絶望は人型をしている1
帰ってきてから兄が変だ。
──むしろ、あれは本当に私の兄なんだろうか?
兄の名は、相馬尋という。
二つ下の妹である私とは似ても似つかない、完璧人間だ。眉目秀麗、頭脳明晰、明朗闊達、文武両道、知勇兼備、八面玲瓏。世の中の美辞麗句は全て兄を褒め称える為に生み出されたのではないかと、私は密かに疑っているくらい。
……と言うか、一年ちょっと前までは完璧だった。
兄が高校二年、私が中学三年の三学期。冬休みが終わったばかり、春休みまではまだ遠いという頃だ。
真面目で優しくしっかり者の兄は、小・中・高と当然のように生徒会役員に選ばれてきた。高校でも前期に副会長を務め上げた兄は、あらかたの予想通り次の生徒会長に任命された。確かあれは、新生徒会長として引き継ぎをしてくるはずの日だったと思う。
家族揃っての夕食時、
「生徒会長は辞退してきた。しばらく高校を休学して海外に留学してくる」
と、兄は一方的で唐突な爆弾宣言をした。
四人家族で囲んでいた我が家の食卓は、騒然となった。
両親にしてみたら寝耳に水だ。受験対策に春休みから通うはずだった塾講習も、兄本人によって既に解約されていた。思い直すように何度説得されても兄は聞く耳を持たなかった。
根負けした両親は譲歩することにした。
凡才である妹の私には無理だとしても、成績優秀な兄ならば後からでも巻き返しは可能だろうから。
仮にこの春を受験勉強でなく見聞を広めるために費やすとしよう。長い目で見たらそれも良い人生経験になるかもしれない。だがしかし、留学期間は春休みだけで充分ではないのか? それで不足だと言うなら夏休みを考慮に入れてもよいが……休学までする必要がどこにある? それにそもそも、選挙で選ばれた生徒会長の役目を降りてまでやらなくてはいけないことなのか?
何のために、いつ何処に行くのか、期間はどのくらいなのか──どれほど両親が尋ねてもはかばかしい返事は一向に返ってこないまま、ある日いきなりフッツリと兄は私達の前から姿を消した。
私達家族はどれだけ心配したことだろう。
聞けば、学校側は休学届けを受理しただけで、兄の留学には一切関与していないと言う。
自宅にある兄の荷物は、これといって減っていたりもしなかった。着の身着のままで出て行ったのか、夏服も冬服も置き去りで、旅行の時にいつも使うスーツケースもそのまま。貯金も手付かずだった。
兄の私室は呆れてしまうくらい普段通りで、ただ部屋の主の不在だけが、ドアを開けるたび刃物のように私達家族に切り掛かってきた。
唯一、兄のパスポートだけが部屋から無くなっていたけど、それが使われたという記録は残っていなかった。
本人が望んでの留学ではなく事故や事件に巻き込まれたんじゃないかと、父は警察に捜索願いを出した。
もちろん自分達でも必死に兄を探した。父、母、私、それから親戚の人や兄の友人達、有志で。
兄が身を寄せそうな心当たりは全部回ったし、休みの日も平日放課後も街頭に立って、祈るようにビラを配った。
兄に似ている人を見掛けたと聞けば遠くても探しに行ったし、占いや神仏に縋ろうとした事もある。
その全てが徒労に終わったけど。
人生で初めて兄のいない春、私は高校生になった。正直、通っていたのがエスカレーター式の中高一貫校でなかったら、到底進学は出来なかっただろう。私の頭の中は兄の事でいっぱいだった。
姿を消した兄だけを置き去りに兄の同級生達は皆進級し、同じ高等部の最高学年になっていた。兄の捜索を手伝ってくれる人数は日に日に減っていったけど、それまでの協力に感謝こそすれ、離脱を恨む気は起きなかった。受験生が忙しいのは当たり前だ。
夏が終わり秋が過ぎてセンター試験本番が近付いて来ると、父と母は最後まで残ってくれていた兄の友人達の助力を丁寧に辞退した。彼らは本当に得難い友人だったのだと思う。兄の人徳が偲ばれた。
冬の気配が濃厚に漂い始め、兄の失踪からそろそろ一年が経とうかという頃、私に向かってついに父が言った。
「小麦……こういうの、もう終わりにしようか」
私は火がついたように激しく反応した。
「嘘でしょ、お兄ちゃんのこと諦めちゃうの⁈ 嫌だ、私は一人でも続けるから……!」
幼い頃から私は兄が大好きだった。
優しくて正しくて思いやり深い、かみさまのような人。
誰よりも優れているのに驕らないのは、特別な人だという証。
美術の時間に見た天使像より、兄の方がよっぽどきよらかで美しいと信じていた。
兄は私の憧れで、自慢だった。
疲れた時は私の声を聴くと癒されると言っていた。
母の料理が一番美味しいと微笑み、愛情を籠めて毎朝手渡されるお弁当の、食べ終えた空の容器をいつも自分で洗っていた。
父とツーリングしても遜色無いようなバイクをいつか買うのだと、毎年お年玉を貯金していた。
そんな兄が私を──私達家族をおいそれと捨てるはずがない。
きっと理由があるんだ。誰もが納得するに足る理由が。
探し続けて辿り着けさえすれば、その理由に出逢えるはずなんだ。
「……小麦、分かってくれ。尋のことは確かに大事だ、今でもそれは変わらない。でも私はお前やお母さんのことも同じように大切なんだ」
その時の私には、父の言葉は裏切りにしか聞こえなかった。
握り締めた私の掌に自らの爪が深く刺さっていたけど、そんな痛みなんか何程のことも無い。今この瞬間にもどこかで兄が一人で悩み苦しんでいるのかもしれない。私が傷付く事で少しでも兄の辛さを肩代わりすることが出来たならいいのに……!
