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第二十話 妃の願い

「――スーリヤ!」


 と、チャイディが明るい声でわたしを呼んでくれるようになったのは、森での一件から一月が過ぎた頃のことだった。

 あの日、偶然森を通りかかってチャイディを助けたわたしたちは王にいたく感謝され、それからしばらくのときを王宮で過ごすことを許されていた。両親は初め、震え上がってその申し出を固辞していたのだけれど、王やお妃さまがどうしてもとこいねがうものだから、断りきれなくなってしまったのだ。


 それならチャイディの傷が癒えるまでと王宮に留まる期間を決めて、わたしたち家族は王さまたちの好意に甘えた。

 森で賊に斬られたチャイディの傷は深く、しばらくは部屋で安静にしていなければいけないと言うので、わたしたちはチャイディの前で得意の芸を披露したり、歌を歌ったりしてチャイディの無聊ぶりょうを慰めた。


 初めて森で会ったとき、チャイディは心身共に弱り切っているように見えたけれど、わたしたちの奏でる音楽や歌を聴くと彼は本当に喜んでくれた。

 けれどチャイディが何より聞きたがったのは、トラグーン一座の旅の話だ。遠い西の国で〝騎士〟と呼ばれる人々の城に招かれたときの話、東の大国で皇帝の行列を見たときの話、北の山脈を超えて大草原で暮らす遊牧民と仲良くなったときの話――。


 それらの話を、チャイディはいつも目を輝かせて聞いていた。自分はこの王宮をほとんど出たことがないから、もっと外の話を聞きたいのだと彼は言った。

 だけどわたしたちと出逢ったあの日、チャイディは森にいたじゃない。わたしがそう尋ねたのは、王子であるはずの彼とすっかり古い友人のように打ち解けたある日のこと。

 するとその問いを受けたチャイディは、苦笑を零してこう言った。


「あの日は特別だったんだ。僕がずっと王宮に閉じ込められているのは嫌だと駄々をこねたから、一日だけという約束で、父上が森へ狩りに連れていってくれた。でも、その話がどこからか洩れていたみたいで……僕の命を狙う人たちが、あの森で僕らを待ち伏せしていた。そのせいでまた、たくさんの人が……」

「王子」


 天蓋つきの寝台に身を横たえたままチャイディが暗い顔をすると、その先を遮るようにナットが言った。

 枕元に佇むナットを見上げたチャイディは、再び苦笑を滲ませて「ごめん」と言う。


「だけどやっぱり、僕はこの王宮を出るべきじゃなかったんだ……」


 どこか遠くを見つめながら呟いたチャイディの横顔は、とても悲しげで寂しげだった。

 それは見ているこちらまで胸が苦しくなるような表情で。

 わたしはそろそろ休むと言うチャイディと別れて部屋を出ると、外まで見送りに来てくれたナットを問い質す。


「ねえ、ナット。王子はどうして王宮を出ることができないの? 初めて森で会ったとき、呪いがどうとか言っていたけど、あのことと何か関係があるの?」


 その頃わたしはナットとも既に打ち解けていたから、彼ならきっと真実を話してくれるだろうと思っていた。

 けれど尋ねられたナットは苦しそうに言葉を詰まらせると、


「それは王のお許しがなければ話せません。そういう決まりなのです」


 とだけ言うと、すぐにわたしへ頭を下げ、身を翻して駆け去っていった。


 そんな謎をもやもやと胸に抱えたまま、一ヶ月。

 夜光祭が終わり、本格的に宝菓の収穫が始まる頃には、チャイディもやっと寝台を出て外を歩けるようになっていた。

 とは言えまだまだ無理は禁物だから、あまり激しい運動は控えるようにとお医者さまから言われていたはずなのだけど。

 チャイディは宮中でわたしの姿を見つけると、そんな言いつけなど綺麗に忘れていつも全力で走り寄ってきた。


 その度にわたしや周りの人たちはひやひやしてチャイディを止めるのだけど、彼はまったく聞く耳を持たない。

 それどころか自分を追いかけてくる女官や衛兵に、


「さっき女官長が捜していたよ」


 とか、


「今日は元帥が後宮の視察に来るって聞いたけど?」


 などと平気で嘘をつき、まんまと彼らを追い払ってしまうのだ。


「ねえ、王子。いくら診察や勉強が嫌だからって、やっぱり嘘をつくのは良くないことだと思うわ」

「いいんだよ、僕は後宮じゃ〝嘘つき王子〟で通ってるんだから。だって王宮から一歩も外に出られないなんて退屈だろ? だから時々ああしてみんなをからかうのが、僕の唯一の楽しみなのさ」

