第二十一話 指切り
「――嫌だ! いくら何でも急すぎる! それならそうと、どうして言ってくれなかったんだよ!」
目の前で大声を上げるチャイディを見て、わたしは為す術もなくうつむいた。隣では父さんも母さんも、おまけにノーンまで困ったような顔をしている。
お妃さまから町を出ていくよう言われた日の翌日。わたしたち家族は、王さまに暇を告げて町を去ることにした。
これは昨日お妃さまに言われたことを両親に伝えた結果だ。そういうことなら一日も早く町を出た方がいいと父さんは言い、母さんも何も言わずそれに賛成した。
「チャイディ。聞き分けのないことを言うものではありません。彼らはあなたの傷が癒えたら再び旅に出ると、初めからそう言っていたではありませんか」
「そうだけど! それにしたって、何も今日突然出ていかなくてもいいだろ! なあ、スーリヤ、君だってもっとここにいたいよな? だって顔にそう書いてある!」
「……ごめんなさい、チャイディ。わたし……」
何の身分も定住地も持たないわたしたちが、王妃さまの言葉に逆らえるわけがない。そもそもわたしたちみたいな身の上の者が、一月あまりも王宮で自由に過ごせたことの方が例外なのだ。
そこは王族たちが暮らす後宮の奥。わたしたちはそこにあるチャイディの部屋の前で、彼に別れを告げているところだった。
チャイディの右には見送りにきて下さったお妃さまが、後ろにはナットが控えている。王さまはさすがに公務が忙しいようで、お別れは昨夜のうちに済ませてあった。
「申し訳ありません、王子。王子のお体に障ってはいけないと今まで黙っていましたが、我々にも次の興行の予定があるのです。わたくしどもとしましても、この王宮を離れるのは大変名残惜しいのですが、長年贔屓にしていただいている町に顔を出さないわけにも参りませんし、王子のお怪我もすっかりご快癒したご様子ですから……」
と、ときに口ごもってしまったわたしの代わりに答えたのは、平静を装った父さんだった。
その言葉も半分は嘘じゃない。毎年夜光祭が終わったあと、わたしたちトラグーン一座はいつも南へ移動するのだ。王国の南にはいつも年末に行われる大きなお祭があって、その会場となる町へ辿り着くには今から出発しないと間に合わない。向こうにもわたしたちの公演を楽しみにしてくれている人たちがいるから、彼らのためにもわたしたちはそろそろこの町を出るべきだと思った。
けれどそのとき、
「――うっ……」
と、急にチャイディが呻きを上げて、胸を押さえながら屈み込む。あまりに突然のことで、わたしはとっさに反応することができなかった。
異変を察し、慌てて声をかけようとしたときには、既にナットが隣からチャイディを支えている。
「王子! どうなさったのです?」
「む、胸が、痛い……森で賊に斬られた傷が、疼いて……」
「そんな……! では、今すぐ医者を……!」
「スーリヤ……もう少しだけ、ここにいてくれないか? 君が傍にいてくれたら、この痛みも――」
胸を押さえながらもこちらを向いて、チャイディは苦しそうに笑った。
そんな顔で見つめられたら、わたしだって嫌とは言えない。わたしが傍にいるだけで、彼の苦しみが少しでもやわらぐのなら――と、思わず手を伸ばしかけた瞬間、
パンッ!
と乾いた音がして、驚いたわたしはびくりと動きを止めた。
目の前で、チャイディが赤く腫れた頬を晒している。打たれたのだ。
彼に平手を張った犯人は、言うまでもない。
お妃さま。
彼女は背筋が凍るほど冷たい表情でチャイディを見下ろし、振り上げていた手を下ろす。
「チャイディ。世の中にはついていい嘘と悪い嘘があります。わたくしがこれまであなたの嘘を見逃してきたのは、どれも取るに足らない嘘ばかりだったからです。ですがあなたがたった今ついた嘘は、ついてはいけない嘘。それくらいの分別は、あなたも王子なら心得ているでしょう。――恥を知りなさい」
「……っ」
お妃さまの声色は、昨日聞いたものとは比べものにならないほど鋭かった。
恐らく昨日のお妃さまは、本気で怒っていたわけではないのだ。彼女が本当に怒っているのは、今。深い青色の瞳は静けさを湛えているものの、その奥には激しく燃える炎が覗き、とても声をかけられる雰囲気じゃない。
が、わたしが緊張の呪縛から解き放たれたのはその直後だった。お妃さまに打たれたチャイディが、声もなくただ歯を食いしばってその場から突然駆け出したからだ。
「――! チャイディ!」
お妃さまの前なのに「王子」と呼ぶことも忘れて、わたしはとっさに彼を呼び止めた。
けれどチャイディは一度もこちらを振り向かず、矢のように走り去ってしまう。それをナットが追おうとした。しかしその肩を引き止める手があった。
ナットを止めたのもまた、お妃さまだ。お妃さまは今日も頭の後ろに垂らしている紗をわずかに揺らすと、無言でわたしを見つめてくる。
追いかけていい。そう言われたのだと思った。するといてもたってもいられなくなって、わたしは一度だけ父さんと母さんに目配せをする。
二人もそれに頷いてくれた。わたしは打たれたように走り出した。隣にノーンがついてくる。チャイディの行き先を教えてくれるようだ。
ノーンはとても鼻がきく。一度覚えた匂いは忘れない。彼はいつの間にかわたしの少し先を走り、チャイディの匂いを辿って彼のもとまで導いてくれた。
白亜の通路を駆け抜けて、飛び出した先は中庭だ。
昨日、わたしとチャイディが二人きりでひなたぼっこをしていたあの中庭。
わたしはそこで迷わず昨日と同じ場所へ足を向ける。ノーンは後宮の出口に留まり、それ以上は追ってこなかった。
