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禍きもの、その名は4

 父と兄は、その日遅くに揃って帰ってきた。

 兄は病院で一日がかりの健康診断を受け、父は父で仕事の合間に警察への捜索願いを取り下げたり兄に付き添ったりしてきたとの事だった。


「息子さんは軽く栄養失調気味ですが検査結果に異常は見られません、と言われたよ」


 ネクタイの結び目を緩めながら、父が重い肩の荷をほんの一部だけ下ろしたように笑った。

 母が入院している今、やはり兄の体調は父にとって一番の懸念材料だったのだろう。複雑ではあるけど私も正直嬉しい。あれは大好きな兄の身体だから。

 よくこんなすぐに予約が取れたなと思ったら、どうやら父の知り合いの内科医に融通を利かせてもらったようだった。兄の腹部にあった怪我の具合が私は気になったけど、それに関して父は何も知らされていない様子だ。医師から特に言及されなかったのであれば、内臓的にも治癒経過に問題はないと思ってていいのかな。


 それから父は、入浴のため兄が席を外している間に、こう付け加えた。

 精神科のカウンセリングは順番待ちでいっぱいで、取り敢えず予約はしたがだいぶ先になりそうだ、と。

「……そっか」

 私は曖昧に頷いておいた。


 汗を洗い流してきた二人に向かって、食事を済ませたかどうか確認すると、夕方くらいに昼夜兼用で食べたものの小腹は減っていると言う。なので私は作り置いていた常備菜を数種類大皿に盛って、取り皿と共にダイニングテーブルに並べた。各自で食べたい分だけつまめるようにだ。加えて兄にはご飯と緑茶を、父には労いの意を込めて瓶ビールを出した。


「おっ、いいのか?」

「一本だけね。その後は発泡酒」

「なんだか今日はサービスいいなぁ、小麦。おかずも私と尋の好みのものばっかりだし」

「週末ジャンクフード尽くしにしちゃったから、せめてものお詫びに」


 結局今日は学校をズル休みさせてもらったので、私は半日のほとんどを家で料理をして過ごした。時間のある時に常備菜を準備しておくのは、母が入院してから身に付いてしまった私の習慣だ。料理が趣味という訳では全くない。毎日のお弁当と夕食作りを少しでも楽にしたいがための工夫だ。今回はメールで母に教えを乞いながら我が家の味をなんとか再現してみた。花の女子高生にしてはいささか所帯染みた時間の過ごし方だけど、悲しくなんかないやい。


 ゴクゴクと喉を鳴らして一杯目のビールを飲み干してから、父が満足気に椅子の背もたれに寄り掛かった。無意識に鼻の付け根を揉む仕草に、溜まった疲労が見て取れる。


「今日は色々ありがとう、お父さん」


 空いたグラスにお代わりを注ぎつつお礼を言うと、父は優しく頷いて、思い出したように天井を見上げた。


「子猫はどうした? 小麦」

「午前中に病院に連れて行って検査してもらった。そのまま今夜は病院で預かってくれるって。明日、私、修了式だから。学校終わったらまたうちに連れて帰ってくる」


 それまで黙々と食べていた兄が、私の説明を聞いて顔を上げる気配がした。

 私は今日、帰宅時からずっと、兄を直視することを避けていた。会話も兄とは必要最小限の事務的なものしかしていない。不用意に兄の近くに寄らないよう、細心の注意を払っていた。

 でも、だからこそ、顔を向けなくても分かる。箸を止めたまま、兄は今じっと私をみつめている。

 途端に私の舌は鉛のように重くなった。


「……明日から春休みだもん。私がちゃんと面倒みるから」


 父に話しているていでその実、私は兄へこそ向けてそう宣言していた。

 兄はまだ私を見ている。

 頑なに背けたままの私の左頬が、兄の視線でジリジリと焦げ付くように熱い。

 父のグラスが再び干されている事に気が付いたが、私は今度はあえてお酌をしなかった。テーブルの下に両手を隠し、父に悟られないうちに震えを抑えこもうと固く握るので精一杯だったのだ。

 その甲斐あってか父は気にした風もなく、手酌でグラスを満たした。


「春休み……もうそんな時期か。そう言えば、お前達の高校にも寄って、尋の復学について話をしてきたんだが」


 父は兄と目線を交わして頷き合い、私の方に向き直った。


「四月から、二年生をやり直す事になりそうだ」

「え? 二年って……」

「ああ、小麦と同学年だ」


 不思議な感じだ。

 兄が私と、同級生に?


