当はもっと別の方法であなたを助けられないかと模索していたのです。すなわち呪いの大元であるカーラを見つけ出し、今度こそあの魔女の息の根を止められないかと――私もそのためにあれこれと手を回しましたが、結局力及ばず……あなたを泣かせたくないという王子の願いを、叶えて差し上げることができませんでした」


 西へ向かう鳥の背でそう語ったナットの横顔は、本当に無念そうだった。彼がそんな風に感情を露わにするなんて滅多にないことだ。

 だからわたしは謝った。謝ることしかできなかった。

 わたしのために、チャイディやナットにはどれだけの苦労をかけたか分からない。それどころか、彼らをどんなに傷つけたかも――。


 ねえ、チャイディ。

 こんなわたしが、わたしだけが、このままのうのうと生きながらえていいのかしら?


 翌日はひる頃から雨が降り出した。

 夜光祭で驟雨スコールに遭ったときはそうでもなかったのに、今は秋の雨が冷たい。

 わたしは全身をすっぽりと覆える形の外套を頭から被って、雨の中をとぼとぼと進むウィンノックの背に乗っていた。もちろん手綱はナットが取っている。

 真昼のはずなのに、やけに空が暗かった。まるで日暮れ前まで一気に時が進んでしまったみたいで感覚が狂う。


 昨夜一晩野営した森は抜けて、今は地面が剥き出しになった細い間道を進んでいた。

 細かい雨が、さあさあと音を立てながら水飛沫を上げている。道の両脇は相変わらず森なので、雨粒が絶えず枝葉を鳴らして、ちょっと大きな川のそばを歩いているような水音がどこまでも聞こえていた。

 足元の土はぬかるみ、その土でウィンノックが脚を滑らせることを警戒しているのだろう。ナットは雨の中無理に鳥を走らせるようなことはしなかった。

 隣ではノーンが、同じく雨に打たれながら首を垂れて歩いている。わたしたちの乗るウィンノックは、初めこそノーンに近寄られると大層怯えたけれど、今は慣れてしまったのか大して気にする素振りもなかった。元々のんびりした性格なのかもしれない。


 そんな雨の中を、どれくらい進んだだろうか。

 飛沫ですっかり煙り、あまり遠くまで見通せない道の先をぼんやりと眺めていると、急に頭がくらりと傾いだ。

 一瞬視界がぼやけたような気がして、雨水が入ったせいかと目元を擦る。けれどそうして腕を上げることさえ億劫だった。ただ鳥の背に揺られているだけでも、雨の中を進むというのはなかなか体力を奪われるものらしい。


 もう疲れた。ここで下ろしてほしい。

 目の前にあるナットの背中にそんな泣き言を言ってしまいそうになって、わたしは濡れた唇を結んだ。

 ナットは、つらくはないのだろうか。魔女に操られていたとは言え、敬愛する主をその手で刺した――そんな女を保護し、なにくれとなく面倒を見てやらなければならないこの状況をどう思っているのだろうか。


 何なら殺してくれてもいいのに。


 ナットは絶対にそんな真似しないだろうと分かっていながら、彼なら人一人殺すくらい容易いだろうとも思うだけに、そう願わずにはいられなかった。


 わたしは、疲れた。

 この数日色んなことがありすぎた。

 指先が冷たい。

 凍えるように寒い。

 ねえ、チャイディ。

 あなたが眠りに就くときも、こんな感じだったのかしら――?


 体が宙に浮く感じがして、何もかもがどうでもよくなるような感覚。

 その感覚に身を委ね、わたしは重い瞼を下ろした。

 ぷつりと音を立てて意識が途切れる。

 瞼を閉じた先の暗闇には、微かな光さえ見えなかった。

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