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第一話 融けゆく記憶

 長い、長い道のりだった。

 ボロボロになった衣服をまとって、傷だらけの体を引きずって。

 けれどようやく、行く手には天に伸びゆくいくつもの塔が見えた。

 塔の町。

 象牙色の石を積み上げて築かれた古塔の並ぶあの町が、そう呼ばれていることはまだ辛うじて覚えている。


 ここまでやってくる間に、かけがえのない記憶をいくつもぽろぽろ落としてしまった。

 今はもう、大切なあの人の顔さえ思い出せない。

 覚えているのは、確かにあの人を愛していたという切ない胸の痛みだけ。

 あの魔女との約束を果たせば、再び思い出せるのだろうか。

 ああ、深く傷つけた足が痛い。

 しかしどうしてこんな傷を負ったのだろう?

 いけない。

 強くそう思うのに、ここに来て、記憶だけでなく意識まで霞んでいく。



          *



「お前に呪いをかけた」


 と、その魔女は言った。

 魔女と言っても幼い頃にわたしが思い描いていたような、おどろおどろしい姿では決してない。

 浅黒い肌はわたしたちコンマニー王国の民と同じだし、顔立ちも美しく整っていて、こんな状況でなかったら同性のわたしでさえ見惚れてしまうほどだった。

 ただわたしたちと決定的に違うのは、妖しい魔力を湛えて淡い紫に染まった長い髪。

 そして愉快そうに細められた、ぞっとするほど赤い瞳。

 彼女は自らを〝カーラ〟と呼んだ。

 わたしはそのカーラの宝物を奪おうとした。だからこれはその罰なのだと彼女は言った。


 そのカーラの目の前で、ボロボロになったわたしは何もない地面に身を横たえている。

 頭がぼんやりとして、うまく思考が働かない。

 ただ、体のあちこちから自分の命が流れ出しているのを感じて、早くここから逃げなければと思った。

 これ以上血を流したら、たぶんわたしは死んでしまう。


「今日から少しずつ、お前は記憶がけていく。一度融けた記憶は呪いを解かない限り戻らない。あまりのんびりしていると、自分の名前さえ思い出せなくなって、最後は真っ白になってしまうよ。そうしたら、お前はもう生きてはいられないねえ」

「……」

「どうやったら呪いは解けるのかって? しようがない。特別に教えてやるよ。私はね、この国にいるチャイディという名の王子が憎くて仕方がないんだ。その王子をこの短剣で刺し殺すことができたら、お前の呪いを解いてやってもいい」


 カーラはそう言って、倒れたわたしの鼻先に一振りの短剣を放り投げた。

 乾いた音を立てて地に転がったそれは、ぐにゃりと奇妙な形に刃が曲がった短剣で。

 けれどその刀身は青白く、黄金をあしらった鍔には透明の石が嵌め込まれていて、見た目はとても美しかった。

 わたしはその短剣に手を伸ばす。体温を失い、震える手にはいつまで経っても柄を握った感触が伝わってこなかったけれど、この剣を放すまい、と心に誓う。


「さあ、それじゃあ私は高みの見物とでも洒落込もうか。自分の記憶と王子サマ、あんたはどっちを取るんだろうね? 楽しませておくれよ、スーリヤ」


 そう言って高らかに笑いながら、カーラは去った。その姿はどろっと不気味な音を立て、黒い煙となって掻き消える。

 わたしは冷たくなった両手に力を込めて、鉛のような体をどうにかもたげた。

 チャイディ。

 その名前だけは忘れないようにしなければ。

 そう強く念じた先から、いくつも記憶が融け出していく。

 そう言えばわたしは、カーラから何を盗もうとしたのだっけ?



          *



 角の生えた獣が、大地を蹴って馳せていた。

 額から伸びる二本の角はゆるやかに湾曲しながら天を向き、錆色の鱗のような皮膚で覆われている。

 獣の全身を覆う毛は白く、されど短かった。

 ぴんと立った両耳と、長く伸びた尾の先だけがやけに赤い。その尾を小気味良く振りながら、獣はなおも馳せ続ける。

 やがてその鋭敏な嗅覚が、風に乗って運ばれてくる血の匂いの元を嗅ぎつけた。

 すらりと真っ直ぐに伸びた木々が立ち並ぶ、宝菓樹ほうかじゅの森。

 その森の中に突如として現れた泉のそばに、一人の娘が倒れている。

 獣はその娘に駆け寄った。尻尾をゆらゆらと揺らしながら娘に鼻を寄せ、その匂いを確かめる。

 それから獣は、天に向かって高らかに吠えた。

 透き通るような美しい吠え声が、鈍色の空に吸い込まれていった。

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