禍きもの、その名は6
2016.12月 サブタイトル変更。
本文内容に変わりはありません。
"絶望喰いのルーイン"
獣は、自らをそう名乗った。
「……ぜつぼう……くい?」
それは何かの比喩だろうか。
耳慣れない二つ名を鸚鵡のごとく愚直に繰り返せば、
「そう。苦くて旨い」
私を拘束して見下ろしてくる獣は、至極当然のように肯定した。
月明かりのみを光源とする暗闇の中、私の視界は兄の姿で占められている。陰影を伴ったその表情はひどく楽しげだ。仮面を脱ぎ捨てて身軽になったと言わんばかりに。
一方で、私の四肢は押さえつけられて動けない。まるでベッド上に針で縫い止められているようだった。
ルーインという名であるらしい獣は、身動きを封じられた私の耳元へそっとその顔を寄せてきた。吐息が耳朶にかかって怖気立ち、私は可能な限り顔を横へ向けた。
今の私が自由に動かせるのは首から上くらいだ。男性と女性の体格差を思い知る。手足を捉えてのし掛かられるだけで、こんなに簡単に無力化されてしまうのか。
急所である首を無防備に相手へ晒しているのは恐ろしい。でも怯えた様子を見せて喜ばせるのは御免だ。私は顔を背けたまま、不自然に問答を続けた。
「た、食べるの?」
「食べる」
「絶望を?」
「正確には心を。その中でも俺が特に好むのは絶望の味が濃いものだから」
──心を、喰らうと?
つい数時間前に父や私と同じ食事を取っていたくせに、簡単には信じられないような事を言う。
洗面所の一件からてっきり、こいつは肉食の獣なんだとばかり思っていたのに違うのか……?
「だからって気を抜くなよ小麦。肉を食わない訳じゃない。お前の柔肉を引きちぎるくらい造作も無いぞ」
私の戸惑いを見抜いたのだろう。
手首を押さえていた掌を肘に替え、兄の指が私の耳たぶに触れた。何を思ってか揉みしだかれる。唇との距離も近い。今にも噛み付かれるのではないかと肝が冷えた。
心を食う。肉も食う。
ではやはり私の目の前にいる存在はヒトではないのだ。
「……いい匂いだ。お前の感情は興味深い。きっと面白い味がするんだろうな」
「……っ!」
耳を弄っていた指が再び手首を掴まえたかと思ったら、今度は首筋に顔を埋められた。咄嗟に上げかけた悲鳴を私は必死に噛み殺す。
心を食べる獣。心なんてそんな不確かなもの、どうやって食べるのだろう。まさか心臓ごと? ああ、どうか頸動脈は関係ありませんように。
「そう、あいつの絶望も極上だった」
『あいつ』というのが兄を指すのだと、遅まきながら私は気が付いた。本人の口から三人称代名詞で本人を語られる不可解な現状に、軽く脳が混乱しているのかもしれない。
深呼吸して竦み上がった心臓を宥める。
……間違えるな私。ルーインは兄じゃない。
「お兄ちゃんの心を、食べたの?」
「ああ」
「それで、美味しかった、と?」
「ああ」
「……そんなの嘘だ。信じない」
信じたくない。
兄は、前向きな人だった。
子供の頃、夏の海水浴で私が投げ出した砂のお城を、何時間も掛けて完成させてくれるような人だった。もう無理だ出来ない、と言って泣く私の自転車から補助輪が外れるまで、自分の楽しみを控えて何ヶ月もそっと付き添ってくれるような人だった。
優しくて我慢強くて粘り強い、それはつまり諦めが悪いということだ。どれほど困難な道でも黙々と歩み続けられる不屈の人だということだ。
その兄の心が簡単に絶望に染まるとは思えない。
──それに。
心を食べられたというのなら、もう兄は。
「残念だな。ヒトはさあ、絶望するんだよ。どんなにご立派な人格者であっても」
ルーインは、くつくつと嗤った。
密着している体から振動が伝わってくる。触れる範囲は温かいのに、そこに宿る精神は氷のように冷たく、人の皮をかぶった冷血動物を連想させた。
「それとも、生まれてこの方ぬるま湯の中でぬくぬく育ってきたお前みたいな女には、想像も出来ないか?」
馬鹿にするな。
絶望なんて、もう知ってる。
それは目の前にいる。大事な人の形をしている。大切な人の姿をしている。
手を伸ばせば触れるほど近くに捜し続けたその人がいる。それなのにもう二度と、本当のお兄ちゃんには会えないってことだ。
叶うなら一生知らなくても良かったはずのその感情を、私に教えたのは誰だ?
