第十九話 始まりの記憶
「うわあああああっ!」
突然轟き渡った悲鳴に、わたしの肩がびくりと跳ねた。
それはわたしたち〝トラグーン一座〟が、塔の町を目指して首長馬を進めていたときのこと。
ただならぬ悲鳴に驚いたのは父さんも同じだったみたいで、いきなり手綱を引かれたヤオマーのプアンが首を振って抗議の声を上げていた。
父さんはそれで我に返ったらしく、慌ててプアンをなだめている。
「あ、ああ、すまない、プアン。しかし、今の悲鳴は何だ?」
そこは塔の町の南に広がる宝菓樹の森。天へ向けてまっすぐに伸びる宝菓樹の間をプアンの背に揺られて進んでいたわたしは、不意に湧いた恐怖から、後ろに乗っていた母さんに抱きついた。
そんなわたしを安心させようと、しっかり腕の中に抱き入れてくれた母さんの表情もまた強張っている。その後ろで鞍に伏せていた猛獣のノーンが、ぴくりと耳を立て鼻先をもたげた。
両親とわたしと、幼い頃にわたしが拾って育てたノーン。それから、いつもそんなわたしたちを乗せて運んでくれるヤオマーのプアン――ちなみにヤオマーというのは、宝菓樹の成木を横にしたのと同じくらい大きな首長の有蹄類だ――、この三人と二匹からなる旅芸人の一座が、わたしたちトラグーン一座だった。
当時わたしたちは興行のために、夜光祭を間近に控えた塔の町へ向かっている最中だったのだけど。いつものように家族三人、仲良く談笑しながら森の中を進んでいたときに、その悲鳴は突然聞こえた。
耳を澄ませば森の奥からは人が騒ぐような声が聞こえる。それから何度も鳴り響く、甲高い鉄の音――。
その音を遠くに聞いたわたしは、森の中で一体何が起こっているのか、嫌でもはっきりと分かってしまった。
あの鉄の音は恐らく、刃と刃とがぶつかり合う音だ。つまりこの森のどこかで、人と人とが戦っている。
王宮のある塔の町の近郊で戦があるという話は聞いたことがなかった。だから可能性があるとすれば、誰かが武装した賊徒に襲われている――。
その頃まだ十二歳と幼かったわたしにも、それくらいのことは容易に想像できた。けれどだからと言って、しがない旅芸人のわたしたちにできることなんて何もない。
プアンの背に詰まれた荷物の中には大道芸で使う剣や槍が入っているけれど、それはあくまで芸に使うものであって人を殺めるためのものではなかった。
そのときわたしと同じことを考えたのか、父さんも鞍の後ろで山積みになっている荷物へ目を向けたものの、すぐに苦い顔で首を振る。
「ここにいるのは危険だ。早いところ町へ駆け込もう」
「だけど、あなた。このあたりで誰かが襲われているのよ」
「分かっている。だが我々が助けに行ったところでできることは何もない。それなら急いで町へ行って、衛兵を呼んで来た方がいいだろう」
「それはそうだけれど、今から行って間に合うかどうか――」
頭上で交わされる父さんと母さんの会話を、わたしは怯えながら聞いていた。わたしたち一座も過去に一度だけ、旅の途中で賊に襲われたことがある。
そのときはたまたま賊の討伐に現れた傭兵に助けられて事なきを得たのだけれど、当時の恐怖がまざまざと胸に甦って、わたしは一刻も早くここから逃げたいと強く願った。
だけど、そのとき。
突然視界の端で、白い獣が立ち上がって。
獣は一声高く吠えると、弾かれたようにプアンの背を飛び降りた。
恐怖で凍りついたわたしの頭が、その白い獣をノーンだと認識できるまで呼吸にして二つ。
そこでようやく我に返ったわたしは信じられない思いで体を起こし、森へ向かって駆けていくノーンの背中に声を投げる。
「ノーン、駄目! 戻って! ――ノーン!」
わたしがどんなに声を張り上げても、ノーンは立ち止まらなかった。それどころかその姿はあっという間に木立の向こうへ吸い込まれて見えなくなり、わたしは焦燥に震え上がる。
