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第十八話 王子暗殺

 息を切らして、暗い廊下をひた走った。

 後宮の奥――王族たちの起居する部屋がある場所よりも、更に奥。

 そこにはわたしとナット以外の人影はなく、耳が痛いほど静まり返った空間に、わたしたちの足音だけが響いていた。

 暗闇と静寂が澱のように溜まるその空間は、まるで人々から忘れ去られた場所のようだ。歴代の王族たちでさえ、神聖な儀式を執り行うときしか立ち入らないという不可侵の領域。わたしは前を行くナットに手を引かれ、その奥へ、奥へとどんどん足を踏み入れていく。


 本当にこんなところまで来てしまって良かったのだろうか。そんな不安が急に頭をもたげた。

 ここにはまるで神の座のような、聖なる気配が満ちている。そんな気がする。なのにわたしはその神の領域を、土足で無遠慮に踏み荒らしている。

 けれどここまで来ておいて、今更引き返すわけにはいかなかった。

 至聖所と呼ばれるその場所に明かりはない。唯一わたしたちの行く手を照らすのはナットが腰に括りつけた虫瓶と、頭上に並ぶ天窓から斜めに注ぐ月明かりだけ。

 おかげで至聖所を満たす闇は青白く、それがよりいっそうこの空間を幻想的に見せていた。


 花火の音はもう止んでいる。カーナックはどうなったのだろう。

 今、もう一度彼の行方を尋ねたら、ナットは答えてくれるだろうか――。

 わたしがそんな思いと共にナットの背中へ目をやった、そのときだ。


「――ここです」


 突然ナットが足を止め、一瞬反応が遅れたわたしは危うく彼にぶつかりそうになった。

 すんでのところで立ち止まり、何とか衝突は避けられたとほっと息をついたのも束の間。目の前でナットがじっと視線を向けているその場所に、わたしもつられて目を向ける。

 そこにはまったく先の見えない、細くて暗い廊下が伸びていた。

 奥へ向かってまっすぐに伸びるその廊下には、ここまでの道とは違い天窓も設けられていない。それは白亜の王宮にぽっかりと口を開けた未知の洞窟のようで、わたしは不意に背筋が寒くなる。