一度与えた希望を踏みにじって暗闇に叩き落としたのは?
私達家族から永遠に兄を奪ったのは?
──その全てを引き起こした元凶のくせに、よくものうのうと。
「っ、あんた……なんか……!」
怒りで目の奥が熱くなった。
頬を張り飛ばしてやりたいと、右手に精一杯の力を込めたが、拘束は少しも緩まない。私の抵抗など、ルーインは歯牙にも掛けていないのだ。
「責められる筋合いは無い。これは正当な取引だった」
耳許で囁かれる言葉はほとんど吐息と化していた。強い力で押さえられていてもなお、私の手は震え始めている。泣いてはダメだ。泣いてはダメだ。泣いてはダメだ。
「俺が持ちかけて、あいつが承諾した。望みを叶える代償に、この身体を貰うと」
幼い頃より馴染んだ兄の声。耳を澄まさないと聞き取れないくらい小さな囁き声。唇と耳がくっつく程の、内緒話に相応しい近接した距離。
"小麦だけだよ"
まるで兄に、自分の秘密を打ち明けられているような。──そんな錯覚、辛過ぎる。
「契約は完了された」
「嘘……!」
何もかもを否定したくて、私は小さく呻いた。
どんな望みを。
どんな願いを抱けば、それほどの犠牲が惜しくないというのか。
自分の身体を他人に明け渡すなんて、本人にとっては死と同じだ。取引にしてはあまりにも一方的不利過ぎる。
兄の帰りを待つ私達家族にとってもそうだ。心が別人に成り果てた兄の肉体のみが帰ってきたところでなんになるだろう。却って愛する家族を深く傷つけることになると、聡明な兄が気付かない訳がないのに。
それとも、そんな不当な取引を強いられるくらいに、兄は追い詰められていたのだろうか。それほど逼迫した状況下だったのか。
絶望……していたのだろうか。
そこまでして、兄が願ったものは何だ。
私なら、世界の命運が掛かっているのだとしても、兄は譲らない。兄と引き換えにしなくてはならない宝など欲しくない。
兄が一命を賭ける価値のある願いなんて、この世にそうそうあるはずもないのに……!
「お前だよ、小麦」
ルーインの答えに、無意識に思考を口にしていたのかとハッとする。
違う。私は奥歯を固く噛み締めていた。
「お前に一目逢いたかった。家族の無事を確かめたかった。異界の地で黙って果てていれば良かったのに。最期の最後に自分が騙されていた事を知って、あいつは疑心に負けたんだ」
……言われれば。
兄の声で語られるその言葉には確かに聞き覚えがある。
帰って来たあの日、兄は自分の心情を一瞬だけ正直に吐露してはいなかったか。
逢いたかった。
ただ、逢いたかった。
ここに帰って来たかった。
それが、兄の、心からの最後の願い。
──そうだったの? お兄ちゃん。
「愚かだよなあ。そうまでして守りたかったはずの大事な家族に、この俺をやすやすと近付けてしまうとは」
「……お兄ちゃんのこと悪く言わないで!」
言われなくても今なら分かる。
一年前、兄はきっと私達のために姿を消したのだ。悩みに悩み抜いて、そうするのが最善の道だと信じて、何も言わずに去って行った。
兄が全身に負っていた無数の傷のことを思い出す。
心優しいあの兄は、おそらくは遠くから私達を守ってくれていた。心身共に傷付いてボロボロになるまで疲弊して。……そうして最後の瞬間に全てをかけて願ってしまったことを、一体どこの誰が責められるだろう。
兄の葛藤に気付かずに行かせてしまった自分が、どうしようもなく情けないけど。
言葉巧みに兄の身体を奪った目の前の獣は、殺したいほど憎いけど。
狡猾なこの獣が兄のことを愚かだと嘲っても。
少なくとも、私は。
私は、もう一度逢えて良かったよ。
優し過ぎるあの兄がようやく言ってくれた我儘。それが一つだけでも叶ったのなら、まだ救われる。
勿論、悔いは消えない。
私は兄を助けたかった。迎えに行きたかった。ありがとうと言いたかった。こんなことになる前に気付いてあげたかった。
叶えられなかった私の気持ちは、後悔という名の棘になって永遠に私の裡に残るだろう。
けど、だからこそ、兄の最後の願いを、取り返しのつかない過ちにはしたくない。
悩み苦しみながらも兄の成し遂げてきた事、そしてその末の帰還を、『間違い』にさせたくない。