ノーンがわたしの言うことを聞かなかったのは、あとにも先にもその一度だけだった。
ノーンは彼がまだとても小さかった頃、とある山の麓で怪我をして倒れていたところをわたしが拾って育てたのだ。以来一人っ子のわたしはノーンを自分の弟のように思っていたし、ノーンもそんなわたしによく懐いてくれた。
ガットは決して人には懐かない、なんて言う人がいるけれど、そんなことはない。ノーンは本当に賢くて、わたしが駄目と言えば人に向かって吠えることもなかったし、ましてや誰かを襲うなんてことは決してなかった。
だけどそうは言っても、やっぱりノーンは獣なのだ。あのときの彼は恐らく、森の向こうから風に乗って運ばれてきた血の匂いに興奮してしまったのだろうと思う。
その匂いのもとへ矢のように駆けていったノーンを、気づけばわたしも追いかけていた。
背後からわたしを引き止めようとする父さんと母さんの声が聞こえる。けれど二人と同じくらい、わたしはノーンが大事だった。本当に家族だと思っていた。
木々や雑草が綺麗に取り除かれた街道から森の中へ飛び込み、たくさんの人の悲鳴や怒号、雄叫びが聞こえる方向へとひたすらに駆ける。
そのときのわたしはノーンを無事に連れ帰ることで頭がいっぱいで、恐怖なんて忘れていた。武器を持った暴漢に襲われることよりも、ノーンを失うことの方がわたしにはずっと怖かった。
けれどやがて、木立の間に武器を持って争う人々の姿が見えた刹那、
「――誰か!!」
不意に間近から上がった叫び声に、わたしは跳び上がって足を止めた。
まさかこんな近くに人がいるとは思わなかったのだ。走り疲れたのとあまりに驚いたのとでバクバクと鳴る胸を押さえ、体を硬くして振り向いた先には一人の少年がいる。
「誰か……誰か、助けて下さい!! 王子が……王子が――!!」
――王子?
そのとき地に膝をつき、誰かの返り血を浴びて叫ぶ黒髪の少年の声を、わたしはどこか夢の中にいるような心地で聞いていた。
予想外の事態が立て続けに起こったことで、わたしの思考力は飽和してしまっていたのだろう。おかげで頭の回転が極端に遅くなり、すぐ傍で聞こえるはずの喚声もどこか遠くなっていく。
王子。
王子さま。
それはつまり、このコンマニー王国の王の息子ということでいいのだろうか?
その王子さまが、一体どうしたというのだろう。
わたしは思考が停止した頭で唯一それだけを思い、泣き叫ぶ少年へと歩み寄っていく。
「どうかしたの?」
そのときわたしを見上げた黒髪の少年――ナットにしてみたら、それはあまりに場違いで間の抜けた質問だっただろう。
けれどナットはそんなわたしを呆れて追い返すでもなく、むしろ涙をいっぱいに溜めた目でわたしを見つめた。まるで溺れている人が、たまたま近くを通りかかった舟を見つけた瞬間のような、縋るような瞳だった。
「助けて下さい! 王子が……チャイディ王子が、賊に斬られて……!」
涙声で必死に叫ぶ少年。その少年の腕の中にもう一人別の少年がいることに、わたしはそこでようやく気づいた。
歳は、当時のわたしやナットよりほんの少し上くらい。星の光を思わせるような美しい銀髪をしていて、けれどその色の薄い髪は今、赤黒い血で汚れている。
その血は少年自身のものなのか、それとも誰かの返り血か。
それすら判然としないほど、少年の胸は真っ赤に染まっていた。
その胸を、ナットが泣きながら片手で押えている。銀髪の少年の息は浅い。
なのに喘ぐように口を大きく開いて、空色の瞳からは涙を流し、少年はどこを見ているのかも定かでない視線を虚空に彷徨わせていた。
ひょっとして、彼が。
この銀髪の少年が、コンマニー王国の王子さまなのだろうか?
