第十一話 一つの答え
気難しい、というのとは、たぶん違うのだろうなと思った。
カーナックという人物を表すには、そういう表現よりむしろ〝掴みどころがない〟とか〝不安定〟とか、そういった言葉の方がしっくりくる。
もっと突き詰めて言い表すなら……そう。
〝どれが本当の彼なのか分からない〟。
笑ったかと思えば急に冷たくなり、優しくしてくれたと思ったら突き放すようなことを言う。
おまけに平気で嘘をつくから、どこまでが本音でどこまでが戯れなのか分からない。
カーナックとはそういう人だ。
それがわたしには、何かに捕まることを恐れているように見える。
「ナットから連絡があった」
と、彼が口を開いたのは、わたしたちが町で衛兵に追い回されてから三日が経った頃のことだった。
宿の部屋の小さな卓を挟んで向き合ったわたしたちの目の前には、ラヤップの樹皮に包まれた軽食がある。米粉を練って焼いた生地に炒めた麺や肉、野菜を挟んだもので、毎朝宿のすぐ傍に立つ屋台で売られているものだ。
「どうやら王宮では、俺たちの捜索が打ち切られたらしい。というか、ナットの情報操作が上手くいって、俺たちは町の外へ逃げたということになったそうだ。それで追っ手の目は完全に外に向いたから、もう町を出歩いても大丈夫だと」
どこか少しだけ投げやりに聞こえる口調でカーナックは言う。そのまま手に持った軽食にかぶりついた。
塔の町の宿屋には、大抵食堂というものがない。だからカーナックが外に出て買ってきてくれたこの軽食が今朝の朝食だ。
この国ではむしろ、民家でさえ自前の台所を持っているところは少ない。西の方の国へ興行に行ったとき、そんな話をしたら現地の人たちにとても驚かれたけれど、食事は作るものではなく買うもの、というのがこの国での常識だった。
そういう理由もあって、この町には食べ物が溢れている。大衆向けの食堂はもちろん、様々な軽食を売る屋台があちこちに並んでいて、長くこの町に住んでいる人ですら今日は何を食べようかと迷うほどだ。
そんな中でもこの焼き麺包みは、カーナックが特に気に入っている軽食の一つだった。
けれども今日のカーナックは、好物であるはずのバンジュをどこか味気なさそうに頬張っている。それは今日に限って具の味つけが違うとか、皮にいつもの弾力がないとか、そういうことが原因ではない。
わたしが王子を庇うようなことを言ってしまったあの日から、わたしとカーナックの関係はどこかギクシャクしたものになっていた。
カーナックは王子暗殺の覚悟が決まらないわたしを持て余している様子で、わたしもそんなカーナックにどんな態度で接すればいいのか分からない。
あるいはこのまま彼に〝利用価値なし〟と見限られて、わたしは消されてしまうかも――。そう考えるととても恐ろしくて、この状況を何とかしなければと思うのだけど、どうすればもう一度カーナックに歩み寄れるのか、今のわたしにはそれさえ見当がつかなかった。
そもそもわたし自身、自分がどうしたいのかよく分からない。もちろんこの身に受けたおぞましい呪いは解けるものなら解きたいし、わけも分からないまま真っ白になって死ぬなんてそんなのはごめんだった。
けれどその未来を回避するためには、わたしは王子を殺さなければならない。自分の命を繋ぐために、他人の命を奪わなければならない……。
そんなことはできない、したくないという人としての理性と、まだ生きていたいという生き物としての本能。その両者の鬩ぎ合いの中に、わたしは未だ答えを見出だせずにいた。
もう時間がないのは分かっている。いつまでもぐずぐずと迷っている場合じゃないってことも。
だけど、人を殺す覚悟――あるいは死ぬ覚悟、なんて。
一体どうすれば、そんなものを決められるというのだろう。
「王宮に行ってみるか」
そのとき不意に、カーナックがぽつりと言った。
驚いたわたしはバンジュを口に運ぼうとしていた手を止めて、カーナックを凝視してしまう。
一方のカーナックもそんなわたしの反応に気がついたようで、口の端に笑みを刻んだ。
それは冷笑とも自嘲とも取れる笑みだ。
「そんな顔しなくても、今日はただの下見だ。あそこの警備状況がどうなってるのか、一度自分でも確認しておきたいし」
「……」
「行きたくないなら、別にいい。そのときは俺一人で行く」
「――行くわ。わたしも行く」
カーナックの言葉尻に、思わず被せるように言った。そんなわたしをカーナックは少しだけ意外そうに眺めている。
わたし自身、自分がとっさにそんな言葉を吐けたことが意外だった。
だけどこのままじゃ駄目だと思ったのだ。この目でじかに王宮を見れば、自分の気持ちも今の状況も変えられるかもしれない。
それから朝食を終えたわたしたちは、簡単に身支度を整えて宿を出た。本当は一緒に連れていってあげたいけれど、ノーンは今日も宿で留守番だ。
