第十五話 夢の終わり
滝のような雨の中を走って、ようやく宿に辿り着いた頃。
わたしたちは服を着たまま川で泳いできたみたいに、全身びしょ濡れになっていた。
宿の入り口をくぐれば、中には同じように急な雨から逃げてきた人々が溢れている。初めはみんなこの宿の宿泊客かと思ったけれど、中にはとっさにこの建物へ駆け込んだだけの通行人もいるようだ。
「ああ、くそ、降られたな。せっかくの夜光祭に驟雨とは」
「ついてないねぇ。すぐに止んでくれるといいんだけど……」
激しい雨の音に混じって、あちこちからそんな嘆きとため息が聞こえる。集まっている人々の中にはわたしたちのようにそぼ濡れている人も多くいて、そんな人たちの間を宿の女将さんが布を貸し出して歩いていた。
わたしとカーナックもまた、扉の近くで雨水を吸った服を絞る。ビシャビシャと派手な音を立てて、大量の水が石造りの床に滴った。
更に髪からも水が滴ってくるので、わたしは首筋に貼りついた自らの髪も絞る。まだ秋に入ったばかりで、気温がそこまで低くないのが幸いだった。
濡れた衣服が体にまとわりつく感触はどうにも不快だったけれど、雨水はそれほど冷たくない。これならすぐに体を拭いて着替えを済ませれば、どうにか風邪をひくことは避けられそうだ。
「それにしてもこの雨じゃあ、逃げ遅れた屋台主たちは大変だな。物によっちゃ、商品が全部駄目になっちまう」
「みんなこの日のために張り切って準備してきたっていうのに、これじゃ大損だね。衣装や小道具が濡れた旅芸人たちも、もう芸を披露するどころじゃないだろうし……」
「ひどいもんだ。今まで夜光祭にスコールが重なることなんてなかったのに……もしかしたらこの雨も、チャイディ王子がお呼びになったのかな?」
「こら、あんた。不謹慎だよ」
そのとき誰かがそんなことを囁き合っているのが聞こえて、わたしは思わず耳をそばだてた。
やっぱりこの国の多くの人は、チャイディ王子があらゆる不幸を呼び寄せる原因だと思っているのだろうか。それが魔女の呪いのせいだという噂まであるようだし、ここまで同じ噂がまことしやかに囁かれているのを何度も耳にすると、本当に信憑性のある話なのかもしれない、という気がしてくる。
もしそうだとしたら、わたしたちが王子を殺せば、少しはこの国も平和になるだろうか……。
人殺しを正当化するつもりはないけれど、わたしたちの決断がいくばくかでもこの国のためになるのなら、後ろ暗い気持ちも少しは軽くなる。
「スーリヤ、部屋に戻ろう」
「……えっ? あ、うん」
「結構走ったけど、階段上れそうか? 足、また痛めたんじゃ……」
「平気よ、大丈夫。前みたいな疼きもないし、自分で上れるわ」
「そうか。良かった」
カーナックはほっとしたようにそう言って、わたしの左足に向けていた目を上げた。
そのカーナックと何となしに目が合った刹那、わたしはついどきりとする。カーナックの濡れた銀髪が光繭の灯りを受けて輝く様が妙に艶っぽく、何か見てはいけないものを見てしまったような気分になったからだ。
「スーリヤ?」
「う、ううん、何でもない……は、早く行きましょう」
今のカーナックに、これ以上間近で見つめられては敵わない。わたしは赤い顔を隠すようにうつむくと、恥ずかしまぎれに彼の背中をぐいぐい押して階段室へ向かわせた。
そうして部屋へ戻ったわたしたちを、留守番していたノーンが迎えてくれる。帰ってきたわたしたちを見て嬉しそうに駆け寄ってきたノーンはしかし、わたしたちの髪や衣服からぽたぽたと零れる水滴を鼻に受けるや、冷たそうに頭を振った。
「あー、くそ、濡れた。気持ち悪い。早く着替えて服を乾かさないとな」
「ええ。今、体を拭く布を取ってくるわ。ちょっと待ってて」
わたしはそう言ってカーナックの後ろを擦り抜けると、すぐに洗面所へと向かった。
洗面所の入り口に扉はなく、中には顔を洗うための金属の盥と鏡だけがある。わたしはその盥の上に設けられた木の棚から、毎朝宿の人が届けてくれる二人分の白布を手に取った。
が、そうして部屋へと引き返したところで硬直する。何故ならそこではカーナックが濡れた服をさっさと脱ぎ、上半身裸の状態で佇んでいたからだ。
