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夫が毎晩わたしの寝室の扉の前に立っていた理由

作者: みぎみみ
掲載日:2026/10/25



 離縁の書類は思っていたよりずっと薄かった。


 羊皮紙が一枚。神殿の印章が押された、白い結婚の解消を願い出るための定型の書面。上から順に、夫の名前、妻の名前、婚姻の日付。いちばん下に、二人分の署名の欄が空いている。


 イレーネはその紙を窓辺の机に置いて、指先で端をそろえた。


 北の辺境、グレイヴ城の窓の外はもう雪だった。十一月の終わり。城壁の向こうの針葉樹の森が、白く煙っている。暖炉の薪がはぜて、松脂の匂いが部屋に広がった。


 明後日でちょうど三年になる。


 この国の法では、三年のあいだ夫婦の契りがなかった婚姻は、妻の側から神殿に申し出るだけで解くことができる。白い結婚と呼ばれる決まりだ。家どうしの都合で嫁がされた娘を守るために、何百年も前にできた法だと聞いた。


 まさか自分がその法に頼る日が来るとは思わなかった。


 三年前の、婚礼の夜。


 南の小さな子爵家から、馬車で二十日かけて嫁いできた。父の借金の形だった。グレイヴ辺境伯は、その借金を全部肩代わりする代わりに、子爵家の娘を一人、妻として求めた。姉たちはもう嫁いでいて、残っていたのはイレーネだけだった。


 初めて会った夫は、背の高い、黒い外套の男だった。


 雪焼けした頬に、古い傷が一本。灰色がかった青い目。笑わない口元。婚礼の宴のあいだ、夫はほとんど口をきかず、イレーネの顔もろくに見なかった。


 そして、寝室の扉の前で夫は言ったのだ。


「君に、触れるつもりはない」


 低い声だった。言い終えると、夫は自分の部屋へ戻っていった。


 イレーネは白い夜着のまま、扉の前に立ち尽くした。廊下の燭台の火が揺れて自分の影が長く伸びていた。


 嫌われたのだ、と思った。


 南の生まれで、色が浅黒くて、北の女たちのように背が高くもない。借金の形に差し出された、小さな子爵家の三女。辺境伯ほどの人が、本気で妻に望んだはずがない。


 それから三年。


 夫はイレーネに何ひとつ不自由をさせなかった。南向きの暖かい部屋。季節ごとの衣装。南の果物をわざわざ商人に運ばせてくれたこともある。けれど、夕食の席で交わす言葉は一日に三つか四つ。寝室の扉を夫が叩いたことは一度もない。


 大切にされているのか、放っておかれているのか、イレーネには分からなかった。分からないまま、三年がたった。


 一年目の冬、イレーネは熱を出して五日寝こんだ。北の寒さに、南の体が慣れていなかったのだ。目を覚ますと、枕元に、南の村でしか採れない黄色い柑橘が三つ置いてあった。侍女に訊くと、旦那様が商人に言いつけて、雪の峠を越えて運ばせたのだという。お礼を言いに行くと、夫は書斎の机から顔も上げずに「そうか」と言った。それで終わりだった。


 二年目の春、イレーネは厩の隅で老いた栗毛の馬を見つけた。歯が抜けてもう荷も引けない馬だった。厩番の少年が旦那様が潰すなとおっしゃるので、と言った。その馬は夫が十の歳に父親からもらった、最初の馬だった。


 イレーネはその馬に南の歌を歌ってやるのが好きになった。歌うと、馬は耳をぴくぴく動かして、イレーネの肩に鼻先を押しつけてくる。ある日、ふと振り向くと、厩の入り口に夫が立っていた。目が合うと、夫は何も言わずに背を向けて行ってしまった。


 三年目の夏には、城の南側の小さな庭に、イレーネの知らないうちに、南の花が植えられていた。赤い、細い花びらの、故郷の川べりに咲いていた花。庭番に訊くと、旦那様のお言いつけです、と答えた。理由は知らない、と。


 そういうことが三年のあいだに、いくつもあった。


 いくつもあったのに、夫は何も言わなかった。言わないから、イレーネには分からなかった。好かれているのか。それとも、借金の形に来た娘に、せめて不自由をさせないのが、辺境伯としての体面なのか。


 分からないまま待つのは、思っていたより、ずっと疲れることだった。


 机の端に、もう一通、封の切られた手紙がある。


 十日前に届いた、父からの手紙だった。


 ――白い結婚の三年が明けたら、すぐに戻ってきなさい。南の港町の商人が、おまえを後妻に欲しいと言っている。辺境伯から借りた金を利子をつけて返せるほどの持参金を出すそうだ。おまえも、北の寒い城で、愛されもせずに暮らすよりはいいだろう。