「君は……?」
そのとき、二人の少年を見下ろして茫然と立ち尽くしているしかなかったわたしに、ふと掠れた声がそう尋ねた。
その声は、さっきまで必死に助けを求めていた少年の声とは違う。
ということは、今のは王子さまの――。
相変わらず鈍い思考でどうにかそれだけを考えたわたしは、虚ろな目をした王子の前にゆっくりとしゃがみ込む。
「スーリヤです、王子さま」
「スーリヤ……?」
「はい。わたしの名前は、スーリヤといいます」
「スーリヤ……太陽の、女神の名前だ……それじゃあ、君は……僕を迎えに来た女神様……?」
王子は今にも消え入りそうな声でそう言って、微かに笑った。
この状況でどうして笑えるのか、彼もまた怪我のせいで思考がおかしくなっているのかと、わたしは内心首を傾げたけれど。
〝スーリヤ〟という名前を告げれば、女神の名前と同じだねと返されるのには、わたしももう慣れていた。
むしろそれは、初対面の人と必ず交わす常套句。けれどこの王子はそれだけじゃなく――わたしを見上げて、まるで救われたような顔で笑った。
「女神様……僕、ずっと、待ってたんです……女神さまが、迎えに来て下さるのを……この身に受けた呪いごと、あの空へ、連れていって下さるのを……」
「呪い?」
「そう……呪い……僕が死ねば……きっと……みんな、幸せになる……」
「馬鹿なことを言わないで下さい、王子!」
わたしには、王子が何を言っているのかよく分からなかった。いや、分かりたくなかった、といった方が正しいかもしれない。
とにかくわたしは女神ではないし、王子を救いに来たわけでもない。一瞬そう伝えるべきだろうかと迷った。
けれどそのとき、
「スーリヤ!」
と、不意に自分を呼ぶ声がして。
振り向けばそこには、わたしを追ってきたらしい父さんと母さんの姿がある。
「父さん、母さん……」
「まったくお前は、何て無茶をしでかすんだ! おいで! ここは危険だ、ノーンは見つかったのか?」
差し迫った様子で叫ぶ父さんに手を引かれ、わたしはただ首を振った。
けれどそこでようやく、父さんも目の前にいる血まみれの少年に気がついたらしい。目を見開いて立ち止まると、動揺したように二人の少年を見比べ、しかしすぐに彼らの傍へ膝をついた。
「この子は? 賊に斬られたのか?」
「はい……お願いです、王子を助けて下さい……!」
「王子だって? ま、まさか……それではこの子が、噂の……」
父さんは信じられないといった様子で、眼前に横たわる少年を凝視した。
だけどそのとき、音もなく動いた父さんの手が何かを掴む。――剣だ。わたしにも見覚えのある、曲芸用の鞘なしの剣。
父さんがそんなものを持ってきていたことに、わたしはその瞬間まで気づかなかった。
きっとそれほどまでの覚悟を決めて、わたしを探しに来てくれたのだろう。けれどわたしは父さんが何故一度は置いたその剣を握り直したのか、その理由が不意に分かってしまって、ぞっと身を竦ませる。
「チャイディ王子……この方が本当に、チャイディ王子なんだな……?」
「父さん……?」
「王子。こんなときですが……こんなときだからこそ、どうかお聞き下さい。私の生まれた郷は今から六年前、突然の洪水に襲われ流されました。家も人も、宝菓樹の森も、跡形もなく……私はその頃、ちょうど家族と共に興行に出ていたので無事でしたが……おかげで私たちは、帰るべき家を失いました。郷に残していた年老いた両親も、兄弟も、友人も……」
「……」
「皆はそれを、あなたがお生まれになったせいだと……あなたがお生まれになってから、王国のあちこちで似たような悲劇が……それまでこの国は、とても……とても豊かで平和な国でした。なのにどうして……!」
剣を握った父さんの手に力が籠もった。それを見たわたしはたまらなく恐ろしくなり、思わず父さんから距離を取る。
知らなかった。いつもはおおらかで優しい父さんが、郷のことでそんな思いを胸に秘めていたことも、王子の噂も。
だって父さんはこれまで、郷のことは〝自然の力には逆らえないのだから仕方ない〟って――。
