絶望は人型をしている5
兄と私が家を出たのは朝の10時過ぎだった。
病院に行く前に、昨夜差し入れてもらった鍋を綺麗に洗い、お返しがてら高橋家を訪ねる。食べ切れなかった分の肉じゃがは有難く冷蔵庫に保存した。
兄と二人、インターホンを鳴らして玄関先でおばさんが出てくるのを待っていると、犬小屋のベンと目が合った。
「おはよう、ベン」
昔から兄はたいていの動物に好かれる。それはもう羨ましいくらいに。多分動物には本能で分かるのだろう、兄が類い稀なほど優しい人なのだと。家族で動物園や水族館に行くと、ありとあらゆる生き物が兄に寄ってくるので(ペンギンが列をなして水場から上がって来た時は驚いた)、記念写真のベストショットには事欠かなかったくらいだ。おかげでうちのアルバムはちょっとした動物写真集のようになっている。
高橋家のベンも例外ではなく、飼い主であるおじさんおばさんの次くらいに兄へ懐いていた。雑種だけど賢い犬だから、ご近所さんには吠えない。私もたまにおばさんとの散歩に付き合うので、ベンからは光栄にも準家族扱いだ。学校の行き帰りに高橋家の前を通ると門扉から鼻を出してクンクン挨拶してくれるのが可愛くて仕方ない。
そう、だから普段なら、リードの長さギリギリまで擦り寄って来てくれるはずなのに。
「……ベン?」
今見れば、ベンは犬小屋から一歩も身体を出していなかった。小屋の中で四肢に力を込めて踏ん張り、頭を屈めて低く唸り声を上げている。その目は一心にこちらを見つめていた。
それが妙に気になって、お待たせ、と言って出てきた高橋のおばさんに向かって、私は挨拶もそこそこに犬小屋の方を指差した。
「おばさん、ベンどうかしたの?」
「どうもねえ、昨夜から変なのよ、落ち着かなくて。野良狸でもいるのかね」
「どこか具合悪いとか……」
「ちょうどもうすぐ予防接種の時期だし。様子をみて、続くようなら病院に行ってみるから、まあ、小麦ちゃん達はそんなに気にしないで」
心配で堪らない、といった愛情深い視線で飼い犬を眺めながらも、おばさんは私達にそんな事を言う。それからこちらに向き直って、分かりやすく弾んだ声を出した。
「それより良かったね! 昨日は別人かと思ったけど、こうして見るとやっぱり尋くん、相変わらずの色男だ」
「ご無沙汰しています、おばさん」
兄は苦笑して一礼した。
イケメン呼びより色男と言われる方が破壊力があると思うのは私だけだろうか。
「暫く留守にしていたからベンには忘れられちゃったのかな……残念だな」
そう呟いて兄が近付くと、ベンの唸りが止まった。兄は犬小屋の中に手を入れて腹這いに伏せたベンの背を撫でている。
なんだ、気の回し過ぎだったみたい。
兄の背後から様子を窺っていたおばさんと私は、安堵の息を吐いた。
「今日はこれから二人でお母さんのお見舞いかい?」
「うん、そうなの。昨日は有難うね、おばさん。肉じゃがご馳走様でした」
「本当に良かった、お母さんも首を長くして尋くんの帰りを待っていたんだからね。ああ、どんなに喜ぶだろう。あたしからもよろしく伝えておくれ」
鍋を受け取りながら、人の良いおばさんはそっと目尻を拭っていた。
電車とバスを乗り継いで病院に到着すると、午後の面会開始にはまだ少し早い時間だった。外来の診察は午前いっぱいで終了しており、そのためか広い待ち合い室は閑散としていた。出入り口横の自動販売機で飲み物を買って、兄と私は人影のまばらなロビーに腰を下ろした。
「お兄ちゃん、はいコーヒー。カフェオレとブラック、どっちにする?」
兄に選んでもらおうと缶を差し出した時、隅の方のソファに俯いて座っていた初老の女の人の携帯が鳴り響いた。電話に出た彼女は一言二言会話をするといきなり嗚咽を漏らし始め、聞くともなしに聞いていた私はギョッとする。彼女は携帯を耳に当てたままハンカチで顔を押さえ、周囲を憚って足早にロビーを出て行った。
残された雰囲気が重苦しい。私は二つの缶を弄びながら兄に話し掛けた。
「……あの人、どうしたのかな」
「絶望の苦さを味わっているみたいだな」
お気の毒に。家族の誰かが亡くなったりしたんだろうか。
誰にでも起こりうる悲劇だけど、誰もが自分にはまだまだ無縁だと思っている。
病院という場所では普段よりそれがいっそう身近に感じられた。
ぜつぼう。
今までに私はそれを抱いた事があっただろうか。
悲しみや苦しみなら知っている。
兄とは違う不出来な自分に落ち込んだ事もあった。けれど目の前の兄その人が、私は私でいいんだと教えてくれた。
インフルエンザに罹って40度の熱を出した時もあった。身体がキツくて苦行は辛く果てしなく感じられたけど、その一方で一般的にいつかは終息する症状だとも分かっていた。
兄が失踪していたあの辛い日々の中でさえ、きっと兄は帰ってくる、いつか絶対にまた会える、必ず会うんだと、僅かな希望だけは失くしていなかった気がする。
私は多分、絶望というものを感じたことがない。
「甘ったるいのは嫌いだ。苦いのがいい」
「……コーヒーの話だよね?」
私は兄にブラックコーヒーを手渡した。兄は少し考えてからステイオンタブを開け、鼻を近付けて薫りを楽しみ、薄く笑った。
「苦い方が旨いだろう」
