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第二十八話 哭別

 ――すべて、思い出した。


 自分が何者であったのかも、何故カーラの呪いを受けることになったのかも――カーナックの正体も。


 けれど、何もかも思い出したときにはもう遅かった。

 わたしは王宮の祈祷所、穏やかに微笑む女神スーリヤの前で泣き崩れ、腕の中にあるその温もりに縋っている。

 チャイディ。

 眠るように目を閉じた彼の腹部には、わたしの突き刺したカーラの短剣が深々と食い込んでいた。


 どうして。


 どうしてこんなことになってしまったの?


 こんなはずじゃなかった。


 わたしはただ、彼と交わした約束を守りたかっただけなのに――


「――……スーリヤ」


 そのとき、声を上げて泣くわたしの腕の中で。

 微かな――本当に微かな呼び声が聞こえた。

 はっとして、涙でぐしゃぐしゃになった目を見開く。

 必死で目元を拭い、ようやく輪郭を取り戻した視界に見えたのは、わたしを見上げて微笑んだチャイディの姿。


「チャイディ……!」

「はは……久しぶり、だな……その名前で、呼んでもらえるの……」

「笑い事じゃないわ……!」


 力なく笑ったチャイディの頭は今、わたしの膝の上にある。わたしはそんな彼の上体を抱くように身を屈めながら、精一杯の抗議をした。

 再び溢れ出した涙が零れて、チャイディの頬にぱたぱたと落ちる。腹部に刺さったままの短剣は抜くべきだろうか。そう思いながらも抜いた先のことを想像するのが恐ろしくて、それ以上手が伸びない。


「どうして……どうしてよ、チャイディ……! どうして〝自分は殺し屋だ〟なんて、あんな嘘ついたの!」

「いや……あれは、嘘じゃないさ……君が……カーラの、呪いを受けて……記憶を、失ってしまったと……分かったとき……こうするしか……ないと思った……僕自身が……殺し屋になって……君の代わりに、僕を殺そうってね……」


 そう言ってわたしを見つめたチャイディの眼差しは、どこまでも優しくて。

 わたしはとめどなく溢れてくる涙を、それ以上こらえることができなかった。


 そんなこと、わたしはこれっぽっちも望んでいなかったのに。

 彼にはわたしのことなんて見捨てて、自分が幸せになる道を選んでほしかったのに。


 なのにチャイディは、自分の命を犠牲にしてわたしを救う道を選んだ。

 この数日間彼のことなんて綺麗に忘れて、のうのうと過ごしていたわたしのために――!


「スーリヤ……泣かないでくれ……これで……良かったんだ……こんなことになったのは、全部……全部、僕のせいなんだから……」

「違う! 違うわ……! あなたは何も悪くない、悪くなんてないのに……!」

「……ごめん……本当は……分かってたんだ……君は……きっと……こんなことは、望まないって……だけど……あのまま……君を見捨てることなんて、できなかった……スーリヤ……僕は、どうしても……君に――ッ……!」

「――! チャイディ!」


 刹那、チャイディの体が震え、彼はきつく眉を寄せて息を詰めた。

 そうしてしばし何かに耐えるように呼吸を止めたあと、口を開いて喘ぐような息をつく。

 しかし再び呼吸を始めてからも、チャイディの体は痙攣したように震え続けていた。

 わたしはそんな彼の姿を見ていられなくて、とっさに彼の手を握る。何かしなければと思うのに、真っ白になった頭ではろくに思考も働かず、ただ涙だけが底なしの焦燥と共に溢れてくる。


「チャイディ、しっかりして! 死なないで……お願い……!」

「……っ、スーリ、ヤ……どうか……自分を、責めないで……ほしい……僕は、ただ……君に……生きて……ほしいと……君が、僕に……そう願って……くれたように……」

「チャイディ……!!」


 苦痛に眉を歪め、額にはびっしりと汗を浮かべながら。

 それでもチャイディはわたしの手を握り返して、笑った。

 苦しくないわけがないのに。恐ろしくないわけがないのに。

 それなのに、彼は。

 自分の命が尽きようとしている今も、ただわたしの幸せだけを願ってくれている。


「ぼ、僕には……君のいない……人生なんて……考えられなかった……たとえ……僕のものに、ならなくとも……君が……どこかで……笑っていて、くれたら……もう……それだけでいい……って……」

「そんな……だけど、わたしは……!」

「君と……過ごした……この、数日間は……まるで……夢みたいだったよ……たとえ……僕を覚えて、いなくても……スーリヤ……君はやっぱり、君だったから――」


 ああ、駄目だ。

 チャイディの顔が見えない。

 泣いている場合じゃないのに。もっと他にやるべきことが、言うべきことがあるはずなのに。

 だけどどんなに視界が滲んでも、その向こうでチャイディが微笑みかけてくれていることだけははっきりと分かった。


 彼はこの数日間を、一体どんな思いで過ごしていたのだろう?