「出席日数不足は優秀な成績に免じて三年生に進級させることも可能だと言われたんだが、やはり復帰早々受験生では荷が重いだろう。元々尋のクラスメイトがいる学年でもないしな。それで尋本人とも話し合って、四月からの一年間は様子見ということにした。まあ、同じクラスということはないだろうが、小麦が同学年にいてくれれば何かと心強い」


「よろしく、小麦」


 父の説明を受けて、兄が穏健そのものの微笑みを私に向ける。

 まるで、本物の兄のように。


「……うん」


 私の表情はきちんと平静を装えているだろうか。兄の目を見返すことがどうしても出来ない。

 だって、兄じゃない。

 この人は、兄じゃないのに。


 うろうろとさ迷う私の目線は、テーブルに置かれたビール瓶を捉えた。父の前の瓶もグラスも、とうに空になっていた。


「あ、私、缶の方持って来るね」


 これ幸いと私は立ち上がった。兄の席を迂回するように冷蔵庫へ向かう。あからさまに挙動不審だったかもしれないけど、兄の視界から外れたことで気分が大分楽になった。キッチンに立って大きく息を吐き、私は自分の左腕、袖で隠れた包帯の部分にそっと触れた。




 ──兄は結局、今朝の事を父には何も言わなかったようだ。

 食卓でのニ人の様子を見るに、今日一日、父の前でも他人の前でも、素知らぬ顔で以前通りの兄を演じていたに違いない。

 何を目的にしているにせよ、その方が波風を立てずに潜伏出来る。容易い事だ。あれは多分、とても狡猾だから。

 きっとこのまま、上手に兄のフリをして紛れ込んでいくつもりなんだろう。


 ……それなら、なんで私にあんな事を?

 洗面所での出来事にはどういう意図があったのだろう。


 何故あれは私にだけ牙を剥いたのか。そういえば今朝は酷く不機嫌でイラついていたような気がする。とすると、衝動的に起こしてしまった予定外の行動だったのかもしれない。

 それとも、兄ではないと私が気付いたから?

 あれは口外するなという脅しだったのか?

 私は弱くて、こいつにならたとえ正体を悟られても大した事は出来ないだろうと踏んだから?

 それはある意味正解だ。私は今まで、他人と口論以外で本気のケンカをしたことがない。あの優しい兄との間に兄妹ゲンカがあり得たはずもないし、それ以外の人からはいつだって兄が私を守ってくれていた。だから暴力に免疫なんてない。まして人に──人の形をした獣に、悪意を持って流血するほど噛まれる……なんてこと、今の日本でどれだけの人間が体験しうるというのか。痛みの記憶に怯える私には、もうあれが凶暴な野犬にしか見えない。

 人語を解し、知性を備え、他人の肉体を乗っ取る摩訶不思議なすべを持つ、禍々しい狂犬だ。恐ろしくない訳がない。


 とはいえこのままずっと兄と(あれと)会話をしないのも、視線を合わせないでいるのも不自然だ。さすがに父だって、兄妹ゲンカというレベルではないと気付くだろう。

 父は保護者で、世帯主だ。対して兄と私はまだ未成年。この家で兄として生きていくのなら父の庇護は絶対に必要だ。

 逆に言えば、父にまで正体を悟られたら、あいつはなりふり構っていられなくなるかもしれない。父にとっても知らない方が身の為だ。兄のフリをし続けているってことは、気付かれないうちは一応滅多なことはしないつもりなんだろうから。


 今日一日、考えに考えた。

 父の事は大好きだけど、でも今のこの状況が分かってもらえるとはどうしても思えない。だって自分でも納得のいく証拠が見つけられないのに、どうやって説得すればいい? 兄がおかしくなった訳じゃない、あれは何かに身体を乗っ取られているのだと。

 十人いたら十人とも、兄の症状は一種の解離障害だとする、父の解釈の方へ傾くと思う。私だって賛同する、これが私の兄の身に起こった話でなければ。

 手をこまねいているうちに、私の大事な兄がまた消えてしまうのでなければ。


 私の望みは、獣から兄の肉体を兄本人へ取り戻すこと。

 そのためには、兄を病院に隔離されたり父に疑念を抱かせたりしてはならない。

 兄の姿をした獣に最悪このまま逃亡でもされたら、本当の兄の行方がまた分からなくなってしまう。そんなの冗談じゃない……!


 もっと強くなれ私。兄を救い出すことが可能かどうかを確かめるんだ。尻込みしている場合じゃない。自分でそう決めたんだから。

 私が、兄を、迎えに行くんだから。



 私は、冷蔵庫の扉を開けながら、溜め息をついた。



 ……そう決意して色々準備をしていたのに、いざ相対したらどうしようもなく足が竦む。

 あれは獣だ。でもあの身体は兄のもの。

 だから何処かにまだ兄が残っているかもしれない。

 そうとでも考えないと怖くて近くに寄れない。同じ部屋にいる事すら無理だ。欺瞞であっても『兄』と呼ぶことで、辛うじて私は悲鳴をあげずに立っていられる。



 お兄ちゃん。

 お兄ちゃん、会いたい。


 そのために、私はもっとつよくなりたい。



 ──【お母さん、私が小さい時に教えてくれた"怖くなくなるおまじない"のこと、まだ覚えてる?】


 常備菜のレシピを教わるついでに母に尋ねたメールの返事を思い出す。子供騙しでも無いよりはマシだろう。私は、おまじないの言葉を声に出さずに口の中だけで三回唱えた。そして深呼吸。

