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絶望は人型をしている4

 結論から言うと、兄は黙秘を貫いた。


 失踪の原因。

 この一年何処に居て、何をしていたのか。

 何故今帰って来られたのか。

 それら全てを語ることは出来ないと、父に向かって兄はそう宣言をしたそうだ。




 食事の間中、兄と二人きりで話したいとの素振りを父がしきりに見せていたので、私は兄の部屋のベッドメイクをするという名目で中座した。

 入院した母の代わりに定期的に掃除をするようには心掛けていたものの、一年ぶりに主の戻って来た部屋は少しだけ湿っぽい。明日は換気をして掃除機を掛けなければ。そう考えて私の口元は緩んだ。兄のために出来ることがあるというのは、なんと幸せな義務だろうか。

 時折干しては祈りのように元通りにしていた真冬の寝具を、清潔で軽めな春先のものに取り替える。兄にとってはベッドで眠るのも久方振りなのかもしれない。肌触りの良い綿毛布に、兄のお気に入りだったリネンを揃え、少しでも心地良く眠りにつけるように枕を膨らませた。

 弾んだ気持ちのまま階段を降りていくと、リビングの扉が開いて、その隙間から兄を引き留める父の声が聞こえてきた。兄はドアノブに手を掛けたまま物憂げに室内へ振り返った。


「……いいかな、父さん。疲れてるんだ。もし良ければ、自室に戻って休みたいんだけど」

ひろ、何故真実を話せない。残された私達がどれだけ苦しんだと思って」

「ごめん。……家族皆に長い間心配と迷惑を掛けて申し訳ないとは感じていたんだ」


 父と兄との緊迫した会話に、私の足は階段の途中で止まった。


「口止めでもされているのか」

「……」

「誰かに脅されているというのなら私が全力で盾になる。それでは頼りない、不十分だと感じるならば、司法にも助力を求めよう。後生だから一人で抱えこまないで相談してくれないか」

「……」

「尋、私はお前の助けになりたいんだ」

「……父さん」


 苦渋の詰められた兄の声音を耳にして、父が追及を躊躇ったのが分かる。兄はひとつ溜息をついた。


「気持ちは有難いけど、いいんだ。もう終わったから」

「──本当に?」


 訝しむ父に向かって、兄は鷹揚に肯いた。父は納得していない雰囲気だったが、兄の体調を慮り、今宵の話はどうやらそこで打ち切られたようだ。

 廊下に出て来た兄と私の目線が合う。驚いた様子がないから、私が二人の会話を聞いていたことくらい、とうに気が付いていたのだろう。

 立ち聞き──ではないはずだ、不可抗力で漏れ聞こえてきたのだから。しかし気まずさに階段から動けない。そんな私を見上げながら、兄が一段ずつ近付いてきた。


「聞いてたろ、小麦。全部終わった事だから、心配するな」


 全部?

 全部って、何? 何の全部?


 私の疑問は顔に出ていたようで、兄は説明の言葉を足した。


「全部は、全部。何もかも。一切合切。試合終了ゲームオーバー。ジ・エンド」


 短い単語を歌うように口ずさみながら、踊り場に立ち尽くす私の横を、兄が軽快な足取りですり抜けて行く。

 こんな風に喋る人だっただろうか、兄は。


「だからさ、心配するな。……心配しても、もう意味が無い」


 ハッとして、去っていく兄の姿を目で追えば、その口のに浮かぶのは、不可解な笑み。


 こんな風にわらう人だっただろうか、私の兄は。


 そのまま兄は階段を上り切って、迷いのない足取りで奥へ進んでいった。

 私の部屋の隣。

 兄と私が小学校五年と三年で子供部屋を分けられてから、ずっと定位置だった自分の部屋へ入り、兄の姿は扉の向こうに静かに消えた。


 考え過ぎだ。今の言葉には心配性の妹を宥めるための思い遣り、おそらくはそれだけの意味しかないはずなのに。

 ──手遅れだ、と嘲笑われたような気がするなんて。







 明けて、翌日は土曜日だった。

 週休二日制などとは無縁の職種についている父は、土曜も普段通りに出勤していく。日曜には残業を免除されている代わりの休日出勤もたまにある。

 朝食の席に顔を出したのは父と私の二人きり。早寝早起きがモットーであった兄の部屋からは、起きている気配もしない。


「……お兄ちゃんが寝坊なんて、珍しいよね」


 ご飯党だった父も、最近では週末だけはパンとコーヒーの朝食に甘んじてくれる。土日は外食するからと言ってお弁当もナシだ。つたないながらも平日毎日二人分のお弁当を作っている私を、父なりに慰労してくれているのだ。

 兄が階段を下りてくる音がしないかと聞き耳を立てながら、父と差し向かいで濃い目のコーヒーに口を付ければ、


「昨日の今日だからな」


 苦笑して、寝かせてやれ、と言いつつ父も天井を見上げていた。



 兄の変容に父も気が付いているのだろうか。

 あのさ、お父さん。お兄ちゃん……前と何だか違うよね?