そうこうしているうちに時間になった。
私達は母の入院している階へ向かう。
今日の兄は、髪をきちんと整えて、一年前にもよく好んでいたライトブルーのボタンダウンのシャツを着ていた。そりゃあ少し痩せて大人びてはいるけど、それ以外は別れた時の兄そのままだ。昨日の浮浪者のような姿を目にしたのが母でなくて良かった。この格好の兄との再会なら母も安心するだろう。
エレベーターから降りて進んで行くと、顔見知りになった看護師のうちの一人が、ナースステーションからせかせかと歩み寄って来た。
「申し訳ありません相馬さん。お母さん、午前中に痛みを訴えられたので強めの鎮痛剤と安定剤を投与してあり、今は眠っておられます。折角のご訪問ですが、会話は難しいかと」
私は兄と顔を見合わせた。
「……顔を見るだけでもいいので、入室して構いませんか」
母は病室のベッドで静かに眠っていた。部屋まで同行してくれた看護師が、輸液ポンプと点滴筒の確認をしながら母に呼び掛ける。
「相馬さーん? 聞こえてますか、お子さん達がいらっしゃってますよー」
数回目に母の瞼が薄く開いた。
横たわったまま目だけを回して探しているので、私は自分から母の視界に入るように動いた。
「こむぎ」
寝起きの舌足らずさで母が私の名を呼んだ。
「うん、お母さん、私。待ち兼ねていた人を連れて来たよ」
私は、母の視線の先に、兄を手招きした。
「母さん」
兄は母によく見えるように床に片膝をついて顔を寄せた。
ぼんやりとした表情のまま、母は瞬きをする。そして静かに、本当に静かに、呟いた。
「……あなたは、だれ?」
電車がトンネルに入った瞬間みたいに、耳がキンとする。
お母さん──今、なんて?
「尋だよ、母さん」
兄は母の手を取り、教え諭すかのように穏やかな声で名乗った。
「……ひろ……わたしの尋? ほんとうに……?」
「そうだよ、帰ってきたんだ。今まで勝手をしてごめん。これからは俺がここにいるから」
「ごめ……なさい……ねむ……くて……」
半端な覚醒だったらしく、母はまた薬による強制的な眠りに引き戻されていった。
肩を落として枕元から立ち上がった兄を見て、若い看護師の瞳は気の毒そうな色を浮かべていた。
「眠気で朦朧とされてるみたいですね。タイミングが悪かったわ」
「……いえ、いいんです。また来ます」
「是非そうして下さい。相馬さん、息子さんの面会を朝からとても楽しみになさっていたんですよ」
「母をよろしくお願いします」
深々と兄は頭を下げた。
兄の心中を思い、私も慌ててそれに倣った。
帰りのバスの中ではお互いに無言だった。
兄は窓の外を眺めながらシャツの合わせを無意識にずっと弄っている。
家族思いの優しい兄がどれほどのショックを受けたことだろう。
停留所でバスから降りた時点で、耐え切れずに私は前を歩く兄の服の裾を掴んだ。
「お兄ちゃん、あの……さっきのことはあまり気にしないで。お母さんはきっと意識が混濁していたんだよ。お兄ちゃんを忘れてしまったとか、そんなんじゃ絶対にないから……!」
立ち止まった兄の、相変わらず端正な横顔は、どこか戸惑っているように思えた。
「大丈夫、傷付いた訳じゃない。ただ少し不思議だったんだ。どうして……」
みぃ。
何処からか、弱々しい鳴き声がした。空耳かと思ってしまうくらいの、小さい音。
兄の目線を辿ると、草むらに、いかにもといった風情の汚れた段ボール箱があった。天辺が空に向かって緩く開かれたその箱の中身を覗き込むと、元は純白だったのだろう子猫が一匹だけ、灰色に汚れた姿で力なく体を投げ出しているのが見えた。
産まれたばかりだろうか。あまりにも小さい。猫に対して箱が大き過ぎると感じたので、最初は他にも何匹か入れられていたのかもしれない。兄弟達は通りすがりの誰かにもらわれていき、この一匹だけが最後に残されたのか。春先とはいえ夜はまだ冷える。身を寄せ合う相手もいなければ、寒さが酷く堪えたに違いない。
「お兄ちゃん、これ、捨て猫……」
私は、何故か元の場所から動かずに待っている兄の方へ振り向いた。
兄は、困っている生き物を見過ごせない人だった。怪我した野良、捨てられたペット、そういうものをいちいち拾ってきては看病してしまう。手当てをして元の場所に帰すこともあれば、その広い人脈で里親を探してくることもある。今はいないけど、うちでも何匹か飼っていた。交通事故にあい道路脇に捨て置かれた動物の遺体に行き会えば、兄はいつも沈痛な表情で丁寧に埋葬していたものだった。
その兄が、整った仮面のような無表情で、私を見返した。
「……だから?」
「え?」
一瞬、兄の言葉の意味が本気で分からなかった。
それで私の反応はとても愚鈍に見えたのだろう。兄はつまらない演目を眺めている観客のように冷め切った目をしていた。
「死にかけには興味がない」
ぶわりと全身の毛が逆立った。
違和感が毛穴の一つ一つから心臓へと押し寄せてくる。手足の先から冷たく身体が痺れていき、自由にならない肉体の奥、心の中で私は身をよじって叫んでいた。
兄じゃない。
兄じゃない。
この人は絶対、兄じゃない。
お兄ちゃんはこんな事言わない……‼︎
生まれて初めて知った本物の絶望は───私の目の前に、大切な人の姿をして立っていた。