「本当に困った王子さまもいたものね……」

「これくらいは愛嬌だよ。ていうかスーリヤ、名前」

「名前?」

「僕のことは名前で呼んでくれていいって言ったじゃないか。君は僕の命の恩人なんだから」

「ああ、うん……でも、やっぱり人目があるところでは……」

「少なくとも、ここに〝人目〟はないと思うけど?」


 チャイディが肩を竦めながらそう言ってみせたその場所は、後宮と前宮を繋ぐ渡り廊下のそば、そこに広がる庭園の真ん中だった。

 わたしたちは未だ緑が眩しいその庭園の木陰に隠れて、チャイディを捜す女官たちの追跡をやり過ごしているところだ。地べたに腰を下ろしたわたしたちの両脇には生垣のような形に整えられた低木がそそり立っていて、とげとげした葉の間にいくつもの白い花が咲いている。

 そこにいるのはわたしとチャイディと、並んで座ったわたしたちの前で〝おすわり〟をしたノーンだけ。

 ノーンはもうすっかりチャイディにも懐いていて、わたしたちが行くところには必ずついてくるようになっていた。いつもならそこにナットもいるのだけれど、その日は三日に一度の武芸の稽古だとかで、朝からチャイディの傍を離れている。


「ノーンは君の家族だけど、〝人〟には入らないだろ? だからさ、名前で」

「う、うん……」

「ほら、呼んで」

「……チャイディ」

「もう一回」

「チャイディ」


 わたしは何だか気恥ずかしいのを堪えながら、促されるままに名前を呼んだ。

 するとチャイディはくすぐったそうに――けれど本当に嬉しそうに笑って、ふとわたしの方へ身を乗り出してくる。


「ねえ、スーリヤはさ、どうして〝スーリヤ〟なんだい?」

「え?」

「僕の名前はこの国の古い言葉で〝優れた心〟って意味らしいんだ。次の国王としてふさわしい人間に育つようにと、父上と母上が二人で考えてくれたって聞いた。この国ではそうやって、生まれてきた子供に願いを込めて名前をつけることが多いだろ? でも、君の名前は女神と同じだから」


 そこにはどんな願いが込められているのか、チャイディはそれが気になるみたいだった。

 確かに神さまと同じ名前をいただくなんて、端から見たらちょっと大胆すぎるのかもしれない。けれどわたしはこの名前をとても気に入っているから、胸を張って答えを返す。


「〝スーリヤ〟っていうのは、元は神さまの名前じゃなくて〝太陽〟って意味だったのよ。だから父さんと母さんはわたしをスーリヤと名づけてくれたの。あの太陽みたいに暖かく、たくさんの人を笑顔にできる娘に育ちますようにって」

「へえ、そうなんだ。僕はてっきり、女神スーリヤみたいな美人に育ちますようにって意味かと思ってたよ」

「それってつまり、わたしは美人じゃないって言ってる?」

「いや、その逆さ。あの森で初めて君を見たとき、本当に女神スーリヤが現れたのかと思ったくらい綺麗だから」


 チャイディが真顔でさらりとそんなことを言ってみせるので、わたしは思わず固まった。

 直後、首の下からみるみる熱が上ってきて、わたしは茹でダコのようになる。

 それを見たチャイディが、途端に下を向いて吹き出した。――ああ、まただ。またチャイディにからかわれた!


「もう、チャイディ! どうしてそうやっていつも人をからかうの?」

「だって、君の反応がいちいち面白いからさ。前に似たようなことをお付きの女官にも言ってみたことがあるんだけど、誰も真面目に受け取ってくれないんだ」

「それはチャイディが嘘つきだってみんな知ってるからでしょ? きっとまた悪戯するためにご機嫌を取ろうとしてると思われたのよ」

「でも、僕はわりと本気で言ってるんだけどなぁ」

「……」

「嘘だよ」

「じゃあ、やっぱりわたしは綺麗じゃないってこと?」

「そうじゃなくて、女官にはこんなこと本気で言ったことないってこと」

「ほら、やっぱり嘘だったんじゃない」

「反応するのはそこ?」

「え?」

「もう、スーリヤは肝心なところでにぶいなぁ」


 何故か呆れられてしまった。わたしがそれにいささかの理不尽さを覚えている間にも、チャイディは両手を広げてばたりと仰向けに倒れ込む。

 王宮の庭にはやわらかい下草が生えているから、横になると思いのほか気持ちがいいのはわたしも知っていた。

 そのときふと雲が晴れて、それまで隠れていた日の光が再び地上に降り注ぐ。斜めに伸びた低木の影はちょうどわたしたちを避けて足元に落ち、穏やかな秋の陽射しがわたしとチャイディを包み込む。