わたしが恐怖に震えながらそう回想した、そのときだ。
「――そのとおり……です……」
「……! 王子!」
「この国が、不幸になったのは……僕が、生まれたから……ここにいる、ナットも……三年前に……山火事で故郷を失って……全部……僕のせいなんです……僕は……生まれてきては……いけなかった……ナット……あのとき……お前に、大人しく殺されていれば……」
「違います! 王子は……王子は、生きる場所も意味もなくした私を救って下さいました! 王子を殺そうとした私の命を助け、こうして傍に置いて下さった……! だから私は王子に忠誠を誓ったんです! 王子は誰にも殺させません! 絶対に!」
ナットと呼ばれた少年はそう叫ぶや否や、王子を庇うように両手を広げて父さんの前に立ちはだかった。
その涙に濡れた瞳にキッと睨まれ、これにはさすがの父さんもたじろいだのが分かる。
けれどそのとき唐突に、
「――どいて」
と、不意にそんな父さんを押しのけた人物がいた。
母さんだ。
「お、おい、ラールーン、何をしている!」
「あなたこそ一体何をしているの。目の前でこんな子供が血を流して倒れているというのに、その上その子供に自分の不幸を被せようなんて。私の愛したチャラートという人は、そんな卑劣な行いを許すような人ではありません!」
眦を決し、地面に膝をついた父さんを見下ろして母さんはそう一喝した。
思えばそのときが生まれて初めてだったのではないかと思う。母さんが本気で怒っている姿を見たのは。
その母さんに突き放された父さんはうつむき、唇を噛み締めて、それ以上は何も言わなかった。
たぶん、何も言えなかったのだろうと思う。幼かったわたしにも、父さんが直前の自分の言動を恥じていることははっきりと見て取れたから。
「王子、大丈夫ですか? どうか気をしっかり持って下さい。必ずお助けします。スーリヤ、あなたも手伝ってちょうだい!」
「はっ……はい!」
いつにない剣幕の母さんに呼ばれ、わたしは跳び上がって再び王子に駆け寄った。
母さんはそれまで頭に被っていた被り布を素早く外すと、それを王子の胸の傷に当てる。更にそのパーをわたしに強く押さえておくよう指示すると、自分は王子の衣服を開いて胸元を探り、鎖骨のやや上あたりの位置に手を当てた。動脈を圧迫して、少しでも出血をやわらげるためだ。
「――いたぞ! こっちだ!」
けれどその直後、突然後ろから大声が上がって、わたしはまたしてもびくりと震えた。
見ればまっすぐに伸びる木立の間に、刃の反り返った剣を持った大男がいる。その刃からは誰のものとも分からない血が滴り、こちらを睨む男の顔は枝葉が落とす影に隠れてよく見えなかった。
「おい、お前たち。見たところ兵士ではないな。そこで何をしている」
「あ、あなたは……」
「命が惜しいならそこをどけ。その子供は不幸を呼ぶ子供だ。これ以上悲劇を繰り返さないためにも、今ここで殺さねばならない!」
男は全身を返り血に染めながら、何かに取り憑かれたように叫んだ。
わたしはそんな男の姿が恐ろしくて、王子の傷を押さえた手から力が抜けそうになる。――駄目だ。わたしがしっかりしないと、王子さまが。
「そんな理由で、こんな幼い子供の命を奪うと言うのですか。自分たちの不幸を癒やすためなら、他人を不幸にしても構わないと?」
「お前はそいつの正体を知らないのか! その子供はチャイディ王子だ! この国の民なら、王国に災いをもたらす王子の噂くらい知っているだろう!」
「ええ、もちろん知っています。ですがそれが何だと言うのです。目の前で血を流して倒れている子供がいて、それを助けたいと願う。そんな人として当たり前のことを多くの人々が忘れてしまうことこそが、この国にとって一番の災いではありませんか!」
「戯れ言を!」
決然と叫んだ母さんの言葉に、男が青筋を立てて逆上した。
次の瞬間、男は血刀を振り上げてこちらへ突っ込んでくる。あの顔は本気だ。どうしよう。このままじゃみんな殺される。
どうしよう、どうしよう、どうしよう――!
