禍きもの、その名は1
私は、子猫をうちに連れて帰った。
勿論、その前には動物病院に寄った。鶴原アニマルクリニック。数年前までうちのペットも掛かりつけだった、馴染みの病院だ。しかし院長先生はあいにく午後から往診に出ていると言われ、弱り切った子猫を抱いて立ち往生していると、先代のお爺ちゃん先生が併設されてる母屋から出て来てくれた。
「久し振り、小麦ちゃん。おやまあすっかり良いお嬢さんになって」
「院長先生」
「はは、僕はもう引退して悠々自適。代替わりしたからねえ」
裸足にサンダルといった足元ながらも矍鑠とした身のこなしで、鶴原先代院長は私の腕の中を覗き込んだ。子猫は保温のためにショールでぐるぐる巻きになっている。
「僕でよければちょっと診ようか」
「……いいんですか?」
「小麦ちゃんちはお得意様だから」
子供の時から幾度もお世話になってきた先生だ。うちで飼っていたペットの診察は正規料金でも、兄と私が怪我をした野良猫や捨て犬を抱えて駆け込んだ時は、いつも破格の費用で治療をしてくれる人だった。『ゴメンねえ、うちも全額負担までは出来なくて』と、自分の方が悪い事をしたみたいに謝る老獣医。この人に何度小さな命を救ってもらったことだろう。今回も捨て猫を拾ってきたのだと、説明せずとも分かってくれた。
「うんうん、しっかり温めてきたね、さすがだなあ。目が開いてないからまだ小さい。ああ、やっぱり脱水も起こしてる。小麦ちゃんち、子猫用ミルクはまだあった?」
「期限切れてると思うから買っていきます」
「ノミダニだけやっとくから、取り敢えず土日は様子見て。分かってると思うけど、身体あっためて水分取らせてね。何もなければ月曜にまた診せに来てくれる? 検査はその時やろう」
採血その他はまだこの猫には負担が大きいと判断されたのか。
老医師は子猫にスポイトで1cc栄養補給をし、排尿も促したが少量だけで透明ではない。
……検査する必要もなさそうだと思われているのかも。土日が峠、ということか。
唇を噛み締めた私を見て、鶴原医師は穏やかにこう提案してきた。
「君が辛いなら預かるよ。確かおうちの方が大変だったでしょう」
我が家は母が入院し兄も失踪したままだと思われている。
確かに、兄のあの様子では、実質私一人で面倒を見ることになりそうだ。体力的には結構キツイが、幸いな事に週末でもあり、一日二日なら乗り切れなくもない。父に迷惑は掛けてしまうが大目に見てもらえるだろう。
問題は、そうまでして面倒を見た挙句に子猫が助からなかった時だ。情が移った生き物に死なれるのは辛い。過去何度か経験してはいるがその度に毎回打ちのめされる。今までは兄がいた。母がいた。悲しみを共有してくれる家族がいた。けれど今回はほぼ私一人で立ち向かわなくてはならないのだ。
兄ならどうしただろうか。
一年前までの兄なら。
考えるまでもない。兄ならこういう時決して迷わない。優しいだけの人ではないのだ。辛いことも苦しいことも全部見越して、自分が傷付くだろう事も予想して、それでもなお躊躇わずに手を差し出せる強い人だった。
──目の前にいつもある、辿り着けない正解。
そうだ。私にとって、兄は常にそういう存在だった。
私の憧れ。私の理想。私の指標。
兄は私の誇りだったのだ。
「……いえ。拾ったのは私ですから」
ならばせめて、私は見栄を張ろう。耐えられるかどうかなど分からない、でも大好きな兄の……相馬尋の妹として、在りし日の兄だったらこうするだろうと真似るくらいは。
「そう。なら、小麦ちゃん。君に是非とも聞いてって欲しい事がある」
白衣を着ていなくても、隠居されていても。この人は私には一生お医者さんだ。小さい頃から何度も助けてもらった。傷付いた動物達を救ってくれる、ちょっとした魔法を使えるお爺ちゃん。
「覚えておいて。──僕達はね、誰も、万能ではないんだよ」
だからどうか傷付かないで……と。
お互いに無理だと知りながら、それでもそう言ってくれたのだと思った。
動物病院から帰って玄関を開けると、上がり框の所に兄が立っていた。バス停で別れ、鍵を渡して先に帰宅してもらっていたのだ。不機嫌顔の美形の持つ迫力といったらない。
「ただいま」
私は努めて素っ気ない態度を取ろうとした。出迎えてくれた人の顔も見ずに自室へ向かおうとする妹の、腕の中に大事そうに抱き込まれた子猫の姿を見て、兄は平坦な声音で小さく私に告げた。
「無駄だな」
一瞬、足が止まりそうになる。
兄が……
兄の言うはずのない言葉を、また。
挫けそうになった私の気持ちを、幾重にもショールに包んだ微かな重さが支えてくれた。私の心臓の一番近くに寄せた、頼りない命。
今、私が、守るべきもの。
「私の部屋に、絶対に入って来ないで」
強気に宣言して階段を上がり、扉を閉める。これで子猫と二人きり。私は大きく息を吐いた。
私の憧れ。私の理想。私の英雄。
消えてしまった、かつての兄。
大好きだった、私の兄。
取り戻したと思ったのに。
帰ってきてくれたのだと思ったのに。
……どうして?