「この奥に、王子が……?」

「はい。この先には、神をまつる祈祷所があります。私はここで見張っておりますので、スーリヤ様は王子を」

「で、でも、わたし一人で本当に大丈夫かしら……」

「この先にいるのは王子一人です。その短剣があれば、万が一にも仕留め損ねることはないでしょう。さあ、行って下さい。王子の不在がさとられる前に」


 ナットはそう言って、有無を言わせずわたしの背中をずいと押した。暗い通路の中へ押し込まれたわたしは数歩たたらを踏み、戸惑いと共にナットを振り返る。

 目が合うと、ナットはそれ以上促すでもなく、ただじっとわたしを見つめ返してきた。

 その眼差しはまるで、わたしの覚悟を測ろうとしているかのようだ。


 ――ここまで来たら、もう逃げられない。

 ナットの表情からそれを確信したわたしはごくりと喉を鳴らして、通路の先に溜まる闇へと向き直った。

 本当は怖い。とてつもなく怖い。

 足が震えて、今にもその場に座り込んでしまいそうだ。


 だけど、約束したから。

 カーナックと、必ず生きて帰ると約束した。

 その約束を果たすためには、わたしが王子を仕留めなければ――。

 そう覚悟を決め、わたしはすぐ横の壁に手をついて、そろり、そろりと歩き出す。


 通路の中は本当に真っ暗闇で、まったく先が見えなかったけれど、そうして壁を伝えば何とか奥まで行けそうだった。

 ひやりとした壁の冷たさが、わたしの指先から体の芯まで伝わってくる。おかげで歯が鳴りそうだ。

 とても寒い。今夜はまるで震えるような気温ではなかったはずなのに、寒い。

 だけど今は、無用な物音を立てるわけにはいかない。

 わたしは女官服の上着の下に隠していた魔女カーラの短剣を手に取って、それを握り締めながら先へ行く。


 何度も後ろを振り返りそうになった。

 振り返って、ナットに「助けて」と言いたかった。

 けれどこれは、わたしがやらなければならないことなのだ。

 この呪いを解くためには、わたしがこの手で王子を――。


 息を殺し、更に歩みを進めていくと、不意に一本の線が目に入った。

 前方の暗闇を縦に裂くその線は細く、それでいて淡い光を帯びている。

 ――扉だ。数拍置いて、わたしはようやくそう思い至った。

 あの線は恐らく、両開きの扉の隙間から漏れた何かの明かりだろう。ほの青く輝いているところを見ると、月明かりだろうか。

 何にせよ、あの扉の向こうに王子がいる。

 そう考えると、さっきまで震えていたはずの体を汗が濡らした。

 激しくなる心音とは裏腹に、浅く、速くなっていく呼吸を止める。

 ごくりと生唾を飲み込んで、手の中にカーラの短剣があることを確かめる。


 行こう。

 竦みそうになる足を必死に前に出して、暗闇の中手を伸ばした。

 その指先が扉に触れる。

 そこで一度だけ息をつき、あとは覚悟を決めて一気に扉を押し開いた。

 途端に降り注いできたのは、驚くほど明るい月の光。

 見上げれば扉の先は天井が吹き抜けに――いや、硝子張りになっていて、その真上に昇った満月が室内を皓々と照らしている。


 青白い月の光に満たされたその部屋は、わたしとカーナックが滞在していたあの宿の部屋と同じくらいの大きさしかなかった。

 天井以外はどこを見ても白塗りの壁。けれど目の前には祭壇と思しい台があり、その上に天へ向けて槍を掲げた美しい女神の像がある。

 まるで舞うように槍を捧げ持つその女神は、言わずもがな王国の守護神である太陽神スーリヤだった。


 そう。

 この女神とわたしは同じ名前。

 〝スーリヤ〟とはこの国の古い言葉で〝太陽〟を意味する。



 ――だから君からはいつも陽だまりの匂いがするんだね。



 そのときふと頭をよぎったその声の主は――カーナック?


 いや、違う。


 あれは……わたしの姿を見つける度、いつも愛しそうに笑って駆け寄ってきてくれた、〝必ず迎えにいく〟と約束してくれた、あの人は――


「――誰だ?」


 とっくに融けて消えたはずの記憶のかけらを掴もうと手を伸ばした、そのとき。

 スーリヤ――美しい太陽の女神に背を向けて、こちらを顧みた人影があった。

 眩しいほどの月明かりを受けて輝いたその髪は、褪せたような色の銀髪。

 浅黒い肌。

 よく整った顔立ち。

 まっすぐにわたしを映した、空色の瞳。


「――カーナック……?」


 わたしは、目を疑った。

 そんなはずはない。

 そんなことあるはずない、のに。

 たった今わたしの目の前にいるその人は――この国の王子だと聞いていたはずのその人は。

 どこからどう見ても、カーナックだ。


「どうして……どうしてあなたがここにいるの、カーナック?」


 わたしは激しく混乱した。その混乱のままに、上擦った声でそう尋ねた。

 けれど尋ねてから気づく。彼はわたしが見たこともないような――それこそ本物の王子が身につけるような、金と白の装束に身を包んでいた。

 なめらかな光沢を持ち、ほのかに光り輝いているその服は、夜光虫の繭から紡がれた絹の衣。更にその衣を飾っている金の刺繍は、ラヤップの樹液に浸した糸で縫われたものと見て間違いない。

 その神々しいまでの立ち姿は、どこからどう見ても王族のものだった。

 そんな装束を、どうしてカーナックが――?


「……〝カーナック〟? 誰だ、それは」

「え?」


 今度は耳まで疑う羽目になった。

 誰だ、と尋ねてきたその声もまた、まぎれもなくカーナックのものなのに。

 王族の盛装に身を包んだその人物は、まるで不審なものでも見るように眉をひそめ、まじまじとわたしを見つめてきた。


 どういうこと……?

 まさか……いや、でも、もしかして。


 この人は、カーナックじゃない……?


「その服装……お前、後宮付の女官だな。ここは王族以外の立ち入りが禁じられている至聖所だ。女官風情が、このようなところで何をしている」

「えっ……い、いえ、あの、わたしは……!」


 鋭い声音で詰問きつもんされ、わたしはついしどろもどろになってしまった。

 だけどこの人は、カーナックとは口調も仕草も違う。

 おまけにどうやらわたしを知らない。

 ということは、まさか本当に。


 この人がチャイディ王子……!?


