禍きもの、その名は2
出血表現、不快な描写があります。
苦手な方はとばして下さい。
支えにしていた左肘を背後から引き抜かれた。いきなり加えられた予想外な動きに私のバランスは崩れ、危うく歯ブラシで上顎の奥を突くところだった。抗議しようと振り向く前に、生暖かく濡れた感触が私の肌を這った。
「⁉︎」
身を屈めた兄が、私の腕に顔を寄せていた。生き物のように蠢くのは、形の良い唇から差し出されている舌だ。現状の理解は遅れてやって来た。
兄が、私を、舐めている。
「ひっ……!」
悲鳴を上げようとして、歯磨き粉に喉が詰まった。私は歯ブラシを投げ捨て、洗面ボウルの方に身を折り曲げた。ゲホゲホと咳き込みながら口の中の泡を吐き出す。ミントのフレーバーが鼻に抜け、生理的な涙が滲んだ。片腕を取られている為、身がよじれて体勢が辛い。
兄はそんな私の様子に一向に頓着しなかった。
執拗に舐め続けられる箇所に唾液が沁みて痛む。
ああ、あれだ。子猫の爪痕の部分だ。
兄はそこだけを狙って舌で嬲っていた。
「こんな傷」
兄が喋ると、濡れた肌に吐息が当たって気持ち悪い。うなじの毛が全部逆立ったのではないかと思った。
悪ふざけにもほどがある。
私は、水栓レバーを持ち上げて勢い良く水を出し、吐き出した汚れを排水口へ流した。自由になる右手で流水を掬い口を漱ぐと、なんとか声が出せるようになった。
「お兄……っ!」
「気に入らない」
フッと唇が離れたかと思ったら、次の瞬間には兄に噛みつかれていた。
そう、噛 ま れ た のだ。
甘噛みではない。人に備わっているはずもない牙を突き立てられたのではと思うほど、鋭利で、容赦の無い痛みが脳天を貫く。私の腕に食らいついた兄は、まるで獰猛な獣のようだった。
「痛っ、嘘、痛い……やめてッ‼︎」
闇雲に腕を振ると、兄の拘束は意外にもすんなり解かれた。そのまま私は数歩後ずさる。
力なく伸ばした左手の先を何かがぬるりと伝わり落ちていった。
洗面所の床に滴るのは血だ。信じられない。血が出ている。しんじられない。
全開にしたままの蛇口から迸る水の音だけが響いている。
動転して、何ひとつ言葉が出てこない。
呼吸は抑えようもなく荒く、全力疾走した後のように肺に痛みが走った。
肩を震わせて呼吸をしながら、私は兄から更に距離を取った。右手は噛まれた左腕を押さえている。兄の瞳が野生動物のように暗闇を見通している気がするのは、間違いだろうか。私の目線は1mmも兄から外せない。逸らした瞬間に飛びかってきて喉元を食い破られるような気がした。
「小麦」
兄が洗面台の横の棚から無造作にタオルを投げて寄越した。つい反射的に受け取ってしまい、咬傷に走った痛みに私は顔を顰める。
兄が自分の左腕を指差し、出血を押さえるようにジェスチャーをした。
傷を負わされた当人に指示されるのはかなり不本意だったが、私は不承不承従った。
「痛いか」
兄の質問に、少しだけ首を縦に振る。
その動きの間も私の目線は固定したままだ。兄が何を考えているのか、さっぱり分からない。思い直して自らの蛮行を詫びてくれるのだろうか。
兄妹なのに。長年一緒に暮らしてきた家の中なのに。
一対一で猛獣の檻に閉じ込められているような、この緊張感といったらどうだ。
微動だにせず相対して見つめ合っていると、兄はおもむろに舌を出し、ゆっくり自らの唇を舐めてみせた。なぞられた記憶に身が竦む。
「こんなもんじゃない」
兄は、嗤った。
残酷なほど綺麗なその顔で。
唇が左右に広がってほんの少しのぞいた真白い歯並びが薄明かりに浮かび上がり、そこに私の赤い血が付着しているのが見えた。
ぞくりと、全身に震えが走る。
別人だと、私はそう疑っていた。
ううん、確信していた。
この人の中身は兄ではない。誰か見知らぬ別の人だと。
けど違う。全然違った。
……これはヒトじゃない。
兄の形をした、何か違う"モノ"だ。
怖い。怖い怖い怖い。
これは、禍々しい何か。
人知を超えた──恐ろしい、何かだ。
「あなたなんか、お兄ちゃんじゃない……!」
気が付くと、愚かにも当の本人に向かって、私はそう断言していた。
兄は片手を伸ばして、流れ続けていた水を止めた。私達の間に響き渡っていた音が消え、早暁に相応しい静寂さが戻ってきた。
まるで、さっきまでの騒音のせいで自分を断罪する言葉が聞こえなかったとでもいうように……兄は、否定も肯定もしなかった。
怖い。
足が震える。
今すぐここから逃げ出したいのに、一度口から転がり出てしまった兄への疑念は、地滑りのように止まらない。
「誰なの? なんでこんな事をするの? ──私のお兄ちゃんは、どこにいるの?」
返して。
返してよ。
私のお兄ちゃんを。
大切なの。
大好きなの。
大事な人なのに……!