 読んだとき、イレーネは、手紙を握りつぶしかけた。


 愛されもせずに。


 父は三年間、一度も手紙をくれなかった。辺境伯から金を受け取ってそれきりだった。それが今になって、別の男に売り直す算段をしている。


 戻るつもりはない。父の家にも、港町の商人のところにも。神殿で白い結婚を解いたら、母の生まれた川沿いの村のあたりへ行って、どこかの家で子どもに字を教える仕事でも探そう。そう決めていた。


 それでも、父の手紙のその一行は、イレーネの胸に刺さったまま、抜けなかった。


 愛されもせずに。


 ――そのとおりだと、思ってしまったから。


「……もう、いいよね」


 声に出してみると、胸の奥がきしんだ。


 いい。もう、いい。明後日、神殿に行ってこの紙を出す。夫の署名は要らない。妻の申し出だけで足りる。そうすれば、夫は好きな人を今度こそ自分で選べる。


 扉を叩く音がした。


「奥様、お湯をお持ちしました」


 年かさの侍女が銅の水差しを抱えて入ってきた。三年前、城に来たときから、イレーネの世話をしてくれている人だ。侍女は机の上の羊皮紙に目を止めて、水差しを持ったまま動かなくなった。


「奥様、それは」


「明後日、神殿に出すの。……みんなには、まだ言わないでね」


 侍女の口元がくしゃりと歪んだ。水差しを床に置いて、エプロンの裾を両手で握りしめる。


「奥様。あの、わたくし、ずっと申し上げようか迷っていたことがございまして」


「なあに」


「旦那様は、毎晩、奥様の寝室の扉の前に、立っていらっしゃいます」


 イレーネはまばたきをした。


「……え?」


「真夜中を少し過ぎたころから、一時間ほど。廊下の明かりも点けずに、扉の前に立ってじっとしておいでなのです。夜番の者が何度も見ております。わたくしも、見ました。三年前の冬から、毎晩」


 暖炉の薪がぱちんと鳴った。


「毎晩……?」


「はい。雪の夜も、熱を出しておいでの夜も」


 背中に、冷たいものが走った。


 毎晩。三年間。扉を叩きもせず、声もかけずに、ただ立っている。暗い廊下で一時間も。


「どうして」


「わたくしどもには、分かりません。旦那様にお尋ねする勇気のある者は、おりませんから」


 侍女は言い直して深く頭を下げた。


「奥様が神殿にいらっしゃる前に、一度だけ、確かめていただきたいのです。差し出がましいことを申しました」




 その夜、イレーネは眠らなかった。


 寝台に入って、灯りを消して毛布を顎まで引き上げた。目は開けたまま。暖炉の残り火が天井に赤い影を揺らしている。


 怖かった。


 夫が扉の前で何をしているのか。考えれば考えるほど、悪いほうへ転がっていく。見張っているのか。逃げ出さないように。それとも、いつか扉を開けて、三年前の言葉を取り消しに来るつもりなのか。


 ――そんな人じゃない。


 そう思う自分もいた。夫は口数が少ないだけで乱暴な人ではない。城の者たちに声を荒げたところを一度も見たことがない。厩の老いた馬を潰さずに最後まで飼っている人だ。


 でも、それなら、なおさら分からない。


 遠くで城の鐘が真夜中を打った。


 しばらくして、廊下の石の床を踏む音がした。


 重い足音。ゆっくりで迷いがない。一歩ごとに、靴の踵が石に当たる。その音がイレーネの部屋の前で止まった。


 イレーネは息を止めた。


 扉の向こうに、誰かがいる。


 叩かない。声もかけない。ただ、いる。扉の下の隙間から、廊下の冷たい空気が流れこんでくる。その空気がほんのわずかに、夫の外套の匂いを運んできた。雪と、革と、馬の匂い。