どうしてなの、お兄ちゃん。
変わったなんてものじゃない。
根底から覆された。
この家にいるのは、兄の姿をした、全く別の人だ。
泣きそうだ。でも泣かない。泣くもんか。
私には今他にやらなきゃならない事がある。
これが例えば豹変した兄を認めたくないが故の逃避なのだとしても、目の前の命を助けたいと願う気持ちだって本物なんだ。
閉めた扉の向こう、二階の廊下を兄が進んでくる気配がした。意外なほどに響かないその足音は私の部屋の前で止まり、そうして兄はまた小声で呟いた。扉一枚挟んで、私がすぐそこに立ち尽くしていると知っているかのように。
「助からないぞ、それ」
追い打ちのように投げつけられた言葉の槍は、私が今一番恐れている点を的確に貫いた。
「……お兄ちゃんなんか、知らない!」
だから、私も詰った。
あれほど会いたくて逢いたくて必死に捜し回った大好きな相手を。
泣き言を繰り出す代わりに投げ返した言葉は、この兄には全然堪えていないのだろうけど。
昼夜を問わず、二時間おきの授乳。胃腸の弱った子猫は大半を吐き戻してしまうが、少量でも飲んだらその都度ゲップをさせて排尿を促す。安心できるよう寝床を設えて、身体を冷やさないための毛布に、タオルでくるんだカイロとペットボトルの即席湯たんぽを置いた。
温もった部屋でベッドに横たわれば熟睡してしまう。私は毛布を頭から被って背中を壁に預け、いつでも様子を見られるよう、あえて子猫の傍の床に座り込んだ。父と兄の眠りを妨げないように、子猫を驚かせないように、アラームは振動のみにセットした。
うつらうつらしながら何回目かの授乳をこなしていた時、子猫は前足を僅かに動かすようになった。
ああ、この猫は必死に生きようとしている。
幼猫の乳をねだる行為が愛しくて、引っ込めることもまだ知らないその爪先にそっと肌を添わせた。
ニ晩が過ぎた。
つきっきりの看病を望んでやっているのだとしても、休憩は当然必要になる。夜明け近く、眠りについた子猫の呼吸が穏やかなのを確認して、私は階下に降りた。
闇に慣れた視界には薄明で充分だ。勝手知ったる我が家でもあり、私は明かりをつけずに行動した。
子猫の容体が急変するのが怖くて、あまり部屋を空けておきたくなかった。私はサッとトイレを済ませ、すきっ腹を宥める為にスポーツ飲料とブロックタイプの栄養補助食品を詰め込んだ。
今日は月曜日だ。学校には少し遅刻する旨を連絡して、開業時間になったら子猫を鶴原クリニックに預けに行こう。検査を受けられるくらいにはあの猫も回復してるはずだ。
徹夜明けの肌がベタつく気がする。シャワーを浴びたいと思ったが、それでは一時目が覚めてもその後眠気がやってくる。家を出る直前にした方が良いだろう。ここは洗顔にとどめておこうと、私は洗面所に向かった。
顔を洗い、パッティングをして、歯ブラシを手にした所で、背後に佇む人影に気が付いてギョッとした。まだ薄暗い彼者誰の中、洗面所と廊下の境の枠木に凭れて無言で私を見つめている。いつからいたんだろう。鏡越しに見る兄は、どこか憮然とした表情をしていた。
「……面白くない」
ようやく喋ったと思ったら、兄はそんな事を言ってきた。
「小麦、俺は腹が減った」
「ご飯なら、カップ麺とコンビニ弁当があったでしょう」
一昨日のうちに父に連絡して、コンビニで色々と買い込んできてもらったのだ。それらと買い置きの食品とで、父と兄の食事は賄えたはず。洗い物だって最小限で済んだだろうに。
「あんなもの」
さも不味そうに口にした兄の台詞は、空腹とビタミン不足(多分)でイライラしていた私の癇に障った。
「お兄ちゃん、頭良いくせに、見て分からないかなあ? 私今、手が離せないの。子猫の看病に協力も応援もしてくれないんだから、食生活の不満くらい我慢してよ!」
……いまだ嘗て、私が兄に向かってこんなにケンカ腰な事があっただろうか。
言い訳をするなら、私は空腹で疲れ切っていた。睡眠不足で頭痛もしていた。子猫のことが心配でずっと不安だった。そして何より、瀕死の生き物に対して冷たい態度を取り続ける兄が、見知らぬ他人のように思えて悲しかったのだ。
「我慢ならずっとしてる。俺はかなり抑えているだろう?」
その兄の態度にカッとなった。
「我慢? 何を? 私には好き放題にしてるようにしか見えないけど!」
……そうだよ。
理由も言わずにいなくなって。
帰って来てもなんの説明も無し。
その上、一番大事なところが別人の如く変わってしまっているなんて──。
これを手酷い裏切りと言わずに何と言うのだろう。
我儘だよ。
勝手過ぎるよ。
釈明出来るなら、お願いだからしてみてよ。
納得させてよ、お兄ちゃん……!
「……馬鹿馬鹿しくなってきた」
それなのに兄はまた対話を投げ出すような事を言う。私は泣き出しそうになって、顔を背けた。
泣いたら駄目だ。泣くのは体力を消耗する。
あの猫の為に今、私が力尽きる訳にはいかないのだ。
兄の事はひとまず保留にして、一刻も早く部屋に戻ろうと、私は途中だった歯磨きを再開した。
「考えてみたらあいつの懇願を聞いてやる必要も、隠れ蓑を纏う必要も、もうないよな」
兄の言葉に傷付いたら負けだ。
何の話をしているのかもよく分からないし。
兄にしては珍しいが、寝ぼけているのかもしれない。まともに聞いてはいけないんだ、きっと。
涙が零れないよう眦に力を入れて、私は洗面台の縁を掴んで俯いた。
「ああ、好きにするさ……」
いつの間にかすぐ側まで近寄って来ていた兄の指が、私の肘を強引にクン、と引いた。