「かっ、カーナック……!」
「え? ああ、布か。ありがとう」
思わず上擦った声を上げたわたしを見て、しかしカーナックはまったく見当違いのことを言いながら手を差し出してきた。
わたしは違う、そうじゃないと叫びたかったけれど、とっさのことで声が出ない。いつもはそれぞれ洗面所の中で着替えを済ませていたから、カーナックの裸を直視するのはこれが初めてなのだ。
「……? スーリヤ?」
「……っ!」
ああ、どうしよう。顔が熱い。
まじまじと見るわけにはいかないと分かっているのに、体が固まって動かない。
けれどそのとき、わたしはカーナックの胸に走る一本の古傷に気がついた。
左の肩口から右の脇にかけて刃物で切り裂かれたような、そんな傷だ。
「カーナック、それ……」
「ん? ……ああ、この傷か? これは子供の頃の傷だよ。今は別に痛まないし、不自由もない」
言いながらカーナックは平然と手を伸ばすと、立ち尽くすわたしの腕の中から白布を一枚抜き取った。
だけど医学の教養なんてまったくないわたしが見ても、よほどひどい傷だったのだろうと思えるような大きな傷だ。それはカーナックが頭から垂らした布に隠れてすぐに見えなくなってしまったけれど、わたしは興味を抑えきれず、勇気を出して尋ねてみる。
「だけど子供の頃にそんなひどい傷を負うなんて、一体何があったの?」
「んー……野盗に襲われた」
「野盗に?」
「ああ。昔、親に連れられて森へ狩りに行ったとき、突然野盗に襲われて殺されそうになったんだ。これはそのとき野盗に斬られた傷で……正直、あのときはもう助からないと思ったよ。けど……」
と、ときにそこまで言いかけて、カーナックは急に口を噤んだ。
どうしたのかと目をやれば、彼は何かぼんやりと考え込むように何もない宙を見つめている。けれど、やがてその横顔が暗翳を帯びた――と思った途端、彼はふと身を屈め、ごしごしと髪を拭き始める。
「だけどそこに彼女が現れて、助けられたんだ。俺たちが野盗に襲われてたところを、たまたま通りかかって……自分はもう駄目だ、どうせ助からないから見捨ててくれと言った俺に、いきなり平手を張ってこう言った。〝周りはみんなあなたを助けようとしてるのに、そのあなたが一番最初に諦めてどうするの〟って」
そう話すカーナックの横顔は、頭から垂れた布の陰に隠れて見えなかった。
けれどわたしはそんな昔話をするカーナックの声が、微かに笑っているのをはっきり聞いて。
それまで彼を通して見ていた夢が、すうっと覚めていくのを感じる。
「初めはわけが分からなかったよ。自分はこんな大怪我をして死にそうになってるのに、なんでいきなり打たれなきゃならないんだって。だけど、そう言いながらも彼女はずっと俺の傍にいて、最後まで励ましてくれた。大丈夫、きっと助かるって……」
「そう……」
「今の俺がいるのは全部彼女のおかげだ。それから彼女との付き合いが始まって、気づいたときには彼女なしの人生なんて考えられなくなってた。なのに――」
わたしは体が濡れていることも忘れて、ただそこに立ち尽くしていた。
自分の婚約者とのなれそめを話すカーナックの声は、本当に幸せそうだったから。
そこにはわたしの入り込む隙などないのだと思い知らされて、胸が苦しくて、泥の中に沈んでいくような感じがした。
だけどそのとき、カーナックの口調が急に変わったことを感じたわたしはふと目を上げて――そこに見えた彼の横顔に、思わずヒュッと息を飲む。
「なのに、あの王子が彼女からすべてを奪った。あの王子さえ生まれなければ、彼女があんな目に遭うこともなかった……あいつがすべての元凶なんだ。だから俺がこの手で決着をつける。何があろうと、絶対に……」
それはわたしがこの数日間で見たこともないほど獰猛な横顔だった。
妖しい眼光を湛えた空色の瞳は、激しい憎しみに燃えている。今にも人を喰い殺しそうなくらいに。
一体彼の婚約者に何があったのだろう。わたしはそう思いながらも、その問いをついに投げかけることができなかった。
まるで人が変わったようなカーナックの様子が恐ろしかったし、何より――
