第2話『運命の女性。』
「謙二さま、いらっしゃいますか?」
助手の芙美子が、謙二がいつもいる画廊に行き、彼を呼んだ。
「なんだよ。今、手が離せないんだ」謙二は眉をしかめながら、芙美子にそう答えた。
「ご、ごめんなさい先生! ここにお茶におだししておきますので、よろしければ手がすいたときにでもお召し上がりくださいませ」と芙美子は持ってきたお茶をテーブルに置いて、そそくさと台所に戻った。
この芙美子という女性、謙二とは彼が23歳のときに出会っている。そのときは謙二は街角でただの似顔絵師として生計を立てていた苦労の時代でもあったころの話であった。
その初めての出会いを今回は語ってみよう。
謙二は大学3年でげーじつ家を目指すようになってから、しまなみ海道の青い空と緑の島々をただひたすらに描き続けた。それで、「抽象画のジュリアーノ」という異名で知れ渡るようになった謙二にとって、似顔絵で飯を食うのは非常に屈辱的であったが、実際、売れる絵なんて謙二が求めている世界と世間が求めているものと違っていたのだ。世間は、
「いかに忠実にリアルに再現されているか」
のほうがうまいと評価するのであり、たとえばペカソが描いた女の子より、小西真奈美そっくりに描いた女性の裸婦画のほうがよく売れた。 確かにこっちのほうが純粋に実用にはなるなと、一瞬、謙二も思った。
これではいけないと思いながら、観光客相手に似顔絵を描きまくった。次から次へと。そんな折、夏のお盆が終わるころ、芙美子が17歳のありのままの自分を残したいとゆって、謙二に絵の依頼をしてきたのだった。
「ありのままの自分?」謙二が芙美子にそう訊いた。
「はい、そうです!」芙美子がそう答えた。
謙二はすごく期待した。かつて、謙二が集めていたあの本の内容が眼前に広がるのかと。しかし、それは違っていた。
芙美子はそそくさと丸イスに座り、日傘をさして「お願いします」と言ったので、謙二はがっくり肩を落とした。
似顔絵を書き終えるころ、謙二は俺の今年の夏は終わったな、と思った。瀬戸内の陽射しが、焦げつかせるくらいに謙二の体を照りつけた。そして、謙二が陰で流した涙もすぐに蒸発してしまうくらい、気温が上昇していた。
「わあ、とてもお上手ですよねえ。」芙美子は自分の似顔絵にとても感動してくれたようだ。
「ありのままのあなたが描けたかどうか分かりませんが、僕の出せるあらん限りの力を出し切りました」と謙二は言った。まだ、謙二は芙美子のありのままの姿にこだわっていた。
「来年もまた、ここに来ても、いいですか??」
芙美子が言った。謙二には、最初その言葉の意味がわからなかった。なので、
「じゃあ、来年にはかならず、もっとありのままのあなたが描けることを期待して待ってるので・・」と言った。
謙二は彼女の似顔絵に自分のサインを入れ、筒に入れて芙美子に渡した。芙美子はお代を払おうとしたが、謙二はそれを拒否した。
「ど、どうして?」芙美子は言った。
「サービスですよ。僕にとっても、大切な思い出になりましたから・・。」謙二はかなり芙美子のことが好きになっていたので、ついついサービスをしてしまった。
「あ、ありがとうございます。来年、また必ず来ますから・・」そこで、二人は一度別れることになる。
しかし、芙美子が再度、この瀬戸内を訪れたのは、その初めて会った日から、すでに3年が過ぎ去った後だった。
(つづく)