絶望は人型をしている3
何よりも先に兄にはお風呂に入ってもらった。
感動の再会の瞬間が過ぎてしまえば、隠し切れない異臭を我慢するのがもう限界だったのだ。
兄の脱いだ服(ボロ布に限りなく近い代物だけど、ついさっきまで兄が着ていた事に免じて一応服のカテゴリーに入れとく)をビニール袋に纏めてもらって厳重に口を縛り、勝手口から外に出す。これは手洗いで下洗い、もしくはこのまま廃棄だ。うっかり洗濯機で洗ってしまおうものなら、この先数週間は他の衣類にまで臭い移りするのが目に見えていた。
既に私の制服もヤバい。どこのスカンクに襲われたの? シュールストレミング開けたの? ってレベルだ。消臭スプレー死ぬ程掛けたら、これも袋に入れて屋外に隔離。明日速攻でクリーニングに出さないと、もう女子高生を名乗れない。
部屋着に手早く着替えてから、兄の入浴中に食事の支度を済ませられるように動く。
どう見てもまともな生活を送っていなかったに違いない兄。取り敢えず常備していた経口補水液は含ませたけど、あの様子では控えめに言っても腹ペコなんだろうから。
「すぐにお父さんに連絡するんだよ! 積もる話が色々とあるだろうから、家族水入らずの方がいいよね。うちで何か力になれる事があったら遠慮なく言って頂戴」
高橋のおばさんは涙ながらにそう言うと、聞きたいことが山ほどあるのだろうに、私と兄を二人きりにしてくれた。こういうところ、本当に良い人だと思うんだ。
私もおばさんを見習って、喉までせり上がって来ていた幾つもの質問をグッとお腹の底に飲み込んだ。まずは兄を労わろう。汚れを落としたら清潔な衣服、それから温かい食事だ。
帰還祝いにおばさんが鍋いっぱいの肉じゃがを差し入れてくれたので、私はご飯を早炊きモードで炊いて、サラダとお味噌汁を作った。お味噌汁の具は兄の好きな豆腐とワカメ。彩りにサヤエンドウを茹で、魚焼きグリルに塩サバを並べて焼き上がりを待っていると、お風呂場の方から兄が私を呼ぶ声がした。
「どうしたの? お兄ちゃん」
扉越しに質問する。帰ってきた答えはくぐもって反響していた。
「小麦、ハサミを持って来てくれないか。髪が絡まってほどけない」
「分かった」
洗えば何とかなるかと思っていたけど、複雑に縺れ合った兄の髪は元には戻らなかったらしい。私は一旦キッチンに戻ってグリルの火を止めてから、大バサミを持って脱衣所に引き返した。兄に声を掛け、浴室の扉の隙間から渡して去ろうとすると引き止められた。
「後ろがちょっと無理だから、お願い出来ないか」
「……うん」
私は少し躊躇いつつも靴下を脱いで袖を捲った。浴室の扉を開けると湯気がもわんと立ち込めていた。異臭はかなり薄まって、室内には石鹸の良い香りがした。
中に入ると、兄は入り口側に背を向けて洗い場に座っていた。腰にタオルを巻いてくれていたのでホッとする。兄と私が一緒に入浴していた幼い日々はもう遠い昔だ。
「縺れてる部分を切ればいいのね?」
「適当に短くしてくれていい」
「……私あまり上手くないよ。あとでちゃんとお店で揃えてもらってね」
予防線を張るつもりで言うと、兄は小さく含み笑いをした。
「悪いな」
「ううん」
背中の中ほどまで伸びた兄の髪をザクザクと大まかに切っていく。縺れて毛玉のようになった箇所は確かに手櫛も通らないほどだ。時々、ザリ、という音が混じるのは、どうやら砂の塊か何かみたいだ。一体どういう生活を送っていたのだろう。
溜めたはずの湯舟が空になっていたので不思議に思って尋ねると、
「……茶色というかドス黒いというか呪われた沼色というか……お湯が凄い有様になったから流した」
との返事が返って来た。
さもありなん。
浴槽を洗ってあるのが兄らしい。
後ろからほぼ全体を切り終えて兄の肩に落ちた髪を払う。これでだいぶサッパリしたはずだ。
「ありがとう、小麦」
兄がハサミを受け取ろうと肩越しに手を伸ばしてきたので、
「ついでに全部切ってあげるよ」
バランスを見ようと、何気なく正面の鏡に目を向けて、私はそのまま固まった。
鏡の中の兄。
運動神経が良くもともと引き締まってはいたけれど、そこから更に脂肪が削ぎ落とされて鍛え抜かれたアスリートのようになった肉体。
その兄の腹部には大きな傷があったのだ。
一年前には確かに無かった、治りかけの、醜く引き攣れた傷痕が。
「……ああゴメン。見て気持ちいいものじゃないだろう」