"異界の地で黙って果てていれば良かったのに"────だなんて、そんな事、他の誰よりもルーインにだけは言われたくない。
「あんたがどんな化け物でも構わない。でもお兄ちゃんの身体で酷いことなんか絶対にさせない。お兄ちゃんが望まないようなことを、ここで、その身体で、するつもりなら許さない……!」
熱い塊が私の目尻から耳の方へと伝っていった時、両手の枷が外れ、隙間なく私を押さえ込んでいた兄の身体がほんの少し離れた。私の顔の両脇に手をついて上半身を起こしたルーインが、まじまじとこちらを覗き込んでいる。
「……そんな風にも泣くんだな、お前は」
指摘されて、自分が涙を流していることに気が付いてしまった。
悔しい。泣くものかと思っていたのに。でももう止められない。せめてもの反抗に、自由になった両腕をクロスして泣き顔を覆う。
嗚咽を伴わない静かで熱い涙は、耳の上を通って後頭部へ、髪の根元をすり抜けてシーツへと、染み込んでいった。
「ああ……やっぱり」
泣き顔を見て気が済んだのだろうか。ルーインはそれだけ呟いて私の上からどいた。部屋の対角に置いてある兄の椅子が軋む音がして、ルーインがそこに座ったのだと私は悟った。
ムカつく。結局ルーインの思い通り泣いてしまった。どんな意地悪い表情をしているだろうと思ったが、見えないのは幸いか。
涙の流れるに任せて私はしばらくそのまま兄のベッドに横たわっていた。次第に頭が冷えてくる。あの日の兄の言葉で他に思い出せることはないだろうか。
──"あいつら"
そうだ。
確か兄はそんな風に言っていた。
複数形。
どういうことだろう。
もしかして、私から兄を奪った相手は、ルーインだけではない……?
「……ねえ」
涙の痕を袖で乱暴に拭って起き上がり、私は冷たい床に足をつけた。呼び掛けると、ルーインが不機嫌そうに短く答えた。
「なんだ」
真夜中の部屋で、私は人外の獣と会話をしようとしている。月明かりに照らされた室内は舞台装置めいて見え、あれほど怖かった相手なのに今は現実感が希薄だ。それ故にいっそ大胆になれる。
「教えて。お兄ちゃんはどこで何をさせられていたの? 誰が騙したの? 誰が連れて行ったの? 失踪せざるを得ない状況にまでお兄ちゃんを追い込んだのは、誰?」
「小麦、それは終わった話だ」
期せずしてルーインに兄と同じ事を言われた。同じ顔で、同じ声で。他人から見たら全く同じ場面の再現だ。
けれど失われた元の中身。それこそが、私にとってどれほど尊かったことか。
「私には、まだ終わってない」
終わらない。
……終わらせない。
「あなたは私から、私達から、大事なものを奪ったんだから。教えて。それくらいしてよ。どうせお兄ちゃんの記憶も盗んだんでしょう。心を食べて、身体を奪って、お兄ちゃんになりすまして生きていくつもりなんでしょう。なら罪滅ぼしの一つくらいしてみなさいよ!」
「……あのな」
ルーインは、げんなりとした調子で私の言葉を遮った。
「状況が分かっているのか? お前が俺に命令出来る立場だとでも? 俺がその気になればお前などたやすく」
「今、私がここで死んだら。真っ先に疑われるのはお兄ちゃんだよ。周囲に警戒されていいの? 隔離されて閉じ込められてもいいの? そんな事になったら、何かは知らないけどあなたの計画が狂うんじゃないの?」
言葉尻をひったくるようにして、今度は私が遮り返す。すると意外にもルーインは寄せていた眉根を解いた。
「……憎悪か。その味もまあ嫌いじゃないが」
カタン、と椅子が鳴った。
ルーインが立ち上がり、ベッドに歩み寄ってくる。私はあえて逃げずにそのまま座っていた。
真夜中の劇場に相応しい、俳優ばりに整った容姿の兄。その指が音もなく伸びてきて、私の顎を捉えて軽く持ち上げた。
「でも駄目だ。脅しにもなっていない。そんな屁理屈で俺に言うことを聞かせようだなんて、100万年早い」
「分かってる。これは命令じゃない──取引だよ」
私は大きく息を吸った。次の一息で言うべきことを言ってしまう為に。
「協力して、ルーイン。……してくれるなら、私、あなたと契約してもいい」
その時私は、獣の名前を初めて呼んだ。