「眩しいな」

「うん」

「それに、あったかい」

「うん」

「君のことだよ」

「え?」

「〝太陽スーリヤ〟って名前、君にはぴったりだ。――だから君からはいつも陽だまりの匂いがするんだね」


 風が吹いた。それはざわざわと庭園の木々を揺らして、わたしの心を波立たせる。

 チャイディは、ずるい。

 普段は嘘ばかりついているくせに、こういうときはいつもその言葉が嘘か真実か明かさない。

 だからつい願ってしまう。

 その言葉が真実だったら嬉しい、と。


「……チャイディも」

「ん?」

「チャイディも、いつかきっと立派な王さまになるわ。チャイディは嘘つきだけど物知りだし、優しいから。ただ、王さまになったらその嘘つきは直さなきゃダメよ。王さまが嘘ばかりついてたら、みんな信じてくれなくなっちゃうんだから」

「……。本当にそう思う?」

「え?」

「僕は王になれると思う?」


 そのときチャイディがじっと空を見つめたまま投げかけてきた問いの意味を、当時のわたしは分かってなかった。

 ただチャイディの横顔が、いつかと同じ悲しみと孤独を帯びているのを見たら息が詰まって。

 あのときのわたしには彼がどうしてそんな顔をするのか、その理由が分からなかった。

 だからとにかく何か答えなければと、戸惑いながら口を開いたのを覚えている。


「も、もちろんなれるわよ。だってチャイディはたった一人の王子さまだし……」

「……。本当は、弟が二人いたんだ」

「え?」

「だけど二人とも病気と事故で死んでしまった。……いや、僕が殺した」

「ど……どういうこと?」

「僕が先に生まれたからだよ。僕以外の王位継承者が生まれれば、僕はもう用なしと見なされるかもしれない。だけどそれじゃあカーラにとって都合が悪い。だから代わりに弟たちが死んだ」

「そ、そんな……でも、〝カーラ〟って?」


 わたしは勢い込んで尋ねた。何故ならそれはたぶん、わたしがこの前ナットに尋ねた疑問の答えだ。

 この一ヶ月、ずっと心に引っかかっていた謎。ようやくそれが解けると思ったわたしは、未だ仰向けに倒れたままのチャイディの顔を覗き込んだ。

 するとチャイディは、そんなわたしを映した瞳を揺らして、


「……ねえ、スーリヤは、もしも僕が――」

「――チャイディ! 女官たちを困らせるのもいい加減にして、出てきなさい!」


 刹那、広大な庭園に響き渡った鋭い声に、わたしとチャイディは揃ってびくりと跳び上がった。

 この声はお妃さまだ。そう察したわたしが慌てて身を引くと同時に、チャイディもその場に跳ね起きる。


「うわ、まずい、母上だ……! しかもあの声は相当怒ってる……!」

「は、早く出ていった方がいいわよ、チャイディ。さすがにお妃さまから逃げるわけには……」

「しっ。いいから静かに。今の母上に見つかったら、どんなお仕置きを受けるか分からないよ。ここはひとまずやり過ごして、母上が奥に戻ってから――」

「――チャイディ! いるなら返事をしなさい!」

「キュオーン!」

「!! こらっ、ノーン!」


 ひそひそと声を低めてやりとりしていたわたしたちの思惑など知る由もなく、一声鳴いたノーンは誇らしげに胸を張っていた。

 どうやらこの子はチャイディの代わりに返事をしてあげた・・・・・と思っているみたいだ。呆れたわたしたちはもはや言葉を失うしかなかったが、そこへ草を踏みしめる足音が近づいてくる。


「ようやく見つけましたよ、チャイディ」


 金の冠から垂れた長い紗を、ふわりと風に靡かせた女性。

 コンマニー王国伝統の盛装に身を包み、冷やかにこちらを見下ろしたその女性こそ、チャイディの実母であり現王の妃に当たるお方だった。

 その深い青色の目に見つめられたチャイディは、早くも隣で竦み上がっている。表情を消したお妃さまの怒りのほどは、この王宮に来てまだ一月余りのわたしにもありありと見て取れた。