必死に堪えていた涙が溢れた。言い連ねた言葉たちはもう、泣き言でしかない。
根拠も論理も何もない、感情にまかせてただ喚いているだけの、幼児のような稚拙すぎるディベートだ。
けどいい。
泣いて縋って駄々をこねて、それで元通りの兄が帰ってきてくれるのなら、私はどんなに無様でもいい。
理を尽くして説明したとしても、それで必ずしも聞き入れてもらえる訳じゃないだろう。
けれど仮にもヒトの姿を取れる獣なら、哀れに思う心が一欠片くらいはあるかもしれない。気まぐれに私の願いを叶えてくれるかもしれない。
一縷の望みを託して叫び終えれば、
「ここにいる」
兄は……いや、兄の姿をしたモノは、私に向かって両腕を広げてみせた。どこからどう見ても兄本人としか思えない肉体を提示して、その発言の正当性を主張するように。
「ここにしか、もういない。……これだけだ」
限界だった。私は兄の前から走り去った。
すぐさま追い掛けてくるのでは、と思ったが、兄は洗面所から動かなかった。走り際にちらりと見た兄は胸に拳を当てて何かを考え込んでいた。
兄の部屋は私の隣だ。私は二階には戻らず、一階にある両親の寝室に向かった。母が入院してからはダブルベッドを父が一人で使っていて、朝と呼ぶにも早い時間の為、ぐっすりといまだ寝入っているようだった。
「お父さん!」
泣きながら揺すり起こすと、父はゆっくりと目を覚ました。
「小麦……なんだ、怖い夢でも見たか?」
寝起きの父の中では私はまだ幼い子供らしい。悪夢に怯えて両親のベッドに潜り込んだなんて、そんなの何年も前なのに。
「違うよ。お兄ちゃん、あれ絶対おかしい。お兄ちゃんじゃない!」
しゃくりあげながら訴える。
私の様子に冗談事ではないと気が付いたのだろう、父はベッドの上に身を起こした。
「尋か……私も気になって少し調べてみたんだ。解離性同一性障害って知ってるか、小麦? 限界を越えた辛い体験が引き金になることもあるらしいんだ。いわゆる多重人格のことだけど」
どうやら父も兄の変化に気が付いてはいたらしい。けれど、父と私の認識には天と地ほどの差があった。
「私……違うと思う……だって噛まれたの、お兄ちゃんに!」
「……噛んだ? まだ明け方だぞ。お前達、なんだってこんな時間から子供の喧嘩みたいな真似をしてるんだ?」
父が抱いた感想は全くの見当違いだった。
子供の喧嘩とか……そんな可愛いらしいものじゃないのに。
「だとすると幼児人格……パニック障害……? いや、素人判断は良くないだろうし、専門家に一度診てもらうべきかもしれないな。心配するな、小麦。一時的な症状であることも多いそうだし、たとえ解離障害だとしても家族と周囲の支えがあれば」
「違うってばお父さん、私……!」
私は腕に巻いたタオルを外して、父に傷口を見せようとした。さすがに流血するほど噛まれたのだと知れば、父もそう悠長に構えてはいられないだろう。兄は明らかに異常だと気付いてくれるはず。
……それで?
それでどうなる?
重症だと判断されて、精神科にでも隔離?
あれが治療と薬で治るものなのだろうか。本当に病気なのだろうか。少なくとも私には、ヒトですらない、獣のように思えるのに。
何よりも、あれはお兄ちゃんの身体なのに。
私の手は止まった。
──この期に及んで私は躊躇ったのだ。
父は私が納得したと思ったのだろう、悪戯を直前に思い止まった小さい子を褒めるように、私の頭をポンポンと軽く叩いた。
「小麦……お前は、疲れているんだよ。この一年無理をさせてきたからな。昨夜もほとんど寝ていないんだろう? 横になってしばらく眠りなさい。心配するな、大事な家族だ、尋には注意しておく。朝食の支度も子猫の世話も、私がちゃんとしておくから」
父はそう言って、自分の抜けたベッドに私を入れてくれた。枕からはほんのりと父の愛用しているトニックの香りがする。本当はあまり好きでなかったはずのその匂いに、今、ささくれ立った自分の気持ちがとても安らいでいくのを感じた。
思い出した。小さい時の私は、胡座をかいた父の膝の上に乗るのがとても好きだったのだ。
父の体温が残る布団に包まれると、元々寝不足だった上に泣き喚いてしまった事もあって、あれほど興奮していたのにも関わらず、すぐに眠気が訪れた。父はそんな私を気遣って部屋の扉を静かに閉めて出て行ってくれた。
出勤前の父に迷惑を掛けてしまう。子猫の事も放ってはおけない。
だけど私の脳内キャパシティは、いろんな事があってもう容量がいっぱいいっぱいになっていた。
少しだけ。そう思いながらも、私は次第に泥のような眠りへ引き込まれていく。
さっき……私は父に何と言うつもりだったのだろう。
兄の中に、人ではない何か恐ろしいモノが棲んでいると?
兄は誰かに乗っ取られているのだと?
あれは兄ではない、偽物なのだと──、
……そう、言おうとしていた……?
強く奥歯を噛みしめる。
そんな、荒唐無稽な話。
自分で考えても眉唾物だ。悪夢でも見たんじゃないのかとせせら笑ってしまう。
話を聞く立場だったなら、私だってまず発言者本人の正気を疑う。そっちにカウンセリングを受けるよう勧めるかもしれない。
一体、誰が信じてくれるだろうか。
あの、誰もが認める聡明で優秀過ぎる兄の心がもはや全くの別物になっており、内部には恐ろしい獣が潜んでいるのだ──などと。
精神疾患だと思われて終わりだろう。
そんな事は到底不可能なように思われた。
紛れもない真実だと、痛いくらいに私の心が叫んでいたとしても。
私は、諦めに似た気持ちを抱きながら、深い深い眠りに落ちていった──……。