 イレーネの心臓が、どくどくと暴れた。


 毛布を握りしめる。手のひらが汗ばんでいる。どれくらいたったのか。十分か、二十分か。扉の向こうの気配は少しも動かなかった。


 ――確かめて。


 侍女の声がよみがえった。


 イレーネは毛布をはねのけた。


 素足で床に降りる。石の冷たさが足の裏から背骨まで駆け上がった。肩掛けをつかんで扉まで四歩。取っ手に手をかける。金具が指先に氷のように冷たかった。


 開けたら、どうなるのだろう。


 分からない。分からないけれど、明後日にはこの城を出ていく。それなら、最後に一度くらい、自分の目で見てもいい。


 イレーネは扉を開けた。


 廊下は暗かった。燭台の火は消えている。窓から差しこむ雪明かりだけが、石の床を青白く照らしていた。


 夫は扉の脇の壁に、背中を預けて座っていた。


 立っていたのではなかった。床に腰を下ろして、片膝を立てて頭を壁にもたせかけて。黒い外套の裾が冷たい床に広がっている。


 イレーネが扉を開けた瞬間、夫は弾かれたように顔を上げた。


 雪明かりの中で、灰色がかった青い目が、大きく見開かれた。


「……イレーネ」


 三年間、夫が自分の名前を呼んだのは、数えるほどしかなかった。


「何をなさっているのですか」


 声が震えた。寒さのせいだけではなかった。


 夫は答えなかった。床に座ったまま、イレーネを見上げている。口が何か言いかけて閉じた。


「毎晩、ここにいらっしゃると聞きました。三年間、毎晩」


「……誰に」


「誰でもいいでしょう」


 自分でも驚くほど、強い声が出た。


 胸の奥で何かがぷつりと切れた。三年分の、言えなかった言葉が、一度にせり上がってくる。


「君に触れるつもりはない、とおっしゃいました。三年前の、この扉の前で。だからわたしは嫌われているのだと思って、三年間、黙っていたんです。夕食のときに話しかけても、あなたは三言しか返してくださらない。わたしの顔も、ろくにご覧にならない。それなのに、毎晩、扉の前にいらっしゃる」


 喉が熱くなった。目の奥も。


「わたしは何なんですか。妻ですか。借金の形ですか。それとも、見張っておかないと逃げ出す、囚人ですか」


 言ってしまった。


 言ってしまってからイレーネは唇を噛んだ。涙がこぼれそうで、こぼしたくなくて、目を見開いたまま夫をにらんだ。


 夫はゆっくりと立ち上がった。


 背が高い。見上げると、首が痛くなる。夫の右手が外套の内側に入った。イレーネは思わず一歩下がった。


 夫が取り出したのは、折りたたんだ紙の束だった。


「……君は、眠っているときに、歌う」


 低い声だった。


「歌……?」


「毎晩ではない。三晩に一度くらい。真夜中を過ぎたころ。南の言葉の、子守唄だと思う」


 イレーネは息をのんだ。


 知らなかった。自分が眠りながら歌っているなんて。


「最初の夜だった」


 夫は紙の束を握ったまま、雪明かりの窓のほうを見た。


「婚礼の夜、君に、あのようなことを言って。自分の部屋に戻っても眠れずに、もう一度、謝りに来た。扉を叩こうとしたら、中から歌が聞こえた」


「謝りに……」


「歌の途中で君は泣いていた。眠ったまま。同じところまで歌って、そこで止まって泣いていた」


 イレーネの指先から、力が抜けた。


 母の歌だ。


 南の、川沿いの村の生まれだった母が、幼いイレーネに歌ってくれた子守唄。母はイレーネが七つの冬に、流行り病で亡くなった。歌の前半は覚えている。後半はどうしても思い出せない。母の声がそこでいつも途切れてしまう。


「わたし、そんなこと……」


「三年間、扉の外で聞いていた。叩けなかった。叩いたら、君は起きて歌はやむ」


 夫の声がほんの少しだけ、かすれた。


「君が、この城で泣くのは、眠っているときだけだった」


 イレーネは口を押さえた。


 昼間は泣かなかった。泣いたら負けだと思っていた。借金の形に嫁いできた娘が、北の城で泣いていたら、子爵家の名に傷がつく。だから、笑っていた。三言しか返ってこない夕食の席でもずっと。