「――あなた!」
そのとき、わたしは見た。
父さん。
その手に握られた曲芸用の剣が下段から一気に振り上げられ、向かってきた男の剣を弾き飛ばす。
思いも寄らぬ反撃を喰った男はその一瞬、唖然として父さんを見ていた。けれどすぐに正気を取り戻し、憎しみに燃えた目で父さんを睨みつける。
「このっ……邪魔をするな!」
激情に駆られた男はそう叫ぶや否や、今度は素手で父さんに飛びかかった。
さすがの父さんも、相手が丸腰になっても攻めてくるとは思っていなかったみたいだ。慌てて剣を返したけれど、父さんはそもそも戦うための剣の使い方なんて知らないし、体格だって明らかに相手より劣っている。
そのせいであっという間に剣を奪われ、父さんまで丸腰になってしまった。しかも相手は奪った剣を遠くへ放り投げると、そのまま父さんに掴みかかっていく。
「父さん!!」
圧倒的な体格差に物を言わせ、父さんを近くの木に叩きつけた大男は、力の限り父さんの首を締め上げた。
父さんは足が地面から浮くほど持ち上げられ、苦しそうに呻いてもがいている。ああ、駄目だ、どうしよう、父さんを助けなきゃ――!
「やめて!!」
父さんでも敵わなかった相手を、わたしにどうこうできるわけがない。頭ではそう分かっていたけれど、わたしは何とかしなければと発作的に立ち上がった。
けれどその刹那、わたしの視界を黒い影が横切って。
遅れて頬を撫でた風にわたしが驚いて足を止めるのと、跳び上がったナットが木の幹を蹴り、更に高く跳躍して男の側頭部を蹴りつけるのがほぼ同時だった。
ちなみにこれはあとから知ったことなのだけど、どうもナットは国内でも有数の武闘家の息子なのだとか。
コンマニー王国には古くから伝わる独特の格闘術があって、ナットは小さい頃からその武術の継承者として育てられたのだ。
そんな武芸の申し子とも言うべきナットの一撃は、信じられないほど軽々と男を吹き飛ばし、男は何度も地の上を転がって動かなくなった。
おかげで父さんは解放され、高い高い木の根元に座り込んで咳き込んでいる。けれどわたしが急いで駆け寄ろうとすると、父さんは手を挙げてそれを制した。
「わ……私は大丈夫だ。それよりチャイディ王子を……」
そのときのわたしには、父さんの言葉が意外だった。だって父さんは直前まで、王子を恨んでいるようなことを言っていたから。
けれど今なら分かる。父さんは優しい人だ。あのとき母さんが言ったように、身勝手な理由で卑劣な行いを黙認するような人じゃない。
だからあれはきっと、父さんなりの罪滅ぼしだったのだろう。
何もかも自分が悪いのだと思い込んでいた、あの頃のチャイディへの。
「どうして……」
と、ときに背後から聞こえた掠れた声は、そのチャイディのものだった。
チャイディは虚ろだったはずの目に戸惑いを宿し、地に横たわったままわたしたち家族を見渡している。
「どうして……僕を、助けるんですか……? 僕がいなければ、みんな……みんな、幸せになれるのに……」
「王子」
「このまま……どうかこのまま、殺して下さい……どのみちこの傷じゃ……僕はもう、助からない……だから……それなら、いっそ……ひと思いに――」
その刹那、わたしの胸の内を支配した感情が何だったのかは分からない。
それは怒りだったのかもしれないし、悲しみだったのかもしれない。
けれどとにかくわたしはいてもたってもいられなくなって、再び王子に走り寄って。
