第十六話 最後の約束
翌朝、まだ夜も明けきらぬうちから、見知らぬ青年がわたしたちの部屋を訪ねてきた。
「どちら様?」
招き入れられるなりカーナックと親しげに言葉を交わしているその青年を見て、わたしは思わず首を傾げる。
すると青年はわたしを振り向いて、それまで表情の乏しかった顔に驚きを乗せた。
歳は二十歳に届くか届かないくらいの、凛々しい顔をした黒髪の青年だ。
「カーナック様……」
それから彼は、半ば茫然とした様子でカーナックに目をやった。
その視線を受けたカーナックは無言で首を横に振る。何故かは分からないけれど、そのとき彼はひどく思い詰めたような顔をしていた。
「スーリヤ。彼はナット、俺たちの協力者だ。ナットにはこの数日間、衛兵の一人として王宮に入って、色々と情報を集めてもらってた。その情報を元に、俺たちは今夜作戦を決行する」
「今夜?」
「〝兵は拙速を尊ぶ〟だ。ぐだぐだしてると上手くいくものもいかなくなる。ナット、もう準備はできてるんだよな?」
「はい、そちらは滞りなく。ですが……」
カーナックからナットと呼ばれた青年は、何かを迷うような素振りでカーナックから目を逸らした。
その切れ長の目が一瞬、わたしの方を向いた気がする。けれどわたしが見つめ返すと、ナットは間が悪そうにうつむいた。
「ここまで来たら、もう迷ってる場合じゃないんだ、ナット。俺は覚悟を決めたよ」
「……。申し訳ありません、カーナック様」
「お前が謝ることじゃない。むしろお前には感謝してる。ここまでかなり無茶を言ったが、仕上げも頼むぞ」
カーナックがそう言って肩を叩いても、ナットはうなだれたままだった。
わたしにはこの二人の関係がよく分からないのだけれど、どうもナットはカーナックの従僕として彼に仕えているらしい。線が細い見た目にそぐわず人並み外れた体術の使い手で、こう見えてとても頼りになるのだとカーナックは笑った。
「これが君のだ」
と、やがてナットが持ち込んだ荷物の中から、カーナックが布にくるまれた何かを手渡してくる。
何だろうと思い開けてみると、包みの中には一着のお仕着せが入っていた。
くっきりと体の線が出るサイとは違い、すっぽりと体を覆ってしまえそうな白い筒着だ。その上に重ねるための上着には袖がなく、深い臙脂色の生地に控えめだがどこか高貴さを感じさせる金糸の刺繍が入っている。
言うまでもなく、それが王宮に仕える女官の官服だということはすぐに分かった。
わたしはこれから新入りの女官として、カーナックは騎乗用の鳥の世話係として、それぞれ王宮に潜入する手筈になっているのだ。
「作戦はこうだ。これから王宮に出仕したら、まず日のあるうちにある程度王宮の中を歩き回って、いざというときの逃走経路を確認しておく。俺は鳥の世話係だからあまり宮中をうろうろするわけにはいかないが、後宮勤めになるスーリヤなら多少きょろきょろしてても怪しまれないだろう。逃走経路についてはナットに下調べさせてある。ナットはスーリヤが仕事に慣れるまでの世話係とでも言って、彼女を案内してやってくれ」
「御意」
「深夜になったら、俺が合図の花火を上げる。宮中で突然花火が上がれば、衛兵たちの目はそっちに釘づけになるだろう。スーリヤ、君はその隙に王子の寝室まで行って、そこで王子を刺すんだ。そのあたりの手引きもナットが上手くやる。君はただ魔女から受け取ったその短剣で、王子を斬りつけるだけでいい」
真剣な表情でそう話すカーナックの指示を聞くうち、わたしは全身にじわりと汗が滲むのを感じた。
今夜、わたしたちは本当に、王子を暗殺するんだ――。
カーナックに連れられて初めて王宮へ行ったあの日、覚悟はできたつもりでいたけれど、いざ自分が王子に短剣を振るうところを想像すると、ぞっと血の気が引いていく。
「君のその短剣は、魔女の呪いがかかった必殺の剣。刃がちょっとでも掠れば間違いなく王子を仕留められるだろう。だからこそ君にその大役を任せるんだ。上手くやってくれよ」
「え、ええ、努力するわ……。だけど夜中に王宮が大騒ぎになれば、王子も黙ってはいないんじゃないかしら。もしかしたら身の危険を感じて、どこかへ避難してしまうかも……」
「いや、猜疑心の強い王子のことだ。外でそんな騒ぎが起きれば、かえって部屋に閉じ籠もるさ。何せ自分の部屋から一歩でも外へ出ようものなら、いつどこから魔女の刺客が襲ってくるとも分からないからな。あの王子なら外での騒ぎも自分を誘き出すための罠だと判断するよ」
「そ、そう……」
カーナックはまるで王子を見知っているかのように、自信たっぷりの口調で話す。彼がそう言うのならそうなのだろうと、わたしは努めてそれを信じることにした。
カーナックを疑っているわけではない。ただ、いくら彼がそうだと確信していたとしても、不測の事態が起こる可能性はまったくない、とは言い切れないだろう。
そのときわたしは上手く対処できるだろうか――そう考えると足が竦む。