「それで、扉の前に……」


「最初は、ただ聞いていた。そのうちに、歌の続きを知りたくなった。君がいつも、同じところで止まって泣くから」


 夫は紙の束をイレーネの前に差し出した。


「二年前から、南へ人をやっていた。君の母上の生まれた村を探して」


 イレーネの手が震えながら紙を受け取った。


 いちばん上の紙は、手紙だった。たどたどしい字。北の言葉と南の言葉が、まじりあっている。


「村は、十五年前の洪水で流されていた。生き残った者たちは、ばらばらに散っていた。一人ずつ探した。三十七人目で見つかった」


「見つかった……?」


「君の母上の、幼なじみだという老婆が。歌を全部覚えていた」


 手紙の下に、もう一枚、紙があった。


 南の言葉で歌の詞が書いてあった。一番、二番、三番。


 イレーネは二番の途中に、指を置いた。いつも、そこで止まってしまうところ。母の声が途切れるところ。


 その先が書いてあった。


 ――川は海へ、海は空へ、空は雨になってまたあなたの屋根に帰る。泣かなくていい、わたしの小鳥。帰る場所はいつもある。


 紙の上に、ぽたりと、しずくが落ちた。


 イレーネは自分が泣いているのに気づいた。気づいたら、もう止まらなかった。肩が震えて、息がうまく吸えなくて、紙を胸に抱えたまま、その場にしゃがみこんだ。


 母の声が聞こえた気がした。


 二十年近く、途切れたままだった歌の続きが、北の冷たい廊下でやっとつながった。


「イレーネ」


 夫の声がすぐ上から降ってきた。


 大きな手がイレーネの肩に触れかけて止まった。宙で迷っている。


 イレーネは顔を上げた。


 夫が床に片膝をついていた。イレーネと目の高さを合わせて。雪明かりの中で、夫の顔がはじめてはっきり見えた。眉が寄っている。唇が固く結ばれている。灰色がかった青い目が、濡れていた。


「どうして」


 しゃくりあげながら、イレーネは言った。


「どうして、言ってくださらなかったんですか。三年間も。歌のことも、人をやってくださったことも。わたし、ずっと、嫌われてるって」


「……言えば、君は断れなくなる」


 夫は目を伏せた。


「君は借金の形に来た。断れない立場で断れない相手のところへ。婚礼の夜、君の手は震えていた。私が近づくと、震えた」


 イレーネは息をのんだ。


 覚えている。震えていた。知らない土地で、知らない大きな男と、二人きりになるのが怖かった。


「だから、触れないと決めた。三年たてば、白い結婚は解ける。君は自由になれる。そのときに、君がここに残りたいと思ってくれるなら……思ってくれなくても、それでいいと」


 夫の手が床の上で固く握られた。


「歌の続きは、君が出ていく前に、渡すつもりだった。持って帰れるように」


 イレーネは胸に抱えた紙を握りしめた。


 出ていく前に。持って帰れるように。


 この人は三年間、毎晩、冷たい廊下の床に座ってわたしの寝言の歌を聞いて。二年かけて、三十七人の中から母の幼なじみを探し出して。それをわたしが出ていくときの、お土産にするつもりだった。


 自分は残ってほしいとも言わずに。


「……ばか」


 口から、こぼれた。


 夫が目を見開いた。


「ばかです、あなた。三年間も床に座って。熱が出た夜も、座っていたって聞きました。風邪をひいたら、どうするんですか」


「……ひいた。二度ほど」


「ほら!」


 イレーネは泣きながら、笑っていた。


 自分でも、どちらなのか分からなかった。胸の奥で、三年分の冷たい石が、ぼろぼろと崩れていく。崩れたあとに、温かいものが、どっと流れこんでくる。


「わたしの部屋の机の上に、紙が一枚あります」


「紙?」


「白い結婚を解くための、神殿への申し出の紙です。明後日、出しに行くつもりでした」


 夫の肩がこわばった。


「……そうか」


 低い声。目を伏せて静かにうなずく。引きとめる言葉は出てこない。出てこないのがこの人なのだ。


 イレーネは立ち上がった。


 紙の束を胸に抱えたまま、自分の部屋へ戻る。窓辺の机。羊皮紙が一枚。神殿の印章。空いたままの、署名の欄。


 イレーネはその紙を両手で持った。


 廊下に戻ると、夫は、まだ床に膝をついたままだった。イレーネが手にしている紙を見て唇を引き結んだ。


 イレーネは夫の目の前で羊皮紙を二つに裂いた。


 びり、という音が、廊下に響いた。


 夫が顔を上げた。


 四つに裂いた。八つに裂いた。細かくなった羊皮紙をイレーネは窓の外へ投げた。雪の夜空に、白い紙片がひらひらと舞って、雪にまぎれて見えなくなった。


「出ていきません」


 イレーネは言った。声が震えなかった。


「この三年、わたし、ここで嫌われていると思っていました。でも、本当は、毎晩、扉の外に、わたしの歌を聞いてくれる人がいた。三十七人も探して、母の歌を見つけてくれる人がいた。そんな人のところを出ていく理由なんてありません」