こうして外を出歩くのは、実に三日ぶりだった。ほとぼりが冷めるまでは危険だからという理由でわたしはしばらく宿を出られなかったから、久しぶりに触れる外の空気が気持ちいい。
けれど同時に、わたしはこの三日の間に様変わりした町の様子に驚いていた。
元々人通りの多かった目抜き通りは更に多くの人で溢れ、町のあちこちから大道芸人たちが奏でる楽器の音や歌声が聞こえてくる。
更に町の空に架かったいくつもの橋梁には色とりどりの宝菓飾りや大きな光繭が吊り下げられていて、わたしは感嘆の声を上げながらそれを見上げた。
道行く人々はみんなどこか浮足立った様子で、楽しげに通り過ぎていく。よく見れば、コンマニー王国の人々に混じって西や東の国の人々も多くいるようだ。彼らはわたしたち王国人とは肌の色が違うから、一目で異邦人だと分かる。
「すごい人出ね。異国の人たちもたくさんいるわ」
「それはそうだろう。何せ明後日からはいよいよ夜光祭だからな。毎年の恒例行事とは言え、よくまあこれだけの人数が集まるものだよ」
「夜光祭って?」
歩きながら尋ねると、カーナックは何故か驚いたような顔でわたしを見た。
そんなカーナックの反応を不思議に思い、きょとんと首を傾げれば、彼はばつが悪そうに前方へ視線を泳がせる。
「ああ、えっと……夜光祭っていうのは、毎年この時期にこの町で開かれる王国最大の祭だよ。……念のために確認なんだけど、東の大国から西の連邦諸国まで、この国を横断してる貿易路が〝宝珠の道〟と呼ばれていることは?」
「もちろん、それくらいは知ってるわよ。東西の国々では、この国の特産品である宝菓が宝石の一種として取引されていて、それを買い集めるためにたくさんの行商人が王国を横断していく。だからいつしかこの道は〝宝珠の道〟と呼ばれるようになった……って、前に誰かから教わったわ」
その〝誰か〟の顔も名前ももう思い出せないのだけれど、わたしがそう答えればカーナックは微かに頷いた。どうやらわたしの〝宝珠の道〟に関する知識はおおむね合っているようだ。
この国には『宝菓樹』と呼ばれる特別な樹がある。今でこそこの国の経済を支えるためになくてはならない樹だけれど、昔はもっと数が少なく、貴重な樹木として重宝されていたと聞いた。
『宝菓』というのはその樹に生る木の実のことだ。大きさはちょうど、大人が親指と人差し指をくっつけて作る輪にすっぽりと収まるくらい。中には品種改良を重ねて、それより大きかったり小さかったりするものも稀にある。
けれどもこの宝菓は実の大小を問わず、非常に綺麗な真ん丸で、しかも熟すと青く透き通るという不思議な果実だった。
その実が、秋になると呆れるほど高くまっすぐな木の上から落ちてくる。この国にはその実を集め、特殊な薬液に浸し、それを乾燥させることで石のような硬さに仕上げる技術があった。
そうして美しい〝宝珠〟となった宝菓は、百年経っても腐らない。もちろん食用にすることはできなくなってしまうけれど、硝子細工のような見た目に反してその強度は高く、ちょっとやそっとのことでは壊れないという特徴もあるようだ。
おまけに薬液の調合によっては、実の透度を保ったまま色を変えることもできる。そんな技術の進歩のおかげで、この国は周辺諸国から〝宝珠大国〟とまで謳われるようになっていた。
その宝珠の美しさに惹かれ、他国では年々宝菓の需要が高まっているらしい。王国内ではその辺の雑貨と一緒に売られているような宝菓飾りが、西の国へ行ったら小さな城を一つ買えるほどの値段で取り引きされたという話もある。
まあ、さすがにそれは誇張が過ぎると思うけれど、とにかく宝菓を大量に産するこの国はとても豊かで、今では宝菓樹のない暮らしなど考えられなかった。
それに宝菓樹の実は、この国では果物としても大層な人気だ。もっとも宝珠としての宝菓を仕入れにやってくる異国の商人たちは、王国の人々が当然のように宝菓を食べている姿を見ると、驚いて腰を抜かすと言うけれど。
「夜光祭は、その宝菓樹の実りをもたらす太陽神に感謝を捧げるための祭だ。名前のとおり、祭の間は光繭や夜光虫、光液細工なんかが大量に集められて、町は一晩中明るく照らされる。もっとも今じゃ神に感謝を捧げる祭というより、異国の商人のための宝菓市みたいな意味合いの方が強いけどな。人が集まる祭に合わせて、自分の工房の作品を売り込もうとする宝菓職人が王国各地からやってくるから」
「へえ……だから町に旅芸人がたくさんいたのね。確かにこれだけの人出があれば、芸人にとっても貴重な掻き入れどきだわ」
「ああ、まあ、そうだな……てっきり君も旅芸人なら、祭には毎年来てるものだと思ってたけど」
「え? 何か言った?」
「いや……何でもない」
カーナックはどこか気まずそうにそう言うと、わたしから顔を背けてしまった。
……わたし、今、何か変なことを言ったのかしら?