 よし。

 ……怖くない。暗示をかけるように、自分にそう言い聞かせる。


 だって私は、怖がってなんていられないから。






「お父さん、はい、お待たせ。お兄ちゃん、ご飯美味しい?」


 キッチンからトレイを持って戻ってきた私は、父に発泡酒を手渡しながら、兄に話し掛けてみた。努めてさり気なく聞こえるように。

 すると軽く酔いのまわり始めた父が、"やっと仲直りする気になったのか?"という顔をして口添えしてきた。


「それは勿論だよな、尋?」

「……美味しいよ」

「懐かしいでしょ。お母さんの味、教わったんだ」


 兄の受け答えも真っ当だけど、内心ではきっと私の態度を訝しんでいるに違いない。

 けれど父の前ではお互いに普通にしていた方がいいと思っているはず。

 家族の会話、上手く出来てるかな。わざとらしくない抑揚って難しい。


「デザートもどうぞ。これ好きだったよね? お兄ちゃんのために作ったんだ」


 トレイの上から私が兄に差し出したのは、何の変哲もない、至って普通のカスタード・プリンだった。

 昔からこれだけは得意で良く作っていたのだ。

 小学生でも失敗しないような簡単なレシピなんだけど、初めて作った時にはうっかり目を離してカラメルソースの火加減を間違えてしまった。けれど優しい兄がその方が好きだと言ってくれたので、私のプリンは甘さ控えめでいつも少し苦めのカラメルが掛かっている。


「ああ、ありがとう」


 兄は素直にプリンを受け取った。


「お父さんも食べる?」


 と尋ねると、父は首を振って泡の立ったグラスを掲げてみせた。


「私は別の機会にしておこう。あまりプリンとこれが合う気はしないから」


 私達三人はそうやって和やかに会話をしながら、欺瞞に満ちた団欒を続けた。





 馬鹿みたいだけど、これが私の立てた作戦だった。

 そう。偽の兄を表立って糾弾することはしない。兄のフリをしたいというのならそれに付き合う。そして相手の素性と目的、手の内を密かに探るのだ。


 "ここにいる"

 と獣は言った。

 "ここにしかいない"

 ──と。


 それが信じるだけの価値のある言葉なのかどうかは分からない。

 蜘蛛の糸のような細い細い手がかり。

 でも私が縋れる希望はもうそれだけだ。


 数少ない手持ちの情報から推測するしかないけれど、身体を乗っ取るというか……あれが兄の肉体を支配しているのなら、その心の奥底には本物の兄が眠っているのではないかと思う。プールの底に横たわって遥か上方の水面で泳ぐ人々を眺めるように、自分ではない自分の行動をどこか遠くから夢見ているのではないだろうか。

 それならば。惰眠を貪る日曜の朝でも、淹れたてのコーヒーの香りに惹かれて自然と目を覚ましてしまうように。

 懐かしい味。大好きな匂い。兄を大事に思う、私達家族。──そういった数々のものに触れて、微睡みの中にいる兄が覚醒してくれればいいと願う。


 ……分かってる。あくまでもこれは願望。ただの希望的観測だ。考えたくもないが、既に兄の精神は獣に押し退けられて跡形もなく消えている可能性だってある。それでも今の私が兄のために出来ることを他に思いつけない。

 家族ごっこをしている隙に私が獣の弱点を探っておけたなら──……それに越したことはないだろう。


 そうだ。

 焦らず行こう。ゆっくり一歩ずつだ。

 兄は……何はともあれ兄の身体はここにいる。

 それだけでも去年の今頃よりは、だいぶマシな状況のはずなのだから。




 つらつらと考えながら食洗機に洗い物をセットし終えて戻ってくると、父と兄がダイニングとリビングでそれぞれ寝入っていた。

 驚いた。さっきまで二人の話し声が聞こえていたのに。


「もう、お父さん! 風邪引いちゃうよ」


 私は強引に父を揺すり起こして、椅子から立ち上がらせた。父は何事か言い訳を口にしながらフラフラと歩いていく。今朝方自分がお世話になったベッドまで父を追いやってから、恐る恐る私はリビングに戻ってきた。


「……お兄ちゃんも」


 問題はこっちだ。獣の分際で寝落ちするなんてどういう料簡だ。

 どうしよう。逃げ出そうか。父がいない時に迂闊に触ったりしたくない。

 かと言ってこのまま放置しておいたら風邪を引くのは目に見えている。いずれ返してもらう予定の、兄の身体なのに。

 しばらく逡巡してから、私は毛布を手に、万が一にも起こさないようにそうっと、ソファで眠る兄の背後へ近付いた。


「……小麦?」


 ふと、兄が身じろぎする。

 反射的に私は、火が付いたように大きく後退ずさりした。心臓が早鐘を打つ。

 しかし今のは単なる寝言に過ぎなかったようで、兄はひとつ寝返りをうった。ソファから落ちそうで見ている私の方がひやひやする。少し開いた兄の唇から吐息のような声が漏れ聞こえてきた。


「小麦、ごめん……な……」






 私の呼吸が、止まった。


 それは──"兄"の言葉だと、思った。

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