 夫は膝をついたまま、動かなかった。


「……イレーネ」


「それから、もう一つ」


 イレーネは裂かなかった紙の束を胸に押し当てた。母の歌。三番まで全部。


「歌は、今夜から、扉を開けて聞いてください。廊下は寒いですから」


 夫の喉がごくりと動いた。


 何か言おうとして口を開いた。閉じた。もう一度開いた。


「……君に、触れても、いいだろうか」


 三年前と同じ扉の前で三年前とは逆の言葉だった。


 イレーネは夫の前に膝をついた。


 夫の手を取った。大きくて、冷たくて少しだけ震えていた。三年間、この廊下の床に置かれていた手だ。


「はい」


 夫の手がイレーネの頬に触れた。


 指先が涙の跡をなぞった。不器用な、ためらいがちな指だった。雪と革の匂いがした。


 イレーネはその手に、自分の頬を寄せた。


 廊下の窓の外で雪が静かに降り続いていた。


 どれくらい、そうしていたのか分からない。夫の手は最初は冷たかったのに、いつのまにか温かくなっていた。


「……寒いでしょう。中に入ってください」


 イレーネが言うと、夫は一瞬だけためらった。三年間、一度も越えなかった敷居だ。それから、黙ってうなずいて、イレーネのあとについて部屋に入った。


 暖炉の残り火に、イレーネは薪を一本足した。松脂がじゅっと音を立てて燃えはじめる。夫は部屋の真ん中で所在なさそうに立っていた。大きな体がイレーネの小さな部屋の中では、ひどく窮屈そうに見えた。


「座ってください」


「……どこに」


「どこでも」


 夫は暖炉の前の床に、あぐらをかいて座った。椅子があるのに、床に。三年間、廊下の床に座り続けた人の癖なのだと思うと、イレーネは笑いそうになって、それから、少しだけ泣きそうになった。


 イレーネもその隣に座った。毛布を一枚、二人の膝にかけた。


 しばらく、二人で火を見ていた。


「一つ、訊いてもいいですか」


「何でも」


「三十七人も、どうやって探したんですか。南の、流された村の人たちを」


 夫は火を見たまま、少し考えた。


「商人に頼んだ。南へ荷を運ぶ者たちに、行く先々で、洪水で流された川沿いの村の者を知らないかと訊いてもらった。見つかったら、一人ずつ、歌を覚えていないか確かめた」


「一人ずつ」


「三十六人は知らなかった。知っていても、一番だけだった。……三十七人目が、君の母上の幼なじみだった。目が見えなくなっていたが、歌は全部覚えていた。手紙はその人の孫娘が代わりに書いた」


 イレーネは膝の上の紙の束をそっと撫でた。たどたどしい字。北と南の言葉がまじりあった手紙。


「お礼を言わなくちゃ。その方に」


「春になれば、峠の雪が解ける」


 夫がぽつりと言った。


「そうしたら、ここへ招こうと思っていた。君がもう出ていったあとでも。……歌を君の代わりに、私が聞いておこうと思って」


 イレーネは夫の横顔を見た。


 暖炉の火に照らされて、頬の古い傷が、赤く浮かんでいた。灰色がかった青い目はまだ少し濡れていた。


 この人はわたしがいなくなったあとも、わたしの母の歌を聞こうとしていた。


 胸の奥が熱くて、苦しくてうまく息ができなかった。


「春になったら、二人で迎えに行きましょう」


 イレーネは言った。


「峠の向こうまで。わたし、その方に、自分の声で歌って聞かせたいんです。母の歌を三番まで全部」


 夫がこちらを向いた。


「……二人で」


「二人でです」


 夫の喉がもう一度、ごくりと動いた。


 それから、夫は、ほんの少しだけ、口の端を上げた。三年間で、イレーネが見た、はじめての笑い方だった。ぎこちなくて、慣れていなくて、けれど、どんな言葉よりもはっきりと、イレーネの胸に届いた。