ハッと気が付いたように兄は両腕で腹部を隠そうとする。
意識的に髪だけに集中していたから気付けなかったけど、よくよく見れば兄の身体には背中側にも細かい傷痕があった。パッと見では分からないが光の具合で地肌との差異が浮かび上がるような、もう治ってしまった無数の傷痕が。
「きっ……気持ち悪くなんか!」
「小麦、危ない」
兄に手を掴まれる。無意識に私はハサミを振り回していたようだ。兄の指が私からそっとハサミを取り上げた。
「……髪を洗った後、髭を剃って上がるから。実を言うと滅茶苦茶お腹空いてるんだ。何か食べさせてくれると嬉しい」
宥めるように紡がれた兄の言葉に、私はなんとか肯いて浴室を出た。あからさまに話を逸らされたのだと気付いてはいたけど、兄が空腹なのもきっと本当だろうから。
廊下の壁に凭れて大きく息を吐く。そのまま立ちくらみを起こしそうになったので、私は床にズルズルと腰を下ろした。自分で思っていたよりショックを受けているようだった。
兄は、誰にあんな傷を負わされたんだろう。
……あんな傷、絶対痛い。
痛かったはずだ。
もしかしたら生死に関わる大怪我だったのかも。
死ぬところだったのかも……。
背筋に急に寒気が走って、私は自分の身体に両腕を回した。
あんな怪我をして。
あんな格好をして。
───兄に一体何があったというのか。
お風呂から上がってきた兄は、スウェットの上下を身に着けていた。私が兄のタンスから持って来たんだから兄自身の服でサイズは合ってるはずなのに、どうしてか妙にちぐはぐな感じがした。
「ご飯出来てるよ、お兄ちゃん」
「ああ、ありがとう」
濡れた髪をタオルで拭きながら、兄はダイニングと一続きのリビングのソファに座った。昔から兄は食卓で身繕いするのを良しとしないのだ。ドライヤー嫌いなのも相変わらずのようだった。
髪を切り髭をあたった兄からは鼻を突く異臭がすっかり消えていて、ついさっきまで浮浪者同然だった人とは思えない。余計なものが取り払われて生来の端正な美貌が剥き出しにされており、眺めているだけで溜め息が出そうだ。
こうやって見るとやはり兄だ。兄以外にはあり得ない。これ程完成された人間が他に存在し得るだろうか?
まあ些細な違いをあげるとすれば、1年前より兄の身体はずっと筋肉質に、顎のラインは記憶にある形よりシャープになっていたけど。
……その所為だろうか。これは確かに兄なのに、兄以外の何者でもないはずなのに、以前の兄からは考えられないような印象をも受ける。
何て言うんだろう。触れたら切れる刃物みたいな、人に慣れていない野生の獣みたいな、そういう一種尖った美しさ。
それが今の兄には内包されているような気がするのだ。
「……小麦?」
ダイニングから凝視する私を訝しく思ったのだろう、拭き終えたタオルを首に掛けて兄が私の方へ歩み寄って来た。
急拵えで切った兄の髪は、やっぱり不揃いでザンバラだ。それが私には、兄という宝玉についた瑕瑾のように思われた。
咎めるような私の視線に、兄は自分の髪をひとつまみ掬ってみせた。
「髪? 変かな?」
「うっ……下手くそでゴメン」
「いいんだよ。髪を伸ばしていたのも半分は願掛けだったんだから」
「願掛け?」
「うん。もう叶った」
兄が切なげに笑う。
「……他でもない、小麦に切ってもらえて良かった」
その言葉から、兄の抱いていた望郷の念が透けてみえた。
やっぱり、兄は私達家族の元に帰りたかったんだ。
そんなに、そんなに、帰りたかったんだ。
……良かった。
置いて行かれたと、捨てられたと思ってしまわなくて良かった。一瞬でも疑わなくて良かった。信じて待っていて良かった。
兄が帰って来てくれて──ああ、本当に良かった。
私の目頭は熱くなった。
立ち尽くす私の頭を、兄がそっと引き寄せる。髪を梳きながらまた頭を撫でられた。兄の体温に包まれているだけで満ち潮のように安心感が押し寄せてきて、まるで自分が無力な子供に戻った気がした。
兄は私の耳元で問いを囁いた。
「俺のいない間何もなかった? 父さんと母さんも……皆無事か? 平気か、小麦?」
何もなかった訳がない。
お兄ちゃんがいなくなって……家族の一員が理由も分からず姿を消して、残された私達が平気な訳ないでしょう。
辛かったよ。
苦しかったよ。
寂しかったよ。
心配で気が狂いそうだったよ、お兄ちゃん……!