 お妃さまのお顔立ちはとても理知的で、実際の人柄もまさにそのとおりなのだけれど、怒ると王さまでも太刀打ちできないくらい怖いらしい。それをチャイディから聞いて知っていたわたしは、怯えるチャイディと無表情なお妃さまとをあわあわと見比べた。


「あ、え、ええと、これは母上、ご機嫌麗しゅう……」

「この顔が機嫌の良いように見えますか。だとしたら今度は目も診てもらえるよう、侍医に相談しなければなりませんね」

「い、いえ、あの、今のは母上のご機嫌が麗しかったらいいなぁという意味で……」

「それは残念ですね。あなたがもう少し聞きわけの良い子になったなら、わたくしの機嫌も今よりは麗しくなるのですが」


 普段は口八丁という言葉がぴったりのチャイディも、お妃さまの前では手も足も出ないといった様子だった。

 わたしはそんな二人のやりとりを緊張して見守っていたのだけれど、何だかこの状況でチャイディだけが責められるのは申し訳なく思えて、とっさにお妃さまへと向き直る。


「あ、あの、お妃さま。チャイディ……あ、いえ、その、王子のことは、どうか怒らないであげて下さい。きょ、今日はわたしが王子をお誘いしたんです。王子と一緒にいたいって……」

「まあ」

「で、ですからその、怒られるならわたしも一緒に……」


 お妃さまはわたしの発言にひどく驚かれたご様子だったけれど、それはある意味で嘘ではなかった。

 だって女官たちがチャイディを探していることを知っていながら、わたしも彼を帰さなかったのは紛れもない事実で。

 本当はわたしから〝戻った方がいい〟と強く言うこともできたのにそうしなかったのは、わたしもチャイディと一緒にいたいという思いが心のどこかにあったからだ。

 それなら多少嘘をついてでも、わたしも一緒に罰を受けなければと思った。

 けれど、それからしばし沈黙したお妃さまはやがて、


「……。チャイディ。あなたは女性からこんな風に庇われて、男として恥ずかしくはありませんか?」

「えっ。あ、あの、わたしは……!」

「スーリヤ。あなたはとても心根の正直な方なのでしょうね。そのせいで、嘘をつくとすぐ顔に出る」

「そっ、そんなことは……!」


 ないです、と言いたかったのに、わたしの頬にはみるみる朱が上って、言葉は尻すぼみになってしまった。

 これじゃあもはや先の発言が嘘であったことを認めたも同然だ。わたしはそんな自分に対する恥ずかしさと情けなさでますます赤面し、お妃さまの前でうなだれる。

 けれど直後に聞こえたのは叱声ではなく、くすくすと零れるお妃さまの忍び笑いだった。

 それに気づいたわたしが驚いて顔を上げると、お妃さまはなおも可笑しそうに笑みを零しながら言う。


「チャイディ。今日のところはスーリヤに免じて特別に許します。分かったら早く部屋へ戻りなさい。侍医が待ちくたびれていますよ」

「分かりました」


 今度はチャイディもいやに素直だった。そんな彼の反応を意外に思って振り向けば、チャイディはまたしても下を向いて小さく肩を震わせている。――また笑われた!


「もうっ、チャイディ! 人がせっかく弁護してあげたのに!」

「ご、ごめんごめん。でも、スーリヤって本当に分かりやすいから……」

「失礼ね。それじゃあ次にまたお妃さまに怒られても、そのときはもう庇ってあげないから!」

「大丈夫。次は叱られないように上手くやるよ」


 本当に〝ああ言えばこう言う〟だ。そんなことをお妃さまの前で言ったら意味がないのに。

 案の定口を滑らせたチャイディはお妃さまにじろりと睨まれ、慌ててその場に立ち上がった。そうしてわたしたちに別れを告げると、大急ぎで後宮の方へと駆け去っていく。


「ああ、だから、走っちゃダメだってば!」

「もう平気だよ!」


 最後にわたしが投げかけた言葉に、チャイディは笑って手を振り返した。

 ほどなく彼の姿は宮殿の中へと消え、わたしはお妃さまと二人中庭に取り残される。……あれ? この状況って、何かとてつもなく気まずいような……。


「――スーリヤ」

「は、はいっ!」


 そこで突然名前を呼ばれ、わたしは反射的に姿勢を正した。

 それを見たノーンが、同じくびしりと前脚を揃える。何とも見事な〝おすわり〟だ。どうやらわたしの真似をしているみたいだけれど、たぶんこの子は一国の王妃さまと二人きりにされてしまったこの状況の重大さを理解していない。もっとも直前まで王子チャイディと二人きりでいた時点で、わたしも同じ危機感を抱くべきだったのだけど。