「イレーネ」


「はい」


「一つ、言っていなかったことがある」


 夫は膝の上で手を握った。


「婚礼の夜、扉の前で、君に触れるつもりはないと言った。あれは半分だけ本当だった」


「半分?」


「触れるつもりはなかった。君が自分で選ぶまでは。……だが、本当は、あの夜、君を初めて見たときから」


 言葉がそこで止まった。


 夫は口を開いて、閉じた。耳の先まで赤くなっていた。暖炉のせいではない、とイレーネには分かった。


 イレーネは待った。


 三年間、この人は扉の外で待ってくれた。だから、今度はわたしが待つ番だ。


「……君の歌をもっと聞きたいと、思っていた」


 ようやく出てきたのはそんな言葉だった。


 好きだとも、愛しているとも言わない。この人らしい、不器用な、まわりくどい言葉。


 それなのに、イレーネの目から、また涙がこぼれた。


「じゃあ、歌います」


 イレーネは紙の束を膝の上に広げた。


「今夜は眠らずに。最初から、最後まで」


 暖炉の火がはぜた。イレーネは息を吸った。


 一番。母の声を思い出しながら。二番。いつも途切れていたところで少しだけ声が震えた。夫が膝の上の毛布の下で、イレーネの手をそっと握った。


 その先をイレーネは歌った。


 ――川は海へ、海は空へ、空は雨になってまたあなたの屋根に帰る。


 はじめて、自分の声で最後まで。




 翌朝、イレーネは窓辺の机で父への返事を書いた。


 夫はその向かいの椅子に座っていた。三年間、この部屋に一度も入らなかった人が、朝から当然のように、そこにいる。ときどき、イレーネの手元をちらりと見てすぐに窓の外へ目をそらす。


「……読みたいなら、どうぞ」


「いや」


「読みたそうな目をなさってます」


 夫は少し黙ってから身を乗り出した。


 イレーネの書いた手紙は短かった。


 ――お父様。白い結婚は解きません。港町の方には、お断りをお伝えください。わたしは北の城でとても大切にされています。


 夫の目が最後の一行で止まった。


「大切に、されている」


「されていますよ。三年間、ずっと。わたしが気づかなかっただけで」


 イレーネは羽根ペンをインク壺に浸して、一行、書き足そうとした。愛されもせずに、と書いてきた父への、本当の返事。


 ペン先が紙の上で止まった。


 書いていいのだろうか。この人はまだ一度も、その言葉を口にしていない。歌をもっと聞きたい、とは言ってくれた。でも。


「何を書こうとしている」


 夫の声がすぐそばでした。


 イレーネは少し迷ってから正直に言った。


「父は、わたしが愛されもせずに暮らしていると書いてきました。それに、違いますと書き返したくて。……でも、あなたは、まだそうおっしゃっていないから」


 夫は黙った。


 窓の外で、雪をかぶった針葉樹の枝から、どさりと雪の塊が落ちた。


 夫の手が机の上に伸びた。イレーネの手から、羽根ペンをそっと取った。


 左の手で紙を押さえる。右の手でペンを握る。イレーネの書いた一行の下に、夫はゆっくりと書いた。北の言葉の、角ばった、大きな字で。


 ――私は、あなたの娘を愛している。グレイヴ


 イレーネはその字を見つめた。


 口が開いたまま閉じなかった。顔が耳まで熱くなっていく。


「……口で言ってくださればいいのに」


「口だと、遅い」


 夫はペンをインク壺に戻した。耳の先が真っ赤だった。


「書けば、一度で済む」


「一度で済ませないでください」


 イレーネは手紙を胸に抱いて、夫をにらんだ。にらみながら、口元がゆるむのを止められなかった。


「これから毎日、口でも言ってください。一日に一回でいいから」


 夫は困ったように眉を寄せた。それから、窓の外の雪を見て小さな声で言った。


「……努力する」


 手紙はその日のうちに、南へ向かう商人の荷に託された。


 それからしばらくして、グレイヴ城の夜番の兵士たちは、奇妙な光景を見るようになった。


 真夜中を少し過ぎたころ、奥方の寝室の扉が、細く開いている。廊下に、明かりが漏れている。中から、南の言葉の子守唄が聞こえてくる。眠りながらではない、はっきりとした声で。


 一番、二番、三番。最後まで。


 扉の脇の壁ぎわには、もう誰も座っていない。


 寝室の暖炉の前に、毛布にくるまった大きな影が一つ、膝を抱えて座っているのが、扉の隙間から見える。奥方の歌が終わると、その影が、ぼそぼそと何か言う。奥方がくすくす笑う。


 夜番の若い兵士が、ある晩、年かさの侍女に訊いた。


「旦那様、何て言ってるんですかね、毎晩」


 侍女は銅の水差しを抱え直して目尻に皺を寄せた。


「三番の最後の一行をもう一度、ですって」


 ――泣かなくていい、わたしの小鳥。帰る場所はいつもある。


 扉の隙間から、また、歌が聞こえはじめた。




(完)


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