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アンビバレンス1

 泣き過ぎて頭が重い。


 春休み初日の朝、私は腫れぼったい瞼としつこく居座る頭痛を抱えながら庭掃除をしていた。

 自己嫌悪に溜息を吐くと、箒で寄せ集めた満作まんさくの花弁が私を宥めるように甘く香る。沢山の刺繍糸が地面へばら撒かれているかのような光景だ。


 ……昨夜晒した醜態を悔やんでいても仕方がない、か。


 庭と言っても都内の一軒家だから猫の額だ。落ち葉を掃いて、お隣との境界線のこちら側に蔓延はびこった雑草を抜いてしまえば事足りる。ちゃっちゃとやってしまおう。とはいえ母が毎朝軽々とこなしていたこの作業、私が週末まとめてやろうとすると面倒くさい感が半端ないのだが。


「小麦ちゃん、おはよう」

「あっおはようございます」

「朝から偉いねえ。もしかしてもう春休み?」


 生垣の向こうから声を掛けてきたのはお隣の松木さんだ。うちの両親より一回り年上の、定年間際のご夫婦。DINKsディンクスだからなのか昔から見知っている所為なのか、この奥さんはどうも私の事を未だ小学生くらいの児童だと思い込んでいる節がある。


「ですよー。今日から暫くは羽を伸ばせます」

「まあ羨ましい! 学生さんはいいわね。社会人わたしたちは長期休みなんて定年までお預けよ」


 などと茶目っ気のある表情でこぼしつつ庭木に水撒きをしていた松木さんが、


「……羽と言えばねえ」


 嫌な事を思い出したのか、急に眉を顰めた。


「聞いて頂戴。先日うちの庭で雀が十羽近く死んでたのよ。野良猫の仕業にしては外傷がないし、もう気味が悪くて。小麦ちゃんちではそんな事なかった?」

「えっ、そうなんですか? うちでは誰もそんな話してませんでしたけど……」

「やだわ、時期外れの鳥インフルエンザだったりするのかしら? 怖い怖い」

「雀は感染しにくい種だってどこかで聞いた気がします」

「そう? でも一応、今度また見つけたら役所に相談してみようかと思ってるの」

「うちも何か気付いたらお知らせしますね」


 鳥影を探して中空をさ迷った視線が、二階にある兄の部屋を捉えた。窓からカーテンの端が風にひらめいているのが見える。起きているのだろうか。また網戸を開け放っているようだ。


 ──心を食べる・・・・・


 ルーインと名乗ったあの獣は、確かそう言っていた。心を食べられた人は、その後どうなってしまうのだろう。蝉の脱け殻のような、嫌なイメージが脳裏に浮かぶ。

 ひょっとして奴は動物の心も捕食対象なのだろうか? だとしたら動物にも人と遜色無い『絶望』があるって事?


「まさかねえ」


 私は、昨夜あの部屋で繰り広げられた攻防を反芻していた。





「……契約、だと?」


 意表を突かれたようにルーインが私の顎から指を離した。持ち上げられていた首の角度を緩やかに戻せて、少しだけ呼吸が楽になる。

 気持ちの方は楽になるどころではない。月明かりで兄の形の良い瞼が半目になっている様が見えずとも、吐き捨てられたその語調が知らしめていた。眼前の獣がこの提案を歓迎しているはずもないと。


「今更何の利益も見出せない取引など御免なんだが。お前、一体何を担保にするつもりなんだ?」

「えっ、それはほらあれ、あれだよ定番の。た、魂とか……?」


 回収は、出来れば天寿を全うした後でお願いしたいけど。


「悪魔かよ。いらねーよ」

「じゃあ、身体は? お兄ちゃんみたいに」


 険もほろろなルーインへ必死に食い下がりながら、はっと気付く。


 この条件は駄目だ。いくら兄の仇討ちをしたいからといって、私までルーインに肉体を明け渡してしまったら本末転倒だ。父と母が苦しむ。最後まで私の事を心配してくれていた兄にだってあの世で顔向け出来ない。

 ……でも。

 もし、もしも、ルーインが私の身体の方へ乗り移る事が可能だったとしたら。

 ひょっとしてその時、兄は自分自身の肉体を取り戻せるのでは……?


 そう思いついてからすぐ、自らの思考をトレースして心の裡で苦笑する。

 諦めたつもりだったのにまたこれだ。炭酸飲料の気泡のように性懲りも無くぽこぽこ湧いてくる希望は、もはや厄介者でしかない。


「簡単に言ってくれるな。シャツを着替えるのとは訳が違うんだぞ」


 だいたいな、とルーインは私を睥睨した。


「やっとこの身体に馴染んできたところだっていうのに、何故わざわざ、しかも粗悪品と取り替えなきゃならん?」

「ちょ、粗悪品て……!」


 私のことか⁈ 失礼だなこの獣!


