絶望は人型をしている2
『ボロ雑巾が落ちている』
最初に思ったのはそれだった。
「ああ、小麦ちゃん、小麦ちゃん!」
買い物袋をぶら下げて帰宅した私に、待ち構えていたように庭から声を掛けてきたのは、近所に住む高橋のおばさんだ。三軒離れた同じ町内に居を構えていて、高橋家の角を曲がればうちが見える。洗濯物を取り込んでいる最中だったらしく、おばさんの手にはタオルが数枚握られていた。
「ただいまおばさん。今日は駅前のスーパーでパスタが半額だったよ。安かったからいっぱい買っちゃった。良かったら少しいる?」
時々貰うお惣菜のお返しに乾麺をお裾分けしようと差し出せば、いつもならにっこり笑顔で受け取ってくれるおばさんは、気もそぞろに私を促した。
「良かった、会えて。心配していたんだよ。ちょっと見てごらん、あんたんちの前に変なものが」
高橋のおばさんに言われて曲がり角から首を出し自宅の方を覗いてみると、うちの前の通りに茶色のような灰色のような布状の塊が落ちていた。
誰だろう、人んちの前にゴミを落として行ったのは。もう、ちゃんとゴミ捨て場に捨ててよね。
通り道に落ちているだけなら確実に避けて通るところだけど、如何せんその塊は我が家の玄関の丁度正面に鎮座していた。うちのゴミではなくても、放置しておいたらご近所の目が痛い。今現在この家の管理責任者は私だ。父の帰りは今日も遅いのだろうし、母に至っては言わずもがな。
雑巾かな。ううん、雑巾にしては大きい。捨てられた毛布かも。あれ、毛布って燃えるゴミで良かったんだっけ? 嫌だな、お向かいの田尻さん、ゴミの分別にうるさいから。資源ゴミの日っていつだったかな……。
頭の中で処分方法を検討しながら眺めているうちに、ゴミにしか見えなかった物体がどうやら人であるらしいと気が付く。
「えっ、おばさんあれ」
ギョッとして伸ばした首を引っ込めると、
「……なんだろうね。ベンの夕方の散歩から戻って気が付いたらあそこにいたんだけど」
と、浮かない顔でおばさんが教えてくれた。
ちなみにベンというのは高橋家の愛犬だ。
問題の人物は、擦り切れて薄汚れた布地で頭から爪先まで全身を覆い隠し、地面の上に直接横たわって胎児のように身体を丸め、眠っているのかピクリとも動かない。
遠目で分かるのはそれだけだ。男なのか女なのか、若いのか老人なのかも、ここからでは見分けがつかない。
そもそもあの人、生きているのだろうか。
……行き倒れだったりしないよね。これって救急車呼ぶべき?
「もしかして浮浪者かしら。嫌だねえ、こんな住宅街に」
おばさんの言葉に、私の顔が引き攣った。
どうしよう。迂闊に近寄ったら危ないのかも。
「お父さんは今日も病院寄って来るんだろう? 小麦ちゃん、取り敢えずおばさんちで待ってなさい。もうすぐうちの旦那が帰って来るから、立ち退くように言ってもらおう。それでも駄目なら警察に連絡を……」
そこまでおばさんが言った時、汚れの塊が身じろぎをした。長い間お風呂に入っていないのだろう、絡まり合って縺れた長い髪が布の合間からパラリと垂れた。
顔は見えない。
でも、その肩の動きに既視感があった。
「…………ちゃん?」
「あっ、小麦ちゃん、危ないよ!」
おばさんの制止をよそに、私の足は勝手に前へと駆け出した。
そう遠くもない距離なのに気持ちが逸り、うちの前に着いた時には息が上がっていた。そのせいで軽く吐きそうになる。
横たわる正体不明の人物に近付くと、鼻が曲がるような饐えた匂いがしたから。
「待って、小麦ちゃん!」
高橋のおばさんが心配して追い掛けて来てくれた。でも不測の事態に備え、それ以上私に近寄らないよう、身振りで止める。
「ごめん、おばさんはそこにいて」
漂う異臭に気持ちが竦んで尻込みしたくなったけど、自分を叱り飛ばしてその場に踏みとどまる。きっちり確かめないうちは逃げ出したりするものか。
気合いを入れて喉から押し出したはずの私の声は、けれど語尾が僅かに震えていた。
「……ねえ、もしかしてお兄ちゃん?」
私の問いかけを聞いて、背後で高橋のおばさんが息を飲んだ。
しかし眼前の相手は無反応だ。
私の言葉が分かっているのだろうか。
聞き耳を立てている気配があるから、意識はあると思うのだけど。
「分かる? 私、小麦だよ。……お兄ちゃんなんでしょ。お願い、顔を見せて」
と。いきなり相手が身を起こし、私は悲鳴を飲み込んだ。足がたたらを踏む。
「小麦ちゃん!」
高橋のおばさんも同様だったらしく、小さく叫ぶ声がした。
そんな私達の動揺をよそに、相手は地面に座り込む形を取ると、そのまま動かずじっとしていた。どうやら話を理解しているようだ。
び、びっくりした。
「おばさん。大丈夫だから」
背後のおばさんに頷いてみせる。落ち着きを取り戻そうと深呼吸しかけて、私は悪臭に涙目になった。
相手は全身から力を抜いて座っている。顔を自分で晒す気はないとみえて、俯き加減で微動だにしない。不用心と言われても仕方が無いが、私には目の前の人が何かを企んでいるようには思えなかった。
背格好がどうしても兄に似ているのだ。
「……いい?」
震える指を相手の纏う布地に伸ばす。
拒絶の意志はみられなかった。
近くで見るとそれは、ただの布でも毛布でもましてや雑巾でもなく、フードのついた外套のような衣服──ただし尋常じゃなくボロボロで薄汚れている──だということがわかった。
土と汗に塗れた服は、長いこと路上生活でもしていたのか垢じみて、まともな女子高生なら触れるのも躊躇う不潔さだ。それを捲り上げて相手の顔を晒すには、肥溜めに腕を突っ込むような勇気が必要だった。
呼吸を止めて一気にフードを捲る。
夕方の光のもとに晒されたのは、長い黒髪に覆われた頭部。肩よりも長く伸びた髪。長いだけで手入れはされていない。縺れて絡み合っている。
兄は短髪だった。にしては伸びが早くないだろうか?