だけどわたしはこの時期にこの町を訪れるのは初めてだから、本当に何もかもが新鮮なのだ。
できることならその夜光祭というお祭を、一度この目で見てみたいと思った。わたしはこの町の夜の景色が好きだから、一晩中光が絶えないというそのお祭が一体どんなものなのか、とても興味がある。
けれどそれをカーナックに告げてもいいものかどうか、わたしは迷った。
こんなときにお祭なんて、何をのんきなことをと呆れられてしまうだろうか。そう思いながらちらりと盗み見たカーナックの横顔はどこか物憂げで、わたしは結局声をかける機会を失ってしまう。
やがてわたしたちは町を貫く目抜き通りを抜けて、とうとう王宮の見える広場へとやってきた。
コンマニー王国の王族たちが暮らす王宮は、ちょうど町の真ん中にある。王宮の周辺は巨大な円を描く広場になっていて、美しい噴水や植栽など、様々な意匠が凝らされていた。
けれどその中で何よりもわたしの目を奪ったのは、青天に映える白亜の王宮。
堂々と佇む白壁の上には黄金に塗られた屋根が乗り、眩しいくらいに日の光を照り返している。
王宮の屋根はどれも半球状をしていて、周囲に佇む無数の塔とはまるで赴きが違っていた。
ただ、塀で囲まれた敷地の四隅には見上げるほど高い塔が立っていて、それがわたしには王宮を守る白い巨兵みたいに見える。その巨兵に見守られた王宮はため息が出るほど荘厳で、そこだけがこの町から切り取られた別世界のようだ。
「はあ、すごい……王宮って、思ってたよりずっと大きいのね。こんな綺麗な建物、生まれて初めて見たわ」
「……生まれて初めて? 興行でよくこの町に来てたのに?」
「ええ。王宮の前で興行することを許されるのは、王に認められた特別な芸人だけと決まっているから。それにわたしたちの一座はどちらかと言うと、地味な庶民向けの芸ばかりだったし……」
王宮前広場の入り口に佇みながら、わたしはそう苦笑した。この広場でたくさんの観客を集め、大道芸を披露するのは多くの旅芸人の夢だけれど、わたしたちの一座はそんな夢からは程遠い場所にいたような気がする。
でも、こんな美しい王宮の前で思う存分好きな歌を歌えたら、それはきっと一生の思い出になるのだろうな、とわたしは思った。
わたしはそんな自分の姿を夢想しながら、思わず目を閉じ――しかしすぐに隣から聞こえたカーナックの声で我に返る。
「その、君の一座ってさ。何人くらいの一座だったんだ?」
「え? ああ、わたしのいた一座は、全部でたった三人の小さな一座よ。それでも芸をするのは楽しかったから、何の不満もなかったけれど」
「君を入れて三人? なら、残りの二人はどんな人たちだったんだ?」
「他の二人は一人が男で、もう一人が女で……どちらもわたしよりずっと年上で、名前は……」
……あれ?
おかしい。
思い出せない。
長年ずっと一緒に旅してきた仲間の顔も名前も。彼らがどんな人間で、何故一緒に旅をしていたのかも。
その事実にようやく気がついたとき、わたしはぞっとして立っていられなくなった。
どうして?
どうして忘れてしまったの?
