禍きもの、その名は3
私の十六年間のなかで鮮明に残っている一番古い記憶は、こうだ。
私はどこかの倉庫のような所にいる。
その場所は使われなくなって十数年を経ているようで、中の器物は皆古びて錆びかけており、空気は淀んで人気も全く感じられない。そこにどうやってだか紛れ込んでしまった幼い私は一人、古机の下に身を潜めている。身体は心細さに震えている。目を固く瞑り、口には出さずに何度も必死に自分へ言い聞かせている。
ないてはダメ。
やつらがくるから。
みつかったらつれていかれてしまうから。
おそらくは子供らしい無鉄砲さで単身遠出をして、土地勘の無い場所で私は迷い子になってしまったのだろう。そして疲労困憊した挙句、想像力のある子特有の無意味な強迫観念に襲われて、そのまま身動きが取れなくなってしまったのだ。
まるで隠れんぼの最中のように。
中天にかかっていた太陽は時間の経過とともに西に傾いて行き、倉庫の中には長い影が伸びていく。それがいっそ人外の様相を呈して見え、私は更に息を殺して机の下へ潜り込んでいってしまう。
こわい。
こわいよう。
だれかたすけて。おむかえにきて。
望みとは裏腹に、"オニ"に見つからないよう奥へ奥へと隠れながら、私は祈る。
ああ、母が教えてくれたおまじないの言葉が思い出せたら。怪我した時には"痛いの痛いの飛んでいけ"、約束を守りたい時には"指切りげんまん"。そして怖い気持ちを消したい時には、一体何と言うのだったか。今一番必要な、肝心な言葉が出てこない。それさえ思い出せたら、きっとこんな所で縮こまっていなくても済むのに。
「小麦! ここか?」
破れたガラス窓から入り込んだ誰かが、床に散乱していた破片をジャリッと踏む音がする。聞き覚えのある声に、私は顔を上げる。しかし長時間嗚咽を堪えていた喉は凍り付いて動かない。子供の軽い足音が倉庫の中を走り回っていき、やがて私の隠れている古机の前に到達する。机下を覗き込んできた汗だくの兄の顔が、安堵に緩む。
「見つけた! 小麦……」
差し出された手に掴まって隠れ場所から這い出せば、謂れない恐怖を吹き飛ばしてしまうような抱擁。私はようやく泣き出すことが出来る。
「おにいちゃん、おにいちゃん、こわかった……!」
「バカだな、こんな所に一人で。迷ったのか? ほら、もう大丈夫、怖くない。お兄ちゃんが小麦を守るから」
兄は私の背を支えて窓の近くまで歩み寄り、外に向かって叫ぶ。
「父さん! こっち! 小麦ここにいた‼︎」
大人には入り込めないサイズの窓だったので、兄と私は正規の出入り口であるスチール製の扉の鍵を内側から開ける。
扉が開けば夕方の光が薄暗い倉庫の中に差し込み、外界の風が淀んだ空気を一新する。私は大きく息を吸う。長い事彷徨っていた迷宮から、兄によって救い出されたような心地になる。
「帰ろう小麦、みんな心配しているよ」
ガラスの破片で切れたのか、兄の頬には数本の赤い線がある。痛いだろうに、それをものともせず私に笑いかけてくれる兄の姿が、涙で曇ってしまう。
「ありがとう、おにいちゃん。ごめんね、ごめんなさい」
「謝らなくていい。お前が無事で本当に良かった……」
──優しい記憶の見せた夢だった。
目が覚めると、私の頬は涙で濡れていた。
……眠ってしまっていたようだ。父のベッドに染み付いた香りから幼い頃の記憶が刺激されたのだろうか。それにしても見るのが父ではなく兄の夢だとは。
あれから何時間経ったのだろう。
枕元の時計を確認すると、朝の八時半。四時間近くが経過していた。しまった、子猫のミルクをやり損ねた。私は跳ね起きた。
ベッドサイドのテーブルに、軽食とメモが置いてあった。父の字だ。
五時と七時に子猫にミルクをあげた事、私の学校には体調不良で欠席の連絡をした事、諸手続きの為に兄を連れて行く事、等が書かれていた。
してみると、今この家にいるのは私と子猫だけだ。
兄と顔を合わせて平静でいられる自信がなかったので、私は少しだけホッとした。
短時間でも仮眠を取れたおかげか、眠る前にあった頭痛が治まっている。
左腕が強張る感じがしたので袖を捲った。巻き付けていたタオルが見え、怪我をしていた事を思い出した。どうやら出血は止まったようだ。傷の具合を確認しようとタオルを外していくと、固まった傷口にタオルの繊維が巻き込まれていた。マズい、と慌てて引き剥がせば、辛うじて瘡蓋になりかけていた部分が剥けて、再びじんわりと血が滲む。私は痛みに顔をしかめた。傷口にはガーゼか絆創膏、と母が言っていた訳が分かった。うん、タオルで止血なんかするものじゃない。
子猫の様子を見に行くと、昨夜と同じく安定した呼吸で眠っている。良かった。先にお風呂に入ってから病院に連れて行くことにした。
恐る恐る足を踏み入れた洗面所に、血痕は残っていなかった。あれも夢だと都合良く思い込みたかったが、私の左腕にはじくじくした痛みと歯形が残っている。誰かが掃除をしてくれたのだろうか。父か……まさか兄が?
傷口に極力当たらないように気をつけて服を脱ぎ、頭から熱いシャワーを浴びる。停滞していた脳細胞が生き返るようだ。
ほんの数日前、ここで兄の髪を切った。
……あの時のあれは、確かに兄だった。
はたと気付いて、私はシャンプーを泡立てていた指の動きを止めた。鏡に映る自分と目が合う。私は酷く青白い顔をしていた。
そうだ。今の今まで考えもしなかったけど、帰ってきたあの日、兄は間違いなく兄だった。確認したのだ。何度も確かめたのだ。似ている誰かじゃない。成りすましていた誰かでもない。窶れていたけど、傷を負っていたけど、あの時は心も身体も兄本人だった。夢で見た、遠い昔と同じように、抱き締めて『お前が無事で良かった』と言ってくれた。それは兄以外の何者でもなかったはず。
──では、いつ?
あの獣と兄は、いつ入れ替わったのだろう。
そもそも獣はどうやって兄と出会い、何の為に兄の肉体を乗っ取ったのだろうか。
自分の部屋、周辺の地理。家族の顔、近所の人やペットの名前。兄でなければ知り得ないはずの情報を、獣は何故当たり前のように我が物と出来ているのか。
兄のこの一年間の失踪にはどんな意味があったのか。
私はまだ、何ひとつとして本当の事を理解してはいないのだ。
兄はいない、もう手遅れだ……と私は思った。兄を騙る簒奪者の数々の言動から、そう思わされた。
でも真実を確かめた訳じゃない。
流さないままの私の髪からシャンプーの泡が滑り落ち、塞がり切っていない左腕の傷に沁みて痛んだ。
傷付くのは辛い。
禍々しく恐ろしい相手と闘うのも怖い。
私は弱くて何の力もない。頭だって大していい訳じゃない。勝算なんて欠片も無い。どうしたら良いのかも分からない。
けど、でも。
それでも。
もし、兄が。
どこかで迷子になっているのだとしたら。
幼い時の私と同じように何処かに隠れて、誰かの助けを必死に待っているのだとしたら。
──今度は私が兄を迎えに行きたい。
私は、強く、毅く、そう願った。