肝心の顔はまだ俯いており、伸び放題の髪に隠されて判別出来なかった。
「……お兄ちゃん? 触るよ?」
一応断ってから、指で簾のような髪を恐る恐る掻き分ける。私の動きに連れて相手がゆるりと顔を上げた。
その顔は、修行僧が瞑想しているかのごとく目を瞑っていた。そして髭面。荒れてはいるが肌の感じは若い。これで少なくとも若い男性だという事が分かった。
まばらに生えた髭の所為で、男の下半分の顔がよく分からない。未だかつて私は髭のある兄の顔を見たことがなかった。生えない体質なのだとばかり思っていたけど、もし目の前のこの人が兄であるならば、一年前までは毎日きちんと剃っていたのだろう。
記憶の中の兄の人相と照らし合わせてみる。
鼻の形。似てる。
眉の形。似てる。……前は眉間の皺なんて無かったけど。
目の形。閉じていて分からない。兄が寝ているところをまじまじと見たこともないし。でも、よく似ている……ような。
お兄ちゃんかな。
お兄ちゃん、かも。
他人の空似にしては似過ぎてる。でも少し違う。何て言えばいいのか分からないけど、どこか違和感がある。
昔のままの顔じゃないのは、年齢と環境が変わったから? たった一年ちょっとで人ってこんなに変わるものなの?
それでも、……うん。
やっぱり兄のような気がする。
「目を開けて、お兄ちゃん」
心臓がバクバクしてきた。
こんなに期待しておいて、兄じゃなかったらどうしよう。
こわごわお願いしてみると、伏せられていた男の瞼がゆっくりと開いた。その長い睫毛には確かに見覚えがある。
夕日の反射か、一瞬瞳が違う色に見えたけどすぐ黒に戻った。私が見ると同時に、私も相手に見定められた。私達はお互いに相手の素性を検めんと見つめ合う。
記憶にある兄の眼差しより眼光が鋭いかも。
反芻してそう思った瞬間、男の瞳が僅かに弧を描いて細められた。……柔らかく微笑んだのだ。
「──小麦」
懐かしいその声で、すべての疑問が氷解した。
「お兄ちゃんっ……‼︎」
もう悪臭なんかどうでもいい。私は兄に抱き付いた。
温かい。生きている。夢じゃない。本物の。
お兄ちゃん。
お兄ちゃん。
お兄ちゃん。
お兄ちゃんだ……!
「まあ、尋くん。尋くん、本当に……⁈」
高橋のおばさんが感極まったように呟くのが聞こえた。
おばさんにお礼を、それから兄に説明をしてもらって、そう、父と母にも連絡をしなくては。
頭では理路整然とそう思うのに、実際私の出来た事と言えば、子供のように兄に縋ってわあわあ泣くだけだった。
「お、お兄ちゃ……、おかえりなさい……っ!」
涙で鼻が詰まって丁度いい。兄の臭いを気にしなくて済む。
この手を離したら幻のように消えてしまうんじゃないか。また独りで何処かへ行ってしまうんじゃないか。
そんな不安を封じ込めるために、私は腕に力を込めた。されるがままだった兄は、暫くしてようやく片手で私の頭に触れた。髪をさらりと梳かすように撫でる。
ああ、兄だ。兄の触れ方だ。昔から私が泣くとこうやって頭を撫でてくれた。
堰が決壊したのか、私の涙はとめどなく流れ続けた。
兄は多分、少し困ったように笑っているんだろう。嗚咽を繰り返す私の髪を梳きながら、耳元で兄はそっと囁いた。
「……うん。帰ってきたよ。小麦に逢う、そのためだけに」
泣き過ぎて私の鼻は馬鹿になっている──はずだったのに。
触れ合った兄の身体からは、動物園の檻の向こうにいるような、獣の匂いがした。