「チャイディ」
白い花が咲いた垣根の間。
チャイディはそこで、こちらに背を向けて立ち尽くしていた。
わたしはその真後ろに立ち、束の間何と声をかけるべきか迷う。
本当のことは、言えない。
けれど彼には分かってほしい。
「ねえ、チャイディ。町を出ること、知らせなくてごめんなさい。だけど突然決まったことだったの。理由は色々あるんだけど……わたしたちはやっぱり、王宮を出ていかなくちゃならない」
「……」
「この一ヶ月、本当に楽しかった。王宮での暮らしはまるで夢みたいだったわ。それに、ここにはあなたがいたから……あなたに出逢えて、本当に良かったと思ってる」
まだ、チャイディの身に降りかかる不幸の謎は解けないままだけれど。
それでもそれは、嘘偽りないわたしの本心だった。
チャイディと共に過ごす時間は、大勢の人々の前で得意の芸を披露するのと同じくらい楽しかったから。彼の嘘には何度も振り回されたけれど、そんな他愛もない時間が何よりも愛しく思えた。
それはチャイディがわたしに見せてくれた笑顔が、太陽みたいに眩しかったからかもしれない。
チャイディは、わたしに太陽という名前はぴったりだと言ってくれたけれど。
この一ヶ月、わたしにとっての太陽はチャイディだった。
彼が笑いかけてくれるだけで胸が弾むこの気持ちを、人は何と呼ぶのだろう。
「ねえ、チャイディ。わたし――」
「――もう、会えないのかな」
「え?」
「君は旅芸人で、僕は王子だ。君は世界中を自由に飛び回ることができるけど、僕はこの王宮という鳥籠から出ることすらできない。そんな君と僕の道が交わったのは、ほとんど奇跡だ。だから、僕たちはもう……」
王子と旅芸人。その言葉の対比を前にすると、わたしはあまりにも歴然たる身分や境遇の差に竦み上がる思いがした。
そうだ。本来ならわたしはこんな風にチャイディを呼び捨てにして、親しく言葉を交わせるような人間じゃない。その身分は賤しく、王族なんて雲の上の存在で、本当は触れることすら許されない相手だ。
それでもチャイディは、わたしに名前を呼ぶことを許してくれた。古い友人のように語りかけることを許してくれた。わたしの歌を聴いてくれた。わたしを陽だまりのようだと言ってくれた。
だからこそ、言えない。
これ以上王宮に留まれば、わたしたちまであなたの呪いに喰い殺されるかもしれないから、なんて。
お妃さまはそんな未来を避けるために、わたしたちに王宮を去れと言った。人生を諦めかけていたチャイディの、唯一の希望と成り得たわたしたちまで呪いを受けるようなことになれば、きっと今度こそチャイディは死を選ぶだろうからとお妃さまは言った。
あの子から希望を奪いたくない。だからあなたたちにはチャイディと別れて、幸せに生きてほしい。お妃さまはそう言って、そんな選択しかできない自分を許してほしいとわたしに詫びた。
わたしが傍にいることで、チャイディの心が少しでも救われるのならそうしたい。けれどそれはいずれ、チャイディから未来と希望を奪うきっかけになりかねないという。
何という皮肉だろう。結局わたしには、彼のためにできることなんて何もないのだと思い知った。せめてその真実を明かせれば、少しは心が軽くなるかもしれない。
だけどわたしたちがチャイディの呪いを恐れているなんて言ったら、チャイディはきっと傷つく。深く傷つく。
だから言えない。わたしは何も告げずに彼の前から消えることしかできない。
でも。
でも、やっぱりわたしは――
「――また来年」
「……え?」
「また来年、あなたに会いに来るわ。わたしたち、毎年夜光祭の時期には必ずこの町を訪れるから。お祭事がある時期は、一座にとって貴重な稼ぎ時なの。だから、この町を興行の巡路から外すなんて有り得ない」
「スーリヤ」
「そのときまでにまた色んな土地を巡って、土産話を集めてくるわ。それから今度は、異国の歌も覚えられるように練習してみる。王宮から出られないあなたの代わりに、わたしが世界を見てくるから。だから、また会いましょう。――ね、約束」
そう言って、わたしはチャイディの前にそっと右手を差し出した。そのうちの四本の指をたたんで、小指だけを突き出しチャイディに向ける。
チャイディはそんなわたしの右手を何度も瞬きして見つめた。――ああ、もしかしてチャイディは知らないのだろうか。庶民の間でよく交わされる〝指切り〟という約束の証を。
「ほら、チャイディも小指を出して」
「小指を?」
「そう。お互いの小指を約束に見立てて結ぶの。本当の本当に破ってはいけない約束をするときの、おまじないみたいなもの」
「おまじない……」
そう言われてもチャイディはいまいちぴんとこないのか、ぼんやりと自分の右手を見つめていた。
けれど少時ののち、彼はいかにも見様見真似といった素振りで、おずおずと自身の小指を差し出してくる。
それだけでわたしは、長い夜が明けたように嬉しかった。迷わずチャイディの小指に自分のそれを絡め、再会を誓った。
この国では古くから、小指は魂を繋ぐ指だという。
だからその瞬間、チャイディとわたしは確かに魂で繋がったのだ。
少なくともわたしはそう思うことにした。
そう信じた。
「それじゃあ、また」
やがてわたしが小指を放しながらそう言ったとき、チャイディは笑った。
どこか寂しそうではあったけれど、それは確かにわたしが愛した微笑みだった。
「うん、また」
約束だよ。そう言った彼に、わたしも笑顔で頷いた。
そうして、翌年。
わたしはそのとき交わした約束どおり、再びチャイディのもとを訪れることになる――。