二人とも、わたしの大切な人だったはずなのに――
「スーリヤ」
思わず膝から崩れそうになったわたしを、横からカーナックが支えてくれた。
けれどわたしは全身の震えが止まらなくて、嗚咽が零れそうになる口に手を当てる。
ああ、どうしよう。
怖い。
怖い。
怖い。
怖い。
自分でも気づかないうちに、大切な記憶がどんどん抜け落ちていっている。
だけどわたしはそれよりも、自分が一体何を忘れてしまったのか、それさえ分からなくなっていることが恐ろしかった。
これが魔女にかけられた呪い。こうやってわたしは真っ白になっていくのか。
分かっていたはずだった。
けれどその実感は今更のようにわたしの心を呑み込んで――
――このままじゃ、駄目だ。
わたしはまだ、死にたくない。
「スーリヤ、こっちへ」
カーナックに名前を呼ばれた気がした。けれどわたしは正気を保つので精一杯で、何も答えられない。
次に気がついたとき、わたしはどこかの塔の裏側でカーナックに縋りついていた。
カーナックはそんなわたしを、何も言わずに抱いていてくれる。歯の根が合わないくらいに震えたわたしにできるのは、涙と一緒に溢れようとする嗚咽を何とか押し殺すことだけだ。
「カーナック……」
「ああ」
「カーナック、わたし……」
「大丈夫だ。俺はここにいる」
どこにもいかない。耳元でそう囁いて、カーナックは何度も、何度もわたしの髪を梳くように撫でてくれた。
〝ここにいる〟。
カーナックのその言葉は、わたしと世界を繋ぐたった一つの、細い細い命綱のように思える。
わたしはどこかに置いてきた、大切な人たちのことを忘れてしまった。
けれどカーナックはここにいる。こうして傍にいてくれる限り、わたしはきっと彼を忘れることはない。
それをわたしに伝えることで、カーナックはわたしが一人ではないと教えてくれたのだと思った。
わたしの背に回された彼の手が温かい。
その温もりを意識すると、わたしの心は次第に落ち着きを取り戻していく。
「……カーナック」
「ん?」
「わたし、まだ死にたくないわ」
「そうか」
「本当は人殺しになんてなりたくない。だけど、このまま何もかも分からなくなって死ぬのは、怖い……」
「そうだな」
「わたしに力を貸してくれる?」
涙声のまま、けれど幾分か平静を取り戻した胸から息を吐いてわたしは尋ねた。
カーナックは、答えない。その沈黙がとても不安で、彼の胸に額を預けたままだったわたしは顔を上げる。
すぐそこに、カーナックのよく整った顔があった。
彼はまるで言葉を選ぶようにじっとわたしを見つめている。
その表情はやはりどこか物憂げで、けれど彼はやがて、その手でそっとわたしの涙を拭ってくれる。
「約束は、覚えてるか?」
「え?」
「君が最初に言ってたことだ。相手のことは忘れてしまったけど、自分には誰かと交わした大切な約束がある。その約束を果たすために、ここで死ぬわけにはいかないって」
「それはまだ覚えてるわ。自分でも不思議なくらい、はっきりと……でも、その想いも嘘じゃないの。やっぱりわたしは、誰かと交わしたその約束を守りたい」
「そうか。――良かった」
そう言って、カーナックは微笑んだ。
彼がそのとき、何に対して〝良かった〟と呟いたのかは分からない。
けれどカーナックはわたしの頬に優しく手を添えたまま、その空色の瞳にわたしの泣き顔を映して、言う。
「力を貸すよ、スーリヤ。俺は君のためなら、何だってやれる」
刹那、カーナックからかけられた言葉が、にわかには信じられなくて。
わたしは大きく見開いた目で、思わず彼を凝視した。
それは彼お得意の、他愛もない嘘だったのかもしれないけれど。
わたしがその言葉の意味を問い質す前に、カーナックは笑ってわたしの手を握る。
「さ、帰ろう。目的はもう果たした」
未だ茫然自失しているわたしの手を引いて、カーナックは歩き出した。
……〝目的〟って何だっけ? 確か彼は今朝、王宮の警備状況を自分の目で確かめておきたいと言っていた。
その目的が本当に果たされたとは思えない。だってわたしたちは王宮に近づくこともなく、ほんのわずかな時間、遠くからその威容を眺めただけだったのだから。
だとしたら、カーナックの本当の〝目的〟って――?
……やっぱりわたしには、彼がよく分からない。