わたしにはカーナックのような機転も、ナットのような武芸もない。
そんなわたしに、本当にそんな大役が務まるのか……。
考えれば考えるほど思考が深みに嵌まっていく。
途中でそれに気がついたわたしは、頭を振ってすぐさま雑念を追い払った。
初めから万事上手くいくとは思っていない。けれどそれでもやると決めたのだ。
今更引き返したところで、わたしには真っ白になってこの世から消える未来しかない。
それなら一か八か――わたしはカーナックが導いてくれた未来に懸けてみようと思う。
「ねえ、カーナック」
「ん?」
「約束しましょう。わたしたち全員、必ず生きてここへ帰ってくるって」
とは言えやっぱり不安なものは不安だ。だからわたしはせめてもの縁にと、カーナックを見つめてそう言った。
それを聞いたカーナックは少しだけ驚いたような顔をする。けれどそれきり彼はばつが悪そうに目を逸らし、何故か黙り込んでしまった。
わたしはそんなカーナックの反応を見てますます不安になり、思わず彼の顔を覗き込んでしまう。
「カーナック?」
「……。分かった。約束しよう」
さすがにいつまでもじっと見つめられては敵わなかったのか、カーナックはやがて折れたようにそう言った。けれどわたしはそれでも不安が拭えなくて、ざわざわと騒ぐ心を持て余す。
カーナックは嘘つきだけど、約束は必ず守る人だ。それは今日までのことでわたしにも分かっている。
それならその約束を、より確かなものにするために。
わたしは束の間迷いながらも意を決し、おずおずと右手を差し出して、言う。
「ねえ。それじゃあ〝指切り〟、して?」
「はあ?」
と、たぶん彼はそう聞き返したかったのだと思う。その形に開いた口からは、しかし結局声は出なかった。
分かってる。〝指切り〟なんて、所詮は子供騙しのおまじないだ。いい歳をした男女が交わすようなものじゃない。
でも。
カーナックがこの小指を取ってくれたら、本当に彼を信じられる。わたしは何故か強くそう思った。
カーナックが決して約束を破る人じゃないと分かっているからこそ。
わたしは今、何よりも〝約束〟を求めている。
「……まったく、しょうがないな」
そのとき、ため息まじりにそうぼやいたカーナックが。
決まり悪そうに横を向いたまま、無造作にずいと右手を差し出した。
そうしてわたしに向けられた、彼の小指。
わたしがそれを見て思わず息を飲んでいると、カーナックは焦れた様子で更に手を突き出して、わたしの小指に自分のそれを絡めてくる。
「これでいいのか?」
「……うん」
やっぱり決まりが悪そうに言うカーナックに、わたしはただ一度だけ頷いた。
ああ、小指が熱い。
その熱が腕を伝って目元まで差し上り、何だか泣いてしまいそうだ。
だけど、これでもう大丈夫。
カーナックはきっと約束を果たしてくれる。
だからわたしも最善を尽くそう。
この約束を無駄にしないために。
「それじゃあ、早速行動開始といこうか」
やがて絡めていた小指を放し、ざっと部屋を見渡して告げたカーナックに、わたしとナットは頷きを返した。
いよいよここからわたしたちの大博奕が始まるのだ。
その先に待つ答えは、神だけが知っている。
*
「――よろしいのですか?」
女官服に着替えるスーリヤを待つため、部屋の外で一旦待機していると、突然ナットがそう声をかけてきた。
カーナックは階段室の壁に背中を預けながら、扉を挟んだ反対側に佇んでいるナットを見やる。そのナットがいつになく物言いたげな顔をしているのを見て、思わず苦笑が零れた。
「よろしくはないよ。これまでの人生で一度も約束を破ったことがないのが唯一の自慢だったのに、まさか最後の最後で守れない約束をさせられるなんてさ」
「では何故指切りなど交わされたのです?」
「あれでスーリヤが勇気を奮い起してくれるなら安いものだろう? もう絶対に失敗は許されないんだから」
目の前の螺旋階段を貫く石の柱を見つめながら、カーナックは薄い笑みと共にそう吐き出した。
その横顔を目にしたナットは、やはり何か言いたげにしている。しかし彼はそれ以上、カーナックの選択に口を挟んでくることはなかった。
「すべてを知ったら、彼女は怒るだろうな。その頃にはもう何もかも終わっているのだろうけど……きっと裏切り者と罵られることになる」
「……。それでもやるとお決めになったのでしょう?」
「ああ、そうだ。だからもう迷わない。いくら彼女に憎まれ、蔑まれようとも――彼女を守るためなら、何も怖くないよ」
頭上を仰ぎ、すべてを受け入れたような顔でカーナックは笑った。
ナットはそんなカーナックをしばらく見つめていたが、やがてふっと目を伏せる。
部屋の中からスーリヤの呼ぶ声が聞こえた。
彼女の笑った顔が見られるのも、これが最後になるだろう。
そう思いながらカーナックは自嘲を浮かべ、すべての感傷に別れを告げた。
これでいい。
これですべて、カーラの思いどおりだ。