でも多分、今、兄が訊いているのはそういう意味じゃないのだ。兄はきっと、私達が想像していたよりももっとずっと酷い状況下にいて。自分が負ったような怪我を家族がしていないかどうかを気にしているのだろう。
どこまで行っても優しい人だ。
その人にどれだけ本当の事を話せばいいのか。
私は躊躇したけれど、あまり大きな嘘はつかない方がいいと思った。
「私達はね、平気。……お母さんは今ちょっとだけ体調を崩して入院しているけど、お兄ちゃんが帰ってきてくれたんだもん、きっとすぐに良くなると思う」
「母さんが……」
兄は言葉を途切れさせた。睫毛が震える。
「……俺のせいだな」
違う。それは違う。
私は千切れんばかりに首を左右に振った。
辛そうな兄の表情から、今までのことは本人が望んで引き起こした事態ではなかったのだと、容易に察しがつく。
自分が傷付くよりも他人を傷付ける方が痛いと感じるような人だ。
兄もきっと苦しんでいた。
ううん。兄の方が、私達よりもっとずっと、酷い目にあっていたはずだ。
私はスウェット越しに兄の腹部へ軽く手を添えた。手当て、という言葉の通り、幾ばくかでも私が兄の治癒に力を貸せたならいいのに。
「……痛かったでしょう」
「この傷か? いや、大丈夫だよ。身体の痛みは切り離せる」
なんでもない言い方。兄にとってこの一年、怪我は日常だったのだと思い知らされる。
「そんな事より、お前が無事で良かった。あいつらも最低限の約束くらいは守るんだな」
「あいつらって……?」
「いや、ごめん。それは終わった話だ。……逢いたかったよ、小麦」
質問を封じるように、私を囲む兄の両腕に力が入った。
「逢いたかった逢いたかった逢いたかった……! お前の無事をこの目で確かめずにはいられなかった。もう一度逢う為なら何でもすると誓ったんだ、だから」
兄の喉から言葉の濁流が迸り、唐突に止まった。何故だろう。私にはそれが、まるで断ち切られた悲鳴のように聞こえた。
「──これで契約成立だな」
次に兄の口から零れたのは、辛うじて聞き取れるかどうかといった声量の、低い呟き。言葉の意味はよく分からない。その後数秒間、不自然な沈黙が続いた。
「……お兄ちゃん?」
私は思わず兄の様子を窺ってしまう。
もしかして傷が痛むのではないか、大丈夫なのか、と。
しかし暫くの空白の後、兄は何気無く言葉を繋いだ。
「それにしても、いい…………いい匂いだ」
私を抱きしめたまま、兄がすんすんと鼻を鳴らした。普段兄がしない野卑な言動に瞬間私は違和感を抱いたけど、つまりイレギュラーになる程に空腹なのだろうと思い直した。
「凄く旨そう。食べていいか?」
ああそうだ。兄のために折角作った食事が冷めてしまう。私は手の甲で涙を拭い、兄の腕の中で首肯した。
「勿論だよ。お腹空いてるんでしょう。いっぱい食べて、お兄ちゃん」
ニィ、と兄の唇が弧を描く。そんな風に兄が嗤うのを初めて見て、私はまたも違和感を抱いた。兄はどうかしている。それほど空腹なら、早く食事をしてもらわなくては。しかし私の言葉が終わるか終わらないかのうちに、玄関のドアが乱暴に開けられる音がした。
「小麦! 尋が戻って来たっていうのは本当か⁉︎」
父だった。そのままバタバタと慌ただしく靴を脱いで上がってくる気配がする。仕事帰りに母の病院に寄ってくるのが常なので、いつもより大分早い時間の帰宅だ。携帯の留守電メッセージを聴いて急いで帰ってきてくれたのだろう。
「お兄ちゃん、お父さんが」
「……ああ、分かった」
私が促すと、兄は私から手を離し、帰宅した父を迎えるべくリビングを出て行った。私も慌ててその後を追う。
お兄ちゃん、今、舌打ちした?
……まさかね。