 そう、相談してみようか。


 ……いや、でも、さっき父も言ったとおり、兄は帰ってきたばかりなのだ。語りたくない、思い出したくもない辛い体験に、未だ心が乱れているだけなのかもしれない。ここは兄が落ち着くまでそっと見守っておくべきなのかも。

 兄の生死も分からなかった一年間の焦燥を思えば、それくらい余裕で待てる。

 生きて帰ってきてくれた。ここに戻ってきたいと思っていてくれた。それだけで十二分に私は報われた気持ちだ。

 だから、完璧でなくてもいい。少しくらい変わってしまった兄でも、きっと受け入れられる。

 私達は家族なのだから。



「なあ小麦、今日は病院に行く日だろう? 尋の顔を母さんにも見せてあげてくれ」


 母の病院はうちから少し離れていて、電車とバスを数回乗り継いで行かなければならない。私の通う学校からだと更に遠回りになるため、私は放課後に家事と勉強をこなし、母への面会は平日仕事帰りに父が、週末は私が行くという分担ルールが出来ていた。


 昨夜私からの留守電を聞いた時点では慎重を期してまだ母に黙っていた父だが、今朝一番に兄の帰還をメールで報告したという。昨今では集中治療患者でもない限り、病棟の通信規制はわりと緩やかだ。母が首を長くして兄との面会を待っているのだろう事は、考えるまでもなく予想がついた。


「ね、お父さん、お兄ちゃんにお母さんの話は……?」

「昨夜は何も言っていない。折を見て私から告げておこう」

「分かった」


 責任を父が引き受けてくれたおかげでホッとする。

 クッと大きくコーヒーカップを傾けて最後の一滴まで飲み干すと、父は通勤鞄を持って立ち上がった。




 洗濯をしたり食器を片付けたりして、それから小一時間ほど待ったけど、兄は一向に降りて来ない。……まさか、またいなくなったりしてないよね?

 私は、兄を起こしに行くことにした。

 階段上の小窓からは朝日が差し込み小鳥の鳴き声がして、春だなあと思う。病院に行く前に、出来れば兄の散髪に寄りたい。そうそう、忘れずにクリーニングも出しておかなくては。


「お兄ちゃん、お早う。起きてる?」


 兄の部屋の扉をノックしたけど、返事がない。

 え、嘘だよね。まさか、本当に?


「……開けるよ?」


 不安になってやや性急に踏み込むと、入り口側に背を向けて兄は窓辺に立っていた。

 逆光。風にたなびくカーテン。

 一瞬、兄に翼が生えたのかと思った。勿論錯覚だったけど。

 網戸まで開放された窓から入り込んだのか、羽毛がひらひらと舞う。視覚効果も満点だ。


「な、にしてるの、お兄ちゃん?」


 勘違いが気恥ずかしい。

 そういえば幼い頃の私は、兄のことを本物の天使だと思い込んでいたっけ。

 兄の不在に怯えるこの気持ちも、まるで小さい子供のようだ。


「足りない……おなか、空いたな」


 誰に聞かせるともなく呟いて、兄はゆるりと振り向いた。

 顔を洗いもしないうちから美貌を誇れるのは卑怯だと思う。パジャマ姿が減点にさえならないのだっておかしい。無精髭の片鱗も見えないのは伸びが遅いのだろうか。


「起きてるなら降りてきてよ。今朝はトーストだよ。食べたらお母さんの病院まで出掛けよう? お兄ちゃんに会いたがってるし」

「トースト……ああ、パンか。朝はお米じゃないんだ?」

「……手抜きでスミマセン」


 そうか。今まで兄がどこにいたのかは結局教えてもらえなかったけど、もしどこか異国から帰ってきたのだとすれば、今はお米がとても恋しい時期かもしれない。昨夜だけでは物足りなかったのか。迂闊だった。今朝くらいはご飯を炊いてあげれば良かったな。


「別にいい。だいぶ馴染んできたし」

「……それは確かに食べ慣れたお母さんの味とは違うけど」


 正直、料理上手なお母さんと同レベルのものを私に求められても困る。

 昨夜の肉じゃがだって高橋のおばさん作だし。


 少しだけ恨めしい気持ちで兄を見れば、髪に羽毛が絡んでいることに気付いた。先程風で舞い上がった時に付いたのだろうか。


「駄目じゃない、お兄ちゃん。網戸閉めないからだよ」


 何気なく腕を伸ばして兄に付着したゴミを取り除こうとすると、その前に何故だか指を掴まれた。


「? お兄ちゃ……」

「焼いた小麦より生の方が食べたい」


 そう言って、兄は私の指にぺろりと舌を這わせた。


「⁉︎」


 咄嗟に、強く振り払ってしまう。


「な、な、な」


 何を、今。

 動揺して詰問することも出来ない私へ兄は軽く微笑むと、窓を閉め、部屋の中を横切ってクローゼットに向かった。それから妹の存在を気にするそぶりも見せずにパジャマのボタンを外し始める。


「冗談。冗談だよ、小麦。ちゃんとパンから食べるから」

「……ッ、やる事たくさんあるんだから! 早く着替えて降りて来てね‼︎」


 飄々とした兄の態度に困惑の持って行き場をなくして、私は半ば八つ当たり気味に叫ぶと、足音高く兄の部屋を出ることにした。

 こんな、悪ふざけみたいなからかい方をする人じゃなかったのに。やはり兄は変わってしまった。この変化は一時的なものなのか、不可逆的なものなのか。それが良い事か悪い事かは別にして、丸ごと兄を受け入れると決めたつもりだったけど、私が慣れる日は来るのだろうか?



 そういえばうるさいくらいに聞こえていた小鳥のさえずりがしなくなったな、と。立ち去り際に、ふと思った。

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