 自分のことを忘れられたまま、何も知らずに笑っていたわたしの隣で――。


「だけど……最後に……」

「え……?」

「最後に……一つだけ……どうしても……これだけは……」

「チャイディ?」

「女神……スーリヤよ……どうか……お聞き届け下さい……私は……コンマニー王国、第一王子……チャイディ=ナイルアン=ルークチャイは……ここにいる……最愛の人、スーリヤに……未来永劫……決して滅びぬ愛を、誓います――」


 わたしは、息が止まった。

 口元を覆い、肩を震わせ、けれど引きった喉から声が出ない。



『迎えに行くよ』



『たとえ君がどこにいようと、必ず迎えに行く』



『そして君に、もう一度この場所で永遠の愛を誓うから』



『どうかそのときまで、僕を信じて待っていてほしい――』



「――チャイディ……!!」


 それ以上は、何も言葉にならなくて。

 わたしは声を放って泣きながら、愛する人の胸に縋った。

 チャイディもまた、そんなわたしを優しく抱き返してくれる。

 最期の力を振り絞り、割れ物をそっと包み込むように。


「さあ、スーリヤ……そろそろ……お別れだ……君は、生きて……幸せに……」

「嫌よ、チャイディ! あなたを置いていくなんてできない……! あなたの命と引き換えにわたしだけ生き残るなんて、そんなことできるわけない!」

「それでも、行くんだ……いつか、きっと……君には……僕以上に、ふさわしい人が……現れる……だから……お願いだ、スーリヤ……僕のために――どうかこれからも、笑っていてほしい……」