「そう固くならないで。わたくしはただ一言、あなたにお礼を言いたかったのです」

「お、お礼、ですか?」

「ええ。わたくしはチャイディの親でありながら、あの子があんな風に笑うところを初めて見ました。まさかあの子が心から笑える日が来るなんて……」


 お妃さまは微笑みながらそう言って、チャイディが駆け去った方角へと目をやった。

 そのときわたしの脳裏には〝呪い〟とか〝不幸〟とか、いつかチャイディの口から聞いた不吉な言葉の数々がよぎって、思わず体が硬くなる。


「宝菓樹の森であなた方に助けられたときのことは、チャイディから聞きました。あなた方はあの子を〝災いの子〟と知りながら、命懸けで守ってくれたそうですね」

「そ、それは、その……目の前で苦しんでいる人がいるのに、見て見ぬふりはできませんから……」

「けれどこの国の多くの民は、あの子が死ぬことを望んでいます。そしてあの子もそれを知っている」


 とても静かに告げられたお妃さまの言葉に、わたしは息が詰まった。

 〝僕がいなければ、みんな幸せになれるのに〟。

 あの日森で聞いたチャイディの言葉が甦る。けれどあの言葉を思い出すと、わたしは胸が潰れそうなくらい軋んで、いてもたってもいられないような、そんな衝動に駆られてしまう。


「あのっ……チャイディ……王子は、どうして……わたしは王子がこの世からいなくなればいいなんて思いません。だって王子は嘘つきだけど、とても優しくて……チャイディ王子には、人の心を温かくする力があると思います。なのに、何で……」

「あの子はこの世に生まれる前から、そう宿命づけられていたのです。わたくしたちにはそれをどうすることもできなかった……。けれどあの子の親として、あの子が生まれてくるべきでなかったとは思いません。むしろあの小さな心に、今日まで抱えきれないほどの苦しみを詰め込んできたあの子には、誰よりも幸せになってもらいたい。わたくしも陛下も、ずっとそう願ってきました」


 お妃さまの目は未だ、チャイディの駆け去った方角を向いていた。

 けれどその横顔にはもう、先程までの笑みはない。代わりにあるのは、深い悲しみと苦しみの表情だけ。


「ですがわたくしたちの力では、あの子の心を救ってやることはできなかった。あの子にかけられた呪いを解くために、今も最善の努力は続けていますが……いつの頃からか、チャイディは自分で自分を諦めてしまいました。自分はもう生きているべきではないと」

「……っ」

「そんなあの子の姿を見て嘆く反面、わたくしたちもどこかで諦めてしまっていたのかもしれません。あの子にもう未来さきはないと……けれど、スーリヤ。そこにあなたが現れた。あなたのおかげで、わたくしたちはあの子が生まれて初めて見せた本当の笑顔を見ることができました。子の親にとって、これほどの幸福はありません」


 そう言って、お妃さまはわたしを振り向いた。そこにある穏やかな笑みを見て、わたしは束の間声を飲む。

 ああ、わたしはこの微笑みを知っている。興行で出し物が上手くいったとき、母さんがわたしを褒めてくれるときのそれと同じだ。

 どこまでも優しくて暖かくて、つらいときも悲しいときも、わたしの心を包み込んでくれる笑顔。

 お妃さまはきっと本当にチャイディを愛しているんだ。

 一人の母親として、深く深く愛している。


「ですから、スーリヤ。改めてお礼を言わせて下さい。チャイディに希望を与えてくれてありがとう。きっとあなたの存在は、これからもあの子の心の支えになるはずです」

「そ、そんな、わたしは……」

「――だからこそ、あなたに一つお願いがあります」


 そのときお妃さまの整ったお顔立ちから、すっと笑みが消え去った。庭園の草木をざわざわと揺らした風が、お妃さまの黒い前髪を一房、はらりと額に落としていく。

 わたしはそんなお妃さまを見上げて、「お願い、ですか?」と思わず尋ねた。話の流れからして、きっとチャイディに関わることだろう。

 だからわたしは、自分にお手伝いできることなら何でもしますという心構えで居住まいを正し、お妃さまをまっすぐ見つめた。

 するとお妃さまは直前のわたしの問いに頷いて、薄く艶のある唇を開く。


「今すぐこの王宮を出て、町を離れて。これ以上チャイディの傍に留まるのはやめて下さい」

「……え?」

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