これ以上彼が彼女を深く愛しているのだという事実を突きつけられるのが、つらくてたまらなかったからだ。
「スーリヤ。こんなことに君を巻き込んで、本当にすまないと思ってる。だけど、俺は――」
「――いいの」
「え?」
「大丈夫。これはわたしにとっても必要なことだから……だからあなたが気に病む必要なんてないわ」
「スーリヤ」
「必ず成功させましょう。あなたの恋人のためにも、わたしの呪いを解くためにも……そして、すべてが終わったら――」
そして、すべてが終わったら、わたしとカーナックは別々の道を行く。
もう二度と会うことはないかもしれない。
そんな予感が胸をよぎって、けれどもわたしは何とか笑おうと努めた。
これ以上彼の優しさに甘えてはいけないと思ったから。
なのに――
「スーリヤ」
わたしは意思が弱い。
泣いてはいけないと強く思うのに、この感情の前で理性はまったくの無力だ。
ねえ、カーナック。
すべてが終わっても傍にいて。
たった一言、そう伝えることができたら、きっとわたしは救われる。
だけど駄目だ。カーナックには彼の帰りを待っている人がいる。
だからわたしは、わたしを包み込んでくれるこの温もりを拒まなきゃ。
「――やめて」
胸が張り裂けそうになるのをこらえながら、わたしはわたしを抱き寄せたカーナックの腕を拒絶した。
そのまま彼の胸を押し戻し、自分でも笑えるくらい格好のつかない涙声で言う。
「これ以上わたしの中に入ってこないで。あなたには他に大切な人がいるんだから」
「スーリヤ」
「こんなことをしたら、きっとその人が悲しむわ。だからもうわたしには構わないで。あなたと婚約者の間にどんな事情があるのかは知らないけれど、わたしはあなたの婚約者じゃない。どんなに似ていたって、代わりにはなれない」
「違うんだ、スーリヤ。俺は――」
「わたし、水浴びをしてくるから。――ごめんなさい」
何か続けようとしたカーナックの言葉を一方的に遮って、わたしは即座に身を翻した。
駄目だ。これ以上彼の前で惨めな姿を晒したくない。それにそんなわたしを見れば見るほど、優しい殺し屋はきっとわたしを放っておけなくなるだろう。
もう夢は終わりだ。
早く目を覚まさなくちゃ。
彼のためにも、わたし自身のためにも――
「スーリヤ。明日、王宮へ乗り込もう」
すべての想いを振り切るように洗面所へ駆け込んだ、そのとき。
わたしの背中を、そんなカーナックの声が追いかけてきた。
わたしは一瞬、その言葉が信じられなくて。
思わず足を止め、彼を振り返ることもできないまま立ち尽くす。
「今夜のうちに、ナットに合図を送っておく。明日の朝には迎えが来るだろう。だから君も準備をしておいてくれ」
「で……でも、どうしてそんな、急に……」
「もう時間がないんだ。悪いがこれ以上は待てない。――協力してくれるよな?」
たぶんこれが、最終確認だ。
ここで頷けば、もうあとには引き返せない。
――本当にこれでいいのだろうか?
チャイディ王子を殺せばわたしの呪いは解ける。けれどわたしとカーナックを繋ぎ止めていた関係は、そこで終わる。
本当はもっと――ううん、あと数日だけでいいから、彼の隣にいたかった。
だけどわたしだって分かっている。これ以上彼と共にいればわたしの気持ちは揺れるばかりだし、そのために今みたくカーナックを振り回すことになるだろう。
そんな惨めな姿を彼に晒すのはもうたくさんだ。
わたしはカーナックに背を向けたまま、頷いた。
「ありがとう」
その背中にカーナックが言う。まるで春の夜みたいに穏やかな声だった。
「心配しなくていい。今回の依頼は絶対に成功する。……いや、成功させる。たとえ何があろうとも」
「……」
「だから君もそのつもりでいてくれ。いざそのときが来たら――迷わないでくれよ」
胸に、鋭い釘を打ち込まれたような気分になった。
それでもわたしはもう一度彼に頷き返し、そのまま壁の陰へと身を隠す。
いよいよ明日だ。
そう思いながらわたしはカーナックが贈ってくれた簪を外し、じっとそれに目を落とした。
そうだ。
終わりにしよう。
何もかも。