 嘘だ。

 そんなの嘘だ。

 この先たとえどんなに長く生きたって、彼以上にわたしを愛してくれる人なんて現れるわけがない。


 わたしは彼と生きたかった。

 二人並んで、どんな苦しみも悲しみも分かち合いながら、日の当たる道を歩んでいきたかった。


 その夢が今、消える。


 チャイディの命の灯火と共に、消える。


「スーリヤ……愛してる……永遠に、君を愛してるよ……」

「わたしもよ、チャイディ。これからもこの先も、あなただけを愛してる……!」

「ありがとう……スーリヤ……僕に……は……――」


 そのとき、するりと。

 震えて力の入らないわたしの手の中から、彼の温もりが擦り抜けていった。

 力を失った彼の手は、そのまま冷たい床に落ちて。

 思わず声を失ったわたしの目の前で、彼の瞼が閉じられる。


「チャイディ?」


 声にならない声で、彼を呼んだ。

 情けなく震えたその声だけが、完成された静寂の中でやけに大きく響いて消えた。


 もう一度彼の名前を呼ぶ。

 更に呼ぶ。

 けれどチャイディがそれに応えてくれることはない。


 もう二度と、有り得ない。


 分かっていたはずのその現実を、突然目の前に突きつけられて。

 わたしは全身を壊れんばかりに震わせて、泣いた。

 声の限りに泣き叫んだ。


 チャイディ。

 愛していた。

 こんなにも愛していたのに。

 その彼をわたしが殺した。


 わたしが殺したんだ――


「――王子!」


 そのときにわかに背後で扉が開け放たれる音がした。

 うなだれたわたしはそちらを振り向くことさえできなかったけれど、やってきたのがナットだということは見なくても分かる。

 恐らくナットはわたしの泣き叫ぶ声を聞いて駆けつけたのだろう。

 けれどわたしの腕の中で横たわったまま動かないチャイディを見ると立ち止まり、しばらくの間言葉を殺している。


「王子……」


 やがてぽつりとチャイディを呼んだ彼がどんな顔をしていたのか、わたしには分からなかったけれど。

 ほどなくナットはわたしの傍らに膝をついて、チャイディの亡骸をそっと床に横たわらせた。

 わたしなんかよりずっとずっと長く彼と共にいたナットにとって、チャイディは自分の命よりも大切な存在だったろう。

 けれどナットは息を引き取ったチャイディを前にしても涙を見せることはなく、無言の別れを告げて不意にわたしの腕を取る。


「行きましょう」

「え……?」

「記憶は無事取り戻されたのでしょう?」

「え……ええ……だけど……」

「王子亡きあとのことは私が託されました。必ず無事にあなたをお逃がしするようにと。これ以上の長居は無用です。お早く――」

「――嫌よ!」


 刹那、わたしは自分でも驚くほどの声で叫び、ナットの手を振りほどいた。

 視界は未だ滲んで役に立たない。けれどナットが突然の拒絶に目を見張っていることは辛うじて分かる。


「わたしはどこへも行かない。チャイディを見殺しにしておいて、自分だけおめおめ生き延びるだなんて有り得ないわ!」

「スーリヤ様……しかし――」

「チャイディはたとえ命が尽きてもわたしを愛すると誓ってくれた。それなら、わたしも――」


 衝動的にそう言って、わたしは女官服の上着の懐に手を入れた。そこには昨日、夜光祭の屋台でチャイディが買ってくれたあのかんざしが入っている。

 きっと王子暗殺が上手くいくようにと、お守りとして忍ばせていたものだった。

 けれどその簪を贈ってくれた相手こそ、わたしが殺さなければと思い定めた王子だったなんて、何という皮肉だろう。


 彼を失うまでその事実に気づかなかった自分の滑稽さに自嘲して、わたしは迷わず簪の先端を喉へ向けた。

 父さんも母さんも、チャイディさえもいなくなった世界で、わたしが生きる意味なんてない。

 それなら辿り着く答えは一つだ。

 こうすることで少しでも、わたしの愚かさを償えるのなら――


「スーリヤ様!」


 最後の涙が頬を伝うのを感じながら、一気に簪を自らの喉へ突き立てようとした、刹那。

 乾いた音があたりに響いて、わたしは頬に衝撃を感じた。

 ついでじわりと肌に広がったのは、予想以上の痛みと熱。

 わたしが赤く腫れた頬を押さえて茫然としていると、途端にナットが手中から簪を奪い取って言う。


「いい加減にして下さい。この方が……王子が一体何のために、命を賭けてあなたをお救いしたと思っているのです! 我が主の想いと覚悟を、これ以上侮辱しないでいただきたい!」


 肩を怒らせ、まなじりを決し、ナットは未だかつてない剣幕でそう叫んだ。

 こんな風に声を荒らげて怒鳴るナットを見たのは、六年前、森で父さんからチャイディを庇おうとしたあのとき以来だ。

 更に言うなら、彼の頬が涙に濡れてゆく様を見るのもあのとき以来だと、わたしは霞んだ思考の隅で思った。


 けれどナットに打たれた頬の痛みが次第にはっきりしていく中で。

 わたしはたった今自分がしようとしていたことの愚かさを噛み締め、また泣いた。

 まったくナットの言うとおりだ。

 わたしはチャイディの願いなんてこれっぽっちも分かろうとしていなかった。

 彼はわたしの幸福を願ったからこそ、自らの命と引き換えにわたしを救ってくれたのに。


 なのにここでわたしが死んだりしたら、チャイディの死はまったくの無駄になる。

 だけどそれなら、わたしはこの先どうすればいいというのだろう?

 生きる意味も目的も失った世界で、何のために、どうやって生きればいいのか――


 ねえ、チャイディ。

 それくらい、あなたはわたしのすべてだった。


「――おい、どうした!? さっきの光は……!?」

「――!」


 そのときだった。扉の向こうから突然、慌ただしい足音と複数人の声が聞こえた。

 その声にびくりと震えたわたしは、そこでようやく我に返る。

 まずい。わたしたちのいる祈祷所は至聖所の突き当たりだ。おまけにこの状況じゃ、どうやっても言い逃れなんてできるわけがない。


「――行きましょう」

「えっ……」

「このまま王宮を出ます。決して離れないで下さい」

「ま、待って、ナット! だけどこのまま逃げるわけには――」


 腕を引かれ、引きずられるように立ち上がりながら、けれどわたしは逃げることへの逡巡を断ち切れなかった。

 だってわたしはチャイディを――この国の王子を殺したのだ。そこにいかなる理由があろうとも、その事実に変わりはない。

 ならば真実を告白し、相応の罰を受けなければ。そう思った。

 ここにはこの六年間、わたしたちに破格の待遇を与えて下さった王さまがいる。お妃さまもいる。

 その二人に、何の真実も告げぬまま逃げ去るなんて――


「どんな事情があったにせよ、今ここで捕まればあなたは極刑を免れません。それでは王子の願いに背くことになる。〝すべてが終わったら両陛下を欺いてでも逃げよ〟と王子から仰せつかっております。かくなる上は、スーリヤ様もお覚悟を」


 ぞっと背筋が寒くなった。両足が萎えて感覚を失い、再びその場に座り込んでしまいそうになる。

 ナットは本当にそれでいいと思っているのだろうか? あれほどチャイディを愛しておられたお二人を裏切って逃げる、なんて――。

 そんなこと許されるわけがないと思いながらも、体はナットに引かれてついに走り出している。


 チャイディ。

 ねえ、チャイディ。

 あなたは本当にこれで良かったの――?


「チャイディ――」


 最後に名を呼んで、振り向いた先の彼は。

 優しく微笑んだ女神スーリヤの像に見つめられ、とても穏やかな表情かおをしていた。

 青白い月明かりが部屋を満たしている。

 その部屋の中で、チャイディの命を奪った短剣の柄が一瞬、金色に閃いたような――。


 けれど逃げ出したわたしにはもう、それを確かめる術などなかった。

 ナットに手を引かれるがままに駆け、暗い通路を抜けて、その先に集まっていた神官たちを蹴散らしながら走り抜ける。

 背後で怒声が上がっていた。

 しかしわたしたちは振り向かず、夜の静寂を引き裂いて、闇の中を走り続けた。

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