願いを掛けて、血が滴るほどに両手に力を込めた。
頑なに閉じた私の拳をそっと開かせたのは、母の指だった。今でも覚えている。血の気の引いた美しい指は、優しいのにとても冷たかった。
「諦める訳じゃないのよ、小麦」
母は儚げに呟いた。
あの子は昔から優しくて真面目でしっかりしてて……堅物過ぎて、糸がプッツリ切れちゃったのかしらね、と。
母の唇は以前からは考えられないほど荒れてカサついていた。
「今にして思えば……あの子は何か悩んでいたのかもしれない。家族の前ではおくびにも出さなかったけど」
母は、泣いて泣いて泣き腫らした目をして、それでも何かを決意したような顔つきになっていた。
「時折……本当に稀にだけど、そう感じる時があって。訊いても何も話さないし、思春期だから恋愛絡みの悩みかとも思っていたの。それなら自己解決することも多いし、自分から打ち明けてくれるまで待とうって。頭のいい子だったから。……あの時強引に聞き出しておけば良かったのかもしれないと、後から何度も考えたけど」
母の悔悟を打ち消すように、父が母の肩を抱き寄せた。母の肩は随分と細くなっていた。
「あの子は一人になることで何かを変えようとしているのかもしれないわ。行き先も告げずに連絡を断っているのは、しがらみから逃れようとしているのかも……。ううん、本当のところはちっとも分からない。でもこれだけはハッキリ言えるの」
話しながらも母は救急箱を出して来て、私の傷をそっと消毒した。
不意の刺激に思わず私は眉を寄せた。
痛いのに、心配されていることにほんの少し心が慰められる。
手当てをされると、痛みに寄り添われているような気がするのはどうしてだろう。
子どもの頃、外で転んで泣いて帰って来た私を、母があやしてくれた時のように。兄が、そっと頭を撫でてくれた時のように。
兄の近くには今……誰かそういう人がいてくれるのだろうか。
「……あの子は望んで犯罪行為に加わったり、自ら命を絶ったりするような人間じゃない。私はあの子を信じて待ちたい」
そう言った母がひどく痩せてしまっていることに、私はその時初めて気が付いた。労わるように母を包む父が、実年齢より十も老けて見える事にも。
そして思った。
これは裏切りなんかじゃない。私達家族は同じ痛みを共有しているんだ。
ちょっぴり疲れてしまったから……家族全員が共倒れになってしまっては兄が帰って来た時に迎えてあげられないから……だから、少しだけ休憩をいれよう。そういう、大人の判断なのだ。
分かった。
……本当はとっくに分かっていた。
でも、頭では理解しても私の心は納得出来ないままだった。こんな風に大人になりたくはなかった。
聞き分けのない子供みたいに、嫌だと転がり回りたい。地団駄を踏んで、泣き叫びたい。力尽きて倒れるその一瞬まで兄の名を呼んで走りたい。
……悔しい。
何も出来ない自分が。弱い自分が。父と母の支えにもなれず、兄を見つけてもあげられない不甲斐ない自分のことが……物凄く悔しい。
母によって治療された私の掌は、今更ながらにジンジンと疼いていた。
──涙が出るのは痛みのせいだ。
私は必死で自分にそう言い聞かせた。
だって、私は。
私は兄に必ずまた会うのだから、泣く必要なんか無い。
これは兄との今生の別れじゃない。このまま兄の不在を受け容れたりしない。今はちょっと小休止するだけ。休憩が終わったらまたすぐ兄を探すんだ。そして絶対に再び巡り会う。
私は大好きな兄のことを決して諦めないんだから……!
この世界でどれだけ血眼で探しても兄が見つかることはなかったのだと────私が知ることになったのは、その数ヶ月後。
兄のいない二度目の春を迎えようかとしていた日のことだった。