「あ、あの……つかぬことをお聞きしますが、あなたがチャイディ王子ですか……?」

「だとしたら何だ?」

「い、いえ、その……もしかして王子には、双子のご兄弟がいらっしゃるとか……?」

「兄弟? ふん、そんな者は皆死んだ。私以外の世継ぎがいると、何かと都合が悪いのでな。それより私は、お前が何者かと――」


 と、そこでカーナックのそっくりさん――もとい、チャイディ王子が言葉を切った。

 どうしたのかと目を向けたその瞬間、王子の瞳が険しさを増す。

 ふと見ればその視線の先には、わたしの握る魔女の短剣があった。

 ――ああ、そうだ。

 混乱しきりですっかり忘れていたけれど。

 わたしはここへ、この人を――チャイディ王子を殺しに来たのだ。

 この人がカーナックでないというのなら――彼とまったく同じ顔の人を刺すのはさすがに気が引けるけれど――もう迷う必要は、ない。


「そうか。お前、あの魔女の手先か」

「……っ!」

「いよいよ私を殺しに来たのだな。自らの思いどおりにならない私がそんなに憎いか」


 それは恐らく、わたしではなくこの短剣を創り出した魔女、カーラへ向けられた言葉だったのだろう。

 けれどその一瞬、王子が浮かべた冷笑に、わたしは思わず怯みそうになった。

 そんな自分を奮い立たせるために、とっさに両手で剣を構える。震えた手で切っ先を王子へ向け、唇を噛んでキッとその顔を睨みつけた。

 わたしは王子に恨みはない。

 何の恨みもないけれど、この呪いを解くために――そして何より、王子が憎いと言っていたカーナックのために。

 彼にはここで死んでもらわなければならない。

 だから、わたしは――


「いいだろう。そちらがその気なら――受けて立つ」


 すらり、と薄ら寒い音がした。王子が腰から抜いた宝剣のが、鞘口に触れて奏でた音だ。

 そうして王子がその剣を構えるまで、わたしは王子が帯剣していたことに気づかなかった。極度の混乱と緊張で狭まっていた視野が、ぴたりと刃を向けられたことでますます狭まっていく。

 ――駄目だ。ここで気圧けおされたら負けだ。

 わたしはどんどん浅くなっていく呼吸と破れそうなくらいに鳴っている心臓の音を聞きながら、必死に自分に言い聞かせた。


 カーナック。

 お願い、力を貸して。

 あなたとの約束を果たすために。

 ここから生きて帰るために――!


「――ッ!」


 覚悟を決め、息を止め、わたしは鋭く床を蹴った。

 王子がこちらへ向けた切っ先を掻いくぐるようにして、夢中でその懐目がけて駆けていく。

 武芸の心得など何もないわたしが、真正面からぶつかって王子に敵うとは思わなかった。

 まともに抵抗されれば死を覚悟するしかない。

 だから、一撃で。

 この一撃にすべてを懸ける。

 目の前に迫った王子の体に、剣を、


「――何だ。これなら剣を抜く必要なんてなかったな」


 そのとき不意に、カーナックの声が聞こえた。

 頭上から降ってきたその声は、間違いなくカーナックのものだった。

 けれどその瞬間、わたしが突き出した刃は。

 淡い光を放つ王子の衣を貫き、その先へ――



「ありがとう、スーリヤ」



 月光のように青白い短剣の刃が、すっと王子の体へ吸い込まれた、刹那。

 突然すさまじい閃光がほとばしり、わたしは思わず悲鳴を上げた。

 その閃光はわたしが手にした短剣の鍔から生まれ、怒涛のような記憶の洪水と共にわたしを呑み込んでくる。


「な――!?」


 記憶。


 記憶、記憶、記憶。


 そうだ。

 スーリヤ。

 わたしの名前は、スーリヤ。


 この名前はわたしの大好きな両親が、太陽の女神スーリヤにちなんでつけてくれた。人々に恵みをもたらすあの女神のように、わたしも誰かに何かをもたらせる暖かな娘に育つようにと、そう願ってつけてくれた。

 両親はわたしが生まれる前から旅芸人として世界中を旅していて、わたしはそんな両親と共に様々な芸を披露するのが好きだった。

 その中でも特に歌うことが大好きで、両親はそんなわたしを誇りに思ってくれていて、毎年秋になると必ずこの町へやってきて、夜光祭のためにとっておきの芸の練習をして、たくさんの人に囲まれて、その中には大切なあの人も、わたしを陽だまりのようだと、〝必ず迎えにいく〟と言ってくれたあの人もいて――


「あ……ああ……ああああああああ!!」


 頭が、割れる。

 光と共に押し寄せてきた膨大な記憶が頭の中で渦巻いて、暴れて、弾けて、割れる。

 駄目。

 受け止めきれない。

 身を竦め、叫びを上げたわたしの耳に、あのとき聞いた魔女の言葉が甦る。


『スーリヤ、お前に呪いをかけた』




『これは私からあの人を奪おうとした罰だよ』




 真っ白になる。

 そう思った、瞬間だった。

 突然、体が温かなものに包まれて。

 光に呑まれて消えそうな体を、彼の腕がしっかりと抱き留めてくれる。


「大丈夫だ、スーリヤ。――僕が君を死なせやしない」


 耳元で聞こえたその声が、押し寄せる光の中から、暴れ狂う記憶の底から、わたしをすくい上げてくれた。

 深い深い沼の底から引っ張り上げられたように、ようやくまともに息が吸える。

 光が消えた。

 気づけばわたしは王宮の祈祷所に――彼の腕の中にいて。

 その胸に額を預けながら、けれど自分が手の中の短剣をどうしたのか理解して、わたしは全身を震わせた。

 ああ、どうして。

 どうして――


「――どうして、カーナック……!!」


 叫びながら、気がついていた。

 違う。

 彼の本当の名前は、カーナックじゃない。

 彼の名前は。

 わたしが愛した人の名は。

 

 チャイディ。


 コンマニー王国の、嘘つきな王子さま。



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