バチン、と。
思いきり、その頬を叩いた。
これには父さんも母さんも――そして何よりチャイディ自身も、すごく驚いたみたいだ。
「ふざけないで! みんながこんなに必死にあなたを助けようとしてるのに、そのあなたが一番最初に諦めてどうするの! このまま死ぬなんて絶対に許さないから!」
「す、スーリヤ……!」
「呪いだか何だか知らないけど、わたしたちにはそんなことどうだっていいの! ただあなたを助けたいのよ! それにあなたにだって、あなたが死んだら悲しむ人がいるでしょう!?」
その人たちを置いて、勝手にここで死ぬ、なんて。
たとえ見ず知らずの相手でも、呪われた王子さまでも、わたしはそんなこと言ってほしくなかった。
今にして思えば、わたしはチャイディの苦しみも知らずに何て勝手な理屈を押しつけたのだろうと後悔がよぎるけれど。
それでもチャイディは呆然とわたしを見つめて、泣いた。
声も上げず、ただ静かに空色の瞳から涙を流して。
「僕は……本当に……生きていても、いいの……?」
「当たり前でしょう! わたしたちはみんな、女神さまに祝福されてこの世に生まれてきたんだから!」
この世のすべての生命は、太陽神スーリヤに生まれることを許されて初めて生まれてくる。だからどんな命だろうと、この地上で生きていてはいけない命なんてない。
幼い頃から大人たちにそう教えられて育ったわたしは、決然と胸を張って断言した。
それを聞いたチャイディの瞳からは、なおも涙が零れ落ちる。まるでそれまで冷たく凍りついていたものが、陽の光を受けて融け出したみたいに。
「大丈夫。あなたは絶対助かるから。だから最後まで諦めないで」
わたしたちが必ず助けてみせる。そう言ってわたしが再び傷口に手を当てると、チャイディは微かに、けれど確かに頷いた。
するとそのとき、後ろから聞き慣れた吠え声が聞こえてくる。はっとして振り向いた先、木立の間をこちらへ向けて駆けてくるのは――ノーンだ。
「ノーン!」
「ワフ!」
わたしは思わず歓喜の声を上げてノーンを迎えた。駆け寄ってきたノーンは見たところ怪我もなく、わたしを見ると嬉しそうに頬を舐めてくる。
もう、とっても心配したんだから。わたしが叱るような口調でそう言うと、ノーンは一瞬耳を伏せてしょぼんとした。けれどすぐに何か思い出したみたいに、元来た道を振り向いて吠え始める。
ノーンがこんな風に吠え続けるなんて、今まで滅多になかったことだ。一体どうしたのだろうとわたしが彼の向く先を顧みると、まるでノーンを追うように複数の人影がやってくるのが見えた。
まさか賊の増援だろうか。そう思ったわたしは束の間ぞっとしたけれど、よくよく見れば彼らは皆、ラヤップの樹皮を加工した鎧を身につけているのが分かる。
「おい、見ろ! さっきの犬、あんなところに……!」
「いや、だからあれは犬じゃないって……って、あそこにいるのはナットじゃないか? ということは……」
「王子! チャイディ王子! お助けに参りました!」
ノーンが森の奥から引き連れてきたのは、コンマニー王国の王宮に仕える衛兵たちだった。それを知ったわたしは両親と顔を見合わせ、思わず安堵の笑みを零す。
その後胸の傷に応急処置を施され、急ぎ王宮へと運ばれたチャイディは何とか一命を取り留めた。
それがわたしとチャイディが出逢った日の記憶。
そして、すべての始まりの記憶だ。