「お前の心の方なら味わってやってもいいがな」


 なんだこれ。まるで無理難題を吹っかけてきたクレーマー(私)相手に淡々と道理を説いているバイト店員みたいなルーインの対応、ムカつく……! そりゃお兄ちゃんと比べたら私なんか月とスッポンだろうけども。


「そもそも女が身体を取引材料にするな」

「えっ」


 なんという事だろう、人外に常識を諭された。これでは私が物凄い非常識の持ち主みたいではないか。

 眉間に皺を寄せたルーインの表情が、まるで本物の兄にたしなめられているようで胸がざわめく。


「誰にだって好みというものがある」


 このバイトくちが悪過ぎだろ店長呼べやー!





 ……いかん、思い返したらムカムカしてきた。箒を握る手につい力が入り過ぎて土まで抉ってしまい、自戒する。


 あいつは獣だ。獣。名を名乗ったからといって正体不明な事に変わりはない。油断するな私。外見が兄そのものだから、会話をしていると無自覚なうちに、慕わしさに引き摺られて心を許してしまいそう。

 駄目だ。あんな猛獣ものと馴れ合ったりしてはいけない。余所見している隙にぱくりと食べられてしまう。

 ──でも、うまく利用しなくては。

 ルーインは、兄の真実を知るための、今のところ唯一の手掛かりなのだ。


 契約はらなかった。


 寄生虫が宿主を移るように、人から人へ次々に肉体を乗り換えていくのかと、漠然と考えていたが違ったようだ。

 馴染む・・・必要があると言っていた。転移後の肉体を完全支配するのに時間が掛かる、というのはルーインにとっても結構リスキーな状態なのではないだろうか?

 狡猾なあの獣が弱味を晒すような真似を頻繁に行っていたとは思えない。本人も主張していた通り、シャツを着替える行為とはそもそも頻度が違うのだろう。

 粗悪品・・・はお好みに合わないようだし?

 ……吟味して選んだにせよ、兄の身体を乗っ取ったのは稀有な事態だということか。だとすると、当時兄だけが一方的に追い詰められていた訳では無い可能性が高い。ルーインの方にも身体を替えなければならない差し迫った理由があったのかもしれない。

 例えば、なんだ。寿命とか。病気とか。


 兄の腹部の傷痕を思い出す。


 ……怪我、とかか。


 残忍で尊大な禍々しい獣。

 それならば、ルーインの元のからだはどうしたんだろう。脱ぎ捨てられた古い外套のように、何処か知らない場所で──それこそ異界の地・・・・で、今この瞬間にもひっそりと朽ちつつあるのだろうか。

 昔見た何かの映画のワンシーンがぎる。漠々とした光景。ただタンブルウィードのみが転がっていく荒地に、晒される遺骸。打ち捨てられた滅びの地。

 何故だろう、胸が痛い。ルーインとの契約がされなければそれが兄の末路たりえたのだ、とも思うからか。



 ──お兄ちゃん。



 獣との契約を果たし身体だけがここにとどまっている兄に向け、そっと呼び掛ける。


 心が既に食べられてしまったのだとしても、

 二度とまみえる事が叶わないのだとしても、

 空の向こうのどこか、

 あるかどうかすら定かではない永遠の地で、

 兄の魂が平らかに安らいでいてくれればよいと願う。

 醜い憎悪も復讐も兄には似合わない。

 ……それは私が全部引き受けるから。



 ──教えて。私はどうやって闘えばいいの……?



 返事は帰ってこない。当たり前だ。

 私は道標みちしるべを一つ一つ自分自身の手で見つけ出さなくてはならないのだ。







「出掛けるのか、小麦」


 靴を履こうとしたところで、階段を降りてきたルーインに呼び止められた。

 無造作に整えられた髪にラフな長袖Tシャツとジーンズ。格好良い人は何を着ていても格好良い、の見本だ。兄も良くしていた、特に違和感のないスタイル。記憶を元に着こなしているのだろう。

 中身は全然違うのに。堂に入った兄ぶり・・・に胸が悪くなる。


「……食事なら準備してあるから」

「何処へ行く」


 手掛かりを探しに行くんだよ! 見つかるか分からないけど虱潰しにやるしかない。

 あんたが! 協力! しないから!


「……お母さんの病院」

「ああ。なら俺も行く」


 げっ、という気持ちが正直に出てしまったのか。私の顔を眺めながらルーインは可笑しそうに付け足した。


「"母さん"に会ってもう一度確かめておきたいし」


 確かめ?

 ルーインの選んだ言葉に私が覚えた僅かな引っかかりは、続く科白であっという間に雲散した。


「……あの場所には美味そうなのが沢山いたからな」

「やめて」


 阿鼻叫喚の予感に震える。


「お兄ちゃんの身体で酷いことはしないでって言ったでしょう!」

「ああ、許さないって?」


 うすら笑い。兄の顔にそんな侮蔑の表情が出せるなんて今まで知らなかった。


「許さないならどうするんだ? お前に何か出来るのか? 小麦」


 的確に抉ってくる言葉に、唇を噛む。

 何も出来ない。そんな事知ってる。ルーイン本人の能力は未知数だが、体力だって知力だって元より私は兄に敵わなかった。

 起死回生の手段としては兄ではないと告発するしか無いが、それはどう考えても諸刃の剣だ。


「……っ」


 それでも黙って肯定しておく訳にはいかない。何か反論してやろうと口を開きかけた時、場違いに長閑のどかな玄関のインターホンが我